小室ファミリー

小室哲哉がプロデュースしたアーティストたちの総称 From Wikipedia, the free encyclopedia

小室ファミリー(こむろファミリー)とは、音楽家音楽プロデューサー小室哲哉がプロデュースまたは楽曲提供した歌手音楽ユニットを呼ぶ総称である(芸能人ファミリー)。小室のイニシャルを取ってTKファミリーとも呼ばれる。

1999年10月20日、小渕恵三首相(右)からの依頼で制作した『Happiness×3 Loneliness×3』のCDを小渕に贈呈する小室哲哉(左)
2000年7月11日、九州・沖縄サミットテーマソングとして制作した『NEVER END』のCDを森喜朗首相(中央)に贈呈する小室哲哉(左)とファミリーの1人である安室奈美恵(右)

本項では、小室ファミリーに関連して「小室ブーム」と呼ばれる社会現象についても解説する。

概要

小室ファミリーに入るための明確な定義はないが、小室プロデュースの曲が代表曲になると、たとえ1曲の提供であってもファミリーだと世間的に認知されることが多い。また、小室の関連人物(久保こーじなど)がプロデュースした人物もファミリーとして扱われる場合がある。後者の例としては天方直実がある[注釈 1]

篠原涼子東京パフォーマンスドール時代を含む)やTRFをはじめ、小室がプロデュースするのはおおむね2年から3年程度であり、globeのように10年以上も続くというのは稀有である[注釈 2]。これは契約期間が最初から定まっているためであり、「いずれは小室の手から離れてアーティストを送り出す」という意味合いもある(「#衰退期」の項も参照)。また、dosKiss Destinationなど、解散宣言が出されないまま自然消滅したグループもある。

なお、自身が手掛けたアーティスト・作品が世間から「小室ファミリー」「小室サウンド」とカテゴライズされることについて、小室自身は「僕自身の口から『TKサウンド』って言ったことは一度もない」[1]「小室ファミリーって広告代理店かどこかが作った言葉で、僕は一度も口にしたことはないですし、皆さん、ワン・バイ・ワンでやってきたつもりなんですね。例えば、安室さんだったらジャネット・ジャクソン、華原さんだったらマライア・キャリー、hitomiさんだったらアラニス・モリセットみたいな感じで当てはめるようにそれぞれプロデュースしてきたので、モータウンとかデフ・ジャムみたいな括りでやっている感覚はなかった」[2]と語っている。

また、ファミリーの1人とされる華原朋美も「私も『TKファミリー』って名前がついていたんですけど、誰がファミリーって言ったんだろうって思って。誰1人ファミリーなんて思ってないですよ」「TKファミリー内で仲の良かったアーティストは全然いない。みんなリリースの時期が近かったっていうのもありますし、1位を獲りたいという気持ちがすごい。TKのプロデュースだとみんなそう思っている。だからみんな敵なんです」[3]と語るように、ファミリーとしての連帯感が必ずしもあったわけではない。

主なファミリーメンバー

小室ファミリーとされない例

以下の人物およびグループについては、基本的に当ファミリーとしては扱われないことが多い。

小室ブーム

1994年から1997年の3年弱、小室哲哉がプロデュースする楽曲がオリコンチャートの上位を埋め尽くす現象が発生した。メディアはこれを小室ブームと評した。

初期

1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[4][5][6][7]。ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。でも、歌う曲はサザンオールスターズ松任谷由実さん・ZARDのような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている[8]。しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[9]

しかし、小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」「EPICはロックのレーベルなのに、ダンスなんて軽薄だ」と議論が巻き起こった。これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMのメンバー・ソロミュージシャンとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった[注釈 3][11]。それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた[12][13]。形態として「avexに小室を貸している」[14]「演奏権は確かにEPIC側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」[13]と丸山が体裁を保障することで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる活動収入・印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が[13]、「エイベックスとの仕事で生じた小室の収入の数%」をEPICが頂く[14]形をとり[注釈 4]、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」[16][17]「音楽プロデューサーとしての活動で生じる収入」[注釈 5]「テレビ・イベント等への出演料」[15]は小室の取り分になった。

1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え[19]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[20][注釈 6]。その時の目標となったのが、ジ・オーブの作品群・活動スタイルであり[注釈 7]、「TM・trfに共通する僕のすごくポップな部分が生まれる切っ掛けになった」と話している[23]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[24]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[25]

そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性[注釈 8]を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[28] というコンセプトから来たものである。小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している[29]

