アルチュ
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福余衛の創設
1368年(至正28年/洪武元年)、朱元璋(洪武帝)は中国本土の大部分を制圧して明朝を建国したが、これを以て大元ウルスが崩壊したわけではなく、後世に北元と呼ばれる残存勢力がモンゴル高原を中心に健在であった。しかし、1388年(洪武21年)にウスハル・ハーンが弑逆されるという事件が起こると、西方のオイラトが擁立するアリクブケ家のジョリクト・ハーンが即位し、モンゴル高原は極度の混乱状態に陥った。このような中で、モンゴル帝国建国以来の名家であるオッチギン・ウルスの当主、遼王アジャシュリが明朝に降り、その配下の勢力は三分割されて朶顔衛・泰寧衛・福余衛の名を与えられた(ウリヤンハイ三衛)。この時、アジャシュリ自身は最高位の泰寧衛の指揮使とされ、ハイサナンダチ(海撒男答渓)が福余衛の指揮同知、トルクチャル(脱魯忽察児)が朶顔衛の指揮同知に、それぞれ任命された[1]。この時設置された泰寧・福余・朶顔の三衛は、後世「朶顔三衛」もしくは「ウリヤンハイ三衛」と総称されるようになる。もっとも、アジャシュリの明朝への投降は一時的なものに過ぎず、すぐに明朝から背いたウリヤンハイ三衛は明側の史料でしばらく言及されなくなってしまう。
15世紀初頭、靖難の変を経て即位した永楽帝は積極的な対外進出策を取り、1404年(永楽2年)に約十年ぶりに三衛に使者を派遣した[2]。この時は洪武22年の初設時から大きく顔ぶれが変わっており、朶顔衛ではトルクチャルが左軍都督府都督僉事に、泰寧衛では忽剌班胡が都指揮僉事に、福余衛ではアルチュ(安出)とトゥブシン(土不申)がともに都指揮僉事に、それぞれ任命されている[3]。洪武22年の時と比較すると朶顔衛のトルクチャルのみが継続して官爵が与えられているが、他はみな新たな者が登用されている[4]。これは単純に代替わりがあったということではなく、恐らくは洪武22年の時と違って明朝に従順な者にのみ明朝の官職が与えられたものと考えられている[4]。なお、ここでアルチュ(安出)とともに名を挙げられるトゥブシン(土不申)は以後漢文史料上で言及されないが、モンゴル年代記に登場するTübšinと同一人物で、後のモンゴルジン(トゥメト)部の始祖ではないかと推定されている。
アルクタイの支配下
永楽年間初頭、モンゴル高原ではウスハル・ハーンの元部下が再結集し、モンゴル高原南西部のアルシャー方面を拠点とするオゴデイの末裔のオルク・テムル(漢文史料上では鬼力赤と称される)をハーンとして擁立していたが、西方のオイラトとの戦闘での敗北もあり、1406年(永楽4年)中には早くも分裂の兆しが見られていた。これが影響してか同年10月にはアルチュの弟のバト・ブカ(八禿不花)が妻子を率いて明朝に降ったとの記録がある[5]。また1408年(永楽6年)正月にはアルチュが「才識あり」「騎射を善くする」ことを理由に朝貢の使者として派遣した乃答児らの任官を請うており、これを受けて乃答児らは千戸・百戸の地位を授けられている[6]。この頃よりウリヤンハイ三衛は東モンゴリアを掌握したアルクタイの勢力下に入り、1413年(永楽11年)9月には泰寧衛の阿只罕・朶顔衛のトルクチャル・福余衛のアルチュが揃って朝貢を行ったとの記録がある[7]。
永楽帝にとって最期のモンゴル親征となった1424年(永楽22年)の戦役では主に朶顔衛の領域にて戦闘が行われたが、この戦役に福余衛も巻き込まれていたようで、1425年(洪熙元年)7月に捕虜となった「暖答失の子の帖格歹」を返還するようアルチュは願い出ている[8][9]。更にこの時アルチュは「奪われた守印を再度降附すること」を請うているが、これはアルクタイが三衛の印を奪って朝貢の利益を独占していた状況を脱するためのものと推定されている[10]。なお、泰寧衛が同様の要請を行ったのは約10年後の1436年(正統元年)のことであり、三衛の中でも安出ら福余衛はいち早くアルクタイの支配下を脱そうとしていたのではないかとみられる[11]。
