日本における死刑囚の一覧 (1960年代)
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1960年
1960年(昭和35年)に死刑判決が確定した死刑確定者は33人である[1]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 鹿児島の2人強殺事件 (M)[2] | 1960年1月6日 | 1958年11月26日[3] | 鹿児島県川辺郡川辺町勝目(現:南九州市)在住、農業[4]。第一審および控訴審判決時点で23歳[2][3]。 かつてから盗み癖があり、少年院に入院したこともあったが、その後も素行は改善せず、青年団の金を使い込んだり、遊興費のために借金したりした末、借金返済に困って犯行におよんだ[3]。1958年11月26日2時ごろ[3]、川辺町勝目の自宅近所の家に押し入り、住人の女性(当時60歳)に木刀を突きつけて金を要求、「借りてくる」と言って逃げ出そうとした女性の頭を強打した上、土間で震えていた養女(当時13歳、勝目中学校1年生)を深さ4mの井戸に投げ込んだ[4]。そして命乞いをする女性も井戸に投げ込んだが、しばらくして女性が井戸から這い上がってきたため、蓋を被せて籾など3俵を載せて重しをし、2人を殺害、籾4俵を盗んで売却、遊興費に充てた[4]。女性は脳内出血、養女は溺水が死因である[3]。 強盗殺人罪に問われ、1959年4月8日に鹿児島地裁(古庄裁判長)から死刑判決を言い渡された[4][2]。Mは福岡高裁宮崎支部へ控訴したが、同年12月22日に控訴棄却の判決を言い渡され[3]、上告せず確定。 1962年8月10日に死刑執行(26歳没)。 |
| 豊中3人組自動車強盗殺人事件 (I) | 1960年2月5日 | 1956年7月12日・ 1957年2月14日 | 死刑執行日は不明。 |
| 霧島の一家四人殺し (Y) | 1960年2月24日 | 1957年1月4日[5] | 鹿児島県姶良郡牧園町生まれ、宮崎県東臼杵郡諸塚村在住、木材運搬夫[6]。第一審判決時点で23歳[6]。 1957年1月4日夜、金欲しさから姶良郡霧島村の農家男性(当時46歳)宅に忍び込み、タンスを物色中、寝ていた主人夫婦の三男(当時18歳)に発見されたため、持っていた丸太棒で撲殺、さらに寝ていた五男(当時14歳)、六男(当時8歳)、主人の母親の3人を撲殺、現金760円と衣類3点(時価1200円程度)を盗んだ[5]。犯行前日には被害者である子供2人と一緒に岩風呂に入り、子供から「また遊びにいらっしゃい」と慕われていた[6]。 住居侵入、強盗殺人の罪に問われ、1958年3月12日に鹿児島地裁(池田裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[6]。なおY本人は、一家4人を撲殺したことは認めたが、現金や衣類を盗んだことは否定していた[5]。 控訴取下げ。1962年8月10日に死刑執行(28歳没)。 |
| 松島パークホテル殺人事件 (H)[7] | 1960年2月26日 | 1956年8月14日 | 秋田県尾去沢町生まれ、住居不定[8]、もしくは尾去沢町尾去沢鉱山[9]。第一審判決時点で24歳[8]、控訴審判決時点で26歳[7]、上告審判決時点で27歳[9]。 東京の職場で知り合った事務員の女性A(当時26歳)から結婚すると偽り、株券など計28万円相当を用意させて遊興費として浪費した。その後、Aから結婚を迫られたので東北旅行に誘い込み[9]、1956年8月14日午後、宮城県松島町のパーク・ホテルでAを殺害し、現金や時計などを奪った[8]。 強盗殺人罪に問われ、1957年2月13日に仙台地裁(山田裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[8]。控訴したが、1958年6月12日に仙台高裁(門田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[7]。上告したが、1960年2月26日に最高裁第二小法廷(小谷裁判長)ね上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[9]。 死刑執行日は不明。 |
| 岸本社長殺し事件 (T)[10][11] | 1960年3月3日 | 1956年4月2日[10] | 高知県高知市山端町在住、山林ブローカー[10]。第一審判決時点で42歳[10]。 1951年から高知市で電気会社を経営していたが、会社が1200万円の赤字を出し、妻の実家や、使用人だった高知市井口町在住の男K(第一審判決時点で33歳)の妻の実家などから400万円を借金するも、その返済に窮するようになった[10]。1956年3月、導入金融をめぐって被害者である大阪証券融資の社長A(事件当時34歳、大阪府大阪市南区玉屋町)の存在を知り、KとともにAの殺害を計画、おびき出し方や殺害方法、アリバイ工作の方法などを綿密に計画した上で犯行におよんだ[10]。 同年4月2日、2人はAに導入資金の話を持ちかけてK宅に誘い出して殺害、665万円の小切手と現金4万円を奪った上、死体を高知県吾川郡平和村の砂浜[注 1]に埋めた[10]。 2人は強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、いずれも死刑を求刑された[10]。高知地裁(呉屋裁判長)は1956年12月25日、Tを死刑、Kを無期懲役とする判決を言い渡した[10]。後に高松高裁でも控訴棄却の判決を言い渡され、Kは控訴審で無期懲役が確定[12]。Tは事実誤認や量刑不当を理由に上告したが、1960年3月3日に最高裁第一小法廷(下飯坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[12]。また別の男1人もAを高知までおびき寄せる資金を提供したとして強盗殺人幇助の罪に問われ、1958年12月20日、高松高裁で懲役8年の実刑判決(高知地裁判決に対する被告人側控訴棄却)を言い渡されている[11]。 死刑執行日は不明。 |
| 横浜の重役夫人殺し (S)[13] | 1960年3月8日 | 1958年6月12日[13] | 千葉県山武郡成東町生まれ、上告審判決時点で26歳[13]。「港北区の会社重役夫人殺し」とも呼称される[14]。 1958年6月12日10時30分ごろ、出入り先だった神奈川県横浜市港北区篠原町の会社取締役宅を訪れ、取締役の妻(当時41歳)に金を無心したが断られたため、いきなり首を絞めて乱暴し、ナイフで刺殺、背広、カメラなど43000円相当を奪って逃げた[13]。 Sは事件前、ガラス職人として働いていたが、酒色に溺れて解雇され、家出した末に犯行におよび、「少しくらいなら出すから」と哀願する被害者をナイフで刺したり、タオルで首を絞めたりして殺害した[15]。 強盗殺人と婦女暴行の罪に問われ[13]、1959年2月18日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を言い渡された[15]。公判ではSの元勤務先である川崎市大島町の町内会員らが減刑嘆願書を提出していたが、同地裁は残忍な手口から同情の余地はないとして死刑を選択した[15]。横浜地裁で言い渡された死刑判決は、1958年6月に南区の母子殺しの被告人(1959年に死刑確定)に対して言い渡されて以来だった[15]。 Sは控訴したが、同年7月6日に東京高裁(尾後貫裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[14]。 Sは上告したが、1960年3月8日に最高裁第三小法廷(河村裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[13]。死刑執行日は不明。 |
| 住み込み先の娘二人殺し (U)[16] | 1960年3月15日 | 1958年2月18日[16] | 犯行時18歳の少年死刑囚。 北海道稚内市大字稚内[注 2]の農家で住み込みの作男として働いていたが、1958年2月18日昼過ぎ、主人宅で留守番中の次女(当時16歳)の首を手ぬぐいで絞め、乱暴して殺害した上、外出先から帰宅して次女の遺体を発見した主人の姪(当時26歳)の頭を薪割り斧で滅多打ちにして殺害、現金15000円や猟銃、カメラなど20万円相当を奪って逃走した[16]。翌19日、現場近くの原野で盗んだ猟銃を用いて自殺しようとしていたところを逮捕された[17]。 強盗殺人、婦女暴行致死の罪に問われ、1958年9月3日に旭川地裁(三橋裁判長)で死刑判決を言い渡された[17]。控訴棄却の判決を経て、1960年3月15日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[16]。 死刑執行日は不明。 |
| 花矢町の強殺、放火事件 (S) | 1960年3月17日 | 1956年12月24日[18] | 秋田県北秋田郡花矢町花岡粕田字村東[19](現:大館市花岡字粕田)生まれ、住所不定、土工[18]。第一審判決時点で33歳[18]、控訴審判決時点で35歳[19]。 1956年12月23日夜、花矢町汗石の花岡鉱業所社宅の一室に出刃包丁を持って侵入したが、家人に気づかれて逃げた(強盗予備、住居侵入未遂)[20]。24日0時30分ごろ、花矢町粕田の花岡鉱山電気工男性(第一審判決時点で30歳)宅に侵入し、男性の妻(事件当時26歳)に発見されたため、彼女と夫婦の長女(同5歳)の2人をマサカリで撲殺、次いで男性と次女(第一審判決時点で4歳)の2人にも全治2か月の重傷を負わせた上[18]、犯行をくらますため、藁に放火して男性宅を全焼させた[19]。動機は遊興費欲しさだった[18]。 強盗殺人、同未遂、住居侵入、同未遂、強盗予備、放火の罪に問われ[20]、1957年7月26日に秋田地裁大館支部(木村裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[18]。殺害の犯意はなかったとして量刑不当を訴え、控訴したが、1959年2月26日に仙台高裁秋田支部(村松裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[19]。Sは当初、上告の意思を見せていなかったが[19]、後に上告[20]。しかし1960年3月17日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[20]。なお上告中の1959年末には、控訴審で弁護人を務めた内藤庸男の計らいで『死刑囚と真実の花束』と題する懺悔の記録を書き、話題となった[20]。 1962年8月23日に宮城刑務所で死刑執行(38歳没)。 |
| 久吾さん殺害事件 (H) | 1960年3月17日 | 1955年3月10日[21] | 茨城県新治郡八郷町下林、山林ブローカー、第一審判決時点で44歳[21]。 事業不振で借金を抱えたため[22]、1955年3月10日15時ごろ、八郷町根小屋の男性(当時69歳)を同町の竜神山へ連れ出し、男性の持山全部を200万円で買う話を進め、契約書を無理に書かせた上、隙を狙って男性のナタで男性を撲殺、死体を現場から約5メートル離れた山林中に埋め、杉、松、檜の立木800石(150万円相当)を盗伐した[21]。その後、犯行をくらますため、男性宅に侵入して洋服など身の回り品を持ち出して死体とともに埋め、家出したように偽装したが、事件発生から約1年後の1956年7月10日に逮捕された[21]。 殺人、死体遺棄、山林窃盗の罪に問われ、1957年8月8日に水戸地裁土浦支部(坂井裁判長)で死刑判決を言い渡された[21]。量刑不当を理由に控訴したが、1959年3月13日に東京高裁刑事第1部で控訴棄却の判決を言い渡された[22]。 1963年2月5日に死刑執行(48歳没)。 |
| 盛岡一家3人殺害事件 (K) | 1960年3月24日 | 1958年4月18日 | 死刑執行日は不明。 |
| 江戸川船頭一家4人殺傷事件 (M) | 1960年3月31日 | 1958年11月9日 | 上告せず確定。死刑執行日は不明。 |
