歌舞伎町の歴史
日本の町の歴史
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歌舞伎町の歴史(かぶきちょうのれきし)では、東京都新宿区歌舞伎町の歴史について詳述する。

江戸時代、甲州街道の宿場町として生まれた新宿は、その誕生時から性を売る街としてスタートした。歌舞伎町は性を売る街としての新宿の伝統を受け継いでいる街である。しかし江戸時代の歌舞伎町1丁目地区は武家屋敷、歌舞伎町2丁目地区はツツジの栽培で知られており、明治以降も歌舞伎町1丁目地区は住宅街と商業地の混在する街となっていき、歌舞伎町2丁目地区は高級住宅街となっていくなど、関東大震災後、被害が少なかった東京山の手の交通の要衝として急速に発展し、昭和戦前期にはカフェや劇場、映画館などが立ち並ぶ繁華街化が進んだ新宿の中では、繁華街化は遅れていた。戦後、空襲によって焼け野原となった歌舞伎町を、道義的繁華街としてまちづくりを計画したのが鈴木喜兵衛であった。鈴木喜兵衛は東京都の戦災復興事業の責任者であり、歌舞伎町の町名の命名者ともなった石川栄耀とともに画期的な歌舞伎町のまちづくり計画を立案し、計画通りには進まなかった面もあるものの、広場を囲む映画館、コマ劇場などの劇場街が完成し、また歌舞伎町地域の土地を狭い坪数に分割して、商売を行いたいと願う人たちに広く分配したことが後の歌舞伎町のあり方に大きな影響を与えることになった。
新宿の発展とともに歌舞伎町は繁華街として発展していき、昭和30年代には新宿を代表する繁華街となる。またまちづくりの段階から青線があったが、売春防止法の施行後は歌舞伎町に性風俗で生計を立てている人たちが多く流れ込み、急速に歓楽街化が進んだ。その頃から街に暴力団が活動するようになって警察による取締りが行われるようになり、その後も警察や行政による歌舞伎町浄化作戦は継続的に行われ続けている。1960年代の高度成長期までは名曲喫茶、ジャズ喫茶といったゆったりとした時間が過ごせる店舗も多かったが、1960年代後半になると地価の高騰もあって歌舞伎町に土地を持つ人たちの多くがビルオーナーとなって歌舞伎町の外に住むようになって、テナントは高額の家賃が払える過激な性風俗店などが多くなっていく。1970年代以降は家出した少女たちの売春行為が問題視され、1980年代初頭には少女たちの殺人事件が起きたりもした。1980年代には様々な性風俗店が林立する歌舞伎町は、日本のセックス産業の中心地と言われるようになり、地元住民からの反ポルノ運動が盛り上がりを見せ、全国的にも青少年の健全育成のために規制を求める声が高まったことを受けて、1984年には風俗営業法の改正が国会で可決された。
2000年頃の歌舞伎町は暴力団が地回りという示威行為を定期的に行うなど、特に歌舞伎町2丁目は一般人が近づきにくい雰囲気であった。また1990年代からは外国人犯罪グループの活動も目立ってきた。2000年代に入り警察、行政は本格的な歌舞伎町浄化作戦に乗り出し、治安はかなり改善した。浄化作戦の進行の中で歌舞伎町ルネッサンス協議会が立ち上がり、その中で歌舞伎町中心部の映画館、劇場街の再開発が検討されるようになって、2015年に新宿東宝ビル、2023年には東急歌舞伎町タワーがオープンする。2010年代からは大久保公園付近などでの路上売春と、ホストクラブで使う多額のお金を稼ぐために、性風俗や路上売春に手を染める女性たちのことが社会問題化し、路上売春の逮捕などの取締りとともに、専門員による支援を通じて支援機関に繋ぐ事業の開始や、ホストクラブの営業規制を行うなどの対策が進められている。
江戸時代の新宿と歌舞伎町
内藤新宿の誕生と歓楽街化の始まり

歌舞伎町が属する新宿は、江戸時代以降、性風俗を中心とする歓楽街として発展してきた歴史があった[1]。歌舞伎町は戦後形成された町であるが、性の街、歓楽街として発展してきた新宿の歴史を引き継いでいる[2][3]。
1601年(慶長6年)、徳川家康は全国を統治するために地方各地と江戸とを結ぶ五街道の整備を開始した。五街道のひとつ、甲州街道は江戸と甲府とを結び、下諏訪宿で中山道に合流する街道として整備されていく[4]。
甲州街道の整備が進められる中で、当初、江戸を出発して最初の宿場は高井戸宿であった。しかし高井戸宿は、東海道の最初の宿場が品川宿、中山道の最初の宿場が板橋宿、奥州街道の最初の宿場が千住宿であったのに比べて、江戸からの距離が遠くて不便であった[5][6]。そのような中で、1697年(元禄10年)、浅草の名主ら5名が幕府に5600両を献上の上で、新宿の地に甲州街道の宿場新設を請願した[7]。幕府は1698年(元禄11年)に請願を認め、江戸の出口とされていた四谷大木戸(新宿四谷4丁目交差点付近)から、甲州街道と青梅街道が分岐する追分までの区間に宿場の新設を許可した[4]。宿場の用地は高遠藩藩主、内藤家の下屋敷の一部を拝領することになった。内藤家が用地を提供した新しい宿場ということで、新設の宿場は内藤新宿と名付けられた[7]。
江戸を出発して最初の宿場は、旅人の宿所を提供するよりも歓楽街化する傾向があり、内藤新宿もやはり歓楽街化が進んだ[8]。また内藤新宿の場合、歓楽街化が進みやすかった理由があった。宿場の大口利用者は参勤交代に伴う大名需要であった。しかし甲州街道を利用する大名は数少ないうえに石高が少ない中小大名であり、内藤新宿は大名需要を当てにすることは難しかった[9]。そこで宿場の開設者たちは開設に伴う先行投資回収の目的もあって、性を売ることによって集客を図る路線を取った。具体的には旅籠に飯盛女を置いて性的なサービスを提供した。法令では宿場での売春行為は禁止されていたが、新設の内藤新宿は脆弱な経営基盤を考慮され、規制が甘かったと考えられている[10]。
徳川吉宗による享保の改革で進められた綱紀粛正、倹約の励行の流れの中で、宿場町における性の乱れは厳しい規制対象となった。内藤新宿の場合、1718年(享保3年)に宿場自体が廃止とされた。廃止理由としては甲州街道の利用者が少なくて宿場を置く意味がないためとされたが、今後、みだらなことが行われないように念入りに申し付けるとも述べられており、性の乱れが風紀取り締まり上、看過できなかったことが宿場廃止の要因であったことが示唆される[11]。廃止後、宿場再開の請願が繰り返されたが、経済の発展に伴って多摩地域と江戸との物資の往来が盛んになる中で、1772年(明和9年)、内藤新宿は復活する。宿場としての復活後、幕府は38軒の旅籠に150名の飯盛女を置くことを許可し、歓楽街として再び発展していくようになる[12]。江戸の発展にともない内藤新宿も賑わいを見せるようになっていき、江戸からの遊客を集め、江戸時代後期には非公認の遊興地である岡場所として繁栄した[13][14]。
四谷新宿 馬糞の中で あやめ咲くとは しおらしい
と、人馬の往来が盛んな宿場町として馬糞が見られる中で、性を売る飯盛女をしおらしく咲くあやめの花に例えた歌にうたわれるようになった[12]。
武家屋敷と農村