1428年(宣徳3年)5月には都指揮僉事から都指揮同知に昇格とされた[12]。この頃、三衛は明朝領附近(現在の河北省・遼寧省北部)まで南下して略奪を行うようになっており、1430年(宣徳5年)2月には安出が「朶顔衛・泰寧衛が明朝の辺境を狙っていること」「これを改めるよう両衛に通達し、改められないようであれば両衛を討つつもでるであること」を報告している[13][14][15]。この報告によって、当時主に明朝と対立していたのは泰寧衛・朶顔衛で、福余衛は一線を引いた立場にあったことが窺える[15]。
オイラトの支配下
このころ、それまで三衛を支配下に置いていたアルクタイがオイラトに敗れて劣勢となり、1442年(宣徳7年)には泰寧衛のトゴチが中心となってアルクタイから離反して明朝に接近しようとする動きが起こった。同年正月にはアルチュの要請によって福余衛の頭目が官位を昇格させられており[16]、また7月にアルチュもトゴチとともに朝貢を行っており[17]、福余衛も明朝との接近を始めていた。同年9月には福余衛によるアルクタイ攻撃が切欠となって同年11月よりアルクタイの三衛への出兵が起こり[11]、このためか1433年(宣徳8年)7月には安出が福余衛で飢饉が起こったと明朝に訴え出ている[18][19]。
しかしアルクタイは1434年(宣徳9年)中にオイラトに敗れて殺されてしまい、このころアルクタイの遺族に関する記述が散見する。1435年(宣徳10年)2月には「(アルクタイの息子で明朝に降った)アブジアンの妻のバヤン・デギンと息子の著乞孛羅はかつて掠奪され、今は福余衛に居住しているというので、福余衛指揮のアルチュに送還するよう指示した」との記録がある[20][21]。
アルクタイが死去しオイラトによるモンゴル高原統一が達成されたことで三衛の情勢は安定し、1438年(正統3年)[22][23]・1439年(正統4年)[24]・1441年(正統6年)[25][26][27]には通常通りの朝貢が行われた。しかし1441年(正統6年)の後半より三衛と明朝の関係の悪化が顕在化し始めており、まずこの年9月には「(福余衛)野人頭目の率いる300人余りが西方で狩猟を行う」とのアルチュの報告に対して、明側が辺境での掠奪を図るものかと警戒を示したとの記録がある[28][29]。なお、この記録は福余衛の中に野人女直が含まれていたことを裏付ける[29]。また同年10月には明朝がオイラトに派遣した使者がアルタイ山方面で掠奪を受けたが、これは福余衛人による仕業とされ、アルチュらに対して賊と奪われた馬を返還するよう命じられている[30]。
1442年(正統7年)10月にはアルチュと朶顔衛のオルジェイ・テムルが派遣した使者が「チャガンの派遣した貢使が関所まで至っていますが、印信も文字もなく、関所の者によって留め置かれています」と報告している[31]。この「チャガン(察罕)」はモンゴル年代記でチンギス・カンの弟のカチウンの末裔とされるモンケ・チャガンと同一人物ではないかと推定されており、この人物に由来してかカチウン家の勢力は以後「チャガン・トゥメン」と呼称されている[32]。
明朝・女直との戦闘
1443年(正統8年)中、福余衛のアルチュらは前述の明使から掠奪を行った盗賊を捕らえて差し出したが、あわせて盗賊を捕らえた者達に賞賜を増やすよう要求するも、断られている[33][34]。これを受けて同年5月にアルチュら福余衛の有力者らに対し、正統帝より「命令通り盗賊を捕らえて差し出した事、またアルチュが昨年冬に正確な報告を行ったことを鑑み、福余衛の罪は尽く不問とする」こと、またこれ以後も掠奪を行うことがないよう勅諭されている[35]。
