藤村隆男
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1955年撮影 | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 広島県呉市 |
| 生年月日 | 1920年10月5日 |
| 没年月日 | 1993年12月25日(73歳没) |
| 身長 体重 |
170 cm 64 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1940年 |
| 初出場 | 1940年3月21日 |
| 最終出場 | 1957年9月19日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
この表について
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藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 1993年12月25日[1])は、広島県呉市山手町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。
同じくプロ野球選手で「ミスタータイガース」の異名をとった藤村富美男は実兄。
二河小学校時代は地域の野球チームに所属しており、兄・富美男や塚本博睦、同級生の柚木進などを擁し、呉では1番強いチームだった[3]。
小学校卒業後は呉男子高等小学校に進む[3]。その後は父や兄が勤める海軍工廠に進もうとしていたが、呉港中学校の関係者から入学を誘われる。兄の勧めもあり、1935年に同校に入学した[3]。
呉港中学校では、4学年上に兄・富美男がおり、他3学年上に塚本博睦、2学年上に田川豊、1学年上に柚木進[4]がいるなど、のちプロでも活躍する選手が多数いた[2][3]。
1年次の1935年夏は練習中に負傷し、入院生活を送る。そのためチームが甲子園に出場する中、ただ1人呉でリハビリ生活を送った[2]。同年オフには法政大学に進学予定だった兄・富美男が大阪タイガースに入団。これにより学校側と藤村家の関係が悪化。弟である隆男自身も野球部から除名される[2]。この処置には藤村家も反発、また同じ大阪の日新商業から転校の誘いを受ける[2]。隆男も入学に前向きだったが、隆男の野球部復帰が許されたため立ち消えとなった[2]。
2年次の1936年夏は控え投手として甲子園に出場。2回戦で皆川定之らを擁する桐生中学に敗れている[2]。続く3年次は塚本の卒業により中堅手兼控え投手として、1937年の夏の甲子園に出場。準々決勝で準優勝した熊本工業の川上哲治に3安打に抑えられ1-5で敗れた。翌1938年は広島商業に敗れ、甲子園出場は果たせず[3]。最上級生となった1939年の春の甲子園には、控え投手・野崎泰一、一塁手・道仏訓、遊撃手・竹林実(のち金鯱)らを揃えた強力チームだったが、初戦の島田商業に1-2で敗退した。同年夏も山陽大会で、高野裕良擁する下関商業に敗れた[3]。
高校卒業後は柚木俊治(進の実兄で、幼少の頃から面識があった)が在籍していた立教大学への進学を希望していたが[3]、経済的事情[2]や、兄が兵役で不在の間も給料を変わらず支給してくれた大阪タイガースに義理を感じていた父の命令[5]などから、1940年にタイガースへ入団[1]。兄・富美男は前年から兵役に服して不在であったが、兼任監督の松木謙治郎から兄の代わりとばかりに可愛がられる[6]。同年8月8日に行われた、満洲リーグのライオン軍戦にて1安打完封勝利を達成したことがきっかけでローテーション入りを果たす[3][7]と、1942年まで3シーズンで22勝を記録した。1942年オフに応召を受けて退団。北支や中支を転戦し、蚌埠で終戦を迎えた[2]。
1946年春に復員を果たす。当初はタイガースへの復帰を考えていたが、終戦直後の混乱状態の中、監督兼4番打者として奮闘していた兄・富美男に余計な気を利かせるべきではないと考え、タイガースで同僚だった富松信彦の誘い[8]でパシフィックに入団した[2][3]。また入団の際、同郷で同じ部隊に所属していた白石勝巳も入団させている[9]。しかし、兵役による肩痛が悪化したことで投げることができなくなり、1947年9月に退団した。
その後は地元の鉄工所で働いていたが、同じくパシフィックを退団していた白石の誘いで、白石が監督を務める社会人野球チーム・植良組に入団。地元の別府温泉に浸かっているうちに肩が回復したこともあり、エース兼監督[10]として活躍した[5]。その後、肩痛が完全に回復したこともあり1949年、兄・富美男を通じてタイガースに復帰。ここで前所属球団の大陽ロビンス(パシフィックから改称)が、3年間の保有権があるとして他チームへの復帰を認めないと連盟に提訴するが、この訴えは退けられ、藤村の大阪復帰は認められた[11]。
復帰後は御園生崇男の指導により制球力がついたこともあり、16勝を挙げチームの勝ち頭となった。
同年オフに若林忠志・土井垣武・別当薫等が毎日オリオンズに引き抜かれて阪神が弱体化した中で、同い年のライバルであった梶岡と共に1950年代前半の阪神投手陣を支えた。
1952年に梶岡が防御率1.71で最優秀防御率のタイトルを獲得すると、藤村は25勝6敗で最高勝率のタイトルを獲得[12]。
1953年も16勝の梶岡を抑えて21勝を挙げるなど2年連続20勝をマークしたが、阪神時代にはライバル梶岡の通算131勝を上回る通算133勝を挙げている。
1956年オフに藤村排斥事件が起こると広島カープに移籍[13]するが、同年限りで現役を引退。
引退後は広島で二軍投手コーチ(1958年 - 1962年)や一軍投手コーチ(1963年 - 1966年)を務め、その後芥田武夫の誘いで近鉄に移籍[14]し、二軍投手コーチ(1967年)→一軍投手コーチ(1968年)を務める。阪神に復帰後は二軍監督(1969年, 1975年, 1979年 - 1980年)、スカウト(1970年 - 1971年)→二軍投手コーチ(1972年 - 1974年)、二軍投手教育コーチ(1976年 - 1978年)を務めた。
熱意と愛情あふれる指導で、広島では安仁屋宗八・外木場義郎[15]、阪神では川藤幸三らを育てた。多くの選手に慕われ[16]、特に川藤は人情味にあふれる「大」のつく恩人だと語っている[17]ほか、絶妙の地を這う打球の「藤村の猛ノック」は有名であった[18]。