全盛期

1994年のTMN終了前後から、観月ありさ篠原涼子trfhitomi内田有紀H Jungle with tdosglobe華原朋美安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。ソニー・ミュージックエンタテインメント丸山茂雄が小室のプロデューサー活動を支援するためにアンティノスレコードを設立し、マネジメント業務もアンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)とエージェント契約を結んだ[30][18]

作詞家・作曲家としての小室は音楽出版社「アンティノス・ミュージック」と専属契約を結んだ。例えば、エイベックスに所属するTRFのプロジェクトに小室がプロデューサー・作詞家・作曲家として参加すれば、プロデューサー料はマネジメント会社「アンティノス・マネジメント」に入り、著作権印税は原則的に「アンティノス・ミュージック」を経由して、「アンティノス・マネジメント」に入っていった[18]

その後、trfの「EZ DO DANCE」(最高位15位)「寒い夜だから…」(初登場16位、最高位8位、当初はノンタイアップ)などがロングヒットし、中森明菜の「愛撫」がアルバム曲ながら注目を集めたのを規にプロデュース業を本格化。東京パフォーマンスドール篠原涼子が「篠原涼子 with t.komuro」名義で出した「恋しさと せつなさと 心強さと」が、初登場27位からチャート1位まで上昇し、大谷健吾が原宿を中心に人気を集め(オリコン「The Ichiban」などのアンケートで上位に入った)、ここからプロデューサーとしての小室哲哉に注目が集まった。trfは「survival dAnce 〜no no cry more〜」「BOY MEETS GIRL」「CRAZY GONNA CRAZY」など5作品連続でミリオンセラーを記録、ダウンタウン浜田雅功に「H jungle with t」名義で提供した「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」が予言通りダブルミリオンを獲得したことでプロデューサーとしての地位を確固たるものにした(→小室哲哉提供楽曲一覧参照)。

プロデュース手法の構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマン・レコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイング長戸大幸のプロデュース手法[注釈 9]スティーヴン・スピルバーグの制作現場マネジメントの手法[注釈 10]を参考にしたとされる。実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた[30][18][34]。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し[7]、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った[35]

1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙により1996年に終了している。

1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞[36]。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いても構わないし[注釈 11]、最初から最後まで見てくれてもいい。アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません。レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・キャッチコピーと取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい。ライブの内容やスケジュールも監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり[16][32][20][39][40][41]、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し[42]、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないで代理店のスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った[16][43]。小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった[44]。このことから、楽曲提供のみに留まらずエンジニアリングからA&R業務までのプロジェクト全体を統括するプロデューサーとして業界内でも期待を集めた。

1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーし、楽曲製作以外の部分を肩代わりする存在の出現が望まれ(1994,オリコン年鑑など)、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)とバーニングパブリッシャーズなどバーニンググループによる集団管理体制が次第に構築された事務所「TKルーム」が新設、完全に移管される。これに伴い、この時期以降の安室奈美恵を除くほとんどの小室作品は、バーニングパブリシャーズが音楽出版上の原盤権を所有している[注釈 12]。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートし[45]、同時期に制作・生活拠点をロサンゼルスに移した[46]

この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程[9] のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」[47]「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽ができるようになる。自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」[18]「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」[44] と割り切った意見を述べた。

Mr.Childrenなどのプロデューサーとして知られる小林武史とイニシャルが同じことから「TK時代」「ダブルTK」「哲武ミリオン時代」と呼ばれた[48][49]。小室は「仕事の仕方は鏡に映る自分を見るようで、そっくりです。ただ小林さんは男性ボーカル・ロック・バンド系をプロデュースする。僕は女性ボーカル・ダンス・打ち込み系をプロデュースと対極にあるんです。この二つが互いに刺激し合ったおかげで、お互いにミリオンヒットが生まれたんだと思います」と語っている[48]

1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した[36]。1996年はglobeのアルバム「globe」が当時のオリコン記録を更新し、歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録。安室奈美恵のアルバムも330万枚を超え、華原朋美のアルバムも250万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した[50]。さらに1996年から2年連続で高額納税者番付において全国4位を記録、1997年の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった[50]。1996年末には海外進出を狙いルパート・マードックと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した[50]

1997年には、ハリウッド映画『スピード2』のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った[50]。8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、活動拠点をアジアに定めた。「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか?』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた[46][51][52] が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にデータ転送の速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」[53][54]「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオに逃げたかっただけだった」[55][56] と語っている。

