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名張毒ぶどう酒事件

1961年に日本の三重県名張市で発生した殺人事件 From Wikipedia, the free encyclopedia

名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年(昭和36年)3月28日の夜に日本の三重県名張市葛尾(くずお)にあった公民館で発生した大量殺人事件。隣接する奈良県山辺郡山添村と県境を越えてまたがる集落で[3]、懇親会の酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に農薬(テップ剤)が混入され[4]、そのワインを飲んだ女性17人が中毒症状を起こして5人が死亡した[5]。

場所 日本の旗 日本: 三重県名張市葛尾76番地 薦原地区公民館葛尾分館[1][2](現存しない)
座標
北緯34度39分07.4秒 東経136度03分43.7秒
日付 1961年(昭和36年)3月28日
夜 (日本標準時)
概要 酒席で振る舞われたぶどう酒に農薬が混入されており、それを飲んだ女性17人が集団中毒となり、うち5人が死亡した。
概要 名張毒ぶどう酒事件, 場所 ...
名張毒ぶどう酒事件
場所 日本の旗 日本: 三重県名張市葛尾76番地 薦原地区公民館葛尾分館[1][2](現存しない)
座標
北緯34度39分07.4秒 東経136度03分43.7秒
日付 1961年(昭和36年)3月28日
夜 (日本標準時)
概要 酒席で振る舞われたぶどう酒に農薬が混入されており、それを飲んだ女性17人が集団中毒となり、うち5人が死亡した。
武器 ぶどう酒に農薬(ニッカリンT)を混入させる
死亡者 集落の住民女性5人
負傷者 集落の住民女性12人
犯人 奥西勝(事件当時35歳、冤罪との指摘あり)
動機 三角関係の清算
対処 奥西を逮捕・起訴
刑事訴訟 死刑(執行されず獄死)
影響 日本弁護士連合会(日弁連)は冤罪を訴え、再審を支援している。
奥西の家族は事件後、住民らから村八分にされ、村を追われた。
管轄 三重県警察捜査一課・名張警察署(捜査)
津地方検察庁(第一審)、名古屋高等検察庁(控訴審・再審請求)
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事件名 殺人、同未遂
事件番号 昭和44(あ)2560
裁判長 岩田誠
概要 最高裁判所判例, 事件名 ...
最高裁判所判例
事件名 殺人、同未遂
事件番号 昭和44(あ)2560
1972年(昭和47年)6月15日
判例集 集刑第184号637頁
裁判要旨
第一審で無罪を言い渡された被告人に対し、控訴裁判所が事実調のうえ、右無罪判決を破棄し、自ら有罪の判決を言い渡すこと、およびこの場合、右控訴審判決に対し、上訴において事実誤認等を争う途が閉ざされていることは、憲法三一条ないし四〇条またはその精神に反するものではない。
第一小法廷
裁判長 岩田誠
陪席裁判官 大隅健一郎、藤林益三、下田武三、岸盛一
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
日本国憲法31条、刑訴法400条但書、刑訴法405条
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「第二の帝銀事件」として世間から騒がれたこの事件で[6][7]、被疑者・被告人として逮捕・起訴された奥西勝(おくにし まさる、事件当時35歳)は刑事裁判で死刑判決が確定したが、冤罪を訴えて生前9度にわたる再審請求を起こし、死刑確定から43年間にわたり死刑執行が見送られ続けた一方で、再審請求も認められることなく、八王子医療刑務所で死亡した(89歳没)[8][9]。

日本弁護士連合会が支援する再審事件であり、奥西の死後も遺族により通算10次を超える再審請求が続けられている[10]。当事件を題材とした出版物、ドキュメンタリー番組、テレビドラマも多く制作されたが、そのほとんどが「当事件は冤罪である」との立場に立ったものである[11]。

事件経過

奥西勝は1926年(大正15年)1月14日[12][13][14]、事件の舞台となった名張市葛尾(当時は名賀郡薦原村葛尾、後に名張町葛尾を経て1954年〈昭和29年〉から名張市葛尾[15])で生まれた[16]。奥西の生家は村の旧家で、水田0.9ヘクタール、茶畑0.1ヘクタールを耕作しており、葛尾の集落では中流以上の農家であった[17]。奥西は1940年(昭和15年)に名張町の高等小学校[注 1]を卒業した直後[17]、参宮急行電鉄(参急)[注 2]に入社し[16]、西名張駅に勤務したが[17]、1945年(昭和20年)5月に応召され、同年8月に終戦してからは再び西名張駅に戻ったが、農家の長男であるため家業を継ぐことになり、間もなく近鉄を退職した[17]。奥西は地元では「長身の美男子」として評判で[19]、機械いじりが好きだったといい[20]、農家には珍しく自宅の部屋にはテープレコーダーがあったという[18]。後に事件で死亡した奥西の妻も西名張駅で働いており、職場恋愛の末[17]、1946年(昭和21年)には葛尾地区では異例となる恋愛結婚を果たし、長男が誕生した1947年(昭和22年)に入籍した[注 3][18]。両親は「町からきた女では農家に向かない」と反対したが、奥西らは「結婚させなければ家出する」と懸命に説得し[17]、1男1女の子供に恵まれ[16]、農業と日稼ぎに従事していた[21]。事件当日の朝も、奥西は山添村片平の採石現場で働いていた[7]。

