熊谷男女4人殺傷事件

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場所

日本の旗 日本

標的
  • 少女の元交際相手A(当時28歳)[1] 
  • 女性B(当時25歳)[1]
  • 女性C(当時21歳)[1]
  • 女性D(当時19歳)[1]
日付 2003年平成15年)8月18日[1]
概要稲川会暴力団員の男Oが少女と少年と共謀し、少女の元交際相手Aに暴行を加えて包丁で腹部や背中などを突き刺し、Aの腹部から突出したを包丁で弄ぶなどの行為に及んだ後、腰、大腿部などを突き刺して殺害した[3]。その後、B・C・Dの3人を無理矢理Aの部屋に連れ込んだ上で拉致し、Cを歯が折れるほど殴打した後、タオルで首を絞めた上で右背部を包丁で突き刺して殺害した[4]。この他、BとDに対しても包丁で胸などを突き刺すなどして殺害しようとしたが、未遂に終わった[5]
熊谷男女4人殺傷事件
場所

日本の旗 日本

標的
  • 少女の元交際相手A(当時28歳)[1] 
  • 女性B(当時25歳)[1]
  • 女性C(当時21歳)[1]
  • 女性D(当時19歳)[1]
日付 2003年平成15年)8月18日[1]
概要稲川会暴力団員の男Oが少女と少年と共謀し、少女の元交際相手Aに暴行を加えて包丁で腹部や背中などを突き刺し、Aの腹部から突出したを包丁で弄ぶなどの行為に及んだ後、腰、大腿部などを突き刺して殺害した[3]。その後、B・C・Dの3人を無理矢理Aの部屋に連れ込んだ上で拉致し、Cを歯が折れるほど殴打した後、タオルで首を絞めた上で右背部を包丁で突き刺して殺害した[4]。この他、BとDに対しても包丁で胸などを突き刺すなどして殺害しようとしたが、未遂に終わった[5]
攻撃手段 タオルやビニールロープで首を絞める・包丁で突き刺す[6]
攻撃側人数 3人[1]
武器
死亡者 2人[1]
負傷者 2人[1]
犯人
  • 男O(当時26歳)[10]
  • 不倫相手の少女(当時16歳)[10]
  • 少年(当時15歳)[10]
容疑
  • O:殺人・殺人未遂・逮捕監禁・銃砲刀剣類所持等取締法違反[10][11]
  • 少女:殺人幇助・殺人未遂幇助[12]
  • 少年:殺人幇助・殺人未遂幇助[13]
動機 自分の面子とプライドを守るため[14]
対処
刑事訴訟
少年審判
管轄
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熊谷男女4人殺傷事件(くまがやだんじょよにんさっしょうじけん)とは、2003年平成15年)8月18日埼玉県熊谷市で発生した男性殺害女性拉致殺傷事件[6]

本事件は2003年(平成15年)8月18日、不倫相手の少女の「Aに姦淫されそうになった」という訴えを聞いた元稲川会暴力団員のOが、少女の元交際相手A(当時28歳)を詰問して包丁で背中などを刺して殺害し、襲撃時Aと同室にいたB(当時25歳)、事件直後Aの部屋を訪れたC(当時21歳)、Cと同室に住んでいたD(当時19歳)の3人を口封じのために拉致し、首を絞める・包丁で刺すなどしてCを殺害、BとDに重傷を負わせた事件である[6]。B、C、Dの3人ともOとは初対面であった[6]

Oは殺人・殺人未遂などの罪で起訴され、2007年(平成19年)7月18日に死刑判決が確定し、2010年(平成22年)7月28日に東京拘置所で死刑が執行された[11][25]

