旭川電気軌道東川線

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現況 廃止
所在地 北海道
起点 旭川駅(貨)
終点 東川駅
東川線
1001型東旭川農村環境改善センター2006年10月
1001型
東旭川農村環境改善センター2006年10月
基本情報
現況 廃止
所在地 北海道
起点 旭川駅(貨)
終点 東川駅
開業 1927年2月15日
全通 1929年10月20日
廃止 1973年1月1日
運営者 旭川電気軌道
路線諸元
路線距離 15.5 km
軌間 1,067 mm
電化方式 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線
(廃止当時)
STR
函館本線
BHF
旭川
STR+l eABZq+l ABZgr
STR exDST STR
0.0 旭川 (貨)
STRr exSTR STR
富良野線
exBHF STR
1.5 旭川一条 *
exSTR STR
旭川市街軌道四条線
exBHF BHF uexKBHFaq
1.8 旭川四条
exSTR STRl
宗谷本線
exBHF
2.3 四条廿丁目
exBHF
2.8 牛朱別
exBHF
3.5 旭川追分
exABZgl
東旭川線
exBHF
4.7 二号線
exBHF
5.4 千代田
exBHF
6.3 四号線
exBHF
7.0 観音
exBHF
7.7 坂ノ上
exBHF
8.4 旭正
exBHF
9.6 上旭正
exBHF
10.6 上七号線
exBHF
11.4 十号
exBHF
12.2 九号
exBHF
13.1 西川
exBHF
13.8 西六号
exBHF
14.9 東川学校
exKBHFe
15.5 東川

*: 路線廃止時は貨物駅

東川線(ひがしかわせん)は、旭川電気軌道が同社の東旭川線と共に運営していた軌道路線である。旭川市旭川四条駅東川町を結ぶ郊外路線であり、旅客貨物の軌道運輸事業を行なっていた。1972年(昭和47年)12月末をもって軌道営業を終了した。

東川は上川盆地米作地帯として知られており、旭川電気軌道は旭川と東川を結ぶ農村鉄道として機能し、旅客・貨物ともに重要な地域交通機関であった。なお、開通から廃止まで電気機関車を持たず、電車貨車を牽引していた[1]

1929年の旭川市街軌道の開業後は、旭川市民からは旭川電気軌道は「郊外電車」と呼ばれて区別されていた[1]

沿線の道路整備とモータリーゼーションの進行で、旅客・貨物の減少による経営難に加え、沿線住民による廃止運動が起こり、旭川市からも軌道廃止要求がなされたことから、1972年(昭和47年)12月31日の運行を最後に東旭川線とともに廃止された[2]

東川線・東旭川線廃止後も、旭川電気軌道はバス会社として存続し、長く一部のバス停留所の名称には電車時代の駅の名称がそのまま引き継がれてきたが、2010年代半ば頃以降、電車時代から名称が引き継がれてきたバス停の改称が進められている(例:旭川追分→豊岡3条2丁目、4号線→東郵便局前、観音→共栄営業所前など)。

旭川電気軌道の社紋は軌道廃止後も「旭」の字をレールを組み合わせた丸で囲ったデザインが使われている。また、2026年 (令和8年) 2月から、電車のパンタグラフをモチーフにした新たなロゴマークの使用を開始している[3]

歴史

東川の有志を中心に旭川との間を結ぶ鉄道敷設が計画され、1925年(大正14年)11月30日に「東川軌道」の称号で1067 mm軌間の蒸気軌道として軌道敷設特許を得た[4]。旭川市内の軌道敷設予定地沿線に人家が多く、将来も増加する見込みとの理由で動力を変更して電気軌道として開業した[4][注釈 1]

当初の起点は4条20丁目の道路上に設けられた四条駅であったが、農産物出荷と旅客利便のため鉄道省との連帯運輸を目論み、1926年(大正15年)に四条駅と鉄道省旭川駅とを結ぶ軌道敷設特許を申請した。しかし、旭川駅の構内事情を理由に旅客営業は許可されなかったため、いったん貨物線として軌道敷設特許を得たあと、交通量の多い宮下通りとの交差箇所である宮下通18丁目付近から四条駅までの旅客営業許可を申請し、1927年(昭和2年)に旭川一条駅と四条通駅(のちに四条駅を吸収し旭川四条と改称)を設けて旅客運輸営業を開始した。ところが当初よりこの区間の旅客は少なく、10年後の1937年(昭和12年)に旭川一条駅を廃止して旭川一条 - 旭川四条間の旅客営業を取り止め、旭川駅 - 旭川四条間は貨物輸送のみとなった。短期間とはいえ旭川一条駅が旅客の起点となったことは当時の全国時刻表にも記されているが、従前の雑誌記事等ではほとんど触れられていない。