| 豊明町の母娘殺し (K)[23] | 1960年3月31日 | 1958年7月7-8日 | 愛知県刈谷市刈谷末町[24]、もしくは愛知郡豊明町前後五軒家(現:豊明市前後町五軒家)在住[25]。元刈谷市役所運転手、第一審・控訴審判決時点で35歳[24][26]、上告審判決時点で37歳[25]。 名古屋市港区の元港陽園の特飲店に勤めていた愛人に貢ぐ金に困っていたところ、知人である豊明町前後の女性A(当時58歳)が小金を貯めていることを知って犯行を計画した[24]。1957年10月ごろからAから金を奪う機会を狙い、1958年7月7日20時ごろ、Aを呼び出して刈谷市役所の乗用車に乗せ、刈谷市の恩田川堤防で絞殺、現金230円を奪って死体を刈谷市西境町の境川堤防に埋めた[23]。その後、A宅にいたAの次女B(当時18歳、名古屋女子短期大学1年生)を「お母さんが交通事故で入院したから預金通帳やお金を持って一緒に来てくれ」と騙して同市刈谷の亀城公園へ連れ出し、乱暴した上で絞殺[23]、現金13000円と預金通帳などを奪い、死体を市内の逢妻川堤防に埋めた[24]。 強盗殺人、婦女暴行、死体遺棄の罪に問われ、1959年2月7日に名古屋地裁(赤間裁判長)で死刑判決を言い渡された[23][24]。Kは量刑不当を理由に控訴したが、同年5月18日に名古屋高裁(滝川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[27][26]。上告したが、最高裁第一小法廷(高木裁判長)で1960年3月31日に上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[28][25]。Kは死刑は違憲だと主張したが、最高裁は絞首刑は違憲ではないと判断した[28]。1963年2月19日に名古屋拘置所で死刑執行(40歳没)。 |
| 呉市の雑貨商夫婦殺し (K)[29] | 1960年4月8日 | 1956年7月7日[30] | 広島県呉市宮原通り12丁目在住、無職[30]ないしクリーニング手伝い[31]。宮崎県生まれ[29]。第一審判決時点で26歳[30]、控訴審判決時点で27歳[31]、上告審判決時点で29歳[29]。 X・Yの少年2人(Xは第一審判決時点で18歳、Yは19歳)と共謀し[30]、1956年7月7日23時30分ごろ[31]、呉市清水通三丁目の食品販売業者男性(当時57歳)宅に侵入、男性と妻(当時57歳)の2人を短刀で刺殺し、現金16000円余りを強奪した[30]。男性の殺害は少年1人が、妻の殺害はK自身がそれぞれ行った[31]。 強盗殺人、窃盗罪に問われ[29]、第一審でKは死刑、Xは無期懲役(少年法による最高刑)、Yは懲役5年以上10年以下の不定期刑をそれぞれ求刑された[30]。1957年5月14日、広島地裁呉支部(藤井裁判長)はKに求刑通り死刑、Xにも求刑通り無期懲役、Yは懲役5年以上8年以下とする判決を言い渡した[30]。広島地裁呉支部における死刑判決言い渡しは戦後3人目だった[30]。少年2人はいずれも第一審で無期懲役が確定[29]。Kは控訴したが、1958年10月2日に広島高裁(村木裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[31]。同判決を不服として上告したが、1960年4月8日に最高裁第二小法廷(小谷裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[29]。 1962年2月23日に広島拘置所で死刑執行。 |
| 郁恵ちゃん殺し (K)[32] | 1960年6月9日[33] | 1957年12月17日[34] | 犯行時19歳の少年死刑囚[35]。福岡県田川市東区楠、左官見習い[34]。 1957年12月17日朝、田川市東区の三井鉱山労務係員の長女である女児A(当時11歳:市立伊田小学校6年生)を「お母さんが急病だから」と言って連れ出し、Aを市内の山林の木に縛り付け、近所の子供を使ってA宅に身代金3万円を要求する脅迫状を出したが、それを読んだAの母親が家から出てきたのを警察に届け出るものと思い込み、山林でAの首を両手で絞めて殺害した[35]。 殺人、営利誘拐、脅迫未遂の罪に問われ[35]、1959年6月30日に福岡地裁飯塚支部(桜木裁判長)で死刑判決を言い渡された[34]。控訴したが、同年10月6日に福岡高裁(谷本裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[35]。上告したが、1960年6月9日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[32]。 1962年2月21日に死刑執行(23歳没)。 |
| 日光中宮祠事件 (P) | 1960年6月10日 | 1946年5月4日 | 朝鮮人、強盗放火殺人、犠牲者6人も警察は一家心中と処理し、1955年まで真相が判明せず。1974年6月6日に宮城刑務所で死刑執行(49歳没)。 |
| 日光中宮祠事件 (C) | 1960年6月10日 | 1946年5月4日 | 朝鮮人、上記共犯。1974年6月6日に宮城刑務所で死刑執行(49歳没)。 |
| 京都・大映部長一家4人殺害事件[36] (K) | 1960年6月21日 | 1957年12月6日 | 1962年に死刑執行(26歳or27歳没)。 |
| 別府銀行員強盗殺人事件 (二宮邦彦) | 1960年6月28日 | 1956年9月5日 | 事件当時32歳。共犯は事件当時23歳。大分県別府市で銀行員の男性(当時34歳)を包丁で刺殺した後現金約4万7000円小切手3枚(額面15万8,299円)などを奪った。同12日に二宮が逮捕。共犯は14日、兵庫県神戸市で逮捕。共犯は無期懲役。上告棄却。1964年5月12日に獄中結婚したが1968年8月10日に離婚した。再審請求棄却。死刑執行まで13年間1500冊以上点訳書を完成させた。1973年5月11日に死刑執行(49歳没)。 |
| 宮城自動車販売店外交員殺害事件 (I) | 1960年7月15日 | 1955年11月4日 | 購入したオート三輪の支払いに困り、代金の取立てに来た販売店の外交員を殺害し、手形を奪い死体を近所のりんご畑に埋めた[37]。死刑執行日は不明。 |
| ギター殺人事件[36] (I) | 1960年8月4日 | 1958年10月30日 | 1963年2月14日に死刑執行(39歳没)。 |
| 八本松の運転手殺し (T)[38] | 1960年8月4日 | 1957年1月29日 | 1936年生まれ、上告審判決時点で24歳[38]。 金欲しさから銀行強盗を計画し、そのために使う自動車を手に入れるため、1957年1月29日9時ごろに広島県広島市内で小型タクシーを呼び止め、同日10時30分ごろ、賀茂郡八本松町(現:東広島市)の新国道上で運転手の男性(当時27歳)を射殺してタクシーを奪った[38]。また1961年4月3日に拘置所から脱獄し18時間後に拘束される事件も起こした[39]。 強盗殺人罪に問われ、1958年9月1日に広島地裁で死刑判決を言い渡された[38]。殺意を否認して控訴したが、1960年1月19日に広島高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[38]。同判決を不服として上告したが、8月4日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[38]。 1962年2月23日に広島拘置所で死刑執行。 |
| ブローカー連続殺人事件 (Y) | 1960年8月30日 | 1952年4月10日・ 1952年7月11日・ 1954年3月14日 | 1906年8月23日生まれ。山口県宇部市東区中通1丁目、坑木ブローカー[40]。第一審判決時点で48歳[40]、控訴審判決時点で52歳[41]。殺人前科(無期懲役、講和恩赦で懲役20年に減刑)。 1952年4月10日、下記Yと共謀して宇部市在住の知人男性2人(当時35歳、23歳)の2人に「麻薬取引でもうけさせてあげる」と持ちかけ、愛媛県八幡浜市と大分県別府市の定期船「あかつき丸」に乗船させ、睡眠薬を飲ませて昏睡させ、毛布で簀巻きにしてから甲板から海中に投げ込んで殺害、2人の所持金30万円を奪った[41]。同年7月11日には山林売買を種に同市の男性(当時25歳)[41]を上宇部開の山林に連れ込み、Yの合図でNが背後から男性の左頭部を棒で強打、Yが紐で首を絞めて自動車運転免許証、印鑑を強奪、廃坑に突き落として殺害し[42]、男性のトラック1台(時価35万円)を強奪した[41]。1954年3月13日、麻薬をタネに同市の女性(当時43歳)を[41]大分県下毛郡耶馬渓に連れ込んで絞殺、女性の現金47万円を奪った[42]。 2人は「宇部の殺人鬼」として強盗殺人罪に問われ、1955年10月10日に山口地裁(永江裁判長)で死刑判決を言い渡された[42]。2人とも控訴したが、1959年4月3日に広島高裁(渡辺裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[41]。 1969年11月に広島拘置所で病死(63歳没)。 |
| ブローカー連続殺人事件 (N) | 1960年8月30日 | 1952年4月10日・ 1952年7月11日・ 1954年3月14日 | 1928年10月24日生まれ。山口県宇部市野中、土建業[40]。第一審判決時点で26歳[40]、控訴審判決時点で30歳[41]。上記Yの共犯で、裁判経緯は同一。1970年10月30日に広島拘置所で死刑執行(42歳没)。 |
| 運送店の内妻殺し (W)[43] | 1960年9月7日[43] | 1959年12月28日[44] | 本籍地は北海道虻田郡倶知安町[44]。第一審判決時点で24歳[44]。 1959年12月20日まで北海道札幌市南4東4(現:札幌市中央区南四条東4丁目)の運送業男性(第一審判決時点で50歳)宅に運転助手として勤めていたが、同月28日10時ごろ、男X(第一審判決時点で24歳)とともに「大事な書類を忘れた」として店の事務所を訪れ、留守番をしていた男性の内妻(当時37歳)にあいくちを突きつけ、地下室におびき寄せて金を出すよう脅した[44]。しかし断られたため、首や太ももなどを突き刺して殺害、衣類12点と現金240円を奪って逃走した[44]。XはWに同行して被害者を脅したほか、Xの2歳年上の兄Y(第一審判決時点で26歳)も凶器の匕首を貸したとして強盗致死罪、同幇助罪に問われた[44]。 Wは強盗致死罪に問われ、札幌地裁(鈴木裁判長)は1960年8月10日にWを死刑、Xを無期懲役、Yを懲役5年(いずれも求刑通り)とする判決を言い渡した[44]。3人とも判決を不服として控訴したが、WとXは同年9月7日付で自ら控訴を取り下げ、Wは死刑、Xは無期懲役が確定した[43]。 死刑執行日は不明。 |
| 小松種畜場女店員殺し (H)[45] | 1960年9月22日[46] | 1952年11月13日[47] | 石川県小松市符津町在住、元警視庁巡査[46]。第一審判決時点で26歳[48]、上告審判決時点で32歳[46][49]。 事件前の1951年11月、約3年余り勤めた警視庁を退職して以来、事件当時まで父親の退職金で遊び暮らしていた[50]。1952年11月13日20時40分ごろ[50]、小松市串町21の県種畜場牧草地で[45]、帰宅途中だった同市串茶屋町のデパート店員女性(当時20歳)[50]を引き倒し、首を絞めていたずらした上[47]、失神していた女性の胸を土足で踏みつけて殺害した[50]。被害者の下腹部に噛まれた痕があり、また財布の中身が盗まれていたため、異色の猟奇殺人事件として注目され、事件から14日目にH(当時24歳)が小松市警察と国警石川県本部の捜査本部に逮捕された[46]。 Hは同年12月20日[51]、Aに対する強盗強姦、強盗殺人のほか、別の女性2人に対する強姦致傷および傷害の罪状[注 3]でも起訴された[48]。一方、Hは金沢地裁で開かれた第一審の初公判以来、捜査段階における事業を翻して無罪を主張した[46]。金沢地裁(小山裁判長)は39回の公判の末、起訴から2年4か月後の1955年4月5日、Aに対しては強姦致傷と殺人の罪が成立するとして有罪と判断したが、強盗については証拠不十分で無罪、またその他の余罪についても証拠不十分で無罪と判断した[51]。その上で、Hを殺人などの罪で死刑とする判決を言い渡した[51][48]。金沢地裁で言い渡された死刑判決は、H以前に7件の記録が残っている[注 4][51]。 Hは控訴し[48]、控訴審では1955年7月16日の初公判以来、判決公判までに7回の公判が開かれた[50]。弁護人はHの自白に任意性がないこと、血液や歯型の鑑定結果が鑑定によってそれぞれ異なることなどを主張したが、名古屋高裁金沢支部(沢田裁判長)は1957年12月26日、Hの控訴を棄却する判決を言い渡した[50][47]。Hは量刑不当を理由に上告したが、1960年9月22日に最高裁第一小法廷(下飯坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[46][49]。 1962年11月9日に名古屋拘置所で死刑執行(34歳没)。 |
| 富士宮農協強盗殺人事件 (K) | 1960年10月13日 | 1958年8月22日 | 1958年8月、実弟と仲間の少年と農協組合支所に買い物客を装いはいり、所員のYさんを惨殺し現金4千5百円と腕時計を奪った。実弟は懲役15年が確定[52]。1967年10月27日に宮城刑務所で死刑執行[53]。 |