しかし1957年(昭和32年)[18]、事件で死亡した被害者の1人である愛人の女性(事件当時36歳)の夫が結核で倒れ[17]、入院した末、1959年(昭和34年)7月1日に死去した[18]。これをきっかけに、奥西は村の習慣として、近所に住んでいた彼女の農事の手伝いに行くようになり、それがきっかけで彼女と急速に親しくなった[17]。また奥西は集落の住民との付き合いが良く、1960年(昭和35年)3月まで「三奈の会」会長[17](4代目[18])を務めていたが、近隣住民いわく、女性関係のゴシップが度々あったという[17]。奥西の妻は、義母である奥西の母親曰く「よく働き、さっぱりした性格」だった一方、愛人は彼女とは違って内気でおとなしい性格であり、その性格から奥西は彼女に強く惹かれていった上、「三奈の会」の会合をきっかけに親しくなり、奥西はこの件で妻と夫婦喧嘩が耐えなかったと報じられている[17]。起訴状によれば1960年10月20日夜、奥西は愛人と会っているところを妻に見つかって不信の目で見られるようになり、愛人も地区の人々から厳しく非難されたため、奥西に対し、11月20日ごろ「これで別れたい」と言っていた[21]。

事件の舞台になった名張市葛尾は、名張市街地から名張川に沿って北西へ約8 km下った場所にある山村で[6]、名張川左岸から西方へ続く山間部に位置し、北、西、南の三方を奈良県に囲まれた集落である[15]。当時の集落の世帯数は25戸(うち7戸が奈良県側、残る18戸[注 4]が三重県側)で、12戸を除いた大半が親族関係にあった[3]。この地は南葛尾・伊賀葛尾と呼ばれる一方、県境を挟んで北東に隣接する奈良県山辺郡山添村葛尾(1956年までは波多野村葛尾)を北葛尾・大和葛尾と呼んでいた[22]。集落は全体が標高400メートルあったが、事件当時は既に簡易水道が完備され、農事有線放送も施設されていた[3]。また数ヘクタールの水田、15 - 16ヘクタールの畑があり、全戸が段々畑の多い農家だった[3]。一方で1戸あたりの耕作面積は0.5ヘクタールで、娯楽施設もないため、農閑期は大半の農家が炭焼きや出稼ぎで暮らしていた[17]。事件当時、葛尾は世帯主から2、3代昔へ遡ればほとんどが兄弟という親類同士の集落であった[6]。また貧しい山村であったことから近親婚が多く、男女関係が乱れていたとも報じられている[17]。事件現場になった公民館近くに住んでいた老人曰く、「警察の世話になるような事件は、終戦の年に七戸焼けたのがただいっぺんあっただけで、その後は警察官の姿なんぞ見たことがない」という[23]。葛尾地区では死者を仮埋葬する際、割竹を曲げた簡単な囲いと2本の竹筒を供え、竹筒に緑のシキビの葉を手向ける習慣があった[18]。

1961年(昭和36年)3月28日、三重県名張市葛尾76番地の薦原地区公民館葛尾分館(現存しない)で[24][25]、地区の農村生活改善クラブ(現「生活研究グループ」)「三奈の会」[注 5]の総会が行われ、男性12人と女性20人、計32人が出席した[7]。総会は19時ごろに始まり、会長挨拶と会計報告、役員改選と新会長挨拶の後、20時ごろから会食が始まった[7]。出席した会員たちはアジフライ、かまぼこ、こんにゃく、ごぼう巻きなどの折り詰めを食べながら祝杯を上げた[28]。「三奈の会」の総会後の懇談会では男性には清酒、女性にはぶどう酒が出されることが定例になっており、この酒の席でもそのように酒が振る舞われたが、ぶどう酒を飲んだ女性17人が急性中毒の症状を訴え、5人が死亡した[21]。この酒席で振る舞われたぶどう酒は、大阪府大阪市浪速区西円手町(現在の浪速区桜川および同区稲荷)の西川洋酒醸造所が製造した「三線ポートワイン」[注 6]であり、女性たちはこの1升瓶入りぶどう酒を分けて飲んでいた[28]。総会開催については同年3月10日の定例会で決定し、同月26日に役員たちが当日出す酒や料理などについて相談、折り詰めの料理や清酒2升を出すことが決まっていたが、この時は会長が欠席したため、予算がはっきりせず、ぶどう酒が出されることは事件当日、会長の取り計らいで決まっていた[7]。死亡した被害者は奥西の妻(事件当時34歳)と、「三奈の会」会長の妻であり、奥西の隣家に住んでいた女性(同30歳)、前「三奈の会」会長(同25歳)、奥西の愛人(同36歳)、そして36歳女性の計5人である。犠牲者の戒名は明王院の師僧・渡辺舜竜[注 7]が命名したが、いずれも「椿」から始まっていた[18]。また一時はもう1人の女性(当時35歳)も死亡したと見られていたが[28]、後に奇跡的に息を吹き返したものの、彼女を含む2人が重体であると報じられていた[27]。事件現場となった葛尾公民館は真言宗醍醐派蔵福寺の本堂で[30]、最初の建物は明治初期に建てられたが[31]、後に火災で焼失したため、直後に事件当時の木造平屋建て70平方メートルの姿に再建されたものであり、地区に集会所がなかった事情から[30]、太平洋戦争後は地区公民館としても利用されるようになっていた[31]。建物内には4畳半の仏間、そして建物中央には6畳の集会室2室があり、集会室2室が事件現場となった[30]。事件後の1985年(昭和60年)3月、近くに新しい葛尾公民館が完成したことでこの建物は役割を終えたため[30]、1987年(昭和62年)12月13日に取り壊され、跡地は公園になった[31]。蔵福寺の新しい本堂は旧葛尾公民館(旧本堂)隣の敷地に建設され[31]、1988年(昭和63年)11月6日に落慶法要が営まれた[32]。また死亡した被害者5人が葬られた葛尾公民館横の墓地の脇には、七回忌供養が行われた1967年(昭和42年)3月26日、供養塔(聖観音菩薩像の高さ1.5 m+台石の高さ3 m)が建立された[33]。