開業後、市街地中心部への路線延長を計画するが他3事業者との競合出願で紛争状態になったため果たせず、旭川市議会が調停に乗り出しその内2社と旭川電気軌道の計3社で旭川市街電鉄を設立し、程なく旭川市街軌道と名称を変更した上で1929年(昭和4年)に最初の路線を開通させている[5]

1929年(昭和4年)には同社の東旭川線が開通して旅客運輸を開始し、翌年終点の旭山公園まで全通した[4]。同社軌道線の全線が完成し、旭川追分で東川線に接続して旭川四条まで乗り入れ運転を実施する。

1949年(昭和24年)3月27日早朝に車庫の風呂場から出火し、車庫及び車両を焼失・破損した[6]。全くの無傷だった電車は東川終点に留置の20号1両のみで[6]、路線の存廃も検討するが[5]札幌市電より四輪単車2両を借り受け、地元バス会社からのバスをチャーターするなどして、従来より大型化した新造ボギー車100型の竣功までをしのいだ[6]戦後の輸送は貨物が1960年(昭和35年)頃、旅客が1965年(昭和40年)頃をピークとして以降は減少し、1963年から1965年には赤字に転落した[7]

無人駅化や外注化の実施、1968年(昭和43年)には旧旭川市街軌道の後身である旭川バスを吸収して競合路線の整理と事業の効率化をはかるなどしたが、施設の老朽化と沿線住民による軌道廃止運動が高まり[2]、毎年の株主総会では廃止・バス転換を推進する会社側と、国鉄連絡貨物輸送の存続を望む沿線農協等の株主側とで攻防が繰り広げられた。1970年代に入ると国鉄宗谷本線の高架工事の進捗に合わせて旭川市も軌道廃止を要請するようになり、貨物のトラック輸送が可能となったのを受けて農協が廃止に合意し、1972年(昭和47年)の大晦日を運行最終日として運輸営業を終了した[2]

年表

  • 1925年大正14年)3月10日:東川軌道が軌道敷設特許申請(旭川市 - 東川村、7 M 64 C、1067 mm、蒸気動力)
  • 1925年(大正14年)11月30日:東川軌道に軌道敷設特許[4][1]
  • 1926年(大正15年)
    • 1月28日:旭川軌道を設立し、社名変更
    • 10月7日:起業目論見書記載事項変更認可(動力を電気に)
  • 1927年昭和2年)
    • 1月15日:定款変更届(社名を旭川電気軌道に)
    • 2月15日:追分(のちの旭川追分) - 十号間 開業[1]
    • 3月6日:十号 - 東川間 開業
    • 3月10日:四条(のちの旭川四条) - 旭川間軌道敷設特許(貨物線として)[1]
    • 4月12日:四条 - 追分間開業[1]
    • 10月15日:四条 - 旭川一条間旅客運輸営業許可
    • 10月20日:四条 - 旭川間 開業(旭川一条 - 旭川間は貨物のみ)[1]
  • 1929年(昭和4年)12月30日:同社の東旭川線の旭川追分 - 東旭川市街間が部分開通[1]。東川線旭川追分から旭川四条までの乗り入れ運転を開始
  • 1930年(昭和5年)12月26日:同社の東旭川線が旭山公園まで開通(軌道線の路線が全通)[1]
  • 1937年(昭和12年)11月11日:旭川四条 - 旭川一条間旅客営業廃止(旭川四条 - 旭川間を貨物のみとする)
  • 1949年(昭和24年)3月27日:車庫火災が発生、使用車両の一部が焼失・破損[1]
  • 1968年(昭和43年)5月14日:旭川バスを吸収合併
  • 1972年(昭和47年)
  • 1973年(昭和48年)1月1日:運輸営業廃止実施[1][2]