歌舞伎町はもともとは地質学的に下末吉面と呼ばれる台地のひとつである淀橋台と呼ばれる台地から流れ出る川沿いに広がる低地の湿地帯であった[15][16]。歌舞伎町1丁目と2丁目の境界線に当たる花道通りには、かつて荒川水系である蟹川が流れていて、江戸時代以前は歌舞伎町周辺は葦が生い茂る原野であった[注釈 1][17][18]。
江戸時代に入り、歌舞伎町1丁目のエリアはほぼ旗本と城家の屋敷地となり[18]、歌舞伎町1丁目の東端である新宿ゴールデン街の地域には、本多対馬守の下屋敷があった[注釈 2][19]。歌舞伎町1丁目の北西部は、1602年(慶長7年)に徳川家康配下の伊賀者が、大久保の地に土地を拝領して定住するようになった大久保百人組大繩屋敷の南端で、南町と呼ばれていた[20][21]。なお、歌舞伎町1丁目エリアの青梅街道沿いは角筈村に所属していた[22]。
江戸時代後期、いわゆる異国船が日本近海に出没するようになってフェートン号事件、大津浜事件、モリソン号事件などの事件が起こり、対外関係の緊張が高まっていく中で、幕府は防衛力強化の一環として城家の屋敷地などを収公して1843年(天保14年)に角筈調練場を設けた[18][23]。角筈調練場は幕臣対象の大筒の演習所であり、幕府は幕臣やその配下に対して、身分の上下を問わず角筈調練場で大筒の演習を行うよう通達を出した[24]。
江戸時代、歌舞伎町2丁目のエリアはおおむね西大久保村に所属していて[25]、農村地帯であった[18]。歌舞伎町2丁目エリアも大久保百人組大繩屋敷の地域が広がっていて、戦争が無い平和な時代になって、下級武士であった百人組の武士たちは副業としてツツジの栽培を行うようになった。やがて大久保界隈はツツジの名所として知られるようになり、新宿区の区の花がツツジとなる由来となった[26]。
新宿遊廓
明治維新後、1872年(明治5年)の芸娼妓解放令によって法的には娼妓の人身売買、売掛金による事実上の拘束が禁止された[注釈 3]。しかし、公の許可である娼妓鑑札を得た娼妓が娼館の所有者に賃貸料の名目でお金を支払う「貸座敷制度」が始まった。この制度の下、新宿は貸座敷の免許地とされ、甲州街道沿いの新宿の歓楽街は事実上江戸時代そのままの営業を続けていく[29][30]。
1906年(明治39年)、新宿御苑が開設されると、皇族や内外の賓客が甲州街道を通って新宿御苑を訪れるようになった。すると甲州街道沿いで営業を行っていた貸座敷が皇族や賓客の目に触れるのが体裁が悪いと問題視されるようになった[31]。当局は1913年(大正2年)に現在の新宿2丁目から3丁目にあった牧場が東京近郊に移転した跡地である、通称牛屋ヶ原に着目した[注釈 4]。1918年(大正7年)3月、当局は甲州街道沿いの貸座敷に対し、3年間のうちに牛屋ヶ原への移転を命じた。こうして甲州街道沿いから移転した貸座敷によって、新宿遊廓が生まれた[33][34]。
大正半ば頃までの新宿はまだ田舎の風情が残っていて、田んぼがあってカエルや蛇がそこかしこにいて、甲州街道も江戸時代と同様に馬が多く行き交い、道には馬糞が転がっていた[35]。転機になったのは1923年(大正12年)9月1日の関東大震災であった。震災で東京下町の吉原、洲崎という東京を代表する大規模な遊廓が壊滅的な打撃を被った。一方、新宿遊廓は被害が軽微であったため、遊客が殺到するようになった[36]。また震災後、東京では震災で壊滅的な被害を被った東部から、被害が少なかった西部へと大規模な人口のシフトが発生し、中央本線沿線の中野、高円寺、阿佐ヶ谷が新興住宅地として開発された[37][36]。新宿の賑わいを加速させたのが鉄道網の発達であった。1910年代に新宿に乗り入れを開始した京王電鉄に続いて、1927年(昭和2年)には小田急電鉄が開業し、新宿駅は多くの人々が利用するようになって、駅周辺では盛り場が賑わいを見せるようになった[37][36]。新宿にはカフェや劇場、映画館が軒を連ねるようになって[38][39]、新宿遊廓も時代の流れを受けて、ダンスホールやカフェの感覚を取り入れた洋風のモダン遊廓で集客アップを図った[40][41]。
第二次世界大戦の末期、人材不足が深刻化する中で、1944年(昭和19年)8月には女子挺身勤労令が公布され、娼妓たちの中からも女子挺身隊として動員されて軍需工場などでの作業に従事するようになった。また物不足の中、新宿遊廓の営業も規制がかかるようになって衰えていった[42]。そして1945年(昭和20年)5月25日の東京山の手大空襲によって新宿遊廓は完全に焼失してしまった。しかし7月7日には5軒の旧新宿遊廓経営者が合同で新宿内で焼け残ったカフェを借りて、10名あまりの娼妓で営業を再開していた[43]。
住宅街と商業地時代
明治時代に入り、歌舞伎町1丁目エリアには江戸時代に肥後大村藩主であった大村伯爵の別邸が建てられた。広大な大村伯爵別邸は大村の森と呼ばれ、邸内には大きな池が掘られ、鴨場として利用された[44]。また大村伯爵別邸の西側には、日本種苗という野菜や果物の苗や種を販売する会社があった[45]。一方、歌舞伎町2丁目エリアには1879年(明治12年)、コレラなどの伝染病対策のために設立された避病院が設けられた。避病院は歌舞伎町エリアで運営され続けていき、東京都立大久保病院となっている[46]。
明治末期から大正時代にかけて、歌舞伎町1丁目の地域は広く尾張屋によって買収され、大村伯爵別邸も尾張屋によって買収された。当時、尾張屋5代目の峯島喜代が主導して東京市内で活発に不動産売買を行っており、市内有数の大地主となっていた[47][48]。歌舞伎町1丁目付近はそれまでの大村の森から尾張屋の原と呼ばれるようになり、尾張屋は大村伯爵別邸の池を埋立て、木を伐採して整地を行って宅地化し、土地の所有権を保持したまま借地権を売り出した[49][50]。峯島喜代は最晩年の1918年(大正7年)に東京府に女子教育のために使って欲しいと50万円を寄付するとともに、歌舞伎町1丁目エリアの、もともと大村伯爵別邸の池があった場所の土地を無償で貸与した。1920年(大正9年)、峯島喜代が提供した土地に東京府立第五高等女学校が創立された[51][52]。
明治時代末ごろくらいから、歌舞伎町2丁目エリアは東京近郊の新興住宅地となっていった[53]。昭和戦前期、歌舞伎町2丁目とその周辺は華族や政界の大物らも居住する高級住宅地となっており、平沼騏一郎ら首相経験者の自宅もあった[54]。
1945年(昭和20年)4月13日の空襲で歌舞伎町界隈はほぼ焼失する壊滅的な被害を被った[55]。空襲で焼失する前の歌舞伎町1丁目地区は、新宿の繁華街に隣接した住宅地と商業地が混在していた地域であり、住宅には主に勤労者が住み、店舗も履物関連の零細なものが多く[注釈 5][57]、戦前の歌舞伎町1丁目地区で目立った建物といえば大久保病院と東京府立第五高等女学校くらいであった[58]。そのような歌舞伎町1丁目地区で、1924年(大正13年)に缶詰のスープやカレーを製造販売する鈴木喜兵衛商店を開業したのが、戦後いち早く歌舞伎町の復興計画を立案し、歌舞伎町誕生の原動力となった鈴木喜兵衛であった[51][59]。
歌舞伎町の誕生
終戦後、新宿のあちこちに闇市が出来ていく。闇市は焼け野原になった新宿で生きていくのに必要なものを幅広く売っていた[60]。大規模空襲によって広い範囲が焼け野原となった東京の各地に闇市が生まれたが、新宿の闇市は東京の中でも最初に誕生し、都内でも最大級の闇市となって1950年(昭和25年)頃まで繁盛していた[61]。闇市は社会情勢が安定していく中で規制が強められ、衰退していくが、新宿では闇市にとって替わるかのように新興の盛り場が生まれていく。その盛り場が戦前期までは新宿の中でも目立たない場所だった歌舞伎町である[62]。交通の便が良い新宿はターミナルとして発展を続けていくが、ターミナル以外の新宿ならではの特徴も持ち続けていく[63]。歌舞伎町は誕生当初から性を売り物とし続けてきた新宿の街の伝統とともに、戦後復興の先駆けを担った闇市の系譜をも引き継いでいく中で、様々なものを受け入れて混ざり合うことによる、混沌とした独特な風土を形成していくことになる[64]。
鈴木喜兵衛と石川栄耀
歌舞伎町界隈では終戦直後から当時としては画期的なまちづくり計画が始められた。終戦直後から始められた歌舞伎町のまちづくりは成果を上げ、その後の歌舞伎町の街のあり方に大きな影響を与えることになった[65][66]。歌舞伎町のまちづくりは鈴木喜兵衛と石川栄耀の2人の合作で計画されていく。戦前期、歌舞伎町1丁目地区で食品の製造販売業を営み、成功を収めていた鈴木喜兵衛の原案を、都市計画の専門家であった石川栄耀が専門家の見地から具体化し、精緻な計画としていった[67]。
鈴木喜兵衛の挑戦
復興への決意

歌舞伎町のまちづくりを立案したのは、歌舞伎町1丁目となる角筈1丁目北町の町内会長を務めていた鈴木喜兵衛であった[68][69]。鈴木喜兵衛はイギリス大使館でのコック見習いから料理人の道を歩み、腕利きのコックとして大使館で重用されるようになった[70]。その後、アメリカ大使館でもコックとして働き、1922年(大正11年)には新宿で西洋料理店を開業し、前述のように1924年には、歌舞伎町1丁目地区でスープやカレーを製造販売する鈴木喜兵衛商店を開業していた[70][69]。鈴木喜兵衛商店は経営者喜兵衛のイギリス、アメリカ両大使館のコック勤務で培った料理の知識と合理的かつ誠実な経営感覚で顧客の信頼を勝ち取り、成長していった[71][72]。
1945年4月13日の空襲で、歌舞伎町地区は壊滅的な被害を被った。全焼してしまった工場の後始末などを済ませた喜兵衛は、5月末に中禅寺湖畔にあった妻の実家に疎開した[注釈 6][74]。戦況から日本の敗戦を予測していた喜兵衛は、疎開後、自室に引きこもって敗戦後の復興計画立案に没頭していたとの証言がある[75]。
8月15日、日本の敗戦を知った鈴木喜兵衛は日本の将来を考え、欧米人らを対象とした観光国策の一環として、新宿の地で計画的な復興を行って道義的繁華街を建設しようと決意した[76]。喜兵衛は戦争終結後、人心が一種の魂の空白状態にある間に自らの計画を進めていかなければ、様々な支障が発生して計画が立ち行かなくなると判断し、終戦翌日の8月16日に疎開先の中禅寺湖畔から新宿に舞い戻った[77][78]。
喜兵衛の奔走
新宿に戻った鈴木喜兵衛は、さっそく角筈1丁目北町の町内会員たちの居場所探しを始め、復興計画への賛同を呼び掛けた。そして8月23日には復興計画趣意書を居住先が判明した町内会員に送付した[79]。この当時の喜兵衛の精勤ぶりについて、「この人は眠ることがあるのだろうか?」と感じていたとの証言がある[80]。9月に入り、喜兵衛は歌舞伎町界隈の広い範囲の地権者であった峯島茂兵衛のもとを訪ねた。喜兵衛の腹案では大劇場や映画館、ダンスホールやホテルなどを建設して、大衆に娯楽を提供する繁華街を創り上げる案や、一区画30坪で戦前に借地権を所有していた人々に商店街の敷地として土地を均等に分配し、建築資材の購入資金の調達が困難な人たちのために、一世帯あたり9坪から15坪の広さの共同型の住居を建設する計画が含まれており、大地主の峯島家の了承が無ければ計画の実行は極めて困難であった[81][82]。喜兵衛は復興計画を熱心に峯島茂兵衛に説明した。峯島茂兵衛は「あなたの夢に賭けてみようじゃありませんか、協力しましょう」と、喜兵衛の計画に賛同して協力を約束した[83]。
峯島茂兵衛の協力を取り付けた鈴木喜兵衛は峯島茂兵衛とともに10月半ばに東京都建設局都市計画課を訪れ、課長の石川栄耀に面会して復興計画を説明した。石川は東京が被った甚大な戦災被害からの復興計画の責任者であったが、計画がなかなかうまく進まずに疲弊していた。そのような中で鈴木喜兵衛による住民主導の具体的かつ魅力的な集団復興計画が提出された。石川はこの計画提出を「乾天の夕立」であったと回顧しており、その場で計画遂行にゴーサインを出した[84][85][86][87]。
石川栄耀とまちづくり
戦前からの都市計画の専門家であった石川栄耀は、都市の本質的価値は賑やかさにあると考えていた[88]。石川は大正時代から昭和の戦前期、都市化が進むにつれて都内各地などに盛り場が成長する時代背景の中で、都市計画の中に盛り場、商店街の育成を盛り込み、欧米の近代的な都市計画を日本にマッチした形で立案、実践していく活動を続けていた[89]。戦後間もなくの東京都で石川が責任者として進められた戦災復興計画は、石川の持論である盛り場によって都市の繁栄を図る都市計画の集大成となった[90]。また石川は日本の都市計画の大きな欠点は、都市のあり方を皆で考えていく思考の欠如にあると考えていた。この欠点を克服すべく、石川が重視したのは住民たちの交流の場として栄えてきた商店街であった。商店街の育成を促す都市計画の中で重要と考えたのが広場の創設であり、広場の周囲に映画館や劇場を配置することが石川の立案する都市計画の特徴のひとつとして挙げられる[91]。
石川らが当初立案した戦災復興計画では、東京区域の3割以上を緑地として、都内に幅100メートルの中心部から放射状に延びる道路と環状道路などの建設を構想し、戦災で焼失してしまった面積を上回る地域で区画整理事業を行うことなど構想していた[92]。復興計画の中で石川が重視したのが持論でもある盛り場、商店街の復興であった。石川は「敗戦後の沈みがちな人心が、銀座が賑やかになったことでどれだけ人々が眉を開いたかわからない」。と語り、盛り場と商店街の復興によって人々に東京の復興を実感してもらうことが大切であると判断した[93]。そこで都内の約200か所あまりの戦前からの盛り場、商店街を商業地域に指定して、その中でも浅草、新宿、池袋、渋谷、五反田、大森、王子、錦糸町の9か所を東京における健全な娯楽の中心地として特別地区に指定した[注釈 7][95]。
実際問題、戦後まもなくの芸能関係の施設数、観客動員数は戦前期と比較して人口比で約7割に落ち込んでいた。戦後復興を通して都は新宿は銀座や浅草とともに消費歓楽街として整備していく方針が定められ、交通の便が良い新宿の歌舞伎町に芸能施設を核とした商店街を作っていく方針は、都の計画にマッチしたものであった[65]。
まちづくりのスタート
1945年10月半ばに鈴木喜兵衛、峯島茂兵衛と面談した石川栄耀は、全国的にみても土地問題の解決が困難であるため、せっかく良い復興計画を立案しても、思うように復興が進まない中で、歌舞伎町は土地問題が解決済みであるので、芸能広場がある理想的な文化地域を建設しようと語った[85]。まちづくりの中でも盛り場と商店街を重視していた石川にとって、鈴木喜兵衛が中心となって立案した復興計画の実現は、自らが理想とするまちづくりを実践する絶好のチャンスであり、まさに渡りに船であった[96]。しかも前述のように新宿は都の計画として消費歓楽街としての整備していく方針が定められていた[97]。麻布十番とともに歌舞伎町は広場の周囲に映画館、劇場を配置する石川の手法に基づいて都市計画が進められることになった[91]。
大地主の峯島茂兵衛と都の復興計画責任者の石川栄耀の協力を取り付けた後の10月27日、鈴木喜兵衛を会長とする復興協力会が設立された。復興協力会は鈴木の立案したまちづくりの青写真に沿って、道義的文化地域を建設していく集団復興計画を推進するための組織であった[98][99]。1945年12月に行われた復興協力会の第二回総会の席では、戦災等でもはや確認作業が不可能となっていた借地権に関しての金銭的措置を済ませ、その他の全借地権者は復興計画のために借地権等の全ての権利を放棄することと、復興協力会役員への権利の一任が議決された[99]。なお、任意団体である復興協力会では土地の分筆、登記等を行う権限がなかったため、東京都の要請によって1947年(昭和22年)12月に鈴木喜兵衛を組合長とする土地区画整理組合が設立された[99][100]。
鈴木喜兵衛の原案を石川栄耀は専門家の目で修正を加えていった[65]。石川栄耀の息子である石川允の証言によば、父の指導下で石川允が歌舞伎町の具体的な都市計画の図面を制作した[91]。そして1946年(昭和21年)5月に、新生東京の最も健全な家庭センターを創設するというコンセプトの歌舞伎町復興計画が公表された[101][97]。計画では東京府立第五高等女学校の跡地に広場を設け[注釈 8]広場の周囲には歌舞伎座、大劇場2軒、映画館4軒、子ども向けの劇場、演芸場、ソシアルダンスホールなどを建設して一大興行街にするとした[101][97][103]。そして興行街の周囲は飲食店街を設け、靖国通りから興行街までの導線として、人々を地区内に導き、回遊して楽しむことを狙った幅広かつ屈曲がある道路を設け、中核となる広場までの道沿いには様々な形態の物販店を設ける案であった[103][104]。その上で健全なる盛り場の創設にプラスになると判断された区役所も都市計画の中に盛り込まれた[104]。また繁華街としての景観にも考慮して、電線や電柱の地中化も計画に盛り込んだ[103]。
また歌舞伎町復興計画では広場周辺の大規模な娯楽施設以外の商業地は戦災復興建築に対する統制に配慮するため、一区画約30坪として建物の最大の坪数も15坪程度に抑えたものとした[101]。計画が遂行されていく中で、戦前期から歌舞伎町地区に居住していた人たちばかりでなく、戦後になって居住するようになった人たちもまた、細分化された土地を所有して商売を営むようになった。こうして歌舞伎町地区には土地と建物が細分化された地域が広まり、その権利者も多数に及ぶようになった。この土地とその権利の細分化現象は、歌舞伎町の街の性格に重大な影響を及ぼしていくことになる[66]。
歌舞伎町の命名