広島コーチ時代は鬼軍曹で知られ、ウォーミングアップを終えると400mトラックを20周、ウサギ跳びに馬跳び、ノックも外野の両翼のポール間を走らせた。安仁屋は長距離走に自信があったため、何とか耐えられた[19]。
1年目の水谷実雄には基礎体力作りばかりで、ボールに触ることを許さなかったが、水谷は後に「鬼軍曹のお陰で、プロでメシが食える体が出来た」と語っており、スパルタ指導の教育スタイルの原型となった[20]。
辻恭彦が大洋移籍の際、トレードになるまで阪神のコーチになるつもりで遊んでいたため、体が鈍っていたのを鍛え直した[21]。
選手としての特徴
人物
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1940 | 阪神 | 21 | 17 | 6 | 6 | 0 | 7 | 3 | -- | -- | .700 | 424 | 106.1 | 59 | 0 | 55 | -- | 2 | 39 | 2 | 0 | 21 | 13 | 1.10 | 1.07 |
| 1941 | 33 | 22 | 12 | 4 | 0 | 12 | 10 | -- | -- | .545 | 858 | 206.2 | 148 | 0 | 109 | -- | 4 | 61 | 1 | 0 | 50 | 38 | 1.65 | 1.24 | |
| 1942 | 21 | 13 | 3 | 2 | 0 | 3 | 5 | -- | -- | .375 | 343 | 80.0 | 47 | 1 | 56 | -- | 1 | 29 | 0 | 0 | 34 | 18 | 2.03 | 1.29 | |
| 1946 | パシフィック 太陽 |
3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 45 | 9.0 | 9 | 1 | 10 | -- | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 5 | 5.00 | 2.11 |
| 1947 | 5 | 4 | 2 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | -- | .333 | 121 | 26.1 | 28 | 2 | 16 | -- | 0 | 3 | 0 | 0 | 16 | 9 | 3.08 | 1.67 | |
| 1949 | 大阪 | 47 | 33 | 19 | 4 | 0 | 16 | 13 | -- | -- | .552 | 1278 | 286.2 | 319 | 25 | 118 | -- | 6 | 120 | 3 | 0 | 158 | 129 | 4.05 | 1.52 |
| 1950 | 36 | 19 | 9 | 2 | 0 | 11 | 8 | -- | -- | .579 | 750 | 176.0 | 182 | 20 | 60 | -- | 6 | 78 | 1 | 0 | 97 | 77 | 3.94 | 1.38 | |
| 1951 | 49 | 26 | 18 | 3 | 0 | 16 | 16 | -- | -- | .500 | 1029 | 253.0 | 222 | 14 | 77 | -- | 5 | 74 | 8 | 3 | 97 | 74 | 2.63 | 1.18 | |
| 1952 | 46 | 26 | 16 | 4 | 2 | 25 | 6 | -- | -- | .806 | 1045 | 260.0 | 221 | 13 | 72 | -- | 8 | 106 | 4 | 2 | 88 | 76 | 2.63 | 1.13 | |
| 1953 | 49 | 27 | 12 | 0 | 1 | 21 | 11 | -- | -- | .656 | 1008 | 249.1 | 218 | 15 | 71 | -- | 7 | 83 | 2 | 1 | 94 | 76 | 2.74 | 1.16 | |
| 1954 | 37 | 19 | 8 | 1 | 0 | 11 | 12 | -- | -- | .478 | 735 | 187.2 | 151 | 10 | 38 | -- | 4 | 53 | 1 | 0 | 51 | 43 | 2.06 | 1.01 | |
| 1955 | 26 | 21 | 3 | 0 | 0 | 8 | 3 | -- | -- | .727 | 525 | 131.1 | 121 | 3 | 34 | 2 | 4 | 48 | 0 | 0 | 36 | 29 | 1.99 | 1.18 | |
| 1956 | 26 | 14 | 1 | 0 | 0 | 3 | 7 | -- | -- | .300 | 329 | 84.0 | 56 | 5 | 22 | 2 | 2 | 33 | 0 | 0 | 19 | 18 | 1.93 | 0.93 | |
| 1957 | 広島 | 15 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 197 | 47.2 | 41 | 4 | 19 | 1 | 0 | 18 | 0 | 0 | 18 | 15 | 2.83 | 1.26 |
| 通算:14年 | 414 | 247 | 109 | 26 | 3 | 135 | 97 | -- | -- | .582 | 8687 | 2104.0 | 1822 | 113 | 757 | 5 | 49 | 748 | 22 | 6 | 784 | 620 | 2.65 | 1.23 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 阪神(阪神軍)は、1946年に大阪(大阪タイガース)に球団名を変更
- パシフィックは、1947年に太陽(太陽ロビンス)に球団名を変更
タイトル
- 最高勝率:1回 (1952年)
記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1951年 - 1953年)
背番号
- 9 (1940年 - 1942年)
- 19 (1946年)
- 16 (1947年)
- 20 (1949年)
- 2 (1950年 - 1956年)
- 4 (1957年)
- 63 (1959年 - 1962年、1967年 - 1969年)
- 61 (1963年 - 1966年)
- 76 (1972年 - 1980年)