死刑囚O

O・H
生誕 (1977-07-20) 1977年7月20日[21]
死没 (2010-07-28) 2010年7月28日(33歳没)[21]
東京拘置所日本の旗 日本東京都葛飾区小菅[21]
国籍 日本の旗 日本
職業 事件当時はゲーム喫茶を経営[26]
罪名 殺人罪・殺人未遂罪・逮捕監禁罪銃砲刀剣類所持等取締法違反[10][11]
刑罰 死刑[10]
犯罪者現況 執行済み[25]
動機 自分の面子とプライドを守るため[14]
有罪判決 さいたま地方裁判所2007年4月26日2007年7月18日確定)[11]
死者 2人[1]
逮捕日
2003年8月21日[15]
収監場所 東京拘置所[21]
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本事件の主犯格Oは1977年昭和52年)7月20日[21]に生まれ、小学生のころはスポーツ万能の子供だった。中学生の時には男子テニス部の主将を務めていた。その一方で、中学2年生のころからシンナー吸引を始める[27]。また、バタフライナイフで同学年の男子生徒の左胸部と背部を刺し、怪我を負わせたことがあった[28]。その後、友人と共に金属バットを用いた強盗致傷事件を起こして中等少年院送致となり、退院後間もなく、友人と共に傷害、恐喝事件を起こし再び中等少年院送致となった[28]

高校に進学するも中退し、暴力団関係者と交遊を持ち、2回目の少年院送致となった後、一度暴力団に所属し幹部組員となった[29]。その後、1997年(平成9年)5月、飲酒した上に通行人に暴行を加えて傷害を負わせ、さらにその被害者に金銭を要求するという傷害暴行恐喝未遂道路交通法違反の事件を起こした[30]

1998年(平成10年)2月23日、浦和地裁熊谷支部で懲役1年6か月(執行猶予5年・保護観察付き)の有罪判決を受ける[31]。同年6月に結婚し、長女が生まれると妻と長女、両親と生活をするようになった[32]。しかし、執行猶予期間中の2000年(平成12年)11月に飲酒した上に通行人に因縁を付けて暴行を加え、傷害を負わせる傷害事件を起こした[28]

2001年(平成13年)4月18日、浦和地裁熊谷支部で懲役6か月の実刑判決を受けたため、執行猶予が取り消され、川越少年刑務所で服役した[33]。その後、2002年(平成14年)10月に川越少年刑務所を出所した[34]

上記のとおり妻子が存在し、少女とは不倫関係だった[35]。また、少女が自分に好意を寄せていることを利用し、場合によっては性風俗で働かせようと考えていた[35]

事件の経過

大里郡寄居町に住む無職少女(当時16歳)は、2003年(平成15年)6月下旬ごろから本庄市飲食店店員Aと交際を始め、間もなく熊谷市箱田7丁目のAの自宅アパートに身を寄せるようになった[10]。しかし、薬物に手を出すことを心配したAが自室に少女を住まわせようとしたことから、関係が悪化し、Aと少女は口論が絶えなくなる[10]

他方、少女は7月10日ごろに熊谷市広瀬、元稲川会暴力団員のOと知り合い、交際関係になる[36]。Oは少女の好意を利用して風俗関係で働かせようと考えていた[35]。少女はAとOと二股交際をしていた[35]

少女は外出中にAが頻繁に連絡を取ろうとすることなどを疎ましく感じ始め、OにもAへの不満を話していた[37]。7月末ごろ、Oと共にいた少女の元にAから呼び出しの電話があり、これにOも同行した[38]。少女はAに対し交際相手がいること、頻繁な電話が「うざい」ことを告げ、Oは少女が「俺の女」であることを告げて怒鳴りつけたところ、怯えたAは引き下がり、少女はA宅の鍵を返却した[39]

しかし、親と喧嘩をして再び家出した少女はAの部屋に出入りするようになる[10]