捜査

三重県警察は事件発生の翌29日[34]、名張警察署に合同捜査本部を設置して捜査を行い[35]、中毒症状はぶどう酒を飲んだ女性17人にのみ見られたことから、ぶどう酒の飲み残りや吐瀉物などを調べ[27]、ぶどう酒に農薬のテップ剤が混入されていると断定した[36]。ぶどう酒以外の清酒や折り詰めからは有害物質は検出されなかった[7]。テップ剤は1959年ごろまで葛尾地区の農家が共同で購入し、害虫駆除に用いていたという[36]。軽症だった被害者の1人曰く、ぶどう酒から石油のような臭いがしたという[3]。名張署から連絡を受けて駆けつけた名賀医師会長の夏秋忠雄は、事件の惨状を見て「すぐに帝銀事件の惨状を思い起こした」と語った上で、ぶどう酒中のメチールならば手足をバタつかせるような症状があるはずだが、被害者たちにはそれがなかったこと、また青酸性中毒にしては症状が出るのが遅かったことから、農薬など有機性リン酸系の毒物が原因だろうと考察していた[3]。

その後、県警は重要参考人として「三奈の会」会長の男性(当時35歳)、会長の親類かつ隣家に住んでいた奥西勝(当時36歳)、そして会員の男性(当時20歳)の3人から事情聴取を行った[36]。ぶどう酒を酒店で購入したのは20歳男性で[36]、彼は17時前、名張市薦生の酒店でこのぶどう酒を購入、17時10分に清酒2升とともに会長宅前まで運び入れ、それから17時20分 - 25分ごろまで会長宅の前に置かれていたが、検察官はこの間は会長宅には複数人が出入りしており、常に目の付く状態になっていたため、瓶にテップ剤を入れることは不可能な状態だったと主張している[7]。会長は当初、死亡した自身の妻がぶどう酒を会場に運んだと供述していたが、奥西は事件当日の17時30分ごろ、会長の母親から「酒を公民館まで運んでほしい」と頼まれ、自身がぶどう酒と清酒2本を事件現場となった公民館分館に運んだと供述していた[36]。会長は当初、妻に頼まれて釘で瓶の金属製外栓を開けたと供述した一方、20歳男性は自身が奥西の妻に頼まれて歯で開栓したと供述したが、2人とも王冠を開けてから栓を抜いたのではないと語っていたことから、2人が瓶を手にする以前に王冠は既に取られていたのではないかとも報じられていた[37]。なお、捜査本部は現場の「意外なところ」から歯型のついた王冠、金属製外栓、封緘紙を押収したという[37]。酒が購入されてから事件発生までの6時間内にぶどう酒の瓶に触れた人物はこの3人と、死亡した会長の妻の計4人のみだった[36]。3人のうち、奥西の妻と愛人がともに死亡した被害者だった[17]ことから、捜査当局は、「三角関係を一気に解消しようとした」ことが犯行の動機とみて、奥西を追及した。奥西は4月2日、妻が乳状のものをぶどう酒に入れるのを見たと供述、捜査本部は一旦は奥西の妻の単独犯行と断定したが、奥西に対する嫌疑も捨てきっておらず、引き続き奥西を取り調べた[17]。同日深夜、奥西はそれまでの「妻の犯行」とする供述を翻し、自らがぶどう酒に農薬を混入したと自白、翌3日4時に殺人および殺人未遂の容疑で捜査本部に逮捕された[20]。逮捕直後の3日12時30分から約10分間、奥西は名張警察署で記者会見に応じた[20]。その際の自供によれば、奥西はかねてから愛人との三角関係で妻との間に不和が生じていたことから、2人を殺して三角関係を清算しようと決意、事件前日の3月27日17時30分ごろ、自宅にあった女竹(直径2センチメートル)を長さ6センチメートル程度に切断、その竹筒の中に[20]、事件前年の1960年(昭和35年)8月9日に市内の薬品会社から購入した農薬「ニッカリンT」[21]を3分の2程度入れ、新聞紙を固めて蓋をした上で隠しておいた[20]。そして事件当日の28日17時20分ごろ、まだ誰もいなかった薦原公民館葛尾分館の中の囲炉裏端で、宴会用に準備してあったぶどう酒の瓶(1.8リットル)の蓋を外し、竹筒からニッカリンを混入して蓋を元通りにしたという[20]。ニッカリンはもともと100 ccの瓶に入っていたが、残りが入った瓶は名張側の笠間川(名張川支流)に捨て、竹筒は公民館の囲炉裏火で焼いたと自供した[20]。これを受けて県警は名張川で瓶の捜索を行った[20]。この捜索では署員や地元民だけでなく、鳥羽市の「東海サルベージ」所属の潜水夫ら2人も動員されたが、捜索前日の雨や上流域の護岸工事の影響で川の水が濁っていたことから、発見には至らなかった[38]。その後、上流域の工事を一時中断した上で鳥羽市の海女5人を動員して捜索を行ったが、やはり瓶は発見できず[39]、大規模な捜索は13日に打ち切られた[34]。捜査本部は4日夕方に奥西を津地方検察庁へ書類送検し[40]、翌5日には身柄を送検した[38]。その後、いったんは検事拘置のまま名張署で取り調べを行っていたが[38]、捜査本部は13日に事件捜査が一段落したとして奥西の身柄を三重刑務所へ移し、同日付で捜査本部を解散した[34]。捜査本部は設置から解散までの16日間で捜査員延べ1000人を動員した[34]。