この体制のもとで1995年には自身がリーダーを務めるglobeがデビューし、恋人だった華原朋美やユーロビートのカバーでブレイク寸前だった安室奈美恵などのプロデュースで大成功を収め、1996年にはオリコン週間チャート上位5作品を小室作品が独占、1995年から1998年にかけては4年連続で日本レコード大賞を提供曲が受賞するなど数々の記録を残した。電通内に小室哲哉チームが作られ、コンサートの冠スポンサー、ウェブサイト「TK Gateway」との連携など単なるタイアップ曲の枠を越えて重層的なメディアミックスが仕掛けられた。その一方で、同時期に華原は予想外のブレイクによりアイドル歌謡曲指向への転換を余儀なくされ、リミックスアルバムが発売中止となり、レゲエやヒップホップを取り入れたH.A.N.D.は1年も経たずにプロデュースが終わり、海外向けプロジェクトEUROGROOVEも終了するなど、ブームの加熱によって方針転換を強いられた事も少なくなかった。

1995年から1999年までは『ASAYAN』などで小室名義のオーディションが数回企画されたり、TVCMやテレビアニメ主題歌とのタイアップを付けて有望新人を小室プロデュースでデビューさせることが流行った。しかし、鈴木あみ(現・鈴木亜美)以外思うような売上が出ず、皮肉にも同じファミリーメンバーでの競争も起こった[注釈 13]。このような形態でデビューし、現在も活動している歌手は非常に少ない。

1997年1月1日には、これまでにプロデュースや楽曲提供を手掛けたアーティスト達に賛同を求め、結成したコラボレーショングループ「TK PRESENTS こねっと」名義のシングル『YOU ARE THE ONE』をリリース。この曲は、NTTが主導する学校教育におけるインターネットマルチメディア環境の普及を目的とするチャリティー・プロジェクト『こねっと・プラン』のテーマソングとして制作された。なお、「こねっと」とは「小室ネットワーク」ではなく「子供(こども)ネットワーク」を意味する[57]

衰退期

1997年前半まではミリオンセラーを連発していたが、この頃から既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がポップテイストからエレクトロへ変化している点(特に安室奈美恵の楽曲が顕著)、同年夏に小室とエイベックスの関係性の急速な悪化により松浦勝人と絶縁した影響で[58][59]globeが一時活動停滞したことや、翌年1998年にはTRFhitomiらのプロデュースが無くなり、小室ブーム全盛期の中心にいた安室奈美恵は出産のため休業し、ミリオンセラーを叩き出した華原朋美も小室との恋愛関係の清算による離脱をしたこと等、複合的要因で小室ファミリーの規模が縮小。同時期に新たな音楽性をもつJ-POPアーティスト(バンドブームを牽引したGLAYL'Arc〜en〜Ciel、若年層のアイドルブームを牽引したSPEED、エイベックス内で脱小室派閥が進んで勢いをつけたEvery Little Thingなど)が台頭し始め、小室ブームの勢いは少しずつ落ちていく。エイベックスと絶縁後はTM NETWORK時代の古巣であるソニーと専属プロデューサー契約を結び、マネジメントも委託。さらに、数十億円を報酬金(印税)の前受金として受け取る。

1996年以降、小室以外のプロデューサー(avex創業メンバーや伊秩弘将など)やA&Rの台頭により、小室ファミリー以外の歌手(主にグループ)によるミリオンセールスのCDが増え始めた。これと反比例するように1999年頃から小室楽曲の作風がアンダーグラウンドに変化し、小室プロデュース作品の勢力は衰え始めていくことになる。

以降、小室のマネジメントが迷走し、同年4月の華原「Hate tell a lie」を最後にミリオンセラーがなくなるなどブームは急速に失速していく。この年は2月の安室「CAN YOU CELEBRATE?」が年間シングルランキング1位、3月のglobe「FACES PLACES」が年間アルバムランキング3位を獲得したものの、夏以降はglobeの活動が停滞する。翌1998年には安室が産休に入り、アルバムではglobe・安室・華原のアルバムがミリオンセラーを記録するものの、シングルでは小室作品がTOP30にランクインしないなどその失速は急激なものであり、同年globe第40回日本レコード大賞を受賞したのを最後に、一連の賞レースから遠のくこととなった[注釈 14]