8月18日午前、Oは乗用車で熊谷市内の無職少年の自宅アパートに身を寄せていた少女を迎えに行き、2人を連れ出した[37]。同市筑波1丁目のファミリーレストランに入りビール焼酎を飲んだ[37]。その席で少女から「Aに姦淫されそうになった」ことを聞いたOは激昂し、「あの野郎、俺をなめやがって。Aが俺の女だって知ってるのに手を出してくるんだから、俺にけんか売ってるのと同じだよな。今から乗り込んじゃうか。野郎をやっちゃうか」とAを襲うことを示唆すると、少女は「そうだよ。やっちゃって。やっちゃえ、やっちゃえ」、少年は「人の女に手ぇ出すなんて、絶対に許せないっすよ。そんなヤツ、やっちゃうしかねえっすよ」と同調した[40]

ファミリーレストランを後にしたOは、ボーガンを入手しようと考え少女、少年を連れて同市内のホビーショップに向かうが店が閉まっていたため、「拳銃を自宅に所持しているが音がうるさいから」と、自分が経営するゲーム喫茶から包丁を持ち出し、少女に「本当にやっちゃって大丈夫なん」と確認し、少年に対し「帰ってもいいぞ」と言ったが2人も同行して、午後1時ころ、Aのアパートへ向かった[41]

Aは同じアパートに住む同僚の女性Bの部屋にいたため、少女が言葉巧みに誘い出しAの部屋に連れ込んだ。そこでAが少女に手を出そうとしたことを認めようとしなかったため、OはAに激しい暴行を加えた[3]。OはBをもAの部屋に無理やり連れ込み、Bの見る前で「俺の女に手を出しやがって」と言いながらAに暴行を加え続け、腹部や背中を突き刺した[42]

背中などを刺されたAは呻き声を上げて床に倒れ込んだが、Oは「うううじゃねえよ」などと怒号しつつ、包丁を持ち替えてその腹部を1回突き刺した上で「こいつ腸出てるよ」などと言いながらAの腹部から突出したを包丁で弄んだ[42]。その後、「早く死ね、くたばれ」と言いながら背中に包丁を刺した後、腰、大腿部など数カ所も刺して殺害した[3]

午後1時20分ごろ、Aの勤務先のマネージャーが、「遅刻しないように」と伝えるためAの携帯電話に連絡をしたが通じなかったため、同じアパートに住むAの同僚の女性Cが様子を見に行くよう依頼され、携帯電話を繋いだままAの部屋を訪れる[43]。Oは恐怖に震えるBに対応させ「(Aは)携帯電話に出られない」と答えさせた。動揺を隠せないBの応対を見たOはCを室内に連れ込み、「見ろ」と命じてAの遺体を見せつけた[44]

BとCをAの部屋に監禁したまま、少女は部屋に残した荷物を集めAの財布に入っていた現金窃盗した[20]。Oは尿意を訴えたCにトイレに行くことを許可せず室内で放尿させた[45]。OはCの失踪を装わせようと、少年にCの部屋に行き携帯電話等を回収に行かせたところCの友人であるDに少年の顔を見られたため、OはDをAの部屋に連れ込みAの遺体を見せつけ、「見ちゃったもんはしょうがねぇよな。やっちゃうしかないよな」と言って、午後1時40分ごろ、車で3人を拉致した[8]

少年を助手席に乗せ、少女に加え拉致したBとDを後部座席に乗せてCをトランクに閉じ込めたOは車を秩父市方面へと走らせた[8]

Oは秩父市黒谷の美の山公園駐車場でDを降ろし、女子トイレに連れ込んで乳房と陰部を触りタオルで首を絞めたあと、殴る蹴るの暴行を加えた[8]。OはDの背部に包丁を振りおろしたが便器に当たり刺すには至らず、踏みつけたところ動かなかったことなどからすでにDは死亡したものと考え、美の山公園に放置した[8]

