天津事件 (1931年)
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第二次天津事件
事件の経緯
11月17日、在天津総領事桑島主計は外務大臣の幣原喜重郎に対して、「関東軍の土肥原賢二が現地でクーデターを画策し、便衣隊を組織した上で現地の保安隊を買収しようとしたが逆に内通され、保安隊は寝返るどころか警備を厳重にしたため暴動が失敗したので予定にあった溥儀の連れ出しに切り替えた」という旨の報告を行った[2]。
天津市政府は7日の時点で日本を除く各国領事館に対して日本租界を起点として反乱が起こるので注意されたしと伝え、また商店に夜間営業を取りやめるよう布告を出していた[3]。この情報は地元紙を通じて一般市民にも流布され、中国語が読める日本人によって日本人居留民にも流布されたため軍部の謀略への不満を公言する居留民もいたという[4]。
本事件は「関東軍の土肥原による溥儀の連れ出し」として語られがちであるが[5]、『片倉日誌』によると土肥原の天津派遣は「現地における反張学良運動の統制と促進」が目的であったという[6]。このことから土肥原は当初天津におけるクーデターを主目的としていたが、それが失敗したので予定にあった溥儀の連れ出しだけを行ったようである。
第二次事件については史料や証言がほとんど残っておらず細かい経緯や真相は不明となっている[4]。