一方で小室ファミリーの契約期間終了などによる、自身の所属するglobeを除き、所属していた歌手の小室プロデュースからの撤退・独立が相次いだ。

1998年にはtohko鈴木あみ未来玲可をプロデュースしたものの、1996年前後の小室ブーム全盛期と比べて勢いは劣っていた。

翌1999年以降は明確なサビを持たせた楽曲展開をやめ、globeTRUE KiSS DESTiNATiONらを使って小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、トランスなどを日本のJ-POPに導入しようと試みたが、時代の先取りであった為、一般には受け入れられなかった。しかし、そこですでに最新の音楽を日本に取り入れていたのは、ある意味での功績とも言える。また、更なる世代交代で新しいアーティスト(若干15歳ながら数々の金字塔を打ち立てた宇多田ヒカル、エイベックスの脱小室派閥による戦略で女子生生を中心とした若者にブレイクした浜崎あゆみ、鈴木あみと同じオーディション番組ASAYANからデビューし、つんく♂のプロデュースでブレイクしたモーニング娘。など)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げは落ち、それ以後はglobe関係の活動がほぼ小室のウエイトを占めるようになった。

そしてこの頃から、小室自身が日本の音楽シーンの中心からやや離れたプログレトランスに傾倒し、ミリオンセラーに届くヒット曲を出さなくなった。

CD不況に突入するゼロ年代に向け、CDバブル崩壊の1998年から2000年にかけて小室ブームの縮小は下記の影響を受けた。

これらの影響が一気に押し寄せたことに加え[注釈 21]、2000年に小室系として唯一ミリオンセラーを達成していた鈴木あみが「Reality/Dancin' in Hip-Hop」を最後に歌手活動停止状態に陥り[注釈 22]、安室も2001年にはセルフプロデュースに移行し、小室ブームは事実上終焉した。

上記のアーティスト・バンドの台頭には「価値観と感覚の相違・引退を意識させられた」程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたいときに作れて、鍵盤を弾けるときに弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた[65]

小室ブームが終焉に差し掛かった2000年3月に、1993年以降の小室プロデュースによる楽曲CDの累計発売枚数が3000万枚を突破したことを記念して、avex traxから当時の小室ファミリーの集大成として3枚組のコンピレーション・アルバムARIGATO 30 MILLION COPIES -BEST OF TK WORKS』(ASIN B00005ECC5) が発売された。

この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」[66]小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップのような音楽を目指したいと思った」[67] と心境の変化を語った。長年小室のマネージャーを務めた丸山茂雄も「権限を与えすぎたことは大きな誤りだった。小室さんとアーティストには音作り・楽曲選び・歌に専念させるべきだったのに、アーティストの選定、テレビCM・ドラマ・映画等の出演先のマネジメントまで一切を任せてしまった。その範囲にまで2人で『どれを選ぶか』を悩んでいると立ち止まってしまう。映像部門専門のマネージャーを別に用意すべきだった。実際に初期の鈴木あみはその辺を全く別の事務所が担当して上手くいっていたのに、それ以降のほとんどの活動に小室さんがマネージャーとして首を突っ込ませたのはいけなかった」と後悔と反省を多分に含んだコメントを出している[68]

その後

小室は2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受報酬(印税)18億円の返還を求められることになり、この返済と自身の浪費のために借金を重ねることになる。

そして2008年に小室は詐欺事件が原因で逮捕、活動停止状態に陥るが、同時期から小室の楽曲が再び注目されるようになる。その後、2010年に小室は活動を再開し新曲を発表する一方、小室ファミリー出身者のメディア登場も再び活性化する。

上記の活動再開後は小室自身に加え、ファミリー出身者では特に華原朋美とTRFメンバーのメディア登場が活発化しており、小室ファミリー時代の楽曲について取り上げられる機会が増えた。

2008年11月時点で発表された小室がそれぞれ作詞作曲編曲プロデュースを手掛けた楽曲の総売上枚数は1億7000万枚以上であり、これは日本の音楽家では歴代1位の記録である(作詞家では歴代4位・作曲家では歴代2位)。

2011年には、自身が務めるユニット・globeのボーカルで妻のKEIKOがクモ膜下出血によって一命は取りとめたものの、呂律や後遺症を患ってしまったため、現在ではリハビリなどを両立しながら自宅にて療養中である。実質的に小室とマーク・パンサーのみでの活動として専念をしている。そのため、大型音楽番組での出演の際には、他アーティストとセッションをする試みとなっている。KEIKOに関しては、同ユニットがデビュー20周年を記念したイベントの際に、ごく僅かながら音声のみでの出演を果たした(事前に小室自身のスマートフォンで通話をした際に録音されたものである)。