| 松山事件(齋藤幸夫) | 1960年11月1日 | 1955年10月18日 | 強盗放火殺人事件であるが、再審で捜査当局によって証拠の捏造と自白の強要が証明され冤罪として無罪になったのは、1984年7月11日であった。 |
| 富田林姉弟殺害事件 (K) | 1960年11月5日 | 1959年9月21日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
| 江戸川愛人の叔母強盗殺人事件 (K) | 1960年11月8日 | 1958年12月24日 | 死刑執行日は不明。 |
| 伊東老夫婦強盗殺人事件 (T) | 1960年12月2日 | 1958年5月4日 | 共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
| 水戸クリーニング店一家3人殺害事件 (H) | 1960年12月9日 | 1957年7月5日 | 死刑執行日は不明。 |
| 柏老夫婦強盗殺傷事件 (P) | 1960年12月15日 | 1959年2月16日 | 共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
| 島田事件(赤堀政夫) | 1960年12月15日 | 1954年3月10日 | 女子児童誘拐殺人事件であるが、自白調書作成と証拠鑑定[注 5]で問題が数多くあったことが再審で判明、1989年1月31日に無罪判決。静岡県警察警部であった「拷問王」紅林麻雄による冤罪犠牲者[注 6]のひとりとされている。 |
| 熊本饅頭屋夫妻殺人事件 (M) | 1960年12月16日[54] | 1956年1月12日 | 上告審で被告人側弁護人が「死刑が相当」と「求刑」したのが問題に。1962年12月21日に死刑執行[54](27歳没)。 |
| 大牟田のアパート白昼強盗殺人事件 (N)[55] | 1960年12月20日 | 1959年2月26日[55] | 第一審判決時点で21歳、福岡県福岡市箱崎阿多田町在住[注 7][55]。 小遣い銭欲しさから1959年2月26日14時30分ごろ、福岡県大牟田市大正町4丁目の県営アパートの一室に住人である男性の知人を装って押し入り、留守番をしていた男性の母親A(当時59歳)の頭を樫棒で殴った上で出刃包丁で腹を突き刺し[57]、翌日に死亡させた[55]。さらに男性の娘であり、Aの孫である女児B(当時生後10か月)に布団を被せて窒息死させ、現金2万円など[注 8]を奪った[55]。 強盗殺人罪に問われ、1959年10月23日に福岡地裁久留米支部(柳原裁判長)で死刑判決を言い渡された[55]。死刑制度の違憲性、殺意の不存在、量刑不当を理由に福岡高裁へ控訴したが、1960年4月1日に福岡高裁(池田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[56]。上告したが、同年12月20日に最高裁第三小法廷(河村又介裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[57]。 1965年2月25日に死刑執行(27歳没)。 |
| 吉良の醸造業夫婦殺し (H) | 1960年12月23日 | 1958年2月15日[58] | 愛知県幡豆郡吉良町宮崎西ノ前(現:西尾市吉良町宮崎)在住[59]。 1958年2月15日夜、愛人との結婚資金を工面するため近くの吉良町白浜新田、味噌醤油醸造業「大岡屋」へ侵入し、奥8畳の間で寝ていた男性(当時57歳)とその妻(同38歳)を鉞で滅多打ちにして殺害し、現金1000円と背広などを奪った[58]。現場は三河湾に面した家で、江戸時代から代々味噌・醤油を醸造しており、被害者男性の祖父の代には愛知県下でも屈指の富豪だったという[60]。被害者夫婦の妻は戦前からこの家に女中として勤めており、事件の約3年前に夫の後妻になっていたが、Hは被害者夫婦のうち、結婚前の妻と親しくしていた[61]。事件発生翌日の2月16日夜、Hは宝飯郡形原町(現:蒲郡市形原町)の形原温泉で逮捕された[61]。 強盗殺人罪に問われ、1959年3月26日に名古屋地裁岡崎支部(永田裁判長)で死刑判決を言い渡された[58]。 控訴審では自首したことなどを主張したが、同年11月19日に名古屋高裁(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[59]。 1960年12月23日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[62]。1963年2月19日に名古屋拘置所で死刑執行(31歳没)。 |
1961年
1961年(昭和36年)に死刑判決が確定した死刑確定者は22人である[1]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 和歌山のダイナマイト殺人事件 (H) | 1961年2月2日 | 1954年1月15日[63] | 和歌山県西牟婁郡すさみ町大都河[注 9]の元山林ブローカー、第一審判決時点で61歳[66]、上告審判決時点で63歳[64]。 1953年3月ごろからすさみ町の飲食店女給A(事件当時26歳)となじみになり、Aを後妻に迎えようとしていたが、Aが製材工の男性B(当時39歳)と結婚したことを恨み[64]、1954年1月15日3時30分ごろ[67]、すさみ町周参見の民家でダイナマイトを用いて2人を爆殺した[66]。犯行時、Hは現場近くの線路を通る夜行列車の轟音を利用して被害者宅に侵入し、同衾していた2人の膝付近にダイナマイト入りビール瓶を置き、導火線にマッチで点火して爆発させ、2人を殺害した[67]。事件後に全国指名手配を受け、1958年12月6日に宮崎県で逮捕された[66]。 殺人、爆発物取締罰則違反の罪に問われ、1959年5月8日に和歌山地裁田辺支部で死刑判決を言い渡された[66]。同地裁支部で死刑判決を言い渡された被告人は前年以来、戦後7人目である[67]。判決を不服として控訴したが、大阪高裁で1960年4月22日に控訴棄却の判決を言い渡された[68][65]。判決を不服として上告し、上告審では60歳超の高齢者に死刑を科すことは「残虐な刑罰」に当たり、違憲であると主張したが、1961年2月2日に最高裁第一小法廷(高木裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[69][64]。 死刑執行日は不明。 |
| 三鷹タクシー運転手強盗殺人事件 (O) | 1961年2月21日 | 1958年3月26日 | 1967年10月26日に東京拘置所で死刑執行(32歳没)。 |
| ”白昼の通り魔”事件 (K)[70][71][72] | 1961年3月2日[73] | 1957年12月17日[72][71] | 1922年(大正11年)9月5日生まれ[74]。山口県厚狭郡山陽町(現:山陽小野田市)生まれ、前科4犯[27]。 1954年3月から5月に強盗など4件の犯罪を犯した後、同年6月に京都地裁で強盗罪などに問われ、懲役3年6月の判決を言い渡されて服役したが、これら4件は当時は立件されなかった[70]。出所後の1957年10月から1958年1月にかけ、山口、広島、岡山、兵庫、京都、三重、愛知、千葉など11府県で31件の強盗殺人、強盗致傷、婦女暴行などの罪を犯した[70]。特に1957年12月17日には兵庫県西宮市今津浦風町の民家に押し入り、主人の妻(当時23歳)と女中(同16歳)の2人を出刃包丁で刺殺、現金27000円と衣類を奪って逃走した[72]。警察庁の特別重要犯人全国指名手配の対象となり、1958年1月[72]、三重県警桑名署に逮捕された[27]。 起訴された罪名は10におよび[72]、1959年5月18日、神戸地裁(山崎裁判長)は被告人Kに対し、確定判決前の強盗など4件について懲役8年、確定判決後の強盗殺人など31件について死刑とする判決を言い渡した[70]。 控訴したが、1960年3月16日に大阪高裁(小川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[71]。1961年3月2日、最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[72]。 死刑執行日は不明。 |
| 滝野川左官屋夫婦殺害事件 (N) | 1961年3月24日[75] | 1958年8月4日 | 1934年(昭和9年)4月14日生まれ[73]。 1958年(昭和33年)12月17日に東京地裁刑事第12部で死刑判決を受け[73]、1960年3月22日に東京高裁第4刑事部で控訴棄却の判決を受けた[73]。1961年3月24日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[75]。 死刑執行日は不明。 |
| 下関の養父母殺し (0)[76] | 1961年3月30日 | 1955年6月1日・ 1956年2月7日・ 1958年1月11日 | 山口県下関市生まれ、元自動車運転手[76]。上告審判決時点で33歳[76]。 1955年6月、下関市で養父母夫婦(夫66歳、妻73歳)を毒殺し[77]、130万円を持って逃走した[76]。1956年2月、警察の追及を免れるために東京で知り合った北海道生まれの男性(当時22歳)を岡山県倉敷市に連れ出して毒殺し、死体をガソリンで燃やし、彼になりすました[76]。しかし1957年末、窃盗容疑で警視庁から取り調べを受けたことから身元の発覚を恐れ、1958年1月には東京都墨田区の人夫(当時29歳)を絞殺、死体をバラバラにして茨城県水戸市の千波湖畔に捨てた[76]。同年7月15日に逮捕され[78]、警察庁の凶悪犯全国公開捜査による逮捕者第1号となった[76]。 殺人、死体損壊、死体遺棄の罪に問われ、1959年12月23日に水戸地裁(小倉裁判長)から死刑判決を言い渡された[78]。Oは控訴したが、控訴審で弁護人の安富東一は「控訴の理由なし」「死刑もやむを得ない」とする控訴趣意書を提出したため、弁護士のあり方をめぐる議論の引き金になった[76]。1960年6月13日、東京高裁(尾後貫裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[79]。同判決を不服として上告したが、1961年3月30日に最高裁第一小法廷(高木裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[77]。 死刑確定後は東京拘置所に収監されていたが、安富から弁護を受けられないまま死刑判決を受け、精神的苦痛を受けたとして安富に100万円の支払いを求める損害賠償請求訴訟を起こし、東京地裁民事第30部(中村治朗裁判長)は1963年11月28日、被告である安富の行為は弁護人としての義務を怠ったもので不法行為に当たると認定、原告であるOに3万円を払うよう命じる判決を言い渡した。この裁判は日本の裁判史上初めて、弁護放棄を理由とした損害賠償請求訴訟として注目された[80]。1965年3月2日に宮城刑務所で死刑執行(37歳没)。 |
| 高岡市の質屋の女主人殺し (I)[81] | 1961年6月6日[82] | 1960年3月14日[83] | 1937年(昭和12年)5月5日生まれ[84]。強盗殺人事件を起こした当時は22歳、第一審判決時点で23歳[85]。 1960年3月14日11時ごろ、富山県高岡市定塚町城道で、質屋の女性経営者(当時50歳)をネッカチーフで絞殺し、現金22300円と質草の背広上着、女物の腕時計などを奪った[85]。また同年3月13日23時ごろ、高岡市宮脇町の加越能バス車庫から軽快自転車1台を盗み、3月14日9時ごろには富山県西砺波郡戸出町の日本通運戸出営業所からセメント100袋(35000円相当)を詐取しようとした[85]。 強盗殺人・窃盗・詐欺未遂の罪に問われ[82]、1960年6月29日に富山地裁高岡支部(水島裁判長)で死刑判決を宣告された[85]。同地裁では史上初の死刑判決である[85]。控訴したが、同年11月10日に名古屋高裁金沢支部(山田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[86]。上告したが、1961年6月6日に最高裁第三小法廷(高橋裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[81][83]、死刑が確定[82]。 1967年10月23日に名古屋拘置所で死刑執行(30歳没)。 |