まちづくりを進める中で鈴木喜兵衛が考え出したのが新しい町名であった。戦前期のままの角筈1丁目北町では新興文化地域の地名としてふさわしくないと考えた喜兵衛であったが、なかなか妙案が浮かばなかった。1946年秋、喜兵衛は石川栄耀に町名変更について相談を持ち掛けた。すると石川は、娯楽施設の中核として歌舞伎劇場を建設するのだから、歌舞伎町で良いのではとの案を出した[105][106]。歌舞伎町という名は語呂が良く、まちづくりの趣旨からみてもぴったりであると考えた喜兵衛は、東京都内、そして全国に同名の町名が無いか確認作業を行い、どこにもない町名であることを確認した上で復興協力会の役員会に諮り、1947年1月6日、東京都に町名変更の手続きを取った[105][107]。
1947年3月15日、四谷区、牛込区、淀橋区の3区が合区して新宿区が成立した[108]。歌舞伎町地区内の土地区画整理業務は、1947年末までにおおむね整理の目途がつき、区画整理後の1948年(昭和23年)4月1日、角筈1丁目の北部と東大久保三丁目の一部が歌舞伎町として成立した[109][22]。なお、歌舞伎町内でも東側の地域は区画整理が遅れており、まとまった広さの空いている土地があったため、新設の新宿区の区役所が建てられることになり、区役所建設とともに区画整理が進められた[110]。そして1950年(昭和25年)1月には歌舞伎町内に新宿区役所庁舎がオープンした[111]。
新設の歌舞伎町には計画通り、主として木造2階建ての建物が続々と建てられていく。戦災による壊滅的な被害を目の当たりにした鈴木喜兵衛は、歌舞伎町の建物の防火対策には神経を注いだ[112]。町名が正式に歌舞伎町となった1948年(昭和23年)4月には上下水道、電気、ガス、電話といったインフラの整備もほぼ完成段階となり、未完成なのは中核部の興行街となっていた。4月15日から18日にかけて、復興が進み繁華街としての姿が整いつつあった歌舞伎町で、新宿歌舞伎町復興祭が開催された[113]。また鈴木喜兵衛は中核部の興行街が完成後の人出を予測して、派出所と公衆トイレの設置の必要性を認識して、公衆トイレの設置と淀橋警察署に警察官の常駐を要請した上で、新宿歌舞伎町復興祭の席上、派出所の建物の寄付を行った[114]。
立ちはだかる障害
歌舞伎町の都市計画で、中核部の興行街の建設は難航を極めていた。まず建設作業員の賃金と食料の確保が難しく、工事は遅々として進まなかった。一大興行街の建設計画に協力を申し出ていた人々の多くが手を引き、復興協力会の結束も揺らぎだした[115]。その上、不要不急であると見なされた建造物の建築を規制する建築制限令の施行と、預金封鎖などの金融緊急措置令によって、資金繰りがより厳しくなった上に、興行街建設そのものが不可能な状態に追い込まれた[116]。興行街の中核となる予定であった歌舞伎座建設の目途が立たなくなる中で、五島慶太のアイデアで国際百貨店の建設に方針転換をしたものの、この計画も挫折した[117]。
興行街の中で映画館の地球座のみは建設が進んでいたため規制の対象外となり[115][118]、1947年12月に完成した[119]。地球座は連日大勢の観客を集め、大成功を収めた[120]。ところで地球座の建設も当初の建主が事業の継続性に不安を感じたために手を引いてしまい、事業を引き継いだのが台湾人の実業家、林以文であった[121]。林以文は地球座を皮切りに歌舞伎町に進出していくことになる[122]。
八方塞がりの状況の解決の糸口は五島慶太のアイデアであったと言われている。五島慶太は建設等の規制をかいくぐる策として博覧会の開催を鈴木喜兵衛に勧めた。博覧会用に建設した建物を、博覧会終了後、映画館や劇場へと転用しようというアイデアであった[123]。明治時代以降、博覧会の開催は開催都市に大きな影響を与えていたが、歌舞伎町の建設に大きな役割を果たした博覧会の開催は、明治時代以降の博覧会の伝統が引き継がれていたことを示している[124]。
興行街の成立

