ゲゲン・テムル
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出自
ゲゲン・テムルの出自については史料上に明記されず、不明な点が多いが、弟のウネ・テムルが「劉王(遼王の誤り)」と称していることから、元末明初に活躍した遼王アジャシュリの末裔と考えられている[2]。泰寧衛はアジャシュリが明朝に降ることで成立したが、アジャシュリはすぐに明朝から背いたため、その後の系譜は定かではない。14世紀前半はアジャシュリと同一人物という説もある阿只罕と、その息子のトゴチとジョチが泰寧衛を統べる立場にあり、ゲゲン・テムルはジョチとほぼ同時期に史料上に登場し始める[2]。
ゲゲン・テムルが史料上に初見するのは1434年(宣徳9年)2月のことで、この時朝貢を行ったゲゲン・テムルは泰寧衛の都指揮同知に任じられ、下賜品を受けている[3][4][5][6]。1440年(正統5年)以後は定期的に朝貢を行うようになり[7]、1441年(正統6年)中には当時の泰寧衛の有力者(ジョチ、トゴチの子のテギン、ゲゲン・テムル、ナガチュ、コルチタイ)が連名で朝貢を行った記録にも名を連ねている[8][9][10]。ゲゲン・テムルは当時の泰寧衛を統べるジョチを追随する立場にあったようで、同年12月にはジョチと同様に娘をエセンの妻として差し出したとの記録がある[11][1][2]。
オイラトへの屈服
1443年(正統8年)[12][13]・1444年(正統9年)前半[14][15]には通常通りの朝貢が行われたが、この間ジョチがオイラトに接近したことによって明朝・女直との関係が悪化しており、1444年(正統9年)後半には明朝・女直との戦闘が発生した。このため、1445年(正統10年)10月に明朝は福余衛のアルチュ(安出)・ダイドゥ(歹都)、泰寧衛のジョチ(拙赤)・ゲゲンテムル(隔干帖木児)に使者を派遣し、「三衛と女直は皆朝廷が衛分を開設したものであり」「隣境と和睦する」ことを諭した[16][17]。
更に、1446年(正統11年)に入ると泰寧衛は後ろ盾としていたオイラトからも狙われるようになり、この年6月には「オイラトのエセンが朝貢のため派遣した乞児吉歹が、泰寧衛に属する迭的谷らが兵を集めてオイラトの朝貢使節を阻もうとしていることを察知し、迭的谷を捕らえて明朝朝廷に差し出す」事件があり、これを受けて明朝はゲゲン・テムルを含む泰寧衛の首領たちを咎める勅を下している[18]。この年末にはオイラトによる三衛侵攻が実行され、泰寧衛は壊滅的な打撃を受け、ジョチはこの時死去した[19][2]。
ジョチの死去によってゲゲン・テムルがその地位を継承したようで、同年12月に「朶顔泰寧福余三衛」の代表として使者を派遣した[20]。また1447年(正統12年)2月には明朝が福余衛のアルチュ・朶顔衛のトゥルゲン・泰寧衛のゲゲン・テムルに使者を派遣し、オイラトの侵掠による被害を憐れむと同時に、オイラトにこれ以上接近することをやめるよう命じている[21]。
エセンの覇権期
1449年(正統14年)に土木の変が起こるとオイラトのエセンの権勢は益々増大し、ウリヤンハイ三衛も今まで以上にオイラトより圧迫を受けるようになった。『于公奏議』巻2によると、エセンが自ら明朝に使者を派遣して「(かつてオイラトと敵対していた)和寧王アルクタイがウリヤンハイ三衛の地を根拠地としてたため、これを接収し、三衛の人は放逐した」と伝えており、このようなオイラトの強制移住策によってウリヤンハイ三衛の居住地は大きく変わることとなった[22]。『明史』外国・兀良哈伝は朶顔衛が1389年(洪武22年)の登場から常に「大寧より喜峰口にあたり、宣府に近い地(現在の河北省最北部)」にあったとするが[23]、これは後世の編者の誤りで、15世紀半ばにオイラトの強制移住を受けた後の住地である[24]。ゲゲン・テムルと同時代人であるアルキマルは、この頃遠く離れたのムナ山(現在のウラド前旗烏拉山)まで強制移住させられたとの記録がある[25]。
1452年(景泰3年)にはエセンがタイスン・ハーンを弑逆するという事件が起き、同年中にタイスン・ハーンの勢力圏であった三衛にエセンは再び出兵している[26]。このような情勢の変化からか一時期途絶えていたゲゲン・テムルの朝貢がこの年6月より復活したが[27][28][29][30]、1453年(景泰4年)に使者を派遣した際には偽りの使者と疑われ宣府に留め置かれたとの記録がある[31]。