| 葛飾守衛強盗殺人事件 (T) | 1961年6月9日 | 1959年1月1日[87] | 1958年12月31日(大晦日)、かつて自分が収容されていた東京都葛飾区上平井町の更生施設「自誠会」に侵入し[88]、年が明けた元日の1959年1月1日3時ごろ、守衛室で仮眠していた守衛の男性(当時50歳)の首を小刀で刺して殺害し、男性のポケットや机にあった現金約2000円などを奪って逃走、帰りがけに出会った初詣帰りの同会寮生にもスパナで頭を負傷させて金を奪った[88]。 強盗殺人罪に問われ[89]、1959年5月20日、東京地裁(岸裁判長)で死刑判決を言い渡された[88]。 控訴したが、同年12月28日に東京高裁(三宅裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[87]。当時、死刑事件の被告人が犯行から1年以内に控訴審判決まで受けた事例は珍しいものとされていた[87]。 1961年6月9日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[90]。死刑執行日は不明 |
| 悦子さん殺し (K)[91] | 1961年7月11日 | 1957年11月20日 | 1927年(昭和2年)3月14日生まれ[92]。奈良県生駒郡平群村(現:平群町)生まれ[93]。 1957年11月19日19時ごろ[91]、帰宅途中の生駒郡斑鳩町小吉田の会社員の三女A(当時13歳、斑鳩町立斑鳩中学校2年生)に対し[93]、家まで送ってやると騙して自転車に乗せ[91]、北葛城郡河合村大輪田の山中に連れ込み[93]、強姦した上で絞殺し[94]、犯行を隠すため、河合村虹ケ谷の山中で遺体を焼いた[93]。 強姦、殺人、死体損壊、窃盗、傷害の罪に問われ[94]、起訴された事件は二百数件におよんだ[94]。1959年(昭和34年)6月10日に奈良地裁葛城支部(梨岡裁判長)から死刑判決を言い渡された[93]。公判ではKの犯行を裏付ける物的証拠がなく、Kは犯行を全面的に否認し、事実審理では自供の任意性や殺意の点が争点となったが、同地裁支部は検察官の主張を全面的に認め[93]、1947年から1948年にかけて犯した古い電報窃盗の罪については懲役1年、A殺害などについては死刑とする判決を言い渡した[95]。Kは事実誤認と量刑不当を理由に控訴したが[94]、1960年5月16日に大阪高裁第5刑事部(小田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[96][94]。1961年7月11日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[91]。 1962年9月15日に大阪拘置所で死刑執行(35歳没)。 |
| 瑞穂区の老夫婦殺し[注 10] (I) | 1961年7月19日 | 1956年2月29日[98] | 愛知県名古屋市千種区覚王山通在住、工員[99]。第一審判決時点で21歳[97]、上告審判決時点で26歳[98][99]。 1956年2月29日22時ごろ[100]、下記Iと共謀してかつて自身が勤めていた名古屋市瑞穂区瑞穂通一丁目の野々山浴槽会社桜山支店に押し入り[98][99]、留守番していた男性(当時63歳)と妻(当時58歳)をハンマーで撲殺[101]、銅板約150 kgを奪った[99]。 同年4月12日の初公判以来、こちらのIは「下記Iが計画し、2人で手を下した」と主張した一方、下記Iは銅板を盗むため侵入したが、自身に殺意はなく、殺害はこちらのIの単独犯であると供述した[100]。同年11月15日の論告求刑公判で、検察官は2被告人の共謀の上、計画的に行われた犯行として2被告人に死刑を求刑した[97]。名古屋地裁(滝川裁判長)は同年12月11日、当初は盗みに入る計画だったところ、こちらのIが妻を殴っているうちに殺意が生じ、下記Iもやむを得ず同調した結果、2人を殺害したとして、こちらのIを無期懲役、下記Iを懲役15年とする第一審判決を言い渡した[97]。判決理由で同地裁は両者の供述のどちらが真実であるかは不明だが、こちらのIが殺害の実行行為を担ったことは間違いなく、また下記IもこちらのIを誘って残虐な事件を引き起こした点では責任があるとした[100]。名古屋地検が判決を不服として控訴したところ[100]、1957年7月8日に名古屋高裁(高橋裁判長)は原判決を破棄し、2被告人をいずれも死刑とする判決を言い渡した[100][101]。同高裁は、原判決の量刑を軽きに失すると批判した[100]。2被告人とも上告し、上告審で死刑執行の方法を絞首刑と定めた太政官布告第65号(明治6年2月公布)は日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律によって既に失効しているため、現行法では死刑執行の方法に具体的な定めがなく、また仮に太政官布告が有効だとしても実際の絞首刑は太政官布告で規定された地上式ではなく、地下で首を絞める方法となっており、法に定めない方法で行われているため、憲法第31条に違反すると主張したが[98]、1961年7月19日に最高裁大法廷(横田裁判長)は太政官布告第65条について、法律と同様の効力を有し、現在も有効であるとして上告棄却の判決を言い渡したため、2人の死刑が確定した[99]。この判決は死刑制度そのもの、そして絞首刑そのものをいずれも残虐な刑罰ではないとした判決に続き、絞首刑という執行方法自体も合憲とした判決とされ、これによって死刑制度の違憲論争に終止符が打たれたと報じられた[99]。 死刑執行日は不明。 死刑確定後に再審請求したが、1965年1月14日付で最高裁第一小法廷から異議申立棄却決定に対する抗告を棄却する決定を出されている[102]。 |
| 瑞穂区の老夫婦殺し (I) | 1961年7月19日 | 1956年2月29日 | 上記Iの共犯[99]。名古屋市南区観音町在住、工員[99]。上告審判決時点で31歳[98][99]。一審は懲役15年[98]。死刑執行日は不明。 |
| 昭和郷アパート放火事件 (I) | 1961年7月31日 | 1957年10月27日 | 死者8人。 現住建造物等放火、詐欺の罪に問われ、1959年7月6日、東京地裁八王子支部で無期懲役の判決を言い渡された[103]。1960年10月26日、東京高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[103]。上告したが、1961年7月31日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[103]。戦後日本で、強盗殺人罪・殺人罪や致死罪に問われず死刑が確定した唯一の事例。 1970年に死刑執行(50歳もしくは51歳没)[注 11]。 |
| 阿久比町2人殺害事件 (K) | 1961年8月10日[106][107] | 1960年11月6日[108] | 1928年(昭和3年)3月20日生まれ[109]。愛知県名古屋市南区三進通[注 12]在住、労務者[111][112]。強盗未遂、窃盗の罪など前科6犯[109]。 1960年11月、勤務先を解雇されたことから金に困り[106]、同月4日夜、愛知県知多郡阿久比町植大の民家[112](直前まで働いていた飯場の世話人だった男性宅)に空き巣目的で侵入したが、同日23時ごろ、同家の長女(当時15歳)に発見されて怪しまれ、警察に通報されたため、床下に隠れてやり過ごした[108]。そのまま6日1時ごろまで床下に隠れていたが、家人たちが寝静まったころを見計らって金品を物色していたところ、男性の養母(64歳没)が物音で目を覚まして自身の犯行に気づいたため、首を絞めて殺害した[113]。直後、男性の三女(1歳没)が目を覚まして泣き出したため、犯行の発覚を恐れて絞殺し、タンスの中にあった中古テトロン社カッターシャツを盗んだ[114]。 強盗殺人罪に問われ[115]、1961年4月4日に名古屋地裁で開かれた公判で、検察官から死刑を求刑された[111][116]。同月22日、名古屋地裁刑事第4部[117](赤間裁判長)で死刑判決を言い渡された[111]。同判決を不服として同月28日に弁護人が、同年5月2日にK自身がそれぞれ控訴を申し立てたが、同年8月10日付でK自身が控訴取下申立書を提出した[107]。Kは控訴した当時、強盗目的ではなく男性の長女に会いに行くことが目的であり、家人を殺害するつもりはなかったと主張したが、後に「一日も早く罪の償いをしたい」との理由から控訴を取り下げたものである[106]。しかし同年9月末[106]、弁護人の鷲見弘は、Kは極度に異常な精神錯乱もしくはそれに近い精神状態で控訴を取り下げたため、取り下げは無効であるとして控訴取下無効申立書を提出した[107]。11月にはK自身も、取り下げは異常に混乱した精神状態の下で行われたため、無効であるとの申し出を行い、さらに1963年4月までには再び控訴を取り下げた上、その取り下げの取り消しを求めていた[106]。同年5月には名古屋大学医学部教授・村松常雄によるKの精神鑑定が行われ、言動からは全く正常な精神状態とは推定できないが、心神耗弱状態とも認め難いとする鑑定書が提出されており、また二度目の控訴取り下げ無効の申立後には弁護人が、刑事訴訟法では死刑や無期懲役の上訴権放棄が禁じられているとして、その立法趣旨に則ってKの精神鑑定を再度実施するよう申請したが、名古屋高裁第4部は同年10月10日、この申請を却下した[106]。名古屋高裁第4部(小林登一裁判長[107])は同月31日の判決公判で[106]、Kが控訴取り下げ前の控訴審公判で原判決に不服はなく、死刑を受け入れる旨を表明していたことなどから、控訴取り下げは有効であると判断、訴訟はこの取り下げによって終了しているとする判決を宣告した[107]。同判決の類例としては恩赦を期待して控訴を取り下げたものの、恩赦を受けられなかったことから控訴取り下げの無効を訴えた公職選挙法違反事件の被告人に対し、福岡高裁が1959年4月24日、控訴取り下げをもって控訴審は終了しているとする決定を出した事例があったが、このような訴訟手続の問題で裁判所が口頭弁論を開いた上で、「判決」として結論を下したことは異例とされている[106]。鷲見は同判決を不服として上告したが、最高裁第二小法廷(奥野裁判長)は1964年9月25日、死刑または無期懲役事件について上訴権放棄を禁じている刑事訴訟法の規定は、控訴取り下げには当てはまらないと判断[110]、そのためKの控訴取り下げは有効であり、その取り下げをもって第一審判決は直ちに確定したというべきであるとして、鷲見の上告を棄却する判決を言い渡した[118]。 1967年10月23日に名古屋拘置所で死刑執行(39歳没)。 |
| 小松川事件(李珍宇)[119][120] | 1961年8月17日 | 1958年4月20日 1958年8月17日 | 犯行時18歳の少年死刑囚[121]。戦後日本で犯行時に少年だった死刑囚としては20人目[119]。 朝鮮人で、事件当時は都立小松川高校の定時制1年生だった[122]。 1958年4月20日、東京都江戸川区鹿骨町の水田で、日産化学工業内鴻池運輸の賄婦を殺害した[122]。また同年8月17日夕方、小松川高校屋上で同校定時制2年の女子生徒(当時16歳)を絞殺、乱暴した[121]。 同年9月1日、女子生徒殺害事件の犯人として逮捕されたが、逮捕前に新聞社に電話を掛けたり、警察に被害者の遺品を送りつけたりするなどの異常な振る舞いで世間を騒がした[121]。その後、賄い婦殺しについても女子生徒殺害事件の取調べ中に自供したため、2件の婦女暴行致死罪と殺人罪で起訴された[122]。 少年犯罪であったため、いったん家庭裁判所へ送致されたが、犯行の悪質性から逆送致され、東京地裁で公判にかけられた[122]。1959年2月27日、東京地裁(関谷六郎裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[122]。 弁護側は婦女暴行の事実はなく、犯行動機に関する判決理由にも不服な点があるとして控訴したが、東京高裁(三宅裁判長)は同年12月28日、原判決に事実誤認はないとして控訴棄却の判決を言い渡した[87]。同判決に対し、李本人は「犯した罪の重さを考えると死刑も当然だ。早く罪の償いをしたい」と述べ、上告しない意向を弁護人の朴や教誨師に伝えたが、李の両親が上告期限日の夜、締め切り時間直前に自由法曹団の弁護士・大塚一男を通じて上告手続きを取った[123]。 1961年8月17日に最高裁第一小法廷(飯坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[121]。 死刑確定後の1961年8月には恩赦を申請したが、同月30日には身柄を東京拘置所から宮城刑務所へ移送され、恩赦申請も1962年11月初めに却下された[119]。同月16日に宮城刑務所で死刑執行(22歳没)[119][120][124]。死刑執行時は乱れた様子はなく、落ち着いた態度だったという[124]。なお、裁判中には拘置所でキリスト教に入信しており、聖書を読み耽る毎日を送っていた一方、東京都立大学教授の旗田巍、作家の大岡昇平らが中心となり、助命運動の会を結成していた[124]。 |