Oが駐車場へ戻ると少女が「携帯電話の着信音が聞こえた」と言ったため、Oがトランクを開けた[4]。すると、Cが猛暑日のトランクに閉じ込められた暑さで汗を流しつつ「全部私のせいにしていいから許して。チーフ(A)をやったのも私のせいにしていいから」と必死に訴えたが、Oは「うるせえ」などと言い放ち、歯が折れるほど強く殴った[4]。その後、Oは「後ろの奴うるさいから、後ろの奴から始末するか」といい、美の山公園の観光道路脇でCをトランクから車外に降ろし、首を絞めた上で右背部を3回刺して殺害した[4]。遺体を道路脇の崖に投げ落とした[4]

Oは1人残されたBに「手足を縛って口にアロンアルフアをつけてマンホールに入れて、次の日の朝迎えに行って生きていたら、見逃してやる」と言い放った[9]。熊谷市内へ戻ったOは、Bを同市大麻生の国道140号線沿いの建築解体会社の資材置場で降ろした[9][46]。Oは両手足をビニールロープで縛ったBの唇と鼻腔にアロンアルフアを塗り、窒息させることができないことが分かると、ビニールロープで首を締め、湾曲した包丁で胸などを刺した[9]。OはBの上衣に血の染みが広がっていくのを見てこのまま放置すれば確実に死亡するだろうと考え、Bを放置して現場を立ち去った[9]

午後4時45分、美の山公園に倒れていたDを通行人が発見し、110番通報した[47][48][46]。発見時、Dは意識不明の重体であったため、秩父郡皆野町病院に搬送された[47][48][46]。病院を訪ねてきた秩父警察署員にDは「熊谷のGハイツに死体がある。調べて」と告げた[48]

同6時25分ごろ、熊谷警察署員がアパートに急行しAの部屋で布団をかけられたAの遺体を発見[48]

同8時50分ごろ、Bが放置された場所の敷地内で、そこを借りて車を置いていた男性に発見される[49][46]。助け出されると間もなく意識不明の重体に陥った[49][46]。胸部からの出血が多く、搬送先では輸血の処置が取られた[49]。その結果、意識を回復した[49]

8月19日午前6時5分、犬の散歩中の男性がCの遺体を発見した[50]

事件発覚

BとDが瀕死の状態で発見されたことにより、メディアが一斉に報道を開始した[48][46][51]。また、埼玉県警察捜査一課は秩父警察署・熊谷警察署に合同捜査本部を設置した[48][46]

Dは意識回復後も会話が満足に出来ず、精神的なショックが大きい状態だったため、捜査員は半信半疑になりながらも事情聴取に応じた[15]。すると、Dは落ち着きを取り戻し、断片的ながら経緯を説明し始めた[15]

これを受けて合同捜査本部はDの証言に基づいて似顔絵を作成[15]。また、Dが拉致された車内で「オレは刑務所帰りだ」と言う言葉を聞いていたことから過去の事件関係者の顔写真と照合した結果、捜査線上にOが浮上した[15]

8月21日、Oが合同捜査本部によって逮捕された[52]任意同行の際、Oの居場所を特定した後、捜査員はOが暴れることを警戒し、付近に人がいないことを確認できるまで待機した後、任意同行を求めた[53][54]

8月22日、合同捜査本部は少年を逮捕監禁容疑で、翌23日に少女を逮捕監禁容疑で逮捕した[55][56]。取り調べに対してOは「付き合っていた女(少女)を寝取られて面子が立たなかったのでAを殺害した」と供述し、さらに、3人の女性については「死んだものと思っていたが、2人が生きていることをニュースで知り、口封じのためBとDを搬送先の病院で殺害することを計画していた」と明かした[17][57]

なお、この2003年には隣の群馬県太田市伊勢崎市パチンコ店員が、強盗目的で元店員ら男2人組に殺害され、遺体が近隣行田市の福川に遺棄されるという事件(群馬パチンコ店員連続殺人事件)も発生しており、本事件の1か月ほど前に犯人埼玉県警察に逮捕されたばかりだった[58][59][60]

少年の処分

2003年(平成15年)10月22日さいたま地検は少年に対して「少年院送致相当」の意見書を付けた上で殺人幇助・殺人未遂幇助罪でさいたま家裁送致した[61]