1453年(景泰4年)にエセンは遂にハーン(大元天聖大ハーン)を称したが、チンギス・カンの血を引かない者の即位への反発、従来からの部下に十分に恩賞を与えなかったことへの不満が重なり、急速にオイラトの支配体制は揺らぎつつあった。このような情勢の変化のためか、1454年(景泰5年)6月にゲゲン・テムルが明朝に使者を派遣した際には、一転して「ゲゲン・テムルはよくモンゴル高原の情勢を伝報してくれている」として厚遇を受けている[32]。さらに、この時の朝貢でゲゲン・テムルは「近頃エセンは我々三衛を召し出して駆役しようとしている。……明朝の付近に居住し、中国の藩籬となることを願う」と願い出ており[33]、この請願自体は于謙によって却下されたが、ゲゲン・テムルら三衛がエセンの圧制下で苦心していたことが窺える[34]。
エセン没後の混乱期
1454年(景泰5年)10月にエセンはアラク・テムルによって弑逆されるに至り、オイラトによるモンゴル高原統一は瓦解し、高原は再び内乱状態に陥った。そこでゲゲン・テムルは早速1455年(景泰6年)正月に朝貢を行い、「泰寧衛はかつてオイラトに脅されて従ったが、今は(明朝)朝廷に帰すことができました。しかし日々の生活に困窮しておりますので、農具・耕地を下賜いただくことを請います」と申し出、種糧30石を供給されている[35][36][37][2]。
一方、モンゴル高原東部では故タイスン・ハーンの遺臣が結集し、モーリハイ王が中核となってタイスン・ハーンの息子(マルコルギス・ハーン)を擁立していた[38]。1455年(景泰6年)8月にゲゲン・テムルが朝貢を行った際、マルコルギス・ハーン即位の事を初めて明朝に知らせ、また三衛がモーリハイから掠奪を受けている事を訴え出ている[39][40][38][2]。以後、1456年(景泰7年)[41][42][43]・1457年(天順元年)[44]・1458年(天順2年)[45]は通常通りの朝貢を繰り返したが、この間モンゴル高原南西部ではハラチン部を率いるボライが急速に勢力を拡大しつつあった。
そこで1459年(天順3年)4月、明朝はゲゲン・テムルに使者を派遣してボライが泰寧衛への出兵を企図していることを警告すると同時に、実際にボライが兵を動かした際には援軍を派遣すると通達した[46][47][2]。明朝の側では脅威となりつつボライに対抗するため、泰寧衛のゲゲン・テムルを利用しようとする意図があったようで、同年7月にはゲゲン・テムルに「左都督」という高い地位を授与している[48][49][47][2]。
こうして、同年8月には初めて「泰寧衛左都督」としてゲゲン・テムルは朝貢を行ったが[50]、それから間もなくゲゲン・テムルは死去したようで、1460年(天順4年)5月には死去したゲゲン・テムルの地位を息子のトクトア・ボロトが継いだとの報告がなされている[51][6]。
ゲゲン・テムル以後、泰寧衛は「左都督」の地位を代々継承するゲゲン・テムルの子孫と、「右都督」の地位を継承するウネ・テムルの子孫の、二つの家系が併存していくようになる[1]。朶顔衛も同じく「左都督の家系」と「右都督の家系」が併存しており、このころの三衛は各衛が左右両翼によって構成されていたことが知られている。モンゴル年代記でウリヤンハイ三衛の事を「六千オジェート」と呼称されているのは、モンゴル人側では三衛がそれぞれ2つの「minggan/千戸」を支配する勢力から構成されていたと認識することに由来すると考えられている。
脚注
- 1 2 3 和田 1959, p. 288.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 李 2006, p. 15.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳九年二月壬戌(十四日),「福餘衛頭目把禿不花・兀者衛指揮僉事納哈出・亦馬忽山衛指揮僉事伯乞納・泰寧衛頭目可可帖木児等、来朝貢駝馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳九年二月戊辰(二十日),「陞泰寧衛頭目可可帖木児為都指揮同知、福餘衛頭目把禿不花・把塔罕為指揮僉事」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳九年三月戊子(十一日),「賜嘉河等衛頭目卜顔禿・福餘衛指揮僉事把禿不花・兀者衛指揮僉事納哈出・亦馬忽山衛指揮僉事伯乞納・泰寧衛頭目可可帖木児等、綵幣及紵絲襲衣有差」
- 1 2 和田 1959, p. 418.