| 佐久島の真珠技師殺し (Y) | 1961年8月17日 | 1958年11月16日[125] | 愛知県幡豆郡一色町佐久島(現:西尾市一色町佐久島)生まれ[125]。 1958年11月16日夜、佐久島漁協組合事務所へ押し入り、出張で三重県志摩郡大王町(現:志摩市大王町)から来ていた天光真珠造殖所現場主任の男性(当時26歳)を鉄製のモンキーレンチで殴り、タオルで絞め殺して腕時計1個を奪ったほか、漁協の金庫を開けるため隣家にいた金庫番の男性宅へ出刃包丁を持って押し入ったが、騒がれたため逃げた[125]。同月30日、静岡県磐田市大立野で民家に侵入し、家主の妻(当時44歳)を脅し[125]、ビニールバンドで縛った上[126]、布団や自転車などを奪った[125]。 強盗殺人罪に問われ、死刑を求刑されたが、名古屋地裁岡崎支部(永田裁判長)は1959年8月6日、無期懲役の判決を言い渡した[126]。同判決は被害者に対する殺意を認めなかった[125]。 検察官が控訴したところ、名古屋高裁(小林裁判長)は1960年10月4日に原判決を破棄自判し、Yを死刑とする判決を言い渡した[125]。同高裁は、Yが就寝中の被害者をいきなりモンキーで9回連続して急所を殴打した上、とどめを刺すためにタオルで首を絞めた事実から、殺意を認めなかった原判決には事実誤認があると認定した上、Yが未遂も含めると続けて3度の強盗事件を起こした点から[125]、凶悪かつ計画的な犯行であり、動機にも同情されるような点は認められないと判断した[121]。当時、第一審の懲役刑が二審で死刑となる事例は極めて少ないとされていた[125]。 Yは上告したが、1961年8月17日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[121]。 1967年10月25日に名古屋拘置所で死刑執行(33歳没)。 |
| 相模原市肉屋夫婦殺し事件 (M)[127] | 1961年9月8日 | 1958年9月1日 | 神奈川県津久井郡津久井町根小屋在住、上告審判決時点で24歳[127]。 店の主人である肉販売業者の男性(当時55歳)夫婦を日ごろから口うるさいと感じ、恨みを持っていたことから、2歳年下の店員仲間の男S(無期懲役が確定)と共謀し[127]、夫婦を襲うことを計画した[128]。1958年9月1日1時ごろ、夫婦の家である相模原市橋本の民家に侵入[128]、台所にあったナタと鉄棒で男性と妻(当時57歳)を撲殺、3400円を奪った。 2人とも強盗殺人罪に問われ、横浜地裁で開かれた第一審の公判でいずれも死刑を求刑されたが、Mは公判中に護送を担当していた看守の目を盗み、Sに「死人に口なし」と書いたメモを渡していた。1959年11月30日の判決公判で、横浜地裁(松本裁判長)はMを求刑通り死刑、Sを無期懲役とする判決を言い渡した[129]。同地裁で同年に死刑判決を言い渡された被告人は4人目で、同地裁は2人とも幼少期から両親の離別などで家庭環境に恵まれず、また感受性の強い少年期から豚の屠殺・解体など未成年には悪影響の多い業務を命じられたことは同情の余地があると指摘したが、金品を奪う目的で犯行を計画した点、就寝中の夫婦を惨殺した残忍性、Mの無反省な態度などから情状酌量の余地はないと断じた。ただしSは犯行時少年で罪を悔いている点、またMに従属的だった点を認め、死刑を回避した[129]。2人は事実誤認などを理由に控訴したが、1960年8月24日に東京高裁刑事第5部(山田裁判長)でいずれも控訴棄却の判決を言い渡された[128]。Mは上告したが、1961年9月8日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[127]。 死刑執行日は不明。 |
| 相模湖町の若妻殺し事件 (O)[130] | 1961年9月14日 | 1958年7月28日 | 神奈川県小田原市在住、上告審判決時点で24歳[131]。事件前の1954年には指揮権発動に憤慨し、当時の首相・吉田茂が住んでいた首相公邸に侵入、殺人予備罪で少年院に送致されている[130]。 1958年7月28日14時30分ごろ[130]、神奈川県津久井郡相模湖町与瀬の国鉄職員男性宅に押し入り、留守番していた妻(当時22歳)を乱暴しようとしたが、騒がれたため絞殺、現金2500円を奪った[131]。 1959年9月7日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を言い渡された[130]。判決では当初から殺人を含めて計画していた点、命乞いする被害者を強姦しようとした末にタオルで絞殺し、下腹部を傷つけた上に死体をバラバラにしようとした残忍性などが重視された[130]。弁護人は無罪を主張しており、判決後に控訴したが[130]、1960年6月16日に東京高裁刑事第10部(井上裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[132]。O側は量刑不当を理由に上告したが、1961年9月14日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[131]。 死刑執行日は不明。 |
| 尼崎の金貸し夫婦殺し (K)[133] | 1961年10月13日 | 1958年2月23日[133] | 兵庫県尼崎市竹谷町一丁目在住、第一審判決時点で25歳[133]、上告審判決時点で28歳[134]。 1958年2月23日夕方、工員の男S(第一審判決時点で23歳)と共謀し、かねて土地売買の取引をしたことがあった尼崎市東大島春日の金融土地売買業男性(65歳)宅に押し入り、革バンドで男性の首を絞め、石で殴り殺した上、直後に帰宅した男性の内妻(同37歳)もマフラーで絞殺した[133]。そして夫婦の死体を家の6畳間の床下に隠し、現金27000円と腕時計を奪って逃げた[133]。またKは事件が発覚した同年3月30日までの間、複数回にわたって現金28000円、株券、衣類、テレビなど(計時価329000円)を盗んだ[133]。犯行動機は競馬、競輪に凝り、金に困ったことである[135]。 KとSは強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、死刑を求刑されたが、神戸地裁は1959年11月20日にKを死刑、Sを無期懲役とする判決を言い渡した[135][133]。死刑を不服としたKと、Sの無期懲役を不服とした検察官がそれぞれ控訴したが、大阪高裁(奥戸裁判長)は1960年12月24日、原判決の認定通りKを主犯と認定し、Kを死刑、Sを無期懲役とする判決を言い渡した[136]。Kは上告したが、1961年10月13日に最高裁第二小法廷(藤田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[134]。 死刑執行日は不明。 |
| 立川宿直員強盗殺人事件 (S) | 1961年10月31日 | 1959年5月11日 | 死刑執行日は不明。 |
1962年
1962年(昭和37年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[1]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 横浜のダルマ船長父子殺し (M) | 1962年2月16日 | 1959年2月8日 | 中国国籍で、神奈川県横浜市中区寿町在住[137]。事件当時28歳。1959年2月8日23時ごろ、同区松影町の中村川に停泊していたダルマ船を訪れ、顔見知りの船長(当時46歳)に借金を申し込んだが断られたため、出刃包丁で船長とそばに寝ていた長男(当時17歳)の2人を刺殺、現金1200円と預金通帳、トランジスタラジオなどを奪った上、船内のランプで放火して船室を焼いた[137]。 強盗殺人、放火の罪に問われ[137]、1959年8月7日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を受けた[138]。控訴したが、1961年5月18日に東京高裁(岩田裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[139]。上告したが、1962年2月16日に最高裁第二小法廷(藤田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[140]。死刑執行日は不明。 |
| 釧路の運転手殺し (T)[141] | 1962年2月20日 | 1957年11月5日 | 共犯の男2人 (X・Y) と共謀し、1957年11月5日夜、電話で北海道釧路市のハイヤーを呼び出して乗車、同市桂恋の畑の中で運転手男性(当時25歳)を登山用ナイフで刺殺、現金4000円と腕時計1個を奪った[141]。事件後、犯行現場から約3kmはなれた若草町の路上に血まみれのハイヤーが乗り捨てられているのが発見され、同日夜にハイヤー会社へTが死体の在り処を描いた地図を置いた場所を電話で知らせたことによって死体が発見された[141]。その後、Yの自首によって3人とも逮捕された。 3人とも強盗殺人罪に問われ、第一審の釧路地裁で検察官はTとXに死刑、Yに無期懲役をそれぞれ求刑したが、釧路地裁(鈴木裁判長)は1960年4月25日の判決公判で[141]、殺害の計画性を否定し、また主犯であるTも日本刀で被害者を峰打ちにしただけで直接殺害はしなかったとする弁護人の主張を取り入れ[142]、T・Xの両被告人を無期懲役、Y被告人を懲役15年とする判決を言い渡した[141]。検察官と弁護人の双方が判決を不服として控訴したところ、札幌高裁(矢部裁判長)は1961年4月20日、Tについては原判決を破棄して死刑とする一方、X・Yの両被告人については控訴を棄却する判決を言い渡した[142]。Xは控訴審で無期懲役が、Yも懲役15年が確定[143]。自身も1962年2月20日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[143]。死刑執行日は不明。 |
| 児島の幼女殺し (K)[144][145] | 1962年3月31日[145] | 1960年2月19日[146] | 岡山県児島市下之町萱刈生まれ[144]。第一審判決時点では47歳、住所不定、無職、前科14犯[144]。 1960年1月ごろから児島市内の清水山で寝起きしていたが、近隣住民たちから相手にされずひがんでおり[144]、このことへの報復を動機に犯行におよんだ[146]。 1960年2月19日正午ごろ[146]、清水山に松葉かきに来た萱刈2区の人夫(当時37歳)の長女(当時6歳)[注 13]と次女(同4歳)が「泥棒がいる」と言っていたのを聞き[144]、2人を山奥へ連れ込んでいたずらした[144]。その後、次女をナイフで刺殺し、長女も首を絞めて失神させ[146]、重傷を負わせた[144]。 殺人、同未遂、強制わいせつの罪に問われたが、岡山地裁で開かれた公判では「自分を死刑にしなければ裁判所の権威がない。無期懲役にでもなれば刑務所の気に入らない看守を殺す。もし出所できれば萱刈地区の人たちに報復する。死刑になれば控訴しない」と発言した[144]。岡山地裁(藤原裁判長)はいったん結審した後に審理を再開する異例の措置を取り、Kの実姉を証人尋問してKの生い立ちや性格を聞くなどして死刑を回避する情状があるか否かを慎重に検討したが、1962年3月16日の判決公判では残虐な犯行態様、Kに改悛の情が認められない点、社会防衛の観点などを理由に、Kを求刑通り死刑とする判決を言い渡した[144]。岡山地裁における死刑判決は1951年以来、11年ぶりだった[144]。 Kは判決後、同地裁に「死刑判決に服す」と申し立て[145]、控訴期限の同月31日0時までに控訴手続きを取らなかったため、死刑が確定した[145][146]。死刑執行日は不明。 |