2003年(平成15年)11月14日、さいたま家裁(北沢貞男裁判長)は少年に対して中等少年院送致及び長期の保護処分を決定した[24][62]

少女の処分

2003年(平成15年)10月22日、さいたま地検は少女について「殺害が可能となる行為を自発的に行った。少年と比べて共謀を近い」として「刑事処分相当」の意見書を付けた上で殺人幇助・殺人未遂幇助罪でさいたま家裁に送致した[61]

2003年(平成15年)11月17日、さいたま家裁(北沢貞男裁判長)は「事件の発端を作り、関与の度合いも大きい。被害者の処罰感情も非常に強い」などとしてさいたま地裁へ逆送致する決定を出した[23][63]。その後、さいたま地検は少女を殺人幇助・殺人未遂幇助罪で起訴した[64]

刑事裁判

Oの裁判

Oは一審の審理の中で、「最初から殺意を持っていたわけでない」などと主張し、弁護人は「シンナーによる幻覚が、事件当時の行動に影響を与えた可能性がある」として、Oの精神鑑定を求めた[65]。その結果、「A殺害時には、弁別能力が著しく低下していた」との鑑定結果が証拠採用された[66]。しかし、検察官はこの鑑定結果を不服として再鑑定を求め、「飲酒や、過去に吸っていたシンナーが犯行に影響を与えたとは考えられない」と相反する鑑定書が証拠採用された[67]

2004年(平成16年)1月26日さいたま地裁福崎伸一郎裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否被告人Oは「最初から殺意があったわけではない」と述べた上で「やったことはやった」と起訴事実を認めた[68][57]。冒頭陳述で検察官は、事件後、Oが死んだものと思っていたBとDの2人が生きていることをニュースで知り、口封じのためBとDを搬送先の病院で殺害する計画を立てていたことを明らかにした[57]。また、B・C・Dを拉致した後やCを殺害した後、Oが少年に対して「お前やってみないか」と被害者の殺害を依頼したが、少年が「やっぱり出来ねえっす。押さえるくらいなら手伝います」と断られたため、1人で犯行に及んだことも明らかにした[57]

2004年(平成16年)2月26日、BとDが検察側証人として出廷し、Bは「子供が包丁を見ると、『ママはこれで刺された』と言われて心が痛い。無関係な人を巻き込んだO被告は死刑にしてほしい」と述べてOに死刑を求めた[69]。また、DはOに対する恐怖心からOの名前を言えず、犯行態様に関する場面では証言できなかったが、Oに望む刑罰に関しては「人を殺してのうのうと生きているのは許せない。死刑にして欲しい」と述べてBと同じくOに死刑を求めた[69]

2004年(平成16年)5月10日、被告人質問が行われ、Oは「Aの殺害について細かな殺害状況は覚えていなかったため、警察が指摘する通りに話を合わせて調書にした。実況見分でも予め作成した調書の通りに犯行を再現した」「9月28日以前に検察に調書は取られていないのに、それ以前の日付で調書が取られ署名したことになっている。日付や内容が書き換えられている」と述べて検察官面前調書に事実誤認があると訴えた[70]

2004年(平成16年)9月10日、弁護人は「シンナーによる幻覚が事件当時のO被告の行動に影響を与えた可能性を明らかにしたい」としてさいたま地裁に精神鑑定を請求した[注 1][71]。これを受けてさいたま地裁は弁護人が請求した精神鑑定を実施することを決定した[71]。この決定により、公判が約1年にわたって延期された[71][72]

2005年(平成17年)11月2日、弁護人は「O被告は、Aに対する犯行時に、弁別能力が著しく低下していた」とする精神鑑定書を提出し、さいたま地裁は証拠採用したが、検察官は不同意とし、さいたま地裁に精神鑑定の再鑑定を請求した[72][73]