- ↑ 『明英宗実録』正統五年十二月甲申(十六日),「雲南麗江軍民府土官知府木森・嶍峨県土官巡検易買并泰寧衛都指揮隔干帖木児等遣指揮失哈塔木児等、倶来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年正月甲子(二十六日),「賜赤斤蒙古衛指揮切領哥、泰寧衛都指揮隔干帖木児・都指揮僉事火児赤台・都指揮哈散・阿赤不花・頭目安察、朶顔衛都指揮使完者帖木児・指揮僉事苦列児・都指揮同知朶羅干・頭目都連帖木児・乃児不花、福餘衛都指揮同知倒斤・指揮僉事帖木児・阿兀歹・頭目伯台綵幣表裏有差。并賜勅諭之」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月丁酉(五日),「泰寧衛都督僉事拙赤・都指揮使火脱赤・討勤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事納哈出・火児赤台、福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・申帖干、朶顔衛都指揮使完者帖木児・都指揮同知倒斤・朶羅干、建州左衛都指揮李張家等、各遣使来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差……」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月丁酉(五日),「泰寧衛都督僉事拙赤・都指揮使脱火赤・討勤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事納哈出・火児赤台、福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・申帖干、朶顔衛都指揮使完者帖木児・都指揮同知倒斤・朶羅干、建州左衛都指揮李張家等、各遣使来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差……」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月戊戌(六日),「泰寧衛都指揮隔干帖木児奏、以女与瓦剌也先太師為婚、今将原送馬匹進貢、乞賜珍珠罟冠袍為礼、上命賜大紅紵絲表裏二青紵絲表裏二罟冠袍等物無例、其止之」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十一月乙亥(二十四日),「泰寧等衛都指揮隔干帖木児遣指揮克列台、兀魯罕河衛野人女直穏久等、貢馬及方物。賜宴并賜綵緞絹衣服靴韈有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十二月戊子(八日),「勅諭朶顔衛都指揮使完者帖木児・泰寧衛都指揮同知隔干帖木児等、頒賜織金襲衣綵幣等物。命来使指揮能列苦等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年六月己丑(十一日),「泰寧衛都督拙赤・都指揮隔干帖木児等、福餘衛都指揮安出・指揮阿兀歹等、朶顔衛都指揮朶羅干等、各遣人貢馬。賜宴及衣服綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年六月癸卯(二十五日),「陞泰寧衛指揮使把禿不花為都指揮僉事、従都指揮隔干帖木児奏請也」
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十月庚申(二十日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都及大小管事頭目人等曰、今得爾等奏、女直頭目剌塔等引領人馬、到爾地方、殺掠人畜家財、爾歹都率人馬追逐、奪回人口。今欲復率部属、往彼報讐。然去年冬、剌塔等奏、被爾処部属殺掠其人馬財物、累請擒治。朝廷諭彼令挨尋原賊、依俗賠償講和。爾兀良哈与女直、皆朝廷開設衛分、乃彼此交構報復、論法倶不可容。特念爾等遠人無知、悉置不問。自今各宜謹守法度、毋作非為、与隣境和睦、用図永久。仍宜戒飭部属、凡往来須遠離辺境、恐巡哨官軍一概剿殺難辨、特諭知之。遂并勅泰寧衛都督拙赤・都指揮同知隔干帖木児等各頒賜織金襲衣綵幣表裏、倶命来使孛羅塔等齎与之」
- ↑ 和田 1959, pp. 285–286.
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年六月庚子(四日),「勅諭泰寧衛掌衛事都督僉事拙赤・都指揮使討勤・火脱赤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事火児赤台・納哈出及大小頭目人等曰、今得爾等遣頭目帖木児奏称、本衛部属迭的谷等、先帯家小往忽克爾帖里温囲猟、被瓦剌也先朝貢使臣乞児吉歹等擒拏解京、乞朝廷給還完聚。然去歳乞児吉歹等奏、迭的谷等糾集人衆、在途邀劫往来使臣、朝廷已明正其罪、及論乞児吉歹功次、陞官職、賞綵幣、以旌其忠。蓋賞善誅悪、国家大法、必出至公、乃合天道。爾等乃為迭的谷等曲詞請憐、使悪者效尤、良善受害、果天道乎。況爾等世受朝命、掌管衛事、部属中為悪者屡勅挨捕、未常獲解一人。今乞児吉歹等係遠方頭目、能効忠捕賊、豈可置之不問乎。因帖木児回、特勅爾等、自今宜体朕意、宣布朝廷法度、禁戒頭目人民各安生業、毋作非為、庶保身家。爾又奏、若尋見阿魯台孫男送来、亦見爾等恤孤済急之意。朝廷必挙賞功之典、爾等其欽承毋忽」
- ↑ 和田 1959, p. 291.