| 御嵩の炭鉱主殺し (P)[147] | 1962年4月6日 | 1957年9月16日 | 岐阜県可児郡御嵩町御嵩在住[148]。自動車運転手、第一審審判決時点で25歳[147]、上告審判決時点で27歳[148]。朝鮮生まれ、通名はT[147]。 1957年7月中旬、御嵩町の男性A(当時57歳)が売り出していた木曽川炭鉱の鉱業権を共犯の男K(当時25歳)と共に購入しようとしたが、この炭鉱は採掘部分が少なく、価値がないという噂を聞いて腹を立て、Aを殺害して鉱業権を入手しょうとした[149]。同年9月16日、PがAを美濃加茂市太田町の旅館に誘い出し、400万円の偽造紙幣を見せて信用させ、車に乗せて大阪方面に連れ出した[149]。この間、炭鉱移転の関係書類をAに作らせた後、玩具の拳銃を見せつけて脅し、大阪方面に連れて行っている[147]。そして翌17日3時、大阪府大阪市東淀川区十八条町(現:淀川区十八条)の神崎川堤防で、Aを車外に引きずり出し[149]、PはAの首を背後から腕で絞め、Kも殴る、蹴るの暴行を加えてAを仮死状態にし[147]、河に投げ込んで殺害、懐中時計1個、黒革短靴1足、炭鉱譲渡契約書、移転登録書各1通、印鑑1個の入った手提げ鞄を奪った[149]。その後、Pは権利譲渡を申請して炭鉱の権利を騙し取った[148]。事件発覚当初、大阪府警察は単なる変死事件として捜査していたが、同年11月22日にKが窃盗で静岡県警察清水警察署に逮捕されてA殺害を自供、強盗殺人事件であると判明した[148]。 第一審の岐阜地裁で1959年3月17日、Pは死刑、Kは無期懲役をそれぞれ求刑されたが、同年5月17日、Pは拘置所から裁判所へ護送される途中で脱走、直後に逮捕されている[147]。岐阜地裁(石田裁判長)は1960年2月11日、Pを無期懲役、Kを懲役15年とする判決を言い渡した[147]。同地裁は犯行は凶悪かつ非情ではあるが、Pらには改悛の情が認められると判断[147]、またAが価値のない炭鉱を400万円と高値で売ろうとしたことにも落ち度があるとして酌量した[149]。検察官と両被告人がいずれも控訴したところ、名古屋高裁(小林裁判長)は1961年5月30日、炭鉱の売値は相場より安く、Aに全く落ち度はなく、また犯行も計画的・残忍で酌量の余地はないとして原判決を破棄、Pを死刑、Kを無期懲役(いずれも求刑通り)とする判決を言い渡した[149]。Kは控訴審で無期懲役が確定、1962年4月時点で服役中だった。Pは上告したが、1962年4月6日に最高裁第二小法廷(藤田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[148]。 1970年10月24日に死刑執行(36歳没)。 |
| 三川内の老夫婦殺し (K) | 1962年5月8日 | 1959年4月14日 | 熊本県下益城郡城南町生まれ、住所不定[150]。第一審判決時点で35歳[150]。 事件前は共犯の男(第一審判決時点で25歳)とともに長崎県松浦市今福町の炭鉱で働いていたが、退職してブラブラしていた。その後、金に困ったことから空き巣に入ることを思いつき、1959年4月13日に長崎県佐世保市早岐町でナイフや軍手を買い、14日2時ごろ、Sと共謀して佐世保市三川内町の雑貨商男性(当時71歳)宅に侵入した[150]。侵入時、現場近くを走る佐世保線を貨物列車が通過する音を利用した[150]。室内を物色していたところ男性が目を覚ましたため、Kが右胸をナイフで刺して殺害した。次いで、命乞いをした男性の妻(当時63歳)の首や背中も刺して殺害、現金2万円余を奪って逃走した[150]。 2人は強盗殺人罪に問われ、第一審の長崎地裁佐世保支部(立山裁判長)は1960年7月19日、Kを求刑通り死刑、Sを懲役15年(求刑:無期懲役)とする判決を言い渡した[150]。2人とも控訴したが、1961年5月30日に福岡国際(藤井裁判長)から控訴を棄却する判決を言い渡された[151]。共犯に騙されたと冤罪を主張していたが1審、2審とも死刑判決を受け1962年5月8日に上告棄却。共犯は懲役15年。 1970年9月19日に死刑執行(36歳没)[152]。 |
| 五島奈留町の老婆殺し (M)[153] | 1962年5月29日 | 1955年9月28日 | 長崎県の奈留島で渡船機関長として働いていた[154]。住居は長崎県南松浦郡奈留町(事件当時は奈留島村、現:五島市)泊郷で[153][154]、元村議[153][155]。第一審判決時点で39歳[153]、控訴審判決時点で40歳[155]。 1955年9月25日夜、奈留島村内の特飲店で従業婦[注 14]から身請けをせがまれたが、そのための金に困ったことから[155]、1955年9月28日2時ごろ、一人暮らしで金を持っていると考えた村内の女雑貨商(当時52歳)宅[注 15]に侵入し[154]、目覚めた被害者を斧で数回殴って死亡させ、現金53000円を奪った[153]。 強盗致死罪などに問われ[156]、無罪を主張していたが[153]、1957年12月25日に長崎地裁(臼杵裁判長)で死刑判決を言い渡された[153][154]。長崎地裁における死刑判決は戦後5人目と報じられている[153]。Mは判決を不服として控訴したが、1959年5月19日に福岡高裁(藤井裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[155]。同判決を不服として上告したが、1962年5月29日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[156]。 1974年1月24日に収監先の福岡刑務所(当時の死刑確定者の収監施設)で獄中死[157](52歳没)。同所に収監されていた免田栄によれば、Mは元町会議員であることからプライドが高く、看守をも軽視しており、死刑確定後は再審請求を繰り返していたが、それも棄却され続けたことで精神を病んでいったという[157]。 |
| 小千谷農家強盗殺傷事件(島秋人) | 1962年6月1日 | 1959年4月6日 | 凶悪事件の累犯であったが、農家の妻を殺害。裁判中から死刑囚の感情を読んだ短歌を歌壇に数多く発表、島はその筆名である。本名は中村覚。1967年11月2日に死刑執行(33歳没)[158]。 |
| 山口同僚強盗殺人事件 (H) | 1962年6月29日 | 1958年10月10日 | 労務者、上告審判決時点で32歳[159]。 1958年、山口県で同僚を山の中に誘い出して殺し、金を奪った[159]。 強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、1962年6月29日に最高裁第二小法廷(藤田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[159]。 死刑執行日は不明。 |
| "生き仏"連続殺人事件(I) | 1962年7月17日[160] | 1946年7月17日 1946年12月28日 1947年4月22日 | 生活に困窮した夫婦が4人を連続して殺害。被害者はすべて闇屋で、サッカリンの取引を持ちかけて現金を用意させ、自宅に誘い出し殺害するなどの手口だった。事件発覚後逃亡し11年後に逮捕。逃亡生活中の善行が評価されI夫婦は"生き仏"と呼ばれていた。一審は共に無期懲役だったが、犯行を持ちかけたのは妻であったにもかかわらず夫が逆転死刑。死刑執行日に2人は対面し、お互い感謝の言葉や謝罪の言葉を述べ別れた。1967年11月16日に死刑執行[160](67歳没)。 |
| 加計の一家三人殺し (Y)[161] | 1962年10月9日[162][161] | 1957年7月11日[163] | 広島県安佐郡可部町在住の左官[164]。第一審判決時点で25歳[164]。 1957年7月11日23時ごろ、下記Oと共謀し、かつてOが間借りしていた広島県山県郡加計町横山の農業男性(当時41歳)宅に押し入り[164]、寝ていた男性と妻(当時33歳)、母親(同72歳)の3人を棍棒で殴打し、男性と母親を殺害、妻に治療2週間の怪我を負わせた[163]。さらに男性の長女(当時7歳)も風呂敷で絞殺し[164]、現金3万円余りと背広上下1着(3000円相当)を奪った[163]。事件後、妻は神経衰弱になった末、同年10月24日[161]に山県郡豊平町の実家の納屋で首吊り自殺した[164]。 YとOは強盗殺人罪に問われ、1958年12月23日に広島地裁(小竹裁判長)でそれぞれ死刑とする判決を言い渡された[164]。2人とも控訴したが、1961年9月25日に広島高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[165]。更に上告したが、1962年10月9日に最高裁第三小法廷(石坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[161]。 死刑確定後は2人とも広島拘置所に収監されていた[166]。1963年2月、Oは再審請求したが棄却された[166]。同年10月23日、Oは自身こそが主犯であり、Yは殺害行為には加わっておらず、脅して犯行を手伝わせたとして第2次再審請求し[166]、Yも同月18日、自身は殺害行為に加担していないとして再審請求した[163]。 1971年に死刑執行。 |
| 加計の一家三人殺し (O)[161] | 1962年10月9日[162][161] | 1957年7月11日[163] | 上記Yの共犯。広島県安佐郡可部町の人夫。第一審判決時点で26歳[164]。1971年に死刑執行。 |
| 赤平母子殺害事件 (K) | 1962年10月18日 | 1960年1月17日[167] | 北海道雨竜郡幌加内町新成生在住[167]。事件当時24歳。1960年1月17日、盗みをする目的で北海道赤平市に赴いたが、時間潰しのため、同市錦町のバス運転手男性宅を訪ねた。11時20分ごろ、茶の間で男性の妻(当時26歳)と話していたところ、窃盗で滝川拘置所に入っていたころのことについて言及されたことに逆上し[168]、妻と長男(当時1歳[167])[注 16]を鉞で撲殺し、財布など1000円相当[169]、腕時計を奪った[167]。その後、2回の窃盗事件を起こした[168]。 強盗殺人と窃盗の罪に問われ[167]、1961年3月17日、札幌地裁岩見沢支部(円山裁判長)で死刑判決を言い渡された[168]。弁護人はKの精神状態などを理由に控訴したが、札幌高裁(矢部裁判長)は1962年1月27日に控訴棄却の判決を言い渡した[169]。同年10月18日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[167]。死刑執行日は不明。 |
| 駿東の老婆殺し事件 (T)[170] | 1962年12月11日 | 1960年12月30日 | 静岡県駿東郡清水村伏見生まれ[170]。 1960年12月30日3時ごろ、清水村八幡で知人女性(当時78歳)宅に押し入り、目を覚ました女性をナイフで刺殺、現金1万円と腕時計1個を奪った他、窃盗6件、強盗傷人1件を犯した[171]。動機は正月の遊興費欲しさで、三島市や神奈川県小田原市でも強盗傷人や窃盗などを犯している[172]。強盗殺人事件を起こした後は東京へ逃げ、盗品を処分した上で正月に実家に戻ったが、沼津市や三島市で遊んでいたところ、1961年1月3日に逮捕された[170]。 強盗殺人罪に問われ、1961年8月25日に静岡地裁沼津支部(山本裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[170]。控訴したが、1962年1月19日に東京高裁刑事第2部(下村裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[172]。上告したが、同年12月10日に最高裁第三小法廷(五鬼上裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[171]。 死刑執行日は不明。 |
| 大阪の重役夫婦殺傷事件 (U) | 1962年12月14日 | 1959年3月16日 | 1959年に大阪府箕面市の会社重役(当時48歳)夫婦を殺傷した。犠牲者1人。1962年12月14日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で死刑判決に対する上告棄却の判決を受け、死刑が確定[173]。死刑執行日は不明。 |
1963年
1963年(昭和38年)に死刑判決が確定した死刑確定者は17人である[1]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| バー・メッカ殺人事件(正田昭) | 1963年1月25日 | 1953年7月27日 | 当時のマスコミはアプレゲール犯罪の典型として大きく報道した。共犯2人も有期の懲役刑、なお正田は獄中で小説家として名声を得ていた。1969年12月9日に死刑執行(40歳没)。 |