2006年(平成18年)1月27日、さいたま地裁は検察官が請求した精神鑑定の再鑑定を実施することを決定した[73]

2006年(平成18年)12月27日、さいたま地裁は、検察官が請求した精神鑑定について、「飲酒や、過去に吸っていたシンナーが犯行に影響を与えたとは考えられない」とする精神鑑定書を証拠採用した[74]

2007年(平成19年)1月17日、AとCの遺族及びBとDの意見陳述が行われ、AとCの遺族は「他人事のように座っているO被告からは、反省や謝罪の気持ちは感じられない」「事件から3年半が経つが、私たちの時間は止まったまま。極刑以外に納得する判断はない」と述べていずれもOに対して死刑を求めた[75]。また、BとDは「未だに包丁が怖く、料理ができないこともある。この世に被告人がいる限り、恨み続ける」「他人の人生を狂わせたのだから、被告人の将来も奪われて当然。正当な裁きを下して欲しい」と述べていずれもOに対して改めて死刑を求めた[注 2][75]

2007年(平成19年)2月16日論告求刑公判が開かれ、検察官はOの責任能力について、再鑑定結果を基に「犯行現場に証拠品を残さないよう配慮するなど、合理的な行動を取っている」「大きな記憶の欠落はない」などと述べて事件当時、Oに完全責任能力があったと主張した[76]。その上で「極めて粗暴で、人命を軽視し、自分にとって不都合な存在のものは殺害してしまえばよいという犯罪性が深く根ざしている。もはや矯正は不能」と述べ、「重大かつ凶悪極まりない犯罪」としてOに死刑を求刑した[77][76][78]

2007年(平成19年)3月9日、最終弁論で弁護人は「A殺害時は心神耗弱状態だった。若年で更生可能性を否定することはできない」などとして、改めて死刑回避を求めた[79]

2007年(平成19年)4月26日、さいたま地裁(飯田喜信裁判長)は「1日のうちに4人を殺害の対象とし、2人を殺害したまれに見る重大な凶悪事件。犯行は非人間的と言わざるをえない。殺してでもメンツを守ろうとする暴力団関係者特有の思考で、あまりに短絡的な犯行。動機と経緯に酌量の余地はない」としてOに検察官の求刑通り死刑判決を言い渡した[10][80][81][82]

争点となった刑事責任能力についてさいたま地裁は「指紋をふき取るように指示するなど合理的な行動をとっている。殺害経緯、殺害状況について具体的な記憶を保持していた」として完全責任能力を認め、弁護人の「善悪の判断能力と行動制御能力が著しく低下し、心神耗弱状態だった」という主張を退けた[83][81][82]

その上でAに対する殺害態様について「残虐、凄惨を極め、被告人は、最期の力を振り絞って呻き声を上げ激しく苦しむAの上に布団を被せ、その頸部付近を踏みつけるなどしたもので、Aに対する非常に強固な殺意が認められる」「人命を尊重するという感情は全く看て取れず、腸を包丁で弄ぶといった侮蔑的な所為に及んだ被告人については、非道、非人間的との非難を免れない」と非難した[84]。また、Cに対する殺害態様についても「強固な殺意に基づき、身動きしないCの背部をえぐるようにして包丁で刺し、その遺体を足で押しやって道路脇の斜面下に落としたというのであり、このような人を人とも思わぬ被告人の態度からは人間性の片鱗も感じ取ることができない」と非難した[4]。さらにBとDに対する犯行態様については「繰り返しその頸部を絞めつけ、さらにはその背部を刺突しようとしたもので、その態様は執拗で、非常に悪質である。さらに、被告人は、Dの死亡を確認しようと、その左側胸部を踏みつけ、Dの反応を窺ったというのであり、Dに対する強固な殺意が看て取れる」「およそ人の口と鼻に瞬間接着剤を塗布し、窒息死させようということを発想すること自体、余りに非人間的である上、被告人は、実際にアロンアルフアとビニールロープを準備し、その発想を実行に移したのであって、冷酷、非情といわざるを得ない。そして、アロンアルフアを塗布して窒息させることができないとわかると、今度はBの頸部をビニールロープで絞めつけ、Bが意識を失って倒れると、多数回にわたって包丁を振り下ろし、その右側胸部を思い切り突き刺したというのであって、その犯行態様は、全体において非常に凶悪である」と指摘した[85]