正統8年の後半は通常通りの朝貢が行われたが[36][37][38][39]、三衛と明朝の関係は益々悪化しており、1444年(正統9年)2月には明朝で掠奪を行ったアルチュらの部下が内官の韓政によって斬られたとの報告が為されている[40]。このような三衛の動きを受けて正統帝は三衛の行動が改められないようであれば配下の諸将に命じて北征を行わせると通告したが、その結果むしろ三衛がよりオイラトと親密な関係を築くことを後押しする結果となった[41]。同年7月には、福余衛のアルチュより「泰寧朶顔頭目のジョチらは官軍に人畜を掠奪・殺害されており、その報復として人馬を集めて明辺を犯そうとしている。また、エセンが配下の頭目を三衛に派遣し、散在する三衛の人馬を取ろうとしている」との報告がなされた[42][41]。こうして同年末より1445年(正統10年)初頭にかけて朱勇を総司令とする北征軍が派遣されたが、これはさほど大規模な戦闘にはならず[43]、並行して三衛からの朝貢も続けられている[44][45]。
一方で、明朝との出兵と並行してウリヤンハイ三衛は東方の女直とも対立を深めており、さかのぼって1444年(正統9年)9月には肥河衛都指揮の別里格が明朝朝廷の許しを得て三衛に出兵し、格魯坤迭連の地において泰寧衛のジョチと福余衛のアルチュの軍勢を破ったという[46][47]。こうして三衛と女直の対立が悪化していった結果、遂に女直の諸集団が大同団結して泰寧衛・福余衛に出兵する事態となった[48]。この戦役は痛み分けに終わったようで、1445年(正統10年)10月に明朝は福余衛のアルチュ(安出)・ダイドゥ(歹都)らに使者を派遣し、「三衛と女直は皆朝廷が衛分を開設したものであり」「隣境と和睦する」ことを諭した[49][50][51][52]。また同年11月には、「アルチュが報復のため再び配下を率いて海西女直諸部を攻撃するつもりであるとの報告があったが、明朝が使者を派遣してこれを戒めた」との記録がある[53][54][52]。
晩年
明軍の北征、女直の出兵といった危機を潜り抜けた三衛であったが、1446年(正統11年)よりは後ろ盾としていたオイラトからも狙われるようになった。明朝がこの年の正月に泰寧衛のジョチ・朶顔衛のトゥルゲン・福余衛のアルチュに下した勅によると、「三衛はオイラトが『アルクタイの孫を捜索する』との名目で出兵しようとしていることを察知しており、明朝に助けを請うてきたため、正統帝は辺将に三衛を攻撃しないよう命じた。また三衛は女直に使者を派遣して和議を結ぶことも願ったため、その仲介も図った」という[55][56]。ここで挙げられる「アルクタイの孫」とは、アルクタイの息子のホルフダスンとその妻の速満答児のあいだの息子で、速満答児は三衛の首長、特に阿只罕の娘(すなわちジョチの姉か妹)と推定されている[56]。
エセンの三衛出兵は1446年(正統11年)年末に行われたが、一連のオイラト出兵で福余衛も被害を受けたようで、1445年(正統10年)2月には「徒殺」を受けた福余衛が嫩江に逃れ、明朝に招撫を請うたとの記録がある[57]。一連の戦役による影響か、同年12月には息子の卯歹がアルチュの地位を次いで指揮僉事となり、もう一人の息子の可台も指揮同知に任じられた[58][59]。ただしこれ以後もアルチュは福余衛を代表する首長として健在であったようであり、1446年(正統11年)正月[60]・1447年(正統12年)2月[61]・1448年(正統13年)6月に他の三衛当目とともに明朝より勅を下されたとの記録がある。一方で、何らかの事情で卯歹は安出の後継者としての地位から脱落したようで、1452年(景泰3年)9月からは主に可台が福余衛を代表するようになる[62][59]。1453年(景泰4年)には朝鮮に対し、エセンとタイスン・ハーンの戦闘の情勢を番文 (モンゴル文)で伝えたとの記録があるが、これ以後アルチュに関する記録は見られなくなり、間もなく没したようである[63]。
脚注
- ↑ 和田 1959, p. 118.
