サイン・ボロト
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サイン・ボラトは15世紀半ばに「劉王(遼王の誤り)」を称して強勢を誇ったウネ・テムルの息子であった。1484年(成化20年)11月の朝貢ではウネ・テムルの兄のゲゲン・テムルの息子で、サイン・ボロトから見て従兄弟にあたるトクトア・ボロトと「都督僉事等官のサイン・ボロト」がともに明朝に使者を派遣したとの記録があり[1]、これがサイン・ボラトの史料上での初出となる[2]。
1486年(成化22年)10月には始めて「泰寧衛都督」として明朝に朝貢を行い[3]、以後弘治年間を通じて定期的に朝貢を行うようになる[2]。1489年(弘治2年)初めの朝貢ではサイン・ボロトが朝貢の人数ともたらされる下賜品を増やすことを請うたが、礼部が却下したとの記録がある[4][5]。
サイン・ボロトが活動を始めたのとほぼ同時期、ダヤン・ハーンがモンゴル高原の再統一事業を進めつつあった。ダヤン・ハーンの一連の活動によってモンゴル高原の情勢は激変し、多くの諸部族がダヤン・ハーンの息子を首領として迎え入れるようになった。三衛においては、朶顔衛のアルキマル・ホトン父子が最も積極的にダヤン・ハーンと連携し、婚姻関係を結んで立場を強化した。サイン・ボロトの時代にはまだ顕在化しないが、この時期からのダヤン・ハーン一族との関係の密接さが朶顔衛と泰寧衛の明暗を分け、後の泰寧衛の没落をもたらすこととなる。
実際に、サイン・ボロトはダヤン・ハーンの活動にはあまり関わっていなかったようで、明朝側には1490年(弘治3年)[6][7]・1492年(弘治5年)[8]・1493年(弘治6年)[9][10]・1496年(弘治9年)・1497年(弘治10年)[11]・1497年(弘治10年)[12][13]などに朶顔衛のアルキマルらと朝貢を行った記録が見られるに過ぎない。1500年(弘治13年)6月には始めて「泰寧等衛都督のサイン・ボロトの子の孛羅罕」が主体となって朝貢行ったとの記録があり[14]、1500年前後に亡くなっていたようである[2]。