1950年4月1日、東京産業文化大博覧会の開会式が歌舞伎町で行われた[125]。博覧会の名誉総裁は首相の吉田茂、名誉会長が都知事の安井誠一郎と名士を揃えたものの[125]、東京都、新宿区はともに主催者になるのを断ったため、主に土地区画整理組合から構成された都市復興協会単独開催となり、しかも当時は博覧会ブームであり、1950年度には全国各地で13か所で博覧会が開催されていて、開始前から集客に疑問符が出ていたイベントであった[126]。果たして興行的には大失敗となり、巨額の赤字を出して博覧会は閉幕した[127]。博覧会の失敗で鈴木喜兵衛は多額の借金を背負い、力を失っていく[128]。
しかし前述のように博覧会開催の大きな目的のひとつは博覧会会場の建物の再利用であった[129]。博覧会の建物の跡地利用について鈴木喜兵衛が奔走しだした頃、歌舞伎町に追い風が吹き始めた。かねてから鈴木喜兵衛らが嘆願していた西武鉄道の新宿乗り入れが具体化し始めたのである[130][131]。西武鉄道としても新宿乗り入れは魅力的な話であったが用地確保が難しく、中でも駅用地の候補となっていた都バスの車庫の移転問題で折り合いがつかず、暗礁に乗り上げていた[130][132]。しかし粘り強い交渉の中でようやく打開の方向性が見えてき始めると、西武乗り入れによって利便性が格段に向上することを見越して、博覧会会場建物の再利用話も進みだした[133]。博覧会会場の生活文化館は、1951年(昭和26年)11月に五島慶太の協力もあって東京スケートリンクとなった。この東京スケートリンクは後に新宿東急文化会館となる。同じく1951年11月には観光交通館が映画館新宿オデヲン座に、その後も婦人館が林以文の手によって新宿劇場、工業館がグランドオデヲン座と、博覧会会場の建物は娯楽施設として再生していき、興行街としての形が整っていった[134]。こうしてシネシティ広場の周囲に映画館などの娯楽施設が立ち並ぶようになって、歌舞伎座の建設が実現しなかった等、当初の計画通りにはいかなかったところもあったが、広場を囲む大規模な娯楽施設という鈴木喜兵衛と石川栄耀の構想はおおよそ実現していく[135][136]。なお、五島慶太の協力は東急電鉄のライバルであった西武鉄道の新宿乗り入れに対応するためでもあったと推測されている[注釈 9][138][139]。
歌舞伎町の興行街としての完成は1956年(昭和31年)新宿コマ劇場のオープンであった。新宿コマ劇場は鈴木喜兵衛の説得によって、東宝の創始者である小林一三が建設にゴーサインを出し、東京府立第五高等女学校の跡地に座席数2000を超える都内でも指折りの大劇場としてオープンした[130][140]。コマ劇場では榎本健一、宮城まり子らがミュージカルを上演し、美空ひばり、村田英雄、三波春夫、北島三郎、八代亜紀らが活躍し、紅白歌合戦も開催されるなど、歌舞伎町を代表する娯楽の殿堂として街のシンボル的存在となっていく[141][142][143]。
歓楽街化の始まり
赤線と青線
1945年8月15日の終戦後まもなく、12軒の旧新宿遊廓の経営者が合同で3軒の娼館で、約50名の娼妓を雇って営業を行っていた。9月に入るとそれら娼館に客が殺到するようになり、一人の娼妓が一日に約40名の客を取らざるを得ない状況となった[43]。客たちの多くが土足のままずかずかと娼館の部屋まで入って来るような状況だったので、不衛生な職場環境であったが、需給のバランスが崩れてしまっていたのとインフレとで料金はどんどんと上がっていき、空前の好景気となった[43]。
その後、旧新宿遊廓の地域は赤線と呼ばれる売春地帯となった[144]。新宿の赤線は昭和戦前期のモダン遊廓の流れを引き継ぎ、キャストの多くがダンスが踊れ、山の手の若手サラリーマンを主な顧客として料金も高めであった[145]。一方、新宿を始めとした各地の歓楽街には青線や街娼という赤線以外の売春従事者がいた[146]。青線は新宿の各所にあったが、そのひとつが後にゴールデン街となる歌舞伎町1丁目の東端地域であった[147]。売春行為が事実上黙認されていた赤線は[148]、サービス内容は基本的に性行為そのもののみであったが[149]、青線は警察の取り締まり対策もあって、表向きは飲食店として飲食サービスの後に性行為のサービスが提供される流れであった[150]。ゴールデン街は、当初から飲食兼売春用の部屋を設けた売春営業をもくろむ店や[151]、終戦後、新宿駅東口の闇市で営業していた飲み屋や小料理屋が1950年3月末以降に集団で移転したことによって成立したが[152][153]、ゴールデン街に移転した飲み屋や小料理屋は、それまでの交通の便が極めて良い新宿東口で営業を行っていた時ほどは客足が伸びず、ほどなく売春も行うようになって一帯は一大青線地帯に成長していった[154][155]。そして青線は新興の歌舞伎町内である新宿区役所の北側付近にも形成された[151]。そして1949年(昭和24年)、都電11系統の停留所が歌舞伎町付近に出来て、歌舞伎町への交通の便が良くなったことで、歌舞伎町界隈に人の流れが出来ていった[156]。新宿は東京都内の青線の中心的存在となり、歌舞伎町界隈の青線は繁盛するようになって歓楽街化の先駆けとなった[157][158]。また青線とともにゴールデン街付近には多くの街娼が立っていた[159]。
ラブホテル街の源流
歌舞伎町2丁目地区に、1947年6月に藤森作次郎によって芙蓉館という旅館が建てられた。芙蓉館は名目としては旅館であったが、入り口にはダンスホールが設けられ、実質的には進駐軍相手の売春施設であった[160]。芙蓉館の建設後の1948年から翌1949年頃から、芙蓉館周辺に連れ込み旅館、ラブホテルが建ち始めた[161]。歌舞伎町2丁目地区に本格的にラブホテルが立ち並ぶようになったのは、1950年の朝鮮戦争開戦後のことであった。戦場に出征前1週間の休暇を新宿で過ごして日本人女性と遊ぶ兵士が多かったため、連れ込み旅館、ラブホテルの需要が増大し、歌舞伎町2丁目地区の住宅が取り壊され、ラブホテル街となっていった[注釈 10][163][164]。
実際問題、昭和20年代は歌舞伎町1丁目地区より奥まった場所にある歌舞伎町2丁目地区では、業種的にホテル、旅館業でしか採算が取れなかった[165]。歌舞伎町2丁目地区で1951年(昭和26年)時点で23軒あった旅館が、1958年(昭和33年)には倍以上の52軒に増加している[165]。また歌舞伎町2丁目地区の旅館、ホテル業には、進駐軍相手の商売や闇市で稼いだ資金を元手に、台湾系や韓国・朝鮮系の事業家が数多く参入してきた[166]。
歌舞伎町の隆盛と歓楽街化の進行
若者の街へ
もともと交通の便が良いとは言えなかった歌舞伎町であったが、まず1949年4月に、歌舞伎町の入口に当たる場所に都電の角筈、新宿駅前という2つの停留所が設けられ、1952年(昭和27年)3月には西武鉄道が新宿に乗り入れて西武新宿駅が開業となり、交通の便は著しく改善された[167]。そして東京産業文化大博覧会の生活文化館が転用された東京スケートリンクが若者たちを集め出した。西武新宿駅から東京スケートリンクに向かう道ぞいに、貸スケート靴屋がオープンし、貸スケート靴屋は冬季には榛名湖などへのスケートツアーを企画し、多い時には歌舞伎町から十数台のバスで現地へと向かうようになった。若者たちが集まり始めると、飲食店も増え始めた[168]。
1955年(昭和30年)頃には歌舞伎町で多くの喫茶店が営業をするようになり、多くの若者たちを集めるようになった[169]。1950年にコマ劇場裏手の場所で、劇場以前から開業していた喫茶店「もん」は[170]、コマ劇場開業後は劇場で活躍する演劇人らのたまり場となった[171]。そして喫茶店の客がロシア民謡などを歌う歌声喫茶の「ともしび」、クラシック音楽を客に聴かせる名曲喫茶の「スカラ座」などが開業して、多くの若者たちの支持を集めて連日繁盛するようになった[169]。歌舞伎町の歌声喫茶、名曲喫茶、そして深夜営業を行うバーや居酒屋の中には、文学者、画家、大学教授、映画関係者、演劇関係者らのたまり場となって、「じゅく文化」と呼ばれる文化の発信地となった場所も多かった。歌舞伎町が多くの人々を惹きつける魅力の源泉のひとつが、「じゅく文化」のように、様々なものが混ざり合う中で形成された文化を発信していった歴史にあるとの指摘もある[172]。
やがて歌舞伎町には若者をターゲットにした深夜営業を行う飲食店が多数開業して、歓楽街化が進みだした[169]。昭和30年代に入ると、新宿を代表する繁華街はこれまでの新宿通り沿いから歌舞伎町へと主役が交代した[173][174]。歌舞伎町に出入りする若者たちの中には、過度な飲酒や睡眠薬の乱用に走ったり、暴力団と関係を持って犯罪に手を染める者も現れるようになった。中でも1953年(昭和28年)頃から歌舞伎町内で営業を開始した深夜営業を行う喫茶店は、若者の非行や犯罪の温床であるとして問題とされるようになった[173]。
新宿東急文化会館と四葉会

1951年に開業した東京スケートリンクは映画全盛期の時代、新宿にある東急系映画館の増設をもくろむ五島慶太によっていったん閉鎖された。五島は渋谷と新宿の両拠点に東急文化会館を建設する計画を立て、1956年(昭和31年)12月に東京スケートリンクの跡地に新宿東急文化会館がオープンした[175]。東急文化会館には定員1500名の映画館である新宿ミラノ座、外国映画上映館として定員1000名の新宿東急、そして東急文化会館にもスケート場の東京スケートリンクがオープンした[176]。シネシティ広場を囲むように映画館、劇場などを経営していた東宝、東急レクリエーション、東亜興行、ヒューマックスの4社は、四葉会を結成して歌舞伎町の地域振興に貢献した[177]。
なお新宿東急文化会館は、ボーリングブームが到来した1967年(昭和42年)には東京スケートリンクを閉鎖してボウリング場のミラノボウルをオープンさせるなど、時代の流行を捉えながら歌舞伎町の集客の一翼を担い続けた[178]。1996年(平成8年)には東急文化会館から新宿TOKYU MILANOと改名したが、集客力の低下とともに建物の老朽化が進んだため、2014年(平成26年)に閉鎖された[179]。
新宿騒乱事件と街の顔役の交代
武力闘争路線を強化した日本共産党は朝鮮戦争開戦2周年にあたる1952年6月25日に、反米、反政府の大規模闘争を行うように呼びかけた[180][181]。6月25日当日、共産党系団体は歌舞伎町の東京スケートリンクを会場として約2000人を動員した大集会を開催し、集会終了後、参加者たちは火炎瓶、硫酸瓶を警官隊に投げつけたり、投石を行って大混乱となり重傷者75名を出す新宿騒乱事件が勃発する[181][182]。新宿騒乱事件は歌舞伎町が単なる性の街ではなくて、政治的な面でも先鋭的なものを受け入れる混沌とした場として機能していたことを示しているとの指摘もある[183]。
コマ劇場がオープンした1956年12月には、協同組合歌舞伎町商店街振興会が発足し、会長には芙蓉館を建てた藤森作次郎が選ばれた[184]。藤森は芙蓉館の後も新興の歌舞伎町で積極的に事業を展開して成功を収めていて、警察と密接な関係を築いていた。これまで歌舞伎町を主導してきた鈴木喜兵衛は公職から退いていき、歌舞伎町住民たちは、藤森作次郎に発展の機運を掴みつつあった歌舞伎町で成功を収めていた事業家としての手腕を期待し、また新宿騒乱事件の発生などで治安面の不安が感じられるようになったため、警察との繋がりが深い面からも歌舞伎町の新たな顔役として適役であるとして選んだ[185][186]。
藤森作次郎は、開業当初、観客動員が伸び悩んでいたコマ劇場のテコ入れ策を講じたり[187]、警察とのパイプを生かして歌舞伎町の浄化策を主導するなどの活躍を見せ、周囲からの期待に応えていった[188]。
売春防止法の施行と歓楽街化の進行
戦後になって戦前の公娼制が廃止されたのにも関わらず、現実問題として売春はより盛んに行われている状況に対して、売春を処罰する法律の制定が幾度となく試みられたが、国会で審議未了、廃案とされる状況が続いていた[189]。しかし人身売買を伴う強制売春の事件がしばしば発生する中で、売春防止法制定に賛成する世論は高まっていった。1956年5月21日、売春防止法が国会で可決され、1958年(昭和33年)4月1日から完全施行となった[190]。
売春防止法は、法律の趣旨としては売春を行う恐れのある女性に対し保護更生の措置を講じるとしたが、現実には売春で生計を立ててきた女性に対する効果的な支援策はほぼ講じられなかった[191]。生活の当てがないため、売春業に従事していた女性たちの多くは売春防止法施行後は、法の網の目をかいくぐる形でのアンダーグラウンドな形態の売春業への従事をするようになった[192]。
売春防止法の完全施行によって、新宿の赤線は閉鎖を余儀なくされる。新宿の赤線業者と従業員の女性たちの多くは、歌舞伎町に流れてアンダーグラウンドな形態の売春業に従事するようになった[193]。売春防止法が施行された1950年代後半以降、歌舞伎町の歓楽街化は急速に進んでいくことになる[194]。
取締りの開始
歓楽街化の進行に伴い、歌舞伎町が持つイメージのひとつである「危険な街」の姿が現れだした[195]。警察は1957年(昭和32年)6月に、歌舞伎町地区の盛り場暴力追放を目的として「暴力団取締本部」を設置して内偵調査を進め、翌7月には警察署員、機動隊を動員して歌舞伎町で暴力団の一斉摘発を行い、暴力団幹部33名を検挙した[196]。1959年(昭和34年)12月には、歌舞伎町と新宿駅周辺の繁華街の地域浄化、取締りを主業務とする通称マンモス交番と呼ばれた新宿地区警備派出所が開設され[197]、警察による24時間体制の防犯対策が実施されるようになった[173]。警察による歌舞伎町の環境浄化作戦は1961年(昭和36年)9月にも実施されており[198]、1950年代後半以降、歌舞伎町では暴力団の勢力伸長など、警察が持続的な対応を要する治安問題を抱えるようになった[195]。
高度経済成長に伴う街の変化