- ↑ 和田 1959, pp. 139–140.
- ↑ 『明太宗実録』永楽二年四月己丑(十九日),「指揮蕭上都等自兀良哈還、韃靼頭目脱児火察・哈児兀歹等二百九十四人随上都等来朝貢馬。命脱児火察為左軍都督府都督僉事、哈児兀歹為都指揮同知・掌朶顔衛事、安出及土不申倶為都指揮僉事・掌福餘衛事、忽剌班胡為都指揮僉事・掌泰寧衛事、餘及所挙未至者総三百五十七人、各授指揮千百戸等官……」
- 1 2 和田 1959, pp. 192–193.
- ↑ 『明太宗実録』永楽四年十一月甲戌(十八日),「福餘衛都指揮安出弟八禿不花率妻子来朝貢馬七十匹、賜白金綵幣襲衣」
- ↑ 『明太宗実録』永楽六年正月壬戌(十三日),「兀良哈野人頭目乃答児・哈哈纏等率男女八十人餘人来朝貢馬。時福餘衛指揮僉事安出等奏、乃答児有才識、哈哈纏等一十四人善騎射、請授官職。従之。命乃答児等為指揮千百戸、賜誥勅冠帯及襲衣鈔幣有差」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十一年九月甲午(十八日),「泰寧衛都督阿只罕・朶顔衛都督僉事脱児火察・福餘衛都指揮僉事安出、各遣人貢馬。命礼部遣指揮朶児只等、齎綺帛往賜之」
- ↑ 『明宣宗実録』洪熙元年閏七月戊戌(一日),「福餘衛都指揮安出等遣人納馬贖罪、且奏衛印為寇所奪、乞再降。又言暖答失之子帖格歹為大軍所擒、乞赦罪放還。上諭侍臣曰、安出嘗縦所部擾辺、可罪。今云印為寇所奪、夷虜狡詐、未可信。但朕初即位、彼遣使乞矜憫、姑曲恕之。遂命礼部鋳印給之、釈帖格歹遣帰、仍遣使齎勅諭以禍福、令改過自新」
- ↑ 和田 1959, pp. 170-171/249.
- ↑ 和田 1959, p. 228.
- 1 2 達力扎布 1997, p. 19.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳三年五月丁卯(十六日),「陞福餘衛都指揮僉事安出為都指揮同知、頭目古木乃・歹都・孛斎・弗剌歹四人為都指揮僉事、各賜文綺襲衣以皆遣人朝貢也」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳五年二月癸未(十二日),「福餘衛都指揮安出・猛古・歹都等奏云、朶顔・泰寧二衛所部近嘗作過辺境、臣等恐其貽累、故遠避去。今蒙撫諭皆已復業、然慮彼作過者終将累良善、臣已遣人詰責勧誘、使改過自新、如其不悛、臣等請自撃之。上嘉之、特賜勅奨諭之曰、爾守法効忠、朕悉知之。彼若能改過、亦可寛宥。如稔悪不悛、聴爾発兵剿之」
- ↑ 和田 1959, p. 195/255.