奥西は逮捕後の取り調べ中から再び否認に転じ、津地検からの最終取り調べでは妻による犯行説を主張したが[35]、4月24日に殺人、殺人未遂容疑で津地検から津地方裁判所へ起訴された[21]。この時点で奥西の犯行を裏付ける決定的な物的証拠はなかったが、地検は本人の自供と状況証拠を中心に取り調べにあたった末に起訴しており、公判維持に自信を見せていた[21]。

裁判の経過

確定判決

同年6月16日に津地方裁判所(小川潤裁判長)で刑事裁判の第一審初公判が開かれ、津地検次席検事の菊池慎吾が起訴状を朗読、主任弁護人の長井源ら3弁護人が公判に立ち会った[7]。被告人の奥西は罪状認否で、起訴状の公訴事実のうち、三角関係や農薬購入、会場へのぶどう酒運搬などの事実は認めたものの、犯行は全面的に否認した[41]。それ以来、判決公判までに16回の公判が開かれ[35]、検察側・被告人側とも「動機」「毒物投入の機会の有無」について争ってきた[42]。

初公判以来、第一審公判は最初の論告求刑公判までに1年1か月と異例の迅速さで進められ、その間に公判は11回開かれ、現場検証も3回にわたって行われた[43]。1961年8月の第3回公判で、検察官は警察庁科学捜査研究所に依頼したぶどう酒の瓶の王冠を証拠品として提出、それにあった傷は歯でつけられた可能性が高く、奥西の右側の歯に類似していると考えられ、毒物を入れたという奥西の自白と一致すると主張した[44]。一方で奥西の弁護人は、奥西には当時2人の子供がおり、妻と愛人を殺さなければならない事情はなかったとした上で、奥西が会場で約10分間にわたって1人でいる時間はなく、王冠についても鑑定が曖昧だと反論した[44]。

1962年(昭和37年)4月27日の第11回公判で論告求刑が行われ[45]、検察官は犯人は奥西であり、奥西の妻ではないと主張する論告を行った上で、「自己の無責任な快楽を追求し、その破局を多数の罪なき人びとの犠牲で解決しようとして5人を殺し、12人を重軽症におとしいれた行為はきわめて残虐である」として、奥西に死刑を求刑した[46]。一方、弁護人(主任の長井と杉浦、吉住の3弁護士)は同年5月16日の最終弁論で、奥西の自白には信用性はなく、また「三角関係の清算」という動機についても、通常は3人とも死を選ぶ、あるいは妻と愛人のどちらかを殺す、どちらかの女と心中するといった3つの方が一般通念となっており、「本件のように女だけ二人を殺し、自分は生きのびるという清算方式は、これまでに前例がなく、またそのようなことはあり得ない」として、奥西には殺人を行う動機はなかったことや、ニッカリンTを入れて持ち運んだ竹筒を焼いたという公民館の囲炉裏に残っていた灰からニッカリンTが検出されなかった一方、現場検証で行った実験ではニッカリンTが検出されたことから、「囲炉裏で焼き捨てた」という自白は真実ではなく、また奥西が犯人ならば絶対見つからないように処分するはずのぶどう酒の封緘紙が会場の押し入れから発見されるなど、奥西が犯人であるならば不自然な状況が見られること、そして奥西の歯型とされるぶどう酒の栓についた傷も「歯牙痕」という仮定の上に立って鑑定されたものであり、証明力はないことなどを訴え、完全無罪を主張した[47][45]。判決公判は当初、同年6月13日に開かれる予定だったが、結審後の5月30日には主任弁護人の長井が「事件当時奥西は歯を治療したあとでとてもブドウ酒の王冠を歯であけられる状態ではなかったことを医師のカルテで立証する」「事件の前日に奥西は避妊器具を買っているが、これは犯意のなかった証拠であることを立証する」として、津地裁に弁論再開を申し立て、津地裁もこれを認めたため、判決言い渡しは延期され、審理が再開されることになった[48]。判決公判が予定されていた6月13日には上野簡易裁判所で非公開の審理が行われ、弁論が再開されるとともに、事件当時の奥西のかかりつけ歯科医ら5人が証人として出廷、7月5日に改めて奥西宅の現場検証、翌6日に上野簡裁で奥西の母ら4人の証人尋問を行い、同月18日に津地裁で公判を再開するという予定が決まった[49]。同年8月、津地裁は職権で、唯一の物的証拠とされた王冠の歯型について、古田莞爾(名古屋大学教授)、井上剛(金沢大学教授)、船尾忠孝(慶應義塾大学助教授)の3人に対し、再鑑定を求めた[44]。1963年(昭和38年)7月の第16回公判で、古田は王冠の歯型は奥西のものだとする鑑定結果を証言した一方、1964年(昭和39年)10月の第17回公判で、条痕は奥西のものとは断定できないとする井上と船尾それぞれの鑑定書が報告された[44]。津地裁は井上と船尾に対する出張証人尋問を行い[44]、1964年(昭和39年)11月30日の第18回公判で[45]、異例の再論告求刑、最終弁論が行われて結審した[35]。検察官は再論告で、古田鑑定は率直、明快であり、王冠は明らかに奥西の右の歯で噛んだものだとして、犯人は奥西であると主張[44]、犯罪史上重大かつ残虐な犯行であり、情状酌量の余地はないとして、奥西に死刑を求刑した[45]。一方で弁護人は、古田は警察、検察庁での奥西の自供を参考としており、それらはいずれも奥西が犯行を否定し始める以前の任意性のないものに基づいたため、古田には鑑定に臨む際に先入観があったことを指摘[45]、再開公判後の現場検証で、検察官が主張する犯行の手口(奥西が事件前夜、自宅風呂場付近で竹筒にニッカリンTを入れて準備し、それを事件当時にぶどう酒に入れた)は[44]、現場の照明が暗すぎて不可能であることが判明しており、竹筒を焼いた公民館の囲炉裏の灰からも竹の炭化物やリンが検出されていないとも主張[45]、また検察官の調査はすべて奥西の自白に基づくものであり、証拠は不十分であるとして無罪を訴えた[44]。なお公判中、奥西の父親は葛尾地区班長に勧められて創価学会に入信、三重刑務所に拘置されていた奥西も続いて入信していた[44]。