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年十二月戊午(二十五日),「建州等衛都督李満住・都督同知凡察・朶児必河等六十餘衛指揮阿出・朶顔泰寧福餘三衛都指揮隔干帖木児・烏思蔵答隆地面剌麻泥麻札失想初領占等、各遣人貢馬駝方物。賜宴及綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統十二年二月(四日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・泰寧衛都指揮同知隔干帖木児・朶顔衛都指揮同知朶羅干等曰、比聞爾等為瓦剌所侵掠、朕甚憫之。蓋爾部属或有私与往来交通者、屡勅爾等禁約、率不経心、今被其害、実所自取。自今宜戒飭部属、毋聴其誘惑致禍、或有警急声息、星馳奏報。今賜爾等及大小頭目織金襲衣綵幣表裏、分命来使脱木児等齎与、至可領也」
- ↑ 和田 1959, pp. 346–347.
- ↑ 『明史』巻328列列伝216外国9兀良哈伝,「朶顔・福餘・泰寧、高皇帝所置三衛也。……洪武二十二年置泰寧・朶顔・福餘三衛指揮使司、俾其頭目各自領其衆、以為声援。自大寧前抵喜峰口、近宣府、曰朶顔、自錦・義歴広寧至遼河、曰泰寧。自黄泥窪逾瀋陽・鉄嶺至開原、曰福餘。独朶顔地険而強。久之皆叛去」
- ↑ 和田 1959, pp. 107.
- ↑ 和田 1959, p. 347.
- ↑ 和田 1959, pp. 343–344.
- ↑ 『明英宗実録』景泰三年六月壬申(十一日),「泰寧等衛都指揮革干帖木児遣指揮撒毋奴等来朝貢馬。賜宴并金織襲衣綵緞絹布等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰三年九月壬寅(十三日),「福餘衛指揮安出男可台遣頭目脱火歓、泰寧衛指揮革干帖木児等遣指揮台榜哈等来朝貢馬。賜宴及綵幣表裏絹鈔有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰三年閏九月(一日),「泰寧朶顔福餘三衛都督革干帖木児等各遣使、及烏思蔵剌麻番僧鎖南蔵卜等来朝貢馬驢方物。賜宴及衣服鈔幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰三年十二月癸丑(二十五日),「泰寧等衛都督等官革干帖木児等遣指揮孟隔禿、朶顔衛頭目朶児干遣達子木禿干、陝西平涼衛土官百戸舎人張翺等来朝貢馬。賜鈔綵幣表裏等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰四年正月(二十四日),「鎮守宣府等処左副総兵都督同知楊能奏、泰寧衛都督革干帖木児遣指揮哈剌孫等以馬来貢。臣同提督軍務右僉都御史李秉議、以虜情譎詐、已行各辺厳備及、将使臣暫留于此、依例款待。帝曰、虜使不必来京、第給綵緞、送至宣府、会同能等給賞、其馬就彼給軍騎操」
- ↑ 『明英宗実録』景泰五年六月戊戌(十八日),「泰寧衛都督僉事革干帖木児遣指揮猛古乃貢馬奏事。兵部言、革干帖木児効順中国伝報虜情、其宴待賞賜宜稍優厚詔加、賜綵幣絹布」
- ↑ 『明英宗実録』景泰五年六月(二十一日),「先是、泰寧等衛都督僉事革干帖木児遣人上書言、往者也先令我三衛来擾辺方、近又召我三衛聴彼駆役。切思我三衛人民世受天朝大恩、不敢背逆、願附塞居住、為中国藩籬、且乞大寧廃城及甲盾見賜、如有外侮、願備前駆。事下兵部、少保于謙等以為三衛変詐不一、不可従。帝曰、三衛欲近辺住、従之、恐別生釁端。不従。又失夷人帰化之意。爾兵部僉廷臣計議至当以聞」
- ↑ 和田 1959, pp. 347-348/414.