- 1 2 達力扎布 1997, p. 17.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年正月戊寅(十八日),「福餘衛都指揮安出等奏、保本衛故指揮使晃火児等子孛羅帖木児襲父職、及頭目都魯禿・脱歓・火児歹里罕・兀失哈剌帖木児・脱脱木児・忙哥脱脱不花、倶為本衛指揮僉事。孛羅答不歹・脱脱倶為泰寧衛指揮僉事。悉従之」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年七月戊午(二日),「遣指揮丁全・趙回来的等齎勅及金織綵幣表裏、賜泰寧衛掌衛事都督僉事脱火赤等・朶頭衛都指揮僉事哈剌哈孫等・福餘衛都指揮僉事安出等、以能綏撫其衆恭事朝廷故也」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年七月丁卯(十六日),「福餘衛都指揮僉事安出奏、歳饑民貧無食欲于辺城貿易以給乞免一年買馬課程。上曰、為君恤人何間遠邇命、所司従之」
- ↑ 和田 1959, p. 255.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳十年二月庚戌(八日),「遣勅諭福餘衛都指揮安出等曰、比得和寧王阿魯台男阿卜只俺。奏其妻伯顔剔斤・男著乞孛羅、昔被掠去、見居爾所。朕念阿卜只俺今已帰附朝廷、授都督之職、為中国臣子矣。故特遣指揮王息等齎勅往諭爾等、如阿卜只俺妻子果在爾処即付息等、領回俾得完聚尚毋稽違」
- ↑ 和田 1959, p. 223.
- ↑ 『明英宗実録』正統三年八月壬申(二十日),「福餘衛都指揮安出遣指揮卜児台、泰寧衛都督脱火赤男討勤遣指揮咬脱歓、朶顔衛都指揮完者帖木児遣指揮乞林禿等、倶来朝貢馬駝。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年八月戊寅(二十六日),「賜福餘衛都指揮安出頭目阿兀歹・泰寧衛已故都督脱火赤男討勤等紵絲織金襲衣綵幣等物、命各衛来使班丹等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年五月乙卯(八日),「朶顔衛指揮納児不花・完者帖木児、福餘衛都督俺出指揮安出・抹那孫等、各遣頭目納台等来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十月壬申(九日),「福餘衛都指揮安出等遣指揮咬納等、朶顔衛頭目乃児不花遣完者帖木児等、倶来朝貢馬賀万寿聖節。賜宴并綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十月庚寅(二十七日),「福餘等衛指揮咬納等、辞帰命齎勅及綵幣表裏。賜福餘衛都指揮同知安出・都指揮猛古乃男帖木児・都指揮申帖干男指揮僉事阿兀歹・都指揮僉事歹都・頭目乃児卜花」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月丁酉(五日),「泰寧衛都督僉事拙赤・都指揮使脱火赤・討勤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事納哈出・火児赤台、福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・申帖干、朶顔衛都指揮使完者帖木児・都指揮同知倒斤・朶羅干、建州左衛都指揮李張家等、各遣使来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差……」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年九月丁酉(四日),「勅宣府総兵官左都督譚広等曰、今得福餘衛都指揮安出奏、本衛野人頭目脱脱罕・也的干・打吉奔等三百餘人、往西捕猟。然其旧嘗入寇、恐假此故欲来擾辺。或聞瓦剌使臣来朝、欲肆劫掠、爾等宜厳為之備、賊至相機剿殺、賊去不可窮追、恐堕賊計、慎之慎之」
- 1 2 Buyandelger 1997, p. 180.
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十月乙酉(二十二日),「行在錦衣衛都指揮僉事陳友言、都指揮康能等蒙遣使瓦剌、至金山地面、被賊劫去馬二百餘匹、訪知是福餘衛人。上勅諭本衛都指揮同知安出、令擒賊与馬送京処治之」
- ↑ 『明英宗実録』正統七年十月甲辰(十七日),「福餘衛都指揮安出・朶顔衛都指揮完者帖木児遣指揮卜台等貢馬、賜綵幣。卜台言、与察罕貢使忽南不花等偕至関、以無印信文字、為守関者所止。彼云、久不朝貢、不知禁例、今尚留関外、以俟進止。上勅総兵官王彧等曰、察罕遠在千里之外、非附辺諸部之比。其使臣忽南不花等如尚在関、即審実発遣赴京。今後凡朝貢人使係衛所属而無印信文字者、照例止之。其遠方初至及往来希闊者、不在此限、不可概行阻遏、以失遠人帰向之心」
- ↑ Buyandelger 1997, pp. 186–187.