1964年(昭和39年)12月23日に第一審の判決公判が開かれ、津地裁(小川潤裁判長[50])は検察側の死刑求刑を退け、奥西に無罪判決を言い渡した[42]。津地裁は判決理由で、自白の任意性を否定しなかったが、目撃証言から導き出される犯行時刻や、証拠とされるぶどう酒の王冠の状況などと奥西の自白との間に矛盾を認め、検察官が挙げた物的証拠・状況証拠をほぼ全面的に退けた上で、証拠不十分を理由に奥西を無罪とした[42]。閉廷後、奥西は拘置先の三重刑務所から釈放された[35][51]。一方で葛尾の集落(17戸)の住民たちは「やったのは勝以外にはない」と死刑判決を確信していたため、無罪判決への不満、そして奥西への怒りを吐露していた[44]。津地方検察庁はこの判決を不服として、名古屋高等裁判所に控訴した。釈放後、奥西は息子とともに三重県四日市市に居住し、ガソリンスタンドの店員として働いていた[50]。

控訴審は1965年(昭和40年)11月20日の初公判以来、15回の公判が開かれ[52]、1969年(昭和43年)7月16日の第15回公判で[53]結審した。同年9月10日10時から名古屋高裁刑事第1部(上田孝造裁判長、斎藤寿・藤本忠雄両陪席裁判官)で控訴審判決公判が開かれ、同高裁は第一審の無罪判決を破棄自判し、奥西に逆転死刑判決を言い渡した[52]。このころ以前から、日本では死刑判決を言い渡す際は主文を後回しにして判決文を判決理由から読み上げる慣例があったが、上田裁判長は死刑判決の主文を冒頭で宣告した[54]。奥西は閉廷後の同日10時45分、名古屋拘置所に収監された[52]。名古屋高裁は、目撃証言の変遷もあって犯行可能な時間の有無が争われたことについて、時間はあったと判断、検察官が証拠として提示した王冠に残った歯形の鑑定結果(警察鑑定、古田鑑定、松倉鑑定)も充分に信頼できるとした[55](弁護側鑑定人の日本大学歯学部助教授は、王冠に残った痕跡から犯人の歯型を確定するのは不可能である、とした)。奥西は判決を不服として最高裁判所(最高裁)に上告した。