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年正月壬子(六日),「朶顔衛頭目孛台等遣使臣猛可等、泰寧等衛都督僉事革干帖木児等、建州左衛野人女直都指揮戴咬納等、来朝貢馬及方物。賜宴及綵幣表裏等物」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年正月乙丑(十九日),「泰寧衛都督僉事革干帖木児奏、嘗被瓦剌脅従附被、今已得帰朝廷、但日給艱難、乞賜犁鏵種糧耕地養贍。帝命辺倉給以種糧三十石」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年三月丁卯(二十二日),「泰寧朶顔福餘三衛都督僉事革干帖木児等遣人貢馬、賜宴及綵幣等物有差」
- 1 2 和田 1959, pp. 377–378.
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年八月乙巳(二日),「泰寧衛都督僉事革干帖木児等遣指揮脱脱不花等、湖広施州衛施南宣撫司遣把事般古送等貢馬。賜宴并綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年八月己酉(六日),「泰寧衛都督僉事革干帖木児所遣指揮脱脱不花奏、虜酋卯里孩立脱脱不花王幼子為王、卯里孩陞為太師、近者卯里孩領人馬来我三衛、虜掠我三衛共追之、已撃敗其衆。兵部議、虜情難測、恐卯里孩假以讐殺為由因集醜類来擾辺境。宜移文遼東・大同・宣府等処総兵等官、厳切哨備従之」
- ↑ 『明英宗実録』景泰七年正月乙亥(五日),「泰寧衛都指揮脱里干等、建州左等衛都督等官董山等、毛憐衛女直指揮火児火孫等、泰寧等衛都督僉事革干帖木児等、来朝貢駝馬方物。賜宴及綵幣表裏襲衣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰七年七月壬辰(二十五日),「泰寧等衛都督僉事革干帖木児等来朝貢馬。賜宴並綵幣表裏紵絲襲衣等物」
- ↑ 『明英宗実録』景泰七年十月辛酉(二十五日),「泰寧等衛都督僉事革干帖木児遣使臣指揮阿顔帖木児等来朝貢馬。賜宴并金織襲衣綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』天順元年四月甲寅(二十一日),「泰寧衛都督僉事革干帖木児遣都指揮哈納出来朝貢駝馬。賜宴及綵幣表裏等物」
- ↑ 『明英宗実録』天順二年正月辛巳(二十二日),「……泰寧衛等都督僉事革干帖木児等遣指揮苦出兀児等、朶顔等衛千戸俺克帖木児等来朝貢馬。賜宴并綵幣表裏襲衣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』天順三年四月癸酉(二十二日),「勅諭泰寧衛都督僉事革干帖木児等曰、近聞孛来率領人馬欲往爾処搶掠。朕念爾自祖父以来、世篤忠貞、敬順朝廷、多効勤労、聞此声息、恐被其害、特遣都督馬顕等齎勅前去諭爾等、宜会合各衛、整点部下人馬隄備。如此賊果来爾処搶掠、即便差人奏報朝廷、調遣官軍出境救護、密与爾記号、併力夾攻、剿滅此賊、保爾境土人民。故諭」
- 1 2 和田 1959, p. 369.
- ↑ 『明英宗実録』天順三年七月壬午(三日),「泰寧衛都督僉事革干帖木児等遣頭目伯咬哈等来朝貢駝馬。賜宴并綵幣表裏紵絲襲衣等物」
- ↑ 『明英宗実録』天順三年七月己丑(十日),「陞泰寧衛都督僉事革干帖木児為左都督」
- ↑ 『明英宗実録』天順三年八月(十六日),「泰寧衛左都督革干帖木児、朶顔衛都督阿児乞蛮・指揮米咱等、福餘衛指揮可台等、倶遣使来朝貢馬。賜宴并綵幣表裏紵絲襲衣有差。仍命来使齎勅并綵幣表裏、帰賜革干帖木児等」
- ↑ 『明英宗実録』天順四年五月己亥(二十四日),「命故泰寧衛左都督革干帖木児子脱脱孛羅襲為都督僉事、仍旧管束三衛。初革干帖木児死、其弟兀研帖木児欲代総其衆、三衛頭目不服、朶顔衛都督朶羅干遣使奏保脱脱孛羅代父職、管理三衛、上従之、故有是命」
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 李艶潔「明代泰寧衛首領世系変遷」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』第38巻、2006年11月。
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