- ↑ 『明英宗実録』正統八年四月丁酉(十二日),「遣指揮使季鐸・指揮同知李全等、齎勅諭朶顔衛都揮使完者帖木児・泰寧衛都督僉事拙赤・福餘衛都指揮同知安出及各衛管事大小頭目人等、頒賜綵幣表裏有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年五月丁巳(三日),「福餘衛都指揮安出・都指揮僉事猛古乃子帖木児・指揮可可歹等、遣頭目乃剌忽等貢馬。賜綵幣表裏有差。乃剌忽奏、在辺捕盗有功乞加陞賞。上曰、乃剌忽等卿者有功已嘗賞之矣。今又奏加陞賞論法難容姑曲法宥之。再犯必処以死」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年五月庚申(六日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・都指揮僉事申帖干子阿兀歹・都指揮僉事猛古乃子帖木児、管野人都指揮僉事卜蘭乞及大小頭目人等曰、昔因爾兀良哈三衛部属累次搶劫遼東辺境、特遣指揮王息等齎勅命爾等挨捕賊徒。已聞爾等往各処追捕、既而遣指揮乃剌忽等三十人貢馬謝罪。重念爾部属安分者多、為悪者少、況安出去歳冬曽報寇声息、茲又輸情服罪。其已往罪愆、悉宥不問。所留頭目卜台等、倶已令回還。仍諭爾等挨捕前賊、并追搶去人畜解京。今乃忽剌等回、再諭爾等、宜遵前後勅旨、設法追捕、不許故辺、党蔽悪人、自取重愆。更須厳飭部属、毋令近辺攪擾。敢有違者、守辺官軍剿殺不宥。爾等受朝廷官爵、須感恩思報、同心協力、殄除悪人、保全良善、庶為爾一方生霊之福。如再約束不厳、縦容下人為寇、則天道不容、国法難宥。大軍一去、直搗巣穴、爾父母妻子及一方老幼、皆不可免。爾其深省之」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十月庚子(十九日),「命赤斤蒙古衛正千戸阿速可加児・福餘衛都指揮僉事安出子可台、各為本衛指揮僉事」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十一月丁卯(十六日),「福餘衛都指揮安出遣頭目古納台、泰寧衛都指揮討勤遣使臣悩答児等貢馬。賜宴并賜綵緞衣服靴韈、仍命齎勅及綵緞、帰賜安出及討勤等」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十二月乙未(十五日),「勅諭泰寧衛都指揮使火脱赤・福餘衛都指揮同知安出等、頒賜織金襲衣綵幣表裏等物。命来使指揮土里温等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十二月庚戌(三十日),「福餘衛都指揮安出遣指揮款哥児、兀剌忽衛野人女直舎人苦女、戎地面速魯檀扯列必王遣使臣沙力免力、陝西河州等衛普岡等寺剌麻鎖南爾監蔵等、各貢馬駝玉石及貂鼠皮仏像舎利子。賜宴并賜綵幣襲衣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年二月戊子(八日),「守備独石永寧左参将都督同知楊洪奏、同内官韓政等率領官軍于迤西地名以克列蘇等処俘斬兀良哈安出等部下賊、奪回虜去人畜器械等物。上勅洪等将牛馬給有功官軍、其餘解送京師、仍査官軍功次以聞」
- 1 2 和田 1959, p. 277.