| 西宮の主人一家三人殺し (K)[174] | 1963年2月8日 | 1958年8月7日 | 犯行時19歳の少年死刑囚[174][175]。兵庫県神戸市東灘区魚崎町魚崎の自動車修理工[176][177]、上告審判決時点で24歳[177]。 1957年暮れから兵庫県西宮市今津社前町の自動車修理業者宅で自動車修理工として働いていたが、給料だけでは遊興費が足りなかったこと[174]、また借金に困ったことから[175]、経営者の男性(事件当時39歳)の留守中に男性の妻(同36歳)を脅して金を盗もうと決意した[174]。1958年8月7日0時ごろ[175]、勤め先であるの自動車工作所に旧海軍の短剣を持って押し入り[176]、男性夫婦と男性の母親(同64歳)の一家3人をナイフで刺殺し、現金16000円と衣類などを奪った[175]。犯行後は広島から九州に逃げていたが、所持金が少なくなったことから神戸に戻って兵庫県警に自首し、逮捕された[176]。 強盗殺人、窃盗の罪に問われたが、1958年3月に交通違反を犯した前科があったため、それ以前の窃盗7件は交通違反後の窃盗3件や強盗殺人とは併合罪にならなかった[174]。検察官は窃盗7件について懲役1年、強盗殺人と窃盗3件について死刑をそれぞれ求刑し[174]、神戸地裁(石丸裁判長)は1961年3月27日、強盗殺人と窃盗3件について死刑、他の窃盗7件について懲役1年(いずれも求刑通り)の判決を言い渡した[174][176]。公判中の精神鑑定では、Kは犯行時、普通人と心神耗弱者のほぼ中間の精神状態だったが、善悪を判断する能力はあったという結果が出ていた[174]。神戸地裁における死刑判決は、1959年11月に尼崎市の周旋人殺しの被告人に言い渡されて以来のことであった[174]。Kは判決を不服として控訴したが、大阪高裁(小田裁判長)で1962年5月28日に控訴棄却の判決を言い渡された[178][179]。裁判長の小田は京都地裁時代から死刑廃止論を唱えており、判決理由では「死刑は廃止すべきものだが、生命を軽視する〔K〕のような極悪犯がある限り、死刑もやむを得ない」[179]「一日も早く(死刑を)廃止するためにはこのような残虐で悪質な犯行をなくすることが必要」と言及していた[178]。上告したが、1963年2月8日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[175]。犯行時少年の被告人に対する死刑確定は、小松川事件の李珍宇以来であった[177]。死刑執行日は不明。 |
| 葉山堀内の婦人殺し (M)[180] | 1963年3月28日 | 1959年4月21日 | 神奈川県三浦郡葉山町生まれ、第一審判決時点で35歳[180]。上告審判決時点で37歳[181]。 競輪、競馬に凝って金に困り[181]、1959年3月3日夜、神奈川県鎌倉市から葉山町までタクシーに乗車したが、20時ごろ、タクシー運転手男性(34歳)を葉山町で殴って5日間のケガをさせ、代金を払わず逃走した[182]。同年4月21日14時ごろ、葉山町堀内の知人技師宅に行き、留守番をしていた技師の妻(当時57歳)を木槌で殴り、手ぬぐいで首を絞めて殺害し[180]、現金15万円と腕時計を奪った上で[182]、死体を近くの森戸海岸に埋めて逃走したが、逃げ切れないと思ったため、7月1日に葉山警察署へ出頭した[180]。 強盗殺人、強盗傷人、死体遺棄の罪に問われ、1961年4月25日に横浜地裁横須賀支部(上泉裁判長)で死刑判決を言い渡された[180]。控訴したが、1962年6月12日に東京高裁(藤島裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[183]。上告したが、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[182]。 死刑執行日は不明。 |
| 中野刑務所看守殺害事件 (S) | 1963年3月28日[184] | 1961年1月21日 | 事件当時27歳。上告審判決時点で29歳、元配管工[181]。中野刑務所(東京都中野区)に窃盗罪などで服役していた1961年1月21日、構外作業に出た際、酒が飲みたいと思ったことから同房の受刑者Mと共謀、刑務所看守の男性(当時37歳)を撲殺、現金3000円を奪って逃走した[182]。 Sは強盗殺人と加重逃走の罪に問われ、1961年4月、東京地裁は「残忍非道な犯行」としてSに死刑、Mに無期懲役の判決を言い渡し、控訴審の東京高裁も1962年4月に控訴棄却の判決を言い渡した[181]。Mは服役した一方、Sは量刑不当を理由に上告したが[181]、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[182]。 1967年10月26日に死刑執行(33歳没)。 |
| 熊本の三人殺し[注 17](杉村サダメ)[181][185] | 1963年4月24日[186] | 1960年12月(6日・14日・18日・28日[185]) | 熊本県熊本市高江町在住、農業[187][185]。第一審判決時点で49歳[187]。 借金8万円を抱えたことから[187]、近隣住民を毒殺して介抱するふりをして所持金を奪おうと計画した[181]。1960年12月6日13時ごろ[187]、自宅で義母(当時81歳)にホリドール入りヤクルトを飲ませて殺害[181]、義母の懐を物色したが、金はなかったため金品を得る目的は未遂に終わった[185]。この殺人計画が医師の誤診により発覚しなかったため、同月14日朝には近隣住人(当時45歳)にホリドール入りの水炊きを食べさせて殺害、同月18日午後には売掛金を回収しに来た衣類行商女性(当時49歳)にもホリドール入りの鯛味噌を食べさせて殺害しようとし[187]、未遂に終わった(一時危篤)[注 18]もののポケットから現金10300円を奪った[185]。同月28日、自宅に来た行商人の女性(当時51歳)にホリドール入りの醪漬けを食べさせて毒殺したが[187]、この犯行後に一連の犯行が発覚した[185]。28日の犯行では被害者の財布に15円しか入っていなかったため、金は奪わなかった[187]。 強盗殺人、同未遂の罪に問われ、1961年6月27日に熊本地裁(安東裁判長)で死刑判決を言い渡された[187]。弁護人は心神耗弱による発作的犯行であると主張したが、熊本大学医学部で行われた精神鑑定で精神異常は認められず[189]、裁判長は杉村が金を奪うため、4回も被害者に毒入りの食物を与える計画的で緻密な犯行であることとした、弁護人の主張を退けた[187]。杉村は控訴し、控訴審でも改めて精神鑑定が行われたが、1962年8月29日に福岡高裁(大曲裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[189]。同高裁は「女性による特異な犯罪だが、極刑もやむを得ない」と評した[181]。杉村の弁護人は犯行時の病的な異常性、精神障害とも言えるヒステリー素質の存在を主張して上告したが[181]、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された[181][185]。判決訂正申立も同年4月24日付の同小法廷決定で棄却され[186]、死刑が確定[190]。菅野村強盗殺人・放火事件の犯人・山本宏子に次ぎ、戦後日本では2番目に死刑が確定した女性(女性死刑囚)となった[181][185][190]。 1970年9月19日に福岡拘置支所(現:福岡拘置所)で死刑執行(58歳没)[191]。戦後日本では日本閣事件の小林カウに次ぎ、2番目に死刑を執行された女性死刑囚である[192]。 |
| 豊頃村の一家4人殺し (K) | 1963年4月12日 | 1960年8月26日[193][194] | 朝鮮生まれ[195]、もしくは岐阜県多治見市生まれ[194]。 下記の共犯Sと共謀し、1960年8月26日21時40分ごろ[195]、Sがかつて雇われていた[194]北海道中川郡豊頃村豊頃[193](豊頃駅前[194])の木材業男性(当時36歳)宅を訪れ、男性を「車が故障したから引っ張ってくれ」と騙して同村東三線南14号の国道まで誘い出し、出刃包丁で刺殺した[195]。次いで男性の車を使って男性宅に向かい、男性の妻(当時35歳)を車庫まで誘い出して絞殺し、現金19000円と小切手(額面20万円分)、カメラなどを奪った[195]。さらに翌27日には夫婦の長女(当時5歳)と長男(同2歳)もそれぞれ絞殺した[193]。 2人とも強盗殺人、殺人の罪に問われ、1961年6月24日、釧路地裁帯広支部(井口裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[194][196]。2人とも控訴したが、札幌高裁(矢部裁判長)は1962年6月26日に控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[195]。2人とも上告したが、1963年4月12日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[193]。 1970年もしくは1971年に死刑執行。 |
| 豊頃村の一家4人殺し (S) | 1963年4月12日 | 1960年8月26日[194] | 上記Kの共犯[194]。白糠郡白糠町生まれ[195]。裁判経緯はKと同一。1970年もしくは1971年に死刑執行。 |
| 神戸重役夫人殺害事件 (Y) | 1963年4月23日 | 1958年12月8日 | 1967年10月27日に死刑執行されたと思われる(処刑前夜)に記載あり。 |
| 看護婦強盗殺人・共犯内妻刺殺事件 (H) | 1963年4月30日 | 1960年10月23日 - 24日 | 控訴取下。死刑執行日は不明。 |
| 岩槻一家7人殺害事件 (A)[197] | 1963年4月30日 | 1959年7月22日[197] | 1959年7月22日未明1時ごろ、貧困と家庭不和から自暴自棄になり、埼玉県岩槻市の自宅のカヤにガソリンをかけて放火し、1棟30平方メートルを全焼させ、就寝中の家族7人(75歳義祖父、63歳父、28歳妻、4歳長男、1歳次男、生後2か月三男、10歳姪)を焼殺、逃走して自殺を図るが未遂に終わり、逮捕された[198]。浦和地裁は1960年2月25日、死刑求刑を退けてAに無期懲役の第一審判決を言い渡したが[197]、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)は1962年6月27日、原判決を破棄して死刑判決を言い渡した[199]。最高裁第三小法廷(垂水裁判長)は1963年4月30日に上告棄却の判決を言い渡した[200]。死刑執行日は不明。 |
| 熊本の警官殺し[201] (T) | 1963年5月10日 | 1961年5月31日 | 犯行時18歳6か月の少年死刑囚[202]。熊本県鹿本郡植木町生まれ、事件当時は熊本市大江町九品寺在住の写真現像業[203]。第一審判決時点で19歳[204]、控訴審判決時点で20歳[205]。 シベリアから一家が引き揚げた後、父親のスパルタ教育などから親子の親しさが薄れ、家庭生活が暗くなっていた。中学時代は読書好きの子どもとして将来を期待され、生徒会長なども務めていたが、家計が苦しく、傘の修繕やパン行商などの仕事をせざるを得なくなり、高校1年生で中退し、その後は商売がうまくいかなかったことや好意を寄せていた女性との関係もうまくいかなかったことから、生活の行き詰まりと生来の孤独感を打開するために犯行におよんだ[204]。開業資金の調達や月賦代の支払いに困ったことから、警察官の拳銃を奪って強盗をしようと考え[206]、1961年5月31日0時30分ごろ、熊本市花園町の熊本北警察署花園派出所で勤務していた男性巡査(当時33歳)に身の上相談を持ちかけ、青酸カリを入れた缶ジュースを飲ませて毒殺し、拳銃と制服・制帽を奪って逃走した[207]。この被害者の警察官はTの顔見知りだった[207]。その途中、熊本駅構内でタクシーに乗車したが、熊本市池田町洸出新堀橋[注 19]で運転手男性(当時24歳)から料金150円を請求されたところ[207]、警官殺しの犯行が露見したと思ったことから運転手を背後から射殺した[206]。またこれらの事件以前にも、万引きや婦女暴行未遂といった事件を起こしていた[204]。県内では計画的な凶悪犯罪として注目され、その異常性格ぶりと、不幸な生活環境からも注目を集めた[204]。 強盗殺人罪に問われ、1961年9月28日に熊本地裁(山下辰夫裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[208]。熊本県の少年事件では初めて死刑判決が言い渡された事例である[204]。Tは犯行には計画性はなく、偶発的だと主張したが、熊本地裁は青酸カリを手に入れて警察官を毒殺、そして警察官になりすまして銀行の現金輸送車を襲おうとするなど計画性があり、残忍性などからも極刑は免れないと指弾した[204]。Tは控訴審で、Tは当時少年であること、また犯行には計画性がないことを理由に控訴したが[205]、1962年6月7日に福岡高裁(岡林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[205][207]。Tは事実誤認と量刑不当を訴えて上告したが[206]、1963年5月10日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[206][201]。 1969年11月18日に死刑執行(28歳没)[202]。犯行時少年であったが、『熊本日日新聞』では実名報道されていた[204][205]。 |