1955年頃、歌舞伎町内には多くの小売店が営業をしていた。しかし歌舞伎町が夜の街となっていって昼間の集客力が低下してくると、夜のみの集客では小売店の経営は厳しくなり、多くの小売店は歌舞伎町から撤退していく[199]。小売店の代わりに飲食店、居酒屋やバーのような酒を提供するお店が多くなり、また風俗関連の店も増え始めた[200]。1967年(昭和42年)の調査では、歌舞伎町で営業する店舗の約8割が飲食業、サービス業となり、映画館や劇場の周囲を一大飲食街が囲む繁華街となっていた[201]。1960年代末には歌舞伎町を訪れる人は1日に30万人から40万人に及び、歌舞伎町内の店は連日大繁盛となり、深夜0時を過ぎても飲食や遊興が楽しめる、眠らない街、不夜城と呼ばれるようになった[202]。特に正月は若者から家族連れなど多くの人々が歌舞伎町に詰めかけ、身動きが取れないほどになった[203]。
1960年代の高度経済成長期、東京は地方から多くの人々が流入することによって拡大を続けた[204]。拡大を続ける東京において、地方から出てきた若者たちの吸引力が最も高かった街が新宿であった[205]。新宿はその成り立ちから様々な出自を持つ人々を受け入れやすい土壌があり[206]、1960年代の新宿は左翼学生、演劇人、音楽関係者、そしてヒッピーの影響を受けて物質文明に抵抗し、定職に就かずにぶらぶらするフーテン族らによるアングラ文化が花開いた[207][208]。歌舞伎町にはダンスホール、ゴーゴー喫茶(ディスコ)、キャバレー、スナック、ゲームセンターなどの多種多様な娯楽施設が集まり、幅広い年齢層が訪れるようになった[209][210]。中でも銀座などよりも普段着で楽しめる街として若者たちからの支持を集め、多くの若者たちを引き寄せた[211]。昭和30年代後半には、歌舞伎町内でジャズ喫茶が最盛期を迎え、多くの若者たちが夜通しジャズ喫茶でグループサウンズの音楽を楽しむようになった[212]。またゴーゴー喫茶で朝まで遊ぶ若者たちも多かった[213]。歌舞伎町はゴールデン街以外の地域ではアングラ文化の影響は少なかったが[214]、フーテン族は深夜営業が当たり前の歌舞伎町の店に数多くたむろするようになった[215]。またゴールデン街は映画関係者や作家といった文化人や社会運動家が集まり、多くの若者たちを惹きつける飲み屋街になっていった[216]。
ベトナム戦争や日米安全保障条約の自動延長の是非が問われる中で、1960年代後半は学生運動が活発に行われた[217]。歌舞伎町でも1968年(昭和43年)10月には商店が壊され休業する事態が起き、1968年と翌1969年(昭和44年)の10月21日の国際反戦デーには、新宿駅周辺で投石や火炎瓶による騒乱が発生し、1969年11月14日には佐藤首相訪米阻止闘争のあおりを受けて歌舞伎町内に約500名の過激派が入り込み、コマ劇場前で火炎瓶を投げつける騒動を起こした[218]。過激派学生の活発な活動に対して、歌舞伎町商店街振興組合では自警団を組織して町内パトロールを行うなどの対策を講じた[218]。
1963年(昭和38年)には歌舞伎1丁目地域内で3軒のトルコ風呂の営業が行われていることが確認でき[219]、1966年(昭和41年)には10軒と大幅に増加している[220]。1965年(昭和40年)頃、歌舞伎町ではトルコ風呂の他にストリップ劇場やキャバレーが次々と開業した[221]。また昭和40年代に入ると、キャバレーやクラブ、サロンでのサービスも、会話やダンスなどから指や口による性的なサービスへと変化していった[222]。そして歌舞伎町2丁目地区は1963年の段階でトルコ風呂12軒、ホテルが75軒と、ホテル街となっていた[223]。
官民共同の取締り
若者たちの支持を集め、毎晩、多くの若者たちが訪れるようになった歌舞伎町では、若年層の犯罪が社会問題化されるようになった。1960年(昭和35年)頃以降、睡眠薬乱用が流行して「ラリる」という言葉が流行るほどであった[173]。新宿区内で検挙される少年少女の数は昭和30年代後半、ピークに達し、年間2000件近くと犯罪総数の1割近くに及ぶようになった[173]。歌舞伎町にたむろするフーテン族も、シンナー吸引、恐喝やゆすり、暴行といった犯罪行為、暴力団がフーテン族にシンナーを売るなどといった問題行動が頻発するようになった[215]。そして日本を代表する歓楽街となった歌舞伎町には多くの暴力団や犯罪組織が拠点を置くようになった[224]。
1963年8月、協同組合歌舞伎町振興会は歌舞伎町商店街振興組合に改組された[225]。発足当初の歌舞伎町商店街振興組合は、歌舞伎町内で営業する店舗や事業主を把握し、動員する組織力を持っていた[226]。歌舞伎町商店街振興組合は地域内の街灯や道路の保全と美化、ごみの収集への協力といった歌舞伎町内の自治活動に積極的に取り組んだ[227]。東京都が取り組んでいた新生活運動に協力し、警察の交通取り締まりにも協力するなど、行政や警察との連携を重視しながらの町内の自治を行っていくのが歌舞伎町商店街振興組合のスタンスであった[227][228]。1964年(昭和39年)には東京都から払い下げられた土地に振興組合ビルを建設することが決まり、10月に完成した振興組合ビルの一階部分を公衆トイレと派出所として、トイレは新宿区、派出所は警察に寄付した[227][229]。
風俗街化の進行
歌舞伎町は復興協力会が土地を集約した上で区画整理事業を行い、その後、多くの人々に土地を分配した。その結果、中核部の興行街以外は大資本による独占的な利用が抑えられ、土地の分配を受けた人たちはそれぞれ様々な業種の商売を行うようになった[230]。しかし歌舞伎町が発展していくにつれて商売自体は歌舞伎町で継続しながら、住居は歌舞伎町外に移す経営者が現れ出した。やがて住居ばかりではなく商売も歌舞伎町外で行う経営者が増加していく[231]。住居も家業も歌舞伎町外で行うようになった経営者たちの多くは土地を貸したり、ビルを建ててビルのオーナーとなった[232]。昭和40年代に入ると多くの歌舞伎町内の地主はビルのオーナーとなって、管理を不動産会社に委任して利益を得るようになった[199]。歓楽街として成長した歌舞伎町の家賃は高く、ビルのテナントたちは収益率アップに走らざるを得なくなり、客単価のアップと回転率を上げることによって高収益を目指すようになった[233]。そして歌舞伎町内の物件で多く見られるようになった又貸しによる中間マージンの負担が、さらに状況を悪化させた[234][235]。その結果として昭和40年代後半には名曲喫茶やジャズ喫茶など、回転率が悪くて収益率が落ちる業種が衰退していき、高収益の店舗中心の歓楽街となっていった[236]。具体的には過激なサービスの性風俗店やぼったくりを行う店舗が増えていく[237]。
1970年代以降、新宿副都心の発展によって新宿は住宅地、繁華街の他にビジネス街としても大きな発展をした。こうして新宿は昼夜を問わず内外から多くの人々が集まる、文字通り24時間眠らない街となっていく[238]。そのような状況下、1970年代に入ると歌舞伎町は日本一のピンクゾーンと呼ばれるようになった[239]。京都発祥と言われるノーパン喫茶がたちまちのうちに歌舞伎町に現れ、その後、全国的に広まったり、大阪のミナミで始まった個室マッサージ店は歌舞伎町で広まってその後、全国的に広まり、東京の府中が最初の店舗と言われているSMクラブも歌舞伎町で広まった後に全国的に広まるなど、各地で誕生した新手の性風俗サービスが、歌舞伎町を通じて全国に展開されていく現象が起きるようになった[240]。こうして昭和50年代に入ると歌舞伎町内ではトルコ風呂などの他にノーパン喫茶、のぞき部屋、ビニ本などといった新手の風俗関連店舗が次々とオープンしていった[241]。同じ頃、キャッチバーと言われるぼったくりのバーも歌舞伎町内で増加した[242]。
新宿の発展とともに犯罪や非行も増加し、その内容も多様化していった[238]。警察庁は1970年(昭和45年)、全国一斉の暴力団取締りを実施した。取締りの最重要地区とされたのが全国展開していた暴力団組織の多くが拠点を設けていた新宿であり、取締りの経過で歌舞伎町内の暴力団員の数が顕著に増加していて、また暴力団が多くの風俗店の経営に関与している実態が明らかになった[243]。昭和50年代に入ると歌舞伎町内のディスコや深夜喫茶、ゲームセンターなどで深夜を過ごす若者たちのことが問題視されるようになった[244]。
援助交際の源流
1970年代から1980年代にかけて全国各地の家出少年少女が多数新宿に集まり、家出少女の多くが売春に手を染める状況になっていた[245]。1981年(昭和56年)、歌舞伎町内のラブホテルで3件の殺人事件が発生した[246]。ともに被害者は女性で、1件目の被害者は45歳、2件目の事件は最後まで身元が判明しなかったが20歳前後、そして3件目の被害者は17歳の少女であった[注釈 11]。皆、歌舞伎町内の路上で加害者の男性と出会い、ラブホテル内で殺害されたとみられている。また被害者女性は3名とも覚せい剤の使用が確認された[248]。この3件の殺人事件は連日マスコミに報道され、歌舞伎町に危険な街との負のイメージが定着する要因となった[249]。歌舞伎町内では1970年代から路上で男女が出会った後に売春行為に至る、いわゆる援助交際が横行していた。1970年代から80年代にかけて「ウリ」と呼ばれていた援助交際のメインの顧客は大正時代から昭和ひとケタ生まれの男性たちで、彼らはセーラー服や女子高生に強い関心を持ち、買春行為に走った[250]。1981年12月には警視総監が夜の歌舞伎町で歳末特別警戒の視察を行った。これは1981年時点で歌舞伎町が治安問題のシンボル的な存在となっていたことを示している[251]。
翌1982年(昭和57年)6月、歌舞伎町でさらに衝撃的な事件が起きた。歌舞伎町内のディスコで深夜踊った後にゲームセンターで遊んでいた中学3年生の少女2名が、20代の男性に声を掛けられ、深夜のドライブ中に一人の少女が殺され、もう一人の少女も首を絞められて気を失って屋外に放置されたという事件が起きた[252]。この事件によって、歌舞伎町は不良少年少女たちを惹きつける魔境として悪名を轟かせるようになった[253][254]。歌舞伎町に関連した殺人事件が続いたことは、前述のように歌舞伎町内に様々な業態の風俗店が林立するようになったことも相まって、歌舞伎町浄化運動が活発に行われる要因となった[253][255]。
歌舞伎町浄化運動と風営法改正
オイルショック後の経済低迷期を脱した1980年代、様々な新しい娯楽が成長をしていく。中でも性風俗を中心とした風俗業は急成長する[256][257]。性風俗に関わる若年層の増加が社会問題化し、歌舞伎町は日本におけるセックス産業の中心地であるとマスコミに大きく取り上げられるようになった[257][258]。
性風俗店は歌舞伎町の周囲にも広まり始めていた。1982年1月、新宿区立戸塚第二小学校の正門近くで「のぞき劇場」がオープンしたことがきっかけとなり、新宿区民と区との環境浄化運動が本格的に始まった[253]。戸塚第二小学校PTAは1万名を超える署名を集め、新宿区長への請願書と区議会への陳情書を提出すると、3月には新宿区が建築基準法を根拠に「のぞき部屋」としての使用禁止を命じた[253][251]。4月には町会など新宿区内の28団体により「明るい地域環境づくり推進会議」が結成され、6月末をめどにポルノ反対の10万名署名を集める活動を展開し、目標の10万人を大きく上回る20万名近くの署名を集めた[259]。このような区民の動きを受けて6月30日に新宿区議会は「新宿区の環境浄化に関する意見書」を内閣総理大臣、関係大臣、都知事に提出した[260]。
新宿区は6月末に「新宿区興業場、旅館業及び公衆浴場の営業に関する指導要綱」を制定し、要綱を遵守する業者のみ新規開店を認める方針を示した[251]。しかしこの要綱は罰則と強制力が無いものであり、8月には「明るい地域環境づくり推進会議」と新宿区長が都知事に陳情を行い、都議会議長に嘆願書を提出した[260][251]。12月、都議会で風俗営業取締条例が改正され、これまで新宿区内の一部で許可されていたトルコ風呂の新設が認められないようになった[260][261]。
1983年(昭和58年)1月、警察による歌舞伎町浄化作戦が始められた。歌舞伎町浄化作戦では「日本一の盛り場、新宿歌舞伎町を明るい街にする」ことを目標として、ビニ本店、ゲーム喫茶、トルコ風呂、のぞき劇場などがいっこうに衰えを見せないことを指摘した上で、善良な風俗を害する違法行為に対しては、組織を挙げて取り組むとした[251]。しかし8月にはテレフォンクラブの第一号店が歌舞伎町内にオープンするなど、歌舞伎町内の風俗産業の実態に変化は見られなかった[251][262]。区民と新宿区は抜本的な対策として風俗営業法の改正を求めるようになった。1983年7月には区長会が国と東京都に風俗営業法の改正を求める要請を行い、新宿区長は国会議員に法改正を働きかけ、1984年(昭和59年)2月には新宿区長が警察庁に「盛り場のセックス横行は限界に来ている、法整備による解決を願う」と直訴した[260][263]。
歌舞伎町商店街振興組合も歌舞伎町浄化に向けて動いた。歌舞伎町商店街振興組合は約5000名の署名を集め、1984年3月に歌舞伎町環境浄化推進町民総決起大会を開催して、歌舞伎町内のビルオーナーは性風俗業者に対する賃貸を自粛する決議を採択した。1984年の段階で、歌舞伎町商店街振興組合の組合員の多くがビルオーナーであり、決議は性風俗業者と歌舞伎町商店街振興組合との関係性の断絶を意味した[注釈 12][220][264]。
性風俗に関わる若年層の増加は全国的に大きな社会問題として認識され、各地で新宿区と同様の環境浄化運動が行われた[257]。1984年8月、風俗営業法の大幅な改正が国会で可決され、翌1985年2月から施行された[260]。また風営法の改正施行1か月前の1985年1月、新宿区役所内に約300万円の工費で新宿区立中央図書館の分室を設けた。その結果、改正風営法の学校、図書館などの周囲200メートルが店舗型新規性風俗営業禁止地域となる規定が適用されることになり、歌舞伎町1丁目内の店舗型新規性風俗営業が制限の対象となった[263][265][266][267]。
歌舞伎町2丁目の誕生
1978年(昭和53年)7月1日の住居表示の実施により、旧西大久保1丁目の明治通り以西が歌舞伎町2丁目となった[268]。またこれまでの歌舞伎町は歌舞伎町1丁目となり、さらに百人町1丁目の南東部、角筈1丁目の一部、三光町の花園神社より西側も歌舞伎町1丁目となった[269]。
バブル景気と風営法改正の影響
バブル景気の影響