1972年(昭和47年)6月1日、最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告審の公判が開かれ[56]、奥西の弁護人を務めた杉浦酉太郎は口頭弁論で、この事件のように第一審(無罪)と控訴審(死刑)それぞれの判決で極端な違いが出る場合、被告人に3回裁判を受ける利益を保障する憲法の精神からみて、控訴審が原判決を破棄して有罪の自判判決を言い渡すことは許されないとする憲法違反の主張に加え、控訴審判決は証拠判断を誤っており、第一審判決における認定の方が正しいとする事実誤認の主張を行い[57]、第一審で無罪とされたのはそれなりの根拠があったためであり、「疑わしきは罰せず」の原則に立つべきだと訴えた[58]。同月6日、第一小法廷は判決公判を同月15日に開くことを決めて関係者に通知した[59]。そして同月15日の判決公判で、第一小法廷は控訴審が第一審の無罪判決を破棄し、自ら有罪を言い渡しても憲法の精神・規定や最高裁の判例には違反しないとして憲法違反の主張を退け、また事実誤認の主張も適法な上告理由に該当しないとして退け[57]、名古屋高裁の原判決に対する奥西の上告を棄却する判決を言い渡した[57][60][61][62]。判決訂正申立も同年7月4日付で同小法廷が出した決定[事件番号:昭和47年(み)第8号]によって棄却され[63]、翌日(7月5日)付で奥西の死刑が確定した[24][25]。事件発生から11年3か月目で言い渡された最終判決であり[64]、この判決が言い渡された際、地元の葛尾集落(名張市葛尾の16戸および、隣接する奈良県山辺郡山添村葛尾の7戸)では歓喜の声が沸き[50]、「異様な喜び」「異状な興奮」と報じられた[50][65]。

最高裁によれば、有罪か無罪かの事実認定をめぐって一・二審の判断が相反し、第一審の無罪判決が控訴審で破棄されて逆転死刑判決が言い渡され、それが確定した事件は、第二次世界大戦後の司法改革に伴い現行の刑事訴訟制度が発足して以来初めてだった[60]。

再審請求

第6次再審請求まで

1974年(昭和49年)、1975年(昭和50年)、1976年(昭和51年)、1977年(昭和52年)、1988年(昭和63年)と5次にわたる再審請求はすべて棄却された。1980年(昭和50年)9月に請求審で初の現場検証、1986年(昭和61年)6月に請求審で初の証人尋問が行われた[66]。1988年12月14日、名古屋高裁刑事第1部(山本卓裁判長)が再審請求を棄却した[24][67]。

奥西の母親は息子である勝の無実を信じ、獄中へ励ましの手紙を送り続けていたが、1988年(昭和63年)11月4日、脳梗塞のために山添村の親類宅で死去した(88歳没)[32]。奥西には事件当時、長男(13歳)と長女(6歳)がいたが、彼ら兄妹は別々の親類に引き取られて育てられた。奥西の長男は関西地方へ移住し、一時は父との縁を切ったものの、後に関係を修復、父親が無実を勝ち取ったら一緒に暮らしたいと願っていたが、2010年(平成22年)3月に癌のため、62歳で死去した[68]。奥西の長男は遺言として、父の無罪が確定して釈放されるまで、自身の死を父に知らせないでほしいと伝えていたが、彼の叔母である奥西の妹は2012年5月25日の第7次再審請求取り消し決定を受け、これ以上隠し通せないとの判断から、兄である奥西に彼の死を伝えたという[68]。

1993年(平成5年)3月31日、名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)は第1部決定に対する弁護側の異議申立を棄却する決定を出した[25][69]。4月に弁護団が最高裁に特別抗告したが、1997年(平成9年)1月28日、最高裁第三小法廷(大野正男裁判長)は特別抗告を棄却する決定を出した[70][71]。

1997年(平成9年)1月30日、弁護団が名古屋高裁へ第6次再審請求[72][73]。

1998年(平成10年)10月、名古屋高裁刑事第1部(土川孝二裁判長)は「記載形式からしても、関係者から直接聞いたものではなく、また聞きで記載したものと推認され、新証拠にはあたらない」として第6次再審請求を棄却する決定を出した[74][75][76]。この決定に対して弁護団は異議申立を行った[77]。

1999年(平成11年)9月10日、名古屋高裁刑事第2部(笹本忠男裁判長)は「請求人の意見を聴いたうえで決定しており、手続きに違法な点は無い」として異議申立を棄却する決定を出した[78][79]。弁護団は「審理を尽くしていない」として最高裁に特別抗告した[80]。

2002年(平成14年)4月、最高裁第一小法廷(町田顯裁判長)は「捜査、公判、再審請求審を通じて一貫していた主婦の供述と比べ、ノートの記述は、署長が捜査官から伝え聞いた情報を書き留めたものと推認され、証拠価値は乏しい」として弁護団の特別抗告を棄却する決定を出した[81]。

第7次再審請求

名古屋高裁第1刑事部

2002年(平成14年)4月10日に弁護団が名古屋高裁へ第7次再審請求[62]。

2005年(平成17年)2月1日、犯行に使用されたぶどう酒の毒の成分について鑑定書を作成した鑑定人が出廷し、農薬がぶどう酒から検出されなかったことについて「別の農薬が使用されたと考えれば矛盾なく説明できる」と述べた[82]。

2005年(平成17年)4月5日、名古屋高裁(第1刑事部・小出錞一裁判長)は再審開始を決定した[62][83][84][85]。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。王冠を傷つけずに開栓する方法がみつかったこと、自白で白ワインに混入したとされる農薬(ニッカリンT、有機リン系の殺虫剤、TEPP(テップ)剤の一種)が赤い液体だと判明したこと、残ったワインの成分からしても農薬の種類が自白と矛盾すること、前回の歯形の鑑定にミスが見つかったことなどが新規性のある証拠だと認めた[83][84]。なお、小出錞一は2006年(平成18年)2月に依願退官した。

名古屋高裁第2刑事部(検察の異議申立)