ブーム終焉後でも、フジテレビFNS歌謡祭』『FNSうたの夏まつり』、日本テレビTHE MUSIC DAY』、TBS音楽の日』、テレビ朝日ミュージックステーションウルトラFES』、テレビ東京テレ東音楽祭』などの各テレビ局の大型音楽番組や「小室ファミリー」「小室ブーム」を特集で扱う番組に、小室が中心となって小室ファミリーが集結して定期的に出演してヒット曲のメドレーを披露している。

2021年に小室とKEIKOの離婚が成立。この際財産分与が争点となり、小室は現在も印税による粗利益が年に1億円あるとされており、経費や税金を差し引いても手取りで数千万の収入があると報道された[69]

主なチャート記録

独自のヴァージョン表記

  • 小室ファミリーのシングル作品は、1曲目にオリジナル・ヴァージョン、2曲目にリミックス、3曲目にカラオケ・ヴァージョンを収録することが多かった。その際、オリジナル・ヴァージョンのことを小室独自の表記として、「Straight Run」(ストレート・ラン)と表記することが多々あった(「Original Mix」など一般的に使われる表記も一部ある)。

小室ブームに対する評価

小室は自身の起こした現象について、「ただのクリエイターでいられた時間は少なかった」[70]「締め切りやスポンサーのオファーの内容やテーマと常に向き合っていた」[71]「記録は喜ばしいのに、人に喜びを素直に伝えられないくらい周囲が信用できなかった。周囲に勝手に持ち上げられた、あの絶頂期は二度と味わいたくない」[72]「スポンサーの注文を受ける途中で、自分のやりたい音楽を見つける様に努力したけど、順番をひっくり返すほどにはできなかった。だから純粋に『僕の作る音楽が面白い』と言ってくれるような現象は当時は起こり辛かったんですね」[73]「好き勝手できたのはTRFとglobeだけ」[74]「本格的にヴォーカリストとして育てる部分まで関われたのはKEICOだけ」[75]「週刊誌や月刊誌のように3日に1曲、アルバム用の楽曲を含めると1年で最大で100曲作っていて、そういう時期が2年位続いた」[76]と周囲の状況にがんじがらめにされて、休む暇がなかったことを吐露している。

宇都宮隆[77]木根尚登[78]久保こーじ[78][79]丸山茂雄[13]浅倉大介[80][81]YOSHIKI[82]等、小室と旧知の仲の人物からはプロデュースする相手の小道具・ファッション・立ち振る舞いから、メディアへの出方や舞台での設計への意見する様、権利関係まで目を通す姿勢に感銘を受けた[78]

坂本龍一[83]GOH HOTODA[84]松尾潔[85][86]亀田誠治[87]等、日本の既存の制作ノウハウに海外の最新のトレンド、リスナーの心を掴むテクニックを持ち入れ、新しいスタンダードを作り上げたことを称賛した。

ただし、槇原敬之[88]阿久悠[89]吉松隆[90]玉木宏樹[91]の様にメロディのパターンの固定化・テーマの伝え方を表立って批判する者もいた。

羽島亨[92]南田勝也[93]田家秀樹[94][95]市川哲史[96]鹿野淳[97]小佐野彈[98]等、「サビ頭→Aメロ→Bメロ→サビ(半音上げ)+(低音ビート+4つ打ち+金属系高音リズムのハイハット)」を基本とした奇抜な楽曲構造のメインストリーム化、ブルー・ノート・スケールを取り入れたアレンジ、女性のリスナーが「歌いたい」と思わせる世界観作りを評価する音楽評論家の称賛が多く出た。

枡野浩一は一人が全てを担当することで、作詞家の居場所がなくなってしまうことを危惧していた[99]

影響を与えた人物

松本孝弘[100]伊藤賢治[101]広瀬香美[102]t-kimura[17]☆Taku Takahashi[103]八木沼悟志[104]J.Y.Park[105]中田ヤスタカ[106]前山田健一[107]澤野弘之[108]等、後の世代のアーティストが小室の作曲家・編曲家としての方向性、TM時代からのキーボーディストとしての立ち位置、音楽プロデューサーとしての姿勢と立ち回り方に感銘を受けたことを告白している。

特に澤野は小室の表舞台に出なくても、存在感が出せる立ち振る舞い方に大きな感銘を受けたことを告白している[108]

脚注

参考文献

関連項目

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