モンケ・チャガン
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『アルタン・クルドゥン(金輪千福)』には「チンギス・カンの弟のカチウンの末裔にモンケ・チャガン(Möngke Čaγan)がいる。彼の息子はバヤンタイ・ホンゴル(Byantai Qongγur)、バタイ・セチェン(Batai Sečen)である……」と記される[1]。また、『王公表伝』卷三十一『翁牛特部総伝』には「元太祖弟諤楚因、称為烏真諾顔……其裔蒙克察罕諾顔有子二。長巴延岱洪果爾諾顔、號所部曰翁牛特。次巴泰車臣諾顔、別號喀剌車里克。皆称阿魯蒙古」と記されており、蒙克察罕諾顔(モンケ・チャガン・ノヤン)より翁牛特(オンニュート)部が生じたことが分かる[1]。
ただしモンケ・チャガンの出自について、『アルタン・クルドゥン』『シラ・トージ』『アルタン・トプチ (ロブサンダンジン)』などのモンゴル年代記ではカチウン(Qačiγun)の末裔とし、『王公表伝』などの清代の漢文史料ではオッチギン(諤楚因)の末裔とするという差異があり、研究者の見解も分かれている。
カチウン家説
内モンゴルの研究者のBuyandelgerは、モンゴル年代記の記述を重視してモンケ・チャガンをカチウン家の末裔と見なし、さらに『明実録』などの漢文史料に見える察罕達魯花(チャガン・ダルガ)と同一人物と見る説を提唱した。
『明実録』にチャガン・ダルガが登場するのは永楽3年(1405年)のことで、この時チャガン・ダルガは使者を派遣して明朝に帰順し、オルク・テムル・ハーンの動向を伝えてきた[2][3]。これに対し永楽帝はモンケ・チャガンを都督、その弟のカダ(哈達)を千戸に任じ、モンケ・チャガンと朝貢関係を結んだ[4][3]。
また、明朝の記録では「察罕達魯花兀良哈等処[5]」や「兀良哈察罕達魯花処[6]」といった表現が見られ、モンケ・チャガンの勢力はウリヤンハイ三衛(兀良哈)と隣接する地域にあったと考えられている[7]。時代は下って1442年(正統7年)10月には福余衛のアルチュと朶顔衛のオルジェイ・テムルが派遣した使者が「チャガン(察罕)の派遣した貢使が関所まで至っていますが、印信も文字もなく、関所の者によって留め置かれています」と報告したとの記録があり[8]、この「チャガン(察罕)」もチャガン・ダルガのことを指すものと推定している[1][9]。
オッチギン家説
Buyandelgerのカチウン家説に対し、張永江は具体的な根拠が伴わないことを批判し、近年新たに発見された『翁牛特右旗王爵統系豎歴代襲爵年月功績表伝』(以下『功績表伝』)に基づいてオッチギン家末裔説を支持する[10]。『功績表伝』は中華民国期に中央政府に提出されたものであるが、清初に編纂された『王公表伝』をより詳細にしたような内容となっており、張永江は『王公表伝』を編纂する際の底本に基づくものではないかと推測する[11]。
ただし、『功績表伝』所収の系図は現存するいかなる系図とも合致せず、カチウン系と解釈する説もある[12]。そのため、張永江はオンニュート部・カラチェリク部・イスト部がオッチギン・ウルスの後身かどうかについては慎重な立場を取り、「東道諸王が統轄する属部と領主の間で、属民の主が入れ替わるという事態」が発生した可能性も示唆している[13]。
また、張永江はモンケ・チャガンと察罕達魯花(チャガン・ダルガ)を同一人物と見なす説も批判し、『王公表伝』の記述をそのままに解釈し、モンケ・チャガンは16世紀中後期の人物とみすべきである、と指摘した[11]。