バブル景気の前兆が見え始めていた1985年(昭和60年)、東京都庁の新宿移転が決定された。また1986年(昭和61年)には埼京線が新宿まで乗り入れるようになった[264]。都庁の移転に伴い百貨店の売り上げ増や都庁建設に伴う再開発事業の推進など、新宿にもたらしたその経済的効果は大きいものがあったが、埼京線の新宿乗り入れという交通利便性のさらなる向上と相まって、折からのバブル景気による土地高騰を煽り立てることになり、新宿の街のあり方に大きな影響を与えることになった[270][271]。
歌舞伎町も土地価格の高騰が進み、地上げ屋が暗躍した[272]。地上げによって歌舞伎町の土地を離れた地権者も多かったが、1980年代後半は歌舞伎町が成立した際に多くの人たちに土地の分配を行ってから30年以上が経過し、地権者の代替わりの時期を迎えていた。地価が高騰した結果、相続税の負担が高額となったため、土地やビルを売却する地権者が多くなった[注釈 13][274]。歌舞伎町の地権者から構成されている歌舞伎町商店街振興組合は構成組合員の減少により組織力が低下したため、歌舞伎町内の店舗に対する指導力が減少していき、どのような業態の店舗が営業をしているのか自体、把握が困難となった[275]。
歌舞伎町内で地上げによる深刻な影響を被ったのがゴールデン街であった。ゴールデン街には再開発の話が幾度か持ち上がっていたが、その都度、域内の店舗経営者が計画を跳ね返してきた[276]。しかしバブル経済の過熱により動きを活発化させた地上げ屋はゴールデン街内で暗躍をするようになり、1986年4月には7軒の店舗が焼失する不審火が発生するなど、店舗立ち退きを迫る動きが起きていた[276]。ゴールデン街の中心部では1986年10月頃までに1割近くの店舗が土地を売却したと言われ、ゴールデン街は存続の危機に立たされた[276]。それでも少なからぬ店舗が1990年代初頭のバブル崩壊まで持ちこたえ、バブル崩壊後に新たに出店した店も現れるなど、ゴールデン街は大きな変化を被ることなく継続することができた[277]。
風営法改正の影響
1985年の風俗営業法の改正もまた歌舞伎町に影響を与えた。風営法対象業種に対する深夜営業に対する規制が厳しくなったことで、深夜帯に営業している歌舞伎町内の飲食店は利用客が減少してしまって経営に打撃を与え、営業が続けられなくなった店舗が多くなった[270]。また1985年の改正により、警察官による立ち入り検査は、公安委員会から風俗営業等の調査を行う職員と認められた防犯関連の専門員が行うこととされ、警察官の約半数の人員を擁する地域警察官は立ち入り調査が出来なくなった[278][279]。その結果、歌舞伎町内で営業している数多くの性風俗店に対する警察の立ち入り調査の実施は、人員不足のため極めて不十分なものになった[278]。
警察による性風俗店への立ち入り調査が極めて不十分になり、歌舞伎町商店街振興組合は域内の店舗に対する影響力が低下し、新宿区も1985年の風営法改正後、歌舞伎町内の性風俗営業問題に積極的に関わらない対応となった[注釈 14][280][281]。その結果、風営法の改正にも関わらず、歌舞伎町内の性風俗店の営業実態には大きな変化が起きることはなかった[281]。
外国人犯罪組織の進出
歌舞伎町はその成りたちの経緯から台湾、韓国系のビルオーナー、飲食店や風俗系の店舗経営者が多かった。中には経営が不安定な店舗も少なくなく、そのような店舗に主に台湾系のマフィアが用心棒役となったり、店舗の経営者を脅す形で入り込んでいった。台湾系マフィアは1980年代後半頃から歌舞伎町内で勢力を持つようになり、抗争を引き起こすようになった[注釈 15][283]。
台湾系マフィアに続いて、1992年(平成4年)3月から施行された暴力団対策法によって、日本人の暴力団の活動に打撃が与えられた間隙を縫うようにして、中国本土に本拠地を置く中国人マフィアが歌舞伎町に浸透してきた[284]。1994年(平成6年)、歌舞伎町内で中国人の強盗殺人、殺人事件が相次いだ[285]。警視庁は歌舞伎町の治安悪化という事態に、4月から歌舞伎町の環境浄化対策の実行を決定し、不法事案に対する取締りを開始した[286]。環境浄化対策の実行により違法行為を行う中国人の検挙を進めていったものの、8月にも中国人の死傷事件が起きたため、9月には中国人マフィアの一掃を目指して対策を強化することとなり、ローラー作戦で歌舞伎町内での違法事案を積極的に検挙した[287]。その後も歌舞伎町の環境浄化対策は継続されたが、効果が十分に挙がっているとは言い難い状態であった[288]。そこで警視庁は歌舞伎町で多発していた外国人組織犯罪の取締り専門の組織を立ち上げることを決定し、1998年(平成10年)12月、歌舞伎町内に「警視庁国際組織犯罪新宿地区特別対策本部」を設置した。発足式で前田健治警視総監は「国際犯罪組織は重大な脅威となっている、警視庁の威信にかけて撲滅して欲しい」と訓示した[289]。しかし歌舞伎町ではその後も暴力団の抗争絡みの発砲事件が相次ぐなど、目だった治安の改善は見られなかった[290]。
援助交際と売春
1990年代前半、歌舞伎町や新大久保付近では外国人の路上売春が盛んに行われた[291]。1994年の歌舞伎町環境浄化対策によって外国人の路上売春も検挙の対象となって外国人売春婦は減少した[292]。1990年代、性風俗店を通さない売春であるデートクラブ、テレフォンクラブによる援助交際が流行して、女子高生の補導が相次いで社会問題化した[293]。援助交際の盛んな時期、歌舞伎町内では中年男性が女子高生をラブホテルに連れ込む光景が日常茶飯事であった[294]。1990年代後半にはインターネットの普及によって出会い系掲示板による援助交際が主流になるが、2000年頃には歌舞伎町の大久保公園付近での路上売春が行われるようになっており、当時は暴力団が売春をする女性たちから場所代を徴取していた[295]。
ホストクラブの成長
1973年(昭和48年)、歌舞伎町内に初めてホストクラブ、愛がオープンした。愛の店長はホストクラブの父とも呼ばれる愛田武であった[296]。愛のオープン後、歌舞伎町には他のホストクラブが開店していくが、1980年代までは歌舞伎町内に7店舗と店舗数はそれほど多くなかった[297]。1970年代から90年代初頭までの歌舞伎町のホストクラブのホストは前科者や元暴走族、多重債務者などの訳ありの人物が多く、いっときホストクラブで金を稼ぎ、まとまった金を手にホストから一般社会へと戻っていくのが通例であった。客もまた暴力団の愛人やソープランド高級店キャストといったいわゆる裏社会の人たちばかりで、ホストクラブ自体も暴力団との密接な関係があった[297]。
1990年代後半になってホストクラブのイメージが大きく変わった。年齢がぐっと若返って20歳そこそこの若い男性がホストを務めるニューホストクラブと言われた店舗が主流になり、歌舞伎町内で働くホステスや、援助交際でお金を稼いでいた10代後半から20代前半の女性たちがメインの客となった[298][299]。ニューホストクラブはスポーツ新聞や風俗情報誌に宣伝をしたり、歌舞伎町内に宣伝看板を設けたり、ホストがテレビ出演するなどして社会的認知度のアップに努めた。その結果、ホストクラブの存在が広く知られるようになって、客層もお金に余裕のある主婦層などに広まり、歌舞伎町内のホストクラブは多くの客を集め、繁盛するようになった[299]。
歌舞伎町ビル火災の影響
2001年(平成13年)9月1日に発生し、44名の死者を出した歌舞伎町ビル火災は、歌舞伎町が抱える問題に対して歌舞伎町商店街振興組合、新宿区などの行政機関、警察が対応能力を大幅に失っていた実態を明るみにした[281][300]。歌舞伎町ビル火災後に実施された数々の施策により歌舞伎町は大きく変わっていくことになる[301]。
2000年(平成12年)頃、歌舞伎町1丁目と2丁目の間の総延長約280メートルの花道通りは、道幅が約6メートルあった。この幅6メートルの道路に、歌舞伎町内に約200か所あった暴力団事務所の黒フィルム、3ナンバーの車が昼夜を問わずずらりと路上駐車されていた[302]。また大久保公園では暴力団員が薬物取引を行っていて、歌舞伎町2丁目は一般人が昼間でも近づきがたい雰囲気であった[292]。歌舞伎町内の喫茶店には暴力団の集会所として全国的にその名が知られていた店舗があり、頻繁に暴力団が例会等の会合に使用していた[303]。歌舞伎町内にはその他にも会合に使用されていた喫茶店、料理店があった[304]。また歌舞伎町では数名以上の暴力団員がそれとわかる格好で通りを練り歩く、地回りという示威行為を週に1、2回行っていた[305][306]。
2001年9月1日の午前1時頃、歌舞伎町1番街の雑居ビル、明星56ビルで発生した火災は、ビル3階の麻雀ゲーム店一休と、4階のセクシーキャバクラ、スーパールーズの従業員と客の計44名が死亡する大惨事となった[307][308]。火元は3階だったと特定され[309]、出火原因は失火ではなくて放火であったと考えられている[310][311]。火災の原因と被害が大きくなってしまった要因を分析していく中で、新宿区、警察、消防が歌舞伎町内の雑居ビル内でどのような店舗がどのような営業が行われているのか、そしてそれら店舗の実質的な経営者が誰であるのかが、ほぼ把握できない状況にあったことが明るみに出た[312]。また、新宿区、警察、消防間の連携が不十分であり[313]、歌舞伎町商店街振興組合は歌舞伎町内の店舗の多くが会員外の店舗となっていて、地域内の実態がつかめていないこと[313]、区の衛生関係部署などの査察は、調査には危険が伴い、膨大な歌舞伎町内の店舗に対してのマンパワー不足などといった問題があったことが指摘された[314]。
2001年10月には警察、消防、新宿区合同で「歌舞伎町雑居ビル火災三者連絡会議」が発足し、歌舞伎町内の雑居ビルに対しての警察、消防、区の合同立ち入り調査が行われた。その中で雑居ビル内のテナントの約6割が半年で経営者が交代しているといった実態が明らかになった[315]。2002年(平成14年)2月には歌舞伎町内に街頭防犯カメラが設置され[注釈 16]、同時期に通行する自動車のナンバープレートを自動的に読み取るNシステムが歌舞伎町を囲むように設置された[317]。
2002年(平成14年)2月、歌舞伎町商店街振興組合は「新宿歌舞伎町を、楽しく、安全で安心できるまちにするための宣言」を発表して、振興組合が警察や消防などと連携しつつ、歌舞伎町が安全で安心できる街にすべく取り組んでいくと宣言した[318][319]。歌舞伎町商店街振興組合は歌舞伎町ビル火災による街のイメージダウンを恐れ、街のイメージアップを図る発信を行っていくことになり、それが後の歌舞伎町ルネッサンスへと繋がっていく[320][321]。
警察による本格的な歌舞伎町対策