| 一宮の女子事務員殺し (M)[209][210] | 1963年5月14日 | 1961年6月30日[210] | 岐阜県本巣郡糸貫町在住、元浅井ペイント商会運転手[211]。 白タクの営業資金欲しさから、愛知県生まれの自動車運転手の男Xと共謀し、1961年6月30日、銀行へ預金の引き出しに行こうとしていた同僚の女性事務員A[注 20](当時29歳)を自身の運転する社用車に乗せ、東海銀行一宮駅前支店から会社へ帰る途中、人けのない市内でAを短刀で刺殺し、現金200万円を奪った[210]。また犯行を隠蔽するため、愛知県葉栗郡木曽川町里小牧の木曽川河川敷の松林に遺体を埋めた[210]。 MとXは強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、1961年12月27日に名古屋地裁一宮支部(畔柳裁判長)はMを死刑、Xを無期懲役(いずれも求刑通り)とする判決を言い渡した[209]。Xは第一審で無期懲役が確定[210]。Mは控訴したが、1962年7月24日に名古屋高裁(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡され[211]、上告したが、1963年5月14日に最高裁第三小法廷(石坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[210]。 死刑執行日は不明。 |
| 松島老堂守殺害事件 (M) | 1963年6月25日 | 1961年4月15日 | 1審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
| 上尾老夫婦殺害・放火事件 (N) | 1963年6月27日 | 1959年6月23日 | 死刑執行日は不明。 |
| 東伊豆町の一家5人爆破殺傷事件 (H) [212] | 1963年9月5日 | 1960年10月9日[213][214] | Hは宮城県刈田郡蔵王町出身で[215]、伊東下田電鉄工事建設のため[216]、静岡県賀茂郡東伊豆町大川の飯場に住み込みで働いていた[213]。事件当時25歳。事件前の1959年3月には窃盗罪に問われ、東京地裁で懲役1年、執行猶予5年[217]の判決を受けていた[218]。 1960年10月8日夜、東伊豆町大川の農業男性(当時57歳)宅に侵入して現金9000円と衣類を盗んだが、男性の妻(当時51歳)に顔を見られたことから殺害を決意し[213]、深夜、建設作業員宿舎の火薬取扱所からダイナマイトを盗んだ[212]。10月9日2時ごろ[213]、先述のダイナマイトを民家の裏側押入れの下に仕掛けて爆発させた[212]。爆発したダイナマイトは2本で[213][214]、家の主人が死亡、4人が重軽傷を負った[212]。 Hは事件後の10日朝に無断で飯場を出た一方、家宅捜索でHの物入れ木箱から被害者宅で盗まれた女物ウール時の着物1枚が発見された[218]。静岡県警捜査一課と下田警察署の特捜本部は事件後、Hを殺人容疑で指名手配し[216]、Hは同月20日に山口県で逮捕された[212]。 殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反、建造物損壊、業務上横領、窃盗の罪に問われた[214]。第一審の静岡地裁沼津支部(山本裁判長)で1961年12月15日に死刑判決を受けた[217][219]。弁護人の又木は事件当時、Hは多量に飲酒していたため心神耗弱状態にあったと主張したが、地裁支部は殺人計画が綿密であることから、精神状態は平常だったとして主張を退けた[213]。同年に同地裁支部で言い渡された死刑判決は、駿東郡清水村の老女殺しに次いで2人目[213]。 Hは事実誤認(犯行時は心神耗弱だった点、犯行動機は脅かすことが目的だった点、殺意の不存在など)を主張して控訴したが、1962年10月26日に東京高裁刑事第1部(長谷川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[214]。1963年9月5日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたことで死刑が確定[220][215]1967年11月9日に東京拘置所で死刑執行(32歳没)。 |
| 宿直員殺し (Y)[221] | 1963年10月1日 | 1960年1月19日[221] | 事件当時22歳。1960年1月19日0時ごろ、3歳年上の兄と共謀し、学校荒らしの目的で福岡県築上郡椎田町にある福岡県立築上西高校の職員室に侵入したが、宿直の用務員男性(当時31歳)と警備員男性(当時60歳)に発見されたため、2人をジャックナイフで脅して宿直室に追い込み、後手に縛って猿轡を噛ませた上で、「警察には言わないから」という言葉を聞き入れず、2人の首を電気コードで絞めて殺害[221]、現金1780円を奪った[222]。 兄弟2人とも強盗殺人罪に問われ、1961年4月25日、福岡地裁小倉支部はYを死刑、兄を無期懲役にそれぞれ処する判決を言い渡した[221]。2被告人は控訴したが、福岡高裁(岡林裁判長)は同年10月18日に控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[221]。2人とも上告したが、1963年10月1日に最高裁第三小法廷(河村又介裁判長)は2人の上告をいずれも棄却する判決を言い渡したため、Yは死刑、兄は無期懲役がそれぞれ確定した[222]。 1967年10月21日に死刑執行(29歳没)[223]。 |
1964年
1964年(昭和39年)に死刑判決が確定した死刑確定者は9人である[1]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 目黒母子殺害事件 (I) | 1964年1月7日[224] | 1963年1月17日 | 1942年に満州で上官を射殺未遂した罪により、軍法会議で無期懲役の前科あり。1957年に刑を免除されていた。 殺人、同未遂、窃盗の罪に問われ、1963年12月20日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[224]。控訴したが、1964年1月7日付で自らこれを取り下げ、死刑が確定[224]。 1966年に死刑執行(45歳or46歳没)。 |
| 南千住宿直員父子殺害事件 (M) | 1964年1月8日 | 1960年5月14日 | 上告取り下げ。死刑執行日は不明。 |
| 大阪市住吉区の実母殺害事件 (O) | 1964年2月7日 | 1960年6月8日 | 強盗殺人の従犯で懲役15年(7年で仮出所[225])の前科あり[226]。事件当時35歳。 尊属殺人、死体損壊、同遺棄の罪に問われ、1962年3月29日、大阪地裁堺支部で死刑判決を言い渡された[224]。控訴したが、1963年5月6日に大阪高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[224]。上告したが、1964年2月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[224]。 1967年11月16日に死刑執行[160](42歳没)。 |
| 大和の運転手殺し (K) | 1964年2月18日 | 1954年12月11日[227] | 神奈川県横浜市保土ケ谷区釜台町在住[227]。事件当時23歳。 1954年12月10日23時ごろ、横浜市中区板東橋付近でタクシーに乗車し、運転手に高座郡大和町(現:大和市)方面へ行くよう命じた[228]。翌11日0時30分ごろ、神奈川県高座郡大和町[229](現:大和市大和町)でタクシーを停車させ、運転手の男性(当時37歳)を匕首で刺殺[227]、現金5060円と腕時計(1500円相当)を奪った[228]。 強盗殺人罪に問われ、1956年7月5日に横浜地裁(高橋裁判長)で死刑判決を言い渡された[228]。控訴したが、1963年3月14日に東京高裁刑事第4部(藤島裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[229]。1964年2月18日に最高裁第二小法廷(横田正俊裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[227]。 1967年11月に死刑執行。 |
| 一宮大叔母強盗殺人事件 (N) | 1964年4月2日 | 1961年12月4日 | 死刑執行日は不明。 |
| 伊那たばこ店老夫婦毒殺事件 (M) | 1964年7月14日 | 1956年4月1日 | 死刑執行日は不明。 |
| 新潟新聞販売店一家3人殺害事件 (A) | 1964年7月16日 | 1960年4月24日 | 事件当時26歳。下記Sと共謀し、かつて勤めていた新潟市の読売新聞販売店[230]に押し入り、店主と養母、女中の3人を殺害したが、たまたま通りかかった消防車のサイレンに驚き逃走した。 2人とも住居侵入、強盗殺人の罪に、またAは窃盗の罪にも問われ、1961年12月1日、2被告人とも新潟地裁で死刑判決を受けた[115]。控訴したが、1963年6月6日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[115]。上告したが、1964年7月16日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[115]。1967年11月13日に死刑執行(34歳没)。 |
| 新潟新聞販売店一家3人殺害事件 (S) | 1964年7月16日 | 1960年4月24日 | 事件当時22歳。上記Aの共犯で[231]、住居侵入、強盗殺人の罪に問われた[115]。裁判経緯はAと同一[115]。1967年11月13日に死刑執行(29歳没)。 |
| 城辺町の老夫婦殺し (H) | 1964年12月8日 | 1960年6月13日[232][233] | 愛媛県南宇和郡城辺町久良在住[232][233]。1956年8月、城辺町古月の漁業男性(事件当時68歳)から盗んだ10万円を分割払いで返済していたが、男性から残金65000円の返済を迫られたことに加え、持病の胃病が悪化し、仕事がなくて生活が苦しくなり、妻が子供6人を連れて実家に帰ったことから自暴自棄になって犯行におよんだ[232]。1960年6月13日0時ごろ[232]、男性が妻(当時58歳)とともに寝入ったところを見計らって男性宅に侵入[234]、就寝中の夫婦を薪割り斧で撲殺し、隣室から5万円入りの金庫、腕時計2個[233](5800円相当[234])などを盗んだ。なお、弁護人は被害者が窃盗事件の罪に服したHから過酷な取り立てを行ったことが事件を誘発したと主張したが、検察官により、被害者はHに対し1956年に5万円を貸しており、半金残っていたものを棒引きにした上、城辺簡易裁判所の調停により、両者の間でHの窃盗事件の罪を軽減するため、窃盗の被害額10万円の賃借契約が取り交わされていたことが明らかになり、弁護人の主張は崩れる形になった[232]。 住居侵入、強盗殺人の罪に問われ[235]、1960年8月1日から松山地裁宇和島支部で第一審の公判が開かれ、6回の審理で判決が言い渡された[232]。Hは1961年3月10日、松山地裁宇和島支部(遠藤裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[232][233]。同地裁支部では戦後4件目の死刑判決と報じられている[232]。量刑不当を理由に控訴し、控訴審では犯行時に精神異常状態だったと主張したが[236]、1964年3月30日に高松高裁(横江裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[236][234]。上告したが、1964年12月8日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[235]。 1972年に獄死(57歳もしくは58歳没)。 |