同年4月8日、検察側は、ニッカリンTは析出されていた白い液体の物が回収されずに、事件当時は白い液体と赤い液体と混合して流通していたことなどの異議申立を行った[86][87][88]。これを受け、2006年(平成18年)9月に毒の特定について、名古屋高裁は弁護側鑑定人を証人尋問した[89]。

同年12月26日、名古屋高裁第2刑事部(門野博裁判長)は「事件当時、飲み残しを検査するまで時間がかかっており、不純物が検出されなかったとしても決しておかしくはない。ニッカリンTが犯行に使われた可能性は十分にある」とした上で「状況証拠によって奥西死刑囚が犯行を行ったと十分に認定でき、再審を開始する理由は認められない」と結論付けて再審開始決定を取り消す決定をした[62][90][91](死刑執行停止も取り消し)。

最高裁(弁護側の特別抗告)

これに対し、弁護側が2007年(平成19年)1月4日に最高裁に特別抗告したところ[92]、最高裁は2010年(平成22年)4月5日付決定[62]で、犯行に用いられた毒物に関し「科学的知見に基づき検討したとはいえず、推論過程に誤りがある疑いがある。事実解明されていない」と指摘し[93]、再審開始決定を取り消した名古屋高裁決定を審理不尽として破棄し、審理を名古屋高裁に差し戻した[94]。田原睦夫裁判官は、同最高裁決定で補足意見として「事件から50年近くが過ぎ、7次請求の申し立てからも8年を経過していることを考えると、差し戻し審の証拠調べは必要最小限の範囲に限定し、効率よくなされるべき」と述べている[95][96]。翌日に弁護団は「第7次再審請求最高裁決定についての弁護団声明」を[97]、また同じ日に日本弁護士連合会(会長・宇都宮健児)は「名張毒ぶどう酒事件第7次再審請求最高裁決定についての会長声明」で[98]、「すでに重大な疑いが存在することは明らか」であるから原決定を取り消したうえで最高裁の判断で再審開始決定すべきだったと述べ、差し戻ししたことを「遺憾である」と批判した。また、日本国民救援会(会長・鈴木亜英)も、2010年(平成22年)4月7日付の会長声明「名張毒ぶどう酒事件第7次再審最高裁決定について」で、「『再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる』という1975年の白鳥決定の見地からすれば、差戻しによってさらに審理を継続させることなく、自判して、再審開始決定を確定させるべきであった」と述べている[99]。

2010年(平成22年)3月上旬、名古屋拘置所で面会した特別面会人によれば、再審開始が決定された布川事件や、再審無罪が確実視されていた足利事件などに触れた際、奥西は「布川や足利はよかった。私も最高裁決定に非常に期待している」と述べたという[100]。

名古屋高裁(差戻審)

2012年(平成24年)5月25日、名古屋高裁(下山保男裁判長)は「捜査段階での被告人の自白に信用性が高い」と看做し、検察側の異議申立てを認めて本件の再審開始の取り消しを決定[62][101]。これに対して被告人弁護側は5月30日、最高裁判所へ特別抗告を行った[102]。日本弁護士連合会(日弁連)は「新証拠によって生じた疑問が解消されていないにもかかわらず、検察官も主張しておらず、鑑定人さえ言及していない独自の推論をもって、新証拠が『犯行に用いられた薬剤がニッカリンTではあり得ないということを意味しないことが明らかである』として、再審請求を棄却した」と、この決定を非難している[103]。

最高裁(弁護側の特別抗告)

2013年(平成25年)10月16日、最高裁判所第一小法廷(桜井龍子裁判長)は名古屋高等裁判所の再審取り消し決定を支持し、第7次再審請求にかかる特別抗告について棄却する決定を下した[104]。

第8次再審請求以降

同年11月5日、弁護団が名古屋高裁へ第8次再審請求を申立[62]。翌2014年(平成26年)5月28日、名古屋高裁刑事第1部(石山容示裁判長)は請求を認めない決定をした[62][105]。決定理由で、弁護団が提出した証拠について「全証拠と総合考慮したとしても、確定判決に合理的な疑いを生じさせるものではない」などと指摘。「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとはいえず、再審は認められない。第7次請求と同一の証拠、同一の主張で、もともと請求権は消滅していた」と結論づけた。約半年で判断を示した理由として、「奥西死刑囚の健康状態の悪化と加齢の程度」を挙げた。2015年(平成27年)1月9日、第8次再審請求異議審において、同高裁刑事2部も同1部の決定を支持、検察側、弁護側との三者協議を一度も開かずに審理を終え再審請求を却下した[62]。

2020年(令和2年)10月28日、ぶどう酒瓶の王冠を覆っていた封かん紙から、製造段階とは違う市販の「のり」成分が検出されたとする再鑑定の結果を、第10次再審請求の異議審が行われている名古屋高裁に新証拠として提出した[106]。弁護団は「封かん紙が貼り直されたことが明らかになった。真犯人が偽装工作をした可能性を示している」と主張している。さらに2021年(令和3年)10月27日には、前年提出した鑑定結果を補強する専門家の意見書などを新証拠として提出した[107]。

2022年(令和4年)3月3日、名古屋高裁第2刑事部(鹿野伸二裁判長)は弁護団の異議申立てを退け、再審請求を認めない決定をした[108]。

奥西の死とその後

奥西は2012年(平成24年)5月に肺炎を患い体調が悪化、名古屋拘置所から八王子医療刑務所に移送され、人工呼吸器を装着して寝たきりの状態になっていた[109][110][111][112]。