2003年(平成15年)4月1日、警視庁はこれまで別々の部署が担当をしていた不良外国人、暴力団といった組織犯罪を、一括して対応する組織犯罪対策部を立ち上げた[322][323]。繁華街を擁する新宿、渋谷、池袋など警視庁管内の12の警察署には組織犯罪対策課が新設された[322]。
2003年4月に再選された東京都知事の石原慎太郎は「治安の維持こそ最大の都民福祉」と、治安対策を重視する方針を固め、6月には広島県警本部長として暴走族対策に辣腕を振るった竹花豊を治安担当の副知事に任命した[322][324]。竹花副知事は「歌舞伎町を変えずして東京の治安を改善したとは言えない」と、歌舞伎町浄化に強い意欲を示し、7月11日には夜を徹して歌舞伎町と渋谷センター街の視察を行った[324][325]。同じく7月には新宿署の組織犯罪対策課肝いりで、歌舞伎町など新宿区内から暴力団や国際犯罪組織を排除することを目的とした民間団体、「新宿繁華街犯罪組織排除協議会」が結成された[323]。
2003年10月1日から1か月間、警察による歌舞伎町内の大規模な立ち入り調査が実施された。「歌舞伎町地区風俗環境浄化特別対策プロジェクト」と命名された調査では、専属調査員28名を三交替制で、歌舞伎町内の営業許可済みの約2800軒の店舗ばかりでなく、無届け、無許可の約1400軒の店舗も調査対象として、計4200軒の店舗をしらみつぶしに立ち入り調査を行った。調査期間中、新宿警察署は改めて営業許可申請を行う店舗関係者でごった返すことになったが、無届け、無許可の約1400軒のうち約半数は許可を申請することなく閉店した[278]。
翌2004年(平成16年)、新宿警察署は本格的な暴力団対策に乗り出した。暴力団対策の重点項目は資金源の遮断と集合・違法駐車の撲滅の二点として、重点項目の実現のために暴力団排除パトロール、飲食店に対する暴力団排除指導等の対策を実施した[326]。暴力団が使用している喫茶店、飲食店に対しては、店の経営者のみならず利用している暴力団事務所に対して組幹部に直接警告を行った。そしてホテルやレンタルビデオ店など、飲食店以外にも同様の対策を取った[327]。地回り行為に対しては毎週金曜日に機動隊が歌舞伎町内を制服で警戒に当たることによって暴力団に威圧を加え、さらに2005年(平成17年)4月に施行された、いわゆる歌舞伎町条例によってスカウト、キャッチ等の客引き行為の規制とともに、暴力団の地回り行為を条例で禁止することにした[328]。花道通りの暴力団車両の違法駐車に対しては、道幅を3.5メートルに縮小することで違法駐車は解消した[329]。そして違法な風俗店が次から次へと開業し、多くの場合又貸しが繰り返されていることから経営状態の把握が困難である状況の改善のため、条例が改正されて違法店舗に使用された場合、ビルオーナーに契約解除義務を課し、違法と知りながら契約を継続した場合にはビルオーナーに罰則を科すことになった[330][331]。
強力な暴力団対策が実行された2004年以降、暴力団員の地回りは姿を消すなど治安は改善した[332][333]。実際問題として暴力団が我が物顔にふるまっている状態では、新宿区や歌舞伎町商店街振興組合などが歌舞伎町の課題に積極的に関与することは困難であり、治安の改善により区や振興組合による歌舞伎町問題への対応が進むことになった[333]。
ところで歌舞伎町内の関係者は必ずしも警察による厳しい歌舞伎町対策を歓迎しなかった。これは取締りによって歌舞伎町への客足が減少することを恐れたためであった[334]。もちろん歌舞伎町商店街振興組合など、街の関係者は違法行為の摘発に反対していたわけではない。しかし性風俗の完全排除によって街のにぎわいが無くなってしまうことも恐れていた[335]。実際問題、このような地元の性風俗に対する徹底的な取り締まりに対する拒否感は、警察による歌舞伎町浄化作戦に一定のブレーキ作用をもたらしたと考えられる[336]。
デリバリーヘルスの増加

歌舞伎町のような歓楽街にはデリバリーヘルスのような無店舗型の派遣性風俗店が数多く事務所を構えている[337]。無店舗型の性風俗店は風営法上、営業場所に規制があるわけではない[注釈 17][337]。しかし営業の届け出時には物件のオーナーの承認が不可欠であり、事務所とキャストの待機場が併設されていることが多いデリバリーヘルスではキャストの出入りが頻繁になるため、事務所兼待機所としての承認を得やすいのはやはり性風俗に慣れた繁華街の物件である[338]。また繁華街には多くの場合、近隣にラブホテル街があり、キャストの派遣先となるラブホテル街が近くにあれば移動コストと移動時間の面から有利であり、経営的に好都合である。デリバリーヘルスの中には受付所を設けて客がキャストを選び、近隣のホテルでサービスを提供している店舗もあるが、そのような場合、なおさら繁華街の立地が有利となる[338]。
1991年(平成3年)、歌舞伎町で初めてのデリバリーヘルスが営業を開始する[339]。そして2000年代前半の警察や行政による本格的な歌舞伎町浄化作戦後、店舗型のファッションヘルス店は大きく数を減らし、デリバリーヘルス店が激増した[340]。2014年の統計ではデリバリーヘルスなど無店舗型の性風俗店は歌舞伎町内で183軒、届出が出されており、歌舞伎町内の風営法上の営業許可、届け出数の中では社交飲食業について多い[341]。
歌舞伎町ルネッサンス
2003年9月、東京都の竹花治安担当副知事は新宿区長の中山弘子と会談した[342][343]。竹花副知事と中山区長との会談後、新宿区の歌舞伎町対策が積極化する[344]。2004年5月には新宿区の各部署が連携して歌舞伎町対策を実行するために「歌舞伎町対策会議」が発足した[342][344]。新宿区の歌舞伎町対策会議は歌舞伎町商店街振興組合との意見交換を進める中で、6月には新宿区の他、振興組合、歌舞伎町2丁目町会、警察、消防、入国管理局などが参加する「歌舞伎町クリーン作戦協議会」が立ち上げられた[344][345]。新宿区は中山区長の方針もあって地元の組織である歌舞伎町商店街振興組合に積極的な歌舞伎町問題解決への参加を求めた。折しも国も治安対策を強化しており、歌舞伎町など全国11か所の繁華街の防犯治安とまちづくりを推進する方針が決定され、中でも歌舞伎町は犯罪の拠点となりやすい繁華街対策のモデルケースとして、2004年6月から官民共同による「歌舞伎町刷新プラン」を先行的に実施していくことになった[346]。また小泉純一郎首相は2004年10月の施政方針演説で、「新宿歌舞伎町など犯罪の頻発する繁華街を安全で楽しめる街にします」と取り上げ、翌2005年(平成17年)5月には小泉首相自らが歌舞伎町を視察した[333][347]。
2005年1月27日、「歌舞伎町ルネッサンス協議会」が発足した[348]。協議会では新たな文化の創造と活力あるまちづくり、アメニティ空間の創造による魅力あふれるまちづくり、安全で安心なまちづくりを三つの柱として協議が進められた[348]。協議会の有識者委員には安藤忠雄、堺屋太一、佐々淳行、いとうせいこうら著名人が参加し、各省庁からもオブザーバーでの参加がなされ、実力者、実務者を揃えた重量級の協議会となった[349][350]。なおルネッサンスという言葉は、歌舞伎町の生みの親である鈴木喜兵衛が、道義的繁華街の建設を目指した原点に立ち返り、歌舞伎町を安心で安全な誰でも楽しめる、大衆娯楽、大衆文化を発信する街に再生することを願う意味で選ばれた[注釈 18][352]。
歌舞伎町ルネッサンス協議会では、その立ち上げの経緯から新宿区と歌舞伎町商店街振興組合との間には当初、協調関係が成り立っていた[350]。しかし協議会が進むにつれて区と振興組合との間に溝が生まれてきた。溝の原因は歌舞伎町の風俗業の扱いであった。現実問題として歌舞伎町内のビルオーナーが組合員の大多数を占める振興組合としては、多くのテナントが風俗業である以上、風俗業を排除した歌舞伎町を目指すことは不可能であった[注釈 19]。振興組合が考えていた歌舞伎町ルネッサンスのゴールは、悪質な風俗業を排除して安心して遊べる風俗業については保護、応援していくまちづくりであったが、区としてはそのような考え方は受け入れられるものではなかった[354]。
歌舞伎町ルネッサンスの成果としては、区や警察、消防などの行政サイドと歌舞伎町商店街振興組合のような地域団体との間で、安心して楽しめるまちづくりのための話し合いが定期的に開催されるようになり、地域問題への対策が進んで歌舞伎町での犯罪件数が減少し、以前よりも安全、安心度が高まったとの意見がある[355]。
歌舞伎町の再開発