- ↑ 『明英宗実録』正統九年七月庚午(二十三日),「勅縁辺諸将曰、近得遼東総兵等官奏、兀良哈頭目俺出伝報、泰寧朶顔頭目拙赤等部屡言被官軍擒殺人畜、欲収拾人馬犯辺。又言也先見差頭目在三衛、索取以先漫散人口、其情倶未可測。此賊譎詐、毎歳秋冬常為辺患、況今春被官軍擒殺、其党類必有報復之心。爾等宜整搠軍馬器械、預備糧草、如法操練。縁辺関隘墩臺急為修整完固、精選守瞭官軍、勤謹哨望、遣夜不収往来巡探、遇賊入寇、即相机擒剿。務在謀画周慎、用図万全、庶幾軍威振挙、辺境粛清。敢有怠慢辺事、遇賊不能殄滅、及聞隣境有賊推托畏避、不即策応者、倶重罪不宥」
- ↑ 和田 1959, p. 875.
- ↑ 『明英宗実録』正統九年十二月壬申(二十八日),「福餘衛都指揮安出・泰寧衛都指揮納哈出・朶顔衛都指揮同知倒斤等、老哈河等三十餘衛指揮安出哈等、陝西文県羅葛等族寨首番道石革等、湯湯等族剌麻寨首塔児麻堅蔵等、湖広大旺等二安撫司署司事舎人田大望等、広西田州府土官知府岑紹、向武等二州判官董源等并上林長官司長官岑志威、各遣人貢金銀器皿及方物。賜宴并綵幣等物有差」
- ↑ 和田 1959, pp. 869–870.
- ↑ 『明英宗実録』正統九年九月壬寅(二十七日),「初肥河衛都指揮別里格奏兀良哈拘殺其使人、朝廷許其報復。別里格遂同罕河衛都督你哈答等率衆至格魯坤迭連地、与兀良哈頭目拙赤・安出等戦、大敗之。遣指揮咬失以状聞、上賜綵幣奨諭之。時兀者衛指揮莽剌随別里格往諸部互市、格魯坤迭連之戦、達寇悉掠其所齎、莽剌忿其強暴、復請于朝、欲率衆追殺、従之」
- ↑ 和田 1959, p. 284.
- ↑ 和田 1959, p. 283.
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十月戊申(八日),「泰寧衛都督拙赤遣指揮脱脱、福餘衛都指揮安出遣指揮索羅台等各貢駝馬。賜宴并綵幣等物」
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十月庚申(二十日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都及大小管事頭目人等曰、今得爾等奏、女直頭目剌塔等引領人馬、到爾地方、殺掠人畜家財、爾歹都率人馬追逐、奪回人口。今欲復率部属、往彼報讐。然去年冬、剌塔等奏、被爾処部属殺掠其人馬財物、累請擒治。朝廷諭彼令挨尋原賊、依俗賠償講和。爾兀良哈与女直、皆朝廷開設衛分、乃彼此交構報復、論法倶不可容。特念爾等遠人無知、悉置不問。自今各宜謹守法度、毋作非為、与隣境和睦、用図永久。仍宜戒飭部属、凡往来須遠離辺境、恐巡哨官軍一概剿殺難辨、特諭知之。遂并勅泰寧衛都督拙赤・都指揮同知隔干帖木児等各頒賜織金襲衣綵幣表裏、倶命来使孛羅塔等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十月壬戌(二十二日),「福餘衛都指揮安出遣指揮咬納、泰寧衛都督拙赤遣指揮委労児、都指揮火児赤台遣指揮完者禿、沙州衛千戸各洛哥等来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- 1 2 和田 1959, pp. 285–286.
