熊浦海戦

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熊浦海戦
戦争文禄の役
年月日:文禄2年2月10日~3月6日(1592年3月12日~4月7日)
場所朝鮮国慶尚道熊川
結果:朝鮮水軍の勝利
交戦勢力
朝鮮国 豊臣政権
指導者・指揮官
李舜臣
李億祺
元均
脇坂安治
九鬼嘉隆
波多親
長宗我部親親  
桑名親勝  
戦力
朝鮮水軍:181隻

・板屋船:89隻
・全羅左水営:42隻
・全羅右水営:40隻
・慶尚右水営:7隻
・亀甲船:3隻
義兵・僧兵:1,700名

不明
損害
戦艦1隻沈没 戦艦51隻沈没
戦死者2,500名

熊浦海戦(ゆうほかいせん、ウンポかいせん)は、文禄の役における海戦の一つである。李舜臣が指揮した最長期間の戦闘であり、約1か月3日にわたって継続した。李舜臣が実施した最初の上陸戦を含む戦闘であり、この戦いは幸州山城の戦いの結果に影響を与えた。

韓国では合浦海戦安骨浦海戦とともに「鎮海三大海戦」と呼ばれることがある[1]

文禄2年における海戦は釜山浦海戦を最後として、それ以降は史料上にほとんど見られなくなる。

一方で同時期の陸上戦では、文禄2年(1593年)1月9日、李如松が率いる明軍約43,000名が朝鮮官軍と合流し、日本軍の占領下にあった平壌城を奪還した。これにより日本軍は約7か月間占拠していた平壌城を放棄し、南下して漢城に集結した[2]

この頃、文禄2年1月下旬、李舜臣は宣伝官が持参した書状を受け取った。そこには「明軍が平壌城を回復し、漢城の日本軍も必ず撤退するため、水軍を率いて一隻たりとも帰還させぬよう海上を封鎖せよ」と記されていた[2]

戦闘経過

戦後

脚注

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