2014年(平成26年)4月19日には、日本で生きている死刑囚で最高齢となった[113]。2015年(平成27年)5月15日、名古屋高裁へ第9次再審請求を申し立てた[62]。また同日、最高裁への特別抗告を取り下げた[62]。取り下げの理由について、弁護団は「奥西さんの病状を考え、新証拠を早期に裁判所で審理させる必要があると判断した」と説明していた。

奥西は2015年(平成27年)10月4日午後0時19分、かねて患っていた肺炎のため、八王子医療刑務所で死亡した[8][9][114][115][91]。89歳没。奥西の死亡に伴い、名古屋高裁は同月15日、第9次再審請求審の終了を決定した[62]。11月6日、奥西の妹が名古屋高裁へ第10次再審請求を申立[116][91]。

2017年(平成29年)12月8日に名古屋高裁(山口裕之裁判長)は、弁護団が提出した新証拠について「無罪を言い渡す明らかな証拠に当たらない」として再審請求を棄却し[62][117]、2024年(令和6年)1月29日には最高裁が特別抗告を棄却し判断が確定した。しかしながら、判事宇賀克也は、澤渡鑑定には高い信頼性が認められること、確定判決の有罪認定には合理的な疑いが生じることなどを理由に、証拠の明白性を欠くとして本件再審請求を棄却すべきものとした原々決定及び原決定はいずれも取消しを免れず、再審を開始すべきであるとする反対意見を表明した。一連の再審請求で初めて最高裁で反対意見が付せられた[118]。

2026年(令和8年)1月22日、奥西の妹らは名古屋高裁に第11次再審請求を行なった[10]。

事件後

事件を受けて1961年4月4日には衆議院地方行政委員会で警察庁長官の柏村信雄、厚生省薬務局長の牛丸義留、農林省振興局植物防疫課長の石倉秀次が喚問され、阪上安太郎・田中栄一の両衆議院議員から農薬「テップ」の取扱状況や、農薬の野放し管理を追及され、牛丸は当時「一般毒物」として特に取り締まり対象になっていなかったテップを「特定毒物」に指定する方針や、毒物及び劇物取締法の改正の意向を示した[40]。犯行に使われたと認定されている「ニッカリンT」は日本化学工業が製造していたが、1969年(昭和44年)に製造中止となっている[119]。テトラエチルピロホスフエイト(テップ)は1969年12月31日付で農薬指定を外されている。

地域の事情

事件当時の葛尾は娯楽に乏しく、総会に際して行われる宴会は数少ない楽しみの一つだった。奥西が逮捕された当初は、「犯人が特定された」という安堵により、むしろ奥西の家族をサポートしようという呼びかけが行われた。しかし、奥西が否認に転じたことを知ると、集落ぐるみで家族への迫害や差別が始まった。こうした村八分の結果、家族が葛尾を去り市内に転居すると、これを口実に共同墓地にあった奥西の家の墓は墓地隣接の畑に一基だけ追い出された。

葛尾は事件当時、人口100人程度の集落であった。奥西が無実であった場合、葛尾の中に真犯人がいる可能性が高いと思われたため、地域の「和」に再び波風を立てる結果になることを恐れたとの声もある。一方、小さな集落が全国区で話題になったことへの反発もあった[120]。なお事件当時、「三奈の会」会長を務めており、参考人として事情聴取されていた男性は2012年6月13日、17年間の闘病生活の末に87歳で死去した[68]。

映像作品

  • 『NNNドキュメント』「裁きの重み 名張毒ブドウ酒事件の半世紀」(中京テレビ制作、2006年11月26日放送)
  • 『クローズアップ現代』「揺らぐ死刑判決 〜検証・名張毒ぶどう酒事件〜」(NHK総合テレビ、2010年4月8日放送)[121]
  • 『毒とひまわり〜名張毒ぶどう酒事件の半世紀〜』(東海テレビ、2010年6月19日放送)[122] ナレーション:仲代達矢
  • 『約束 〜名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯〜』(東海テレビ、2012年6月30日放送)[123]
  • 『テレメンタリー』「悲願 〜再審の扉と証拠開示〜」(テレビ朝日、メ〜テレ名古屋テレビ放送制作、2015年1月27日放送)
  • 『ふたりの死刑囚』(東海テレビ制作の映画。鎌田麗香監督作品。ナレーション:仲代達矢。2016年1月公開)- 奥西勝と袴田巌(1966年に静岡県で発生した一家4人殺害放火事件で死刑が確定したが、2023年に再審開始が確定)の2人を題材にしたドキュメンタリー。
  • ドキュメンタリー劇場第11作『眠る村 〜名張毒ぶどう酒事件 57年目の真実〜』(東海テレビ、2018年4月1日放送)ナレーション:仲代達矢[126]2019年2月、映画化。
  • 『いもうとの時間』:奥西の妹である岡美代子を追った、2025年(令和7年)1月公開開始のドキュメンタリー映画。東海テレビでドキュメンタリー制作を手掛ける阿武野勝彦がプロデュースし、この事件の取材・映像の蓄積やこれまでに放映した番組をもとに制作した[127][128]。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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