警察や行政による歌舞伎町浄化策が進められる中で、歌舞伎町内にはテナントが入らない物件が増加した。テナントがなかなか入らない物件には風俗店の無料紹介所等、風営法の網の目をかいくぐるような風俗関連店舗として賃貸される現象が起きるようになった[356]。また歌舞伎町ルネッサンスが進められた2000年代、コマ劇場などシネシティ広場を囲む劇場、映画館街の建設から40年あまりが経過して、建て替えが取り沙汰されるようになっていた[357]。シネシティ広場周囲の劇場、映画館街の建て替えについては、四葉会内で1990年頃から話題となりながらも計画が進まない状況が続いていたが[358][359]、歌舞伎町ルネッサンスの中で、域内の空室問題の解決も視野に入れてまちづくりによる歌舞伎町の活性化を図り、新しい歌舞伎町をアピールする大型プロジェクトとして、劇場、映画館街の一体的な再開発事業がクローズアップされるようになった[358][359]。2006年(平成18年)1月の歌舞伎町ルネッサンス協議会の席では四葉会のメンバーから、再開発に前向きな意見が出された[356]。

ところが四葉会のメンバー各社が一体的再開発についての意見はまとまることがなかった[350]。結局、各社がそれぞれ別個に建て替え、改築を進めることになり、まず四葉会メンバーの東宝がコマ劇場を2008年(平成20年)末に閉館し、コマ劇場隣の新宿東宝会館とともに単独で再開発事業を開始した[360][350]。2015年(平成27年)4月、コマ劇場跡地に地上30階、地下1階建ての新宿東宝ビルがオープンした。新宿東宝ビルには映画館TOHOシネマズ、パチンコホールのマルハン新宿東宝ビル店などが入り、上層階はホテルグレイスリー新宿となった。そして8階の屋外テラスには12メートルのゴジラヘッドが設けられ、地上からゴジラヘッドの頭頂部まで初代ゴジラの実物大となる52メートルとした。12時から20時までの間、1時間おきに吠えるゴジラ像は歌舞伎町の新たなシンボルとなった[361][362][363]。
新宿TOKYU MILANO(旧新宿東急文化会館)は2014年(平成26年)に閉館した[364]。その後、2017年(平成29年)から2019年(令和元年)にかけて、新宿TOKYU MILANOの跡地はVR ZONE SHINJUKUが暫定的にオープンしていた[364]。新宿TOKYU MILANOの再開発は東急と東急レクリエーションが共同で行うことになり[365]、2016年(平成28年)から翌2017年にかけて本格的な跡地利用について検討が進められ、インバウンド客が増加していたことから、海外からの観光客を取り込めるような施設を建設していく方針が固まった[364]。東急は新宿TOKYU MILANO近隣の土地の権利も取得し[365]、2018年(平成30年)には歌舞伎町一丁目再開発計画として国家戦略都市計画建築物等整備事業に認定され、国からも歌舞伎町を国際観光拠点として整備を進める事業としてのお墨付きを貰い、2019年に着工された[365][366]。
建設途中、コロナ禍に見舞われて事業中断も検討されたが計画は続行され[367][368]、2023年(令和5年)4月14日、地上48階、地下5階建ての東急歌舞伎町タワーがオープンした[366]。東急歌舞伎町タワーには飲食店街、劇場、映画館、ホテルなどの施設が入り[364]、隣接するシネシティ広場前に大画面の屋外ビジョンと階段状の屋外ステージを設け、シネシティ広場と一体化した活用ができるように工夫された[369]。また羽田空港、成田空港からのリムジンバスが直接乗り入れ[365][370]、午前0時以降の深夜帯に営業を行う施設を設けることにより、東京では深夜帯に遊べる場所が無いとの訪日客からの不満に応えた[371][372]。
トー横キッズと路上売春

2000年代の歌舞伎町の浄化作戦によってホストクラブと暴力団との関係性は弱くなった[373]。歌舞伎町内のホストクラブは増えていき、これまで歌舞伎町2丁目に多かったものがコロナ禍以降は1丁目にも進出し、歌舞伎町内のいたるところにホストクラブの宣伝看板が並ぶようになった[374]。2025年1月の統計では歌舞伎町内で274軒のホストクラブが営業しており、全国的に見ても歌舞伎町が一番ホストクラブの店舗数が多い地区である[375]。ホストクラブが増えていく中で、女性たちがホストクラブで使う金を風俗や路上売春で稼ぐケースが増え、またホスト側から風俗や路上売春で稼ぐよう強要する事例が後を絶たず、社会問題化するようになった[376][377][378]。また歌舞伎町内では2020年代にはコンセプトカフェが増加しており[379]、ホストクラブとともにメンコン(メンズコンセプトカフェ)、メン地下(メンズ地下アイドル)などにはまって路上売春に手を伸ばすケースが現れるようになった[380]。
トー横キッズ

トー横キッズとは、2015年4月にオープンした新宿東宝ビルの東側に集まる若者たちを指す言葉である[363]。新宿東宝ビルの東側に若者たちが集まりだしたのは2018年頃のことで、当初はそこに行けば誰かしらがいる場所程度であった[381]。最初期から集まる若者たちの多くが18歳以下であった[382]。2019年の末頃には新宿東宝ビル東側にたむろする若者たちの存在が知られるようになり、「トー横のガキ」などと呼ばれるようになった[363]。翌年の夏頃から若者たちの集まりが組織化されるようになり、トー横の王、トー横の帝王を名乗る人物が現れるようになる[381][383]。2021年(令和3年)にはトー横キッズの存在が広く知られるようになり、名古屋のドン横、大阪のグリ下など、類似の若者たちの集まりが発生するようになり[381][384]、また歌舞伎町のトー横キッズのように、家庭を居場所とすることができずに繁華街に集まり、たむろする若者たちのことをネオホームレスと呼ぶようになった[385]。
トー横キッズの存在が全国的に知られるようになった2021年には、オーバードーズをしたトー横キッズ同士の飛び降り自殺事件や、未成年少女の管理売春や援助交際といった問題が多発するようになった[381][386]。警察としてもそのような状況を看過することができず一斉摘発を繰り返すようになり、また警備員も巡回するようになった。その結果、若者たちは集まっていた新宿東宝ビルの東側から移動するようになった[387]。
路上売春

2011年10月に暴力団と一般市民との接触を規制する東京都暴力団排除条例が施行された後、暴力団員が路上売春をする女性たちから金を徴収する習慣は無くなっていく[388][389]。その2011年頃から大久保公園で路上売春を行う未成年の女性が増加した[390]。その後、他に仕事を持つ女性たちもアルバイト感覚で大久保公園付近に立つようになった[391]。2019年からのコロナ禍により困窮状態に陥った女性たちが路上売春に手を染めるようになったこともあって、2020年代に入って歌舞伎町で路上売春を行う女性たちは増えている[392][376]。
歌舞伎町界隈で路上売春を行っている女性の中で、どのくらいの割合でホストクラブに通っているのかははっきりとはわからないが、売春の容疑で大久保公園付近で逮捕した女性の7割から8割がホストクラブで使う金を手に入れるために売春行為を行っていたとの捜査員の証言がある[393]。路上売春を行う女性たちの多くは、逮捕されても釈放後はまた路上に立つケースが多く、2022年以降、逮捕後、専門相談員を通じて支援機関に繋ぐことによって路上売春からの脱却を援助するようになっている[394]。また警察は路上売春をそそのかした歌舞伎町のホストの逮捕に踏み切るなど、悪質なホストを逮捕することによって路上売春の抑制を図った[395]。国会でも2023年11月にホストクラブの客が多額の借金を背負い込む売掛金問題が取り上げられ、2024年4月には歌舞伎町の大手ホストクラブグループが売掛金全廃を打ち出した[396]。そして2024年12月、警察庁は恋愛感情を利用して高額な料金を払わせる、いわゆる色恋営業を禁じる方針を打ち出した[397]。
歓楽街としての特徴

新宿は江戸時代に宿場町として誕生するとともに遊廓が建てられ、性を売る街としての伝統が形作られていった。そしてその伝統は歌舞伎町へと引き継がれていった。また戦後まもなく都内最大級の闇市が生まれ、戦後間もなくの混乱期、まさに何でも売っている闇市の流れを引き継ぎ、歌舞伎町は何でも受け入れ、混ざり合っていくような風土が育まれていく[398]。歓楽街として大きく発展した歌舞伎町であるが、その歴史は度重なる浄化作戦という名の取締りの歴史でもある。取締りが厳格に実施され、浄化が徹底されたのならば歌舞伎町は歓楽街として継続できなかったはずである[399]。実際問題、横浜市の黄金町で行われ続けていたちょんの間と呼ばれた売春は、2005年からの警察による取締りで壊滅した[400]。またかつては歓楽街として栄えた熱海は、温泉街の弱体化とともに歓楽街性が薄れている[401]。つまり歌舞伎町は度重なる浄化作戦や、経済的理由によって歓楽街が衰退することなく、日本を代表する歓楽街としての地位を維持し続けている[402]。

浄化作戦によって歌舞伎町に一定レベルの治安が確保されているため、性風俗店に常連客などの客足が途絶えることがない。また歌舞伎町の性風俗業界が持つポテンシャルが大きいため、浄化作戦による痛手も早期に回復される。そして振興組合などの地元の人々の性風俗に対する一種の黙認が、歌舞伎町における性風俗の排除と放任との間の微妙なバランスを保つ役割を果たしていることが要因として挙げられる[403]。歌舞伎町で営業をしている不動産業者は性風俗テナントとの交渉を熟知しており、そのほとんどが歌舞伎町内のビルオーナーである地元団体である歌舞伎町商店街振興組合の組合員と、往々にして暴力団関係者が背後にいる性風俗業者との間のクッション役となって、振興組合が警察や新宿区といった行政と風俗業との間に立てる役割を維持できる仕組みとなっている[404]。こうして開店廃業が頻繁で流動性が高い風俗業ではあるが、個々の店はすぐに無くなったとしても歌舞伎町全体としてはサービスの更新が絶えず行われることにより、歓楽街としての機能を維持し続けている[405]。そして歌舞伎町では地道で堅実な商売よりも短期決戦、一発勝負的にお金を稼ぐ商売が主流であり、常に性風俗の最先端をいく店舗が営業するようになって、その一方で物販店が定着せず、老舗と呼ばれる店も数えるほどしかない[406]。
その一方で歌舞伎町は学歴、前科、家柄、国籍、職歴などといった世間的には価値があると見なされる価値観は無効になり、性風俗ならば若さや容姿のような性労働者としての価値、客ならば現金が重視される。中で働く場合も遊ぶ場合も歌舞伎町では外部世間の価値観がリセットされ、様々な背景を持つ人々が混じり合いながら街を形成している[407][408]。実際、歌舞伎町内の性風俗店で働くキャストは、遅刻や無断欠勤、空白が多い履歴書といった、一般社会では就労に大きなハンデとなる事柄が黙認されていて、そのような人たちを労働者として受け入れる一種のアジールとして機能しているとの意見がある[409]。また歌舞伎町はやってくる人たちの前歴、氏素性関係なく受け入れ、溶け込ませてしまう歌舞伎町ではあらゆる欲望が充足され、定住性が無い若者たちにとっての居場所としても機能するようになって、その一方で犯罪も多発する環境となったとの指摘もある[410]。