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十一月丙戌(十七日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事阿兀歹・管野人都指揮僉事卜蘭乞及大小頭目人等曰、今得爾等奏、遵勅遣人往朶顔衛跟捕賊首阿魯、彼逃走入山、言欲自赴朝廷請罪、若其奸詐、務要捕獲送解具悉。如阿魯果自来朝請罪、爾等遣人押送前来、量与寛貸。或彼冥頑不悛、爾等擒捕解来、有功者陞賞不吝。如爾等軽玩法度、固蔽凶悪、朝廷軍馬出境搜捕、鋒鏑之下、善悪難辨、災禍所臨、亦爾等所自取。蓋朝廷以賞罰為治、人臣以忠誠為本。改過従善者、罪雖重必宥、恃恩玩法者、罪雖軽必誅。爾等其欽承之」
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十一月己丑(二十日),「勅諭兀者衛都督剌塔等・肥河衛都督僉事別里格等・罕河衛都督僉事你哈答及各衛野人女直衛分都指揮等官頭目曰、今得爾等奏、去年被兀良哈達子劫掠爾女直人畜財物、近者爾往彼報復、得其達子人口、彼復追及爾等、将所得達子人口遣還、就遣人往彼取原掠爾女直人口、遣人来奏。近者福餘衛都指揮安出等亦奏、欲復率部属来爾処報讐。朕以爾野人女直各衛与兀良哈達子各衛皆朝廷開設、皆当以奉公守法為心、乃互相報復、不知悔過、豈保全長久之道。已遣勅切責安出等、不許擅動人馬、敢有近辺者、悉聴官軍剿殺。然彼譎詐反復、素性不常、爾等宜整飭人馬隄備、如彼遠遯境外、爾亦不必窮追。朕以爾女直衛分、忠順朝廷、始終無間、特諭知之」
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年正月壬申(四日),「勅泰寧衛都督僉事拙赤等・朶顔衛都指揮同知朶羅干等・福餘衛都指揮同知安出等曰、茲爾等以正旦節各遣頭目来朝貢馬、特以綵幣表裏付各頭目齎回頒賜及得。爾等奏、瓦剌欲遣人馬于爾処、挨索阿魯台之孫、請朝廷憫恤、及称遇急、欲移部属、潜避辺境山谷、朕従所奏、勅辺将不許侵擾、其阿魯台之孫、聴其来朝保全身命。爾等又奏、欲遣人往女直、与都督剌塔等議和、悉聴其便。但在各守礼分、共図悠久、毋生事啓釁、以取罪愆。朕以爾等忠事朝廷、故以至誠諭之、爾等其欽承毋忽」
- 1 2 和田 1959, p. 289.
- ↑ 和田 1959, p. 293.
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十二月壬戌(二十三日),「命福餘衛都指揮同知安出子卯歹代其父職、陞指揮僉事可台為指揮同知」
- 1 2 和田 1959, p. 419.
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年正月壬申(四日),「勅泰寧衛都督僉事拙赤等・朶顔衛都指揮同知朶羅干等・福餘衛都指揮同知安出等曰、茲爾等以正旦節各遣頭目来朝貢馬、特以綵幣表裏付各頭目齎回頒賜及得。爾等奏、瓦剌欲遣人馬于爾処、挨索阿魯台之孫、請朝廷憫恤、及称遇急、欲移部属、潜避辺境山谷、朕従所奏、勅辺将不許侵擾、其阿魯台之孫、聴其来朝保全身命。爾等又奏、欲遣人往女直、与都督剌塔等議和、悉聴其便。但在各守礼分、共図悠久、毋生事啓釁、以取罪愆。朕以爾等忠事朝廷、故以至誠諭之、爾等其欽承毋忽」
- ↑ 『明英宗実録』正統十二年二月丙申(四日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・泰寧衛都指揮同知隔干帖木児・朶顔衛都指揮同知朶羅干等曰、比聞爾等為瓦剌所侵掠、朕甚憫之。蓋爾部属或有私与往来交通者、屡勅爾等禁約、率不経心、今被其害、実所自取。自今宜戒飭部属、毋聴其誘惑致禍、或有警急声息、星馳奏報。今賜爾等及大小頭目織金襲衣綵幣表裏、分命来使脱木児等齎与、至可領也」
- ↑ 『明英宗実録』景泰三年九月壬寅(十三日),「福餘衛指揮安出男可台遣頭目脱火歓、泰寧衛指揮革干帖木児等遣指揮台榜哈等来朝貢馬。賜宴及綵幣表裏絹鈔有差」
- ↑ 和田 1959, pp. 367–368.
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
- 達力扎布『明代漠南蒙古歴史研究』内蒙古文化出版社、1997年
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