以上のことから「自身の面子を守るという暴力団関係者特有の心情からAを惨殺した上、その犯行の口封じという理不尽、身勝手な動機に基づき、残忍、凶悪な態様で、何ら落ち度のないCを殺害し、B、Dにも重傷を負わせた」「A、Cの遺族の処罰感情、B、Dの被害感情はいずれも極めて厳しく、被告人に対し厳重処罰を望んでいる。本件が社会に与えた影響も甚大である。そうすると、被告人が本件によって負うべき刑責は、余りにも重い」として死刑を以って臨む他ないと結論付けた[86]

弁護人は判決を不服として東京高裁に即日控訴したが、Oは同年7月18日付で控訴を取り下げ、一審の死刑判決が確定した[81][82][87][11]。7月17日に接見した弁護人によると、Oは「死刑に納得している。判決の事実認定に間違いはあるが二審で正せないし、正す意味もない。特に拉致殺傷した女性3人には申し訳ない。あんなことをしなければよかった」と反省していたという[87]

少女の裁判

2004年(平成16年)2月19日、さいたま地裁(福崎伸一郎裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否で少女は、事件前のファミリーレストランやAの部屋で言ったとされる「やっちゃって」「やっちゃえ[88]」は言っていないと主張し、起訴事実の大半を否認した[89][90]

2004年(平成16年)8月23日、論告求刑公判が開かれ、検察官は「残忍非道な犯行を積極的に助長しており、果たした役割は大きい」とした上で「事件の重大性を受け止めない自分勝手な発想は歪んだ人格に根ざしたものと言わなければならず、一朝一夕で矯正可能なものではない」として不定期刑の上限[注 3]である懲役5~10年を求刑した[92]。同日の最終弁論で弁護人は、少女が「やっちゃって」と扇動しておらず、Oに殺意があることを知らなかったなどと主張した[92]

最終意見陳述で少女は「本当に申し訳なく思っています。これから先も被害者や家族が苦しんでいることを忘れずに生活していこうと思います」と謝罪して結審した[92]

2004年(平成16年)11月18日、さいたま地裁(福崎伸一郎裁判長)は「事件のきっかけを作っており、責任は大きい」として、検察官の求刑通り懲役5~10年の不定期刑を言い渡した[22][90]。判決言い渡し後、裁判長は「君の人生はまだ長い。罪を償っている間に、他の人も自分も大切にできる人間になってください」と説諭した[22]

この判決に対して少女は控訴しなかったため、懲役5~10年の不定期刑が確定した[注 4][22][80]

死刑確定後

2010年(平成22年)7月28日東京拘置所でOの死刑が執行された[25]33歳没[21][25]。刑の確定から3年での比較的早い執行だった[25]2009年(平成21年)9月民主党政権発足以後、初めての死刑執行であった[25]

執行には千葉景子法務大臣(当時)が立ち会った[25]。死刑執行に法務大臣が立ち会うのは憲政史上初めてのことだった[25]

Oは、死刑廃止フォーラムが2008年(平成20年)に全死刑囚に対して実施したアンケートの中の手記で、「死刑執行時に求刑・判決を出した検事・裁判官それに法務大臣らが自ら刑を執行するべきです。それが奴らの責任だと思います。」と意見を記しており、その一部が自らの執行時において実現されたことになる[93]

また、同日には宇都宮宝石店放火殺人事件の死刑囚の死刑も東京拘置所で執行されている[25][94][95][96]

脚注

参考文献

関連項目

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