路線データ(廃止時)

駅一覧

*:交換可能駅、#:路線廃止に先だって廃止された駅

  • 旭川四条駅 - 四条廿丁目駅# - 牛朱別駅# - 旭川追分駅* - 二号線駅 - 千代田駅* - 四号線駅 - 観音駅* - 坂ノ上駅 - 旭正駅* - 上旭正駅* - 上七号線駅 - 十号駅* - 九号駅 - 西川駅* - 西六号駅 - 東川学校駅 - 東川駅
  • (貨物線)旭川四条駅 - 旭川一条駅 - 旭川駅

接続路線

事業者名は東川線営業当時のもの

運行形態

線路は大部分が北海道道212号旭川大雪山層雲峡線(現・北海道道1160号旭川旭岳温泉線)の道路上に敷設されたが、旭川市中心部の4条通と東川町の市街地部分では道路の中央に、それ以外の大部分は道道の北側の路肩部分に敷設されており、郊外電車のような様相を呈していた[2]。また、車両も鉄道用の大型のもので路面電車のようなステップがないため、道路中央に設置された駅でもプラットホームがあった。起点の旭川四条駅、運行の拠点となる旭川追分駅、中間集落の上旭正駅と西川駅、終点の東川駅には駅舎があり、また交換駅であった旭正駅も含め各駅付近は専用軌道であった。

1969年(昭和44年)当時の東川線は旭川四条始発6:40、終発21:35で、おおむね1時間毎の運行であった(旭川追分までは東旭川線と30分毎の交互運行)[8]。ラッシュ時間帯は列車を2本、閑散時は1本使用。旭正駅で列車の行き違いがあった[8]。全線所要時間約40分。

農産物等を輸送する貨物列車も当社の経営の大きな柱であったが、機関車は保有せず貨車を電車が牽引していた[1][9]。貨物運行は不定期で、旅客列車のダイヤの隙間を運行した。ピークの1960年(昭和35年)の輸送量は87,119 tで、石油類、米、肥料、石炭等が主要な貨物であり[8]、電車がタ2700形タキ1500形等のタンク車を牽引して路面軌道上を走る姿も見られた[4][9]。秋に収穫し農協倉庫で貯蔵された米を出荷する12月には終夜運行を実施していた[7][8]。貨物は定期列車に牽引されることもあった。

車両

電車の集電装置については1954年にトロリーポールからパンタグラフへと変更されているが、車庫内にクレーンがあるため架線高さが高く、パンタグラフが使用できないことから一部車両については廃線までトロリーポールも存置されていた[8][9]

6, 8, 10
梅鉢鉄工所1926年製。開業に際して用意された四輪電動客車[10]。設計認可は1926年10月16日。定員50名(座席22立席28)。電動機日立製26.25 kW×2。1949年の車庫火災で破損し、6は廃車となったものの、8は国鉄旭川工場、10は自社工場にて修繕し復旧した。8は後述のコハ051入線に合わせて廃車、10は老朽化で著しく車体が歪み、正面に筋交いを打ちつけた姿で廃線まで貨車の入れ替え用として姿を留めていた。廃線後、旭川市内で「喫茶店ウメバチ」となったものの後に閉店、解体された。
12, 14, 16
名古屋電車製作所、製造年不詳。1928年に増備された[10]。元名古屋鉄道501、507、508(同鉄道で1930年廃車届)。設計認可は1930年12月4日。定員60名(座席34立席26)。電動機はウエスチングハウス製EC221型50HP×2。12と14は1949年に老朽化を理由により廃車届。16は1949年に付随客車化の改造認可を得るが、実際には、廃車となった電車の台枠に国鉄ナハ10084の木製車体を載せた急拵えの客車が2代目16を名乗った[10]。後述のモハ1001入線に合わせて廃車されたという。
18, 20, 22, 24
日本車輌、1930年製。東旭川線全線開業に際して用意された四輪電動客車[10]。設計認可は18と20が1931年9月28日で定員56名(座席20立席36)、22と24が1932年5月11日で定員50名(座席20立席30)。電動機は東洋電機製36.8 kW×2。1949年の車庫火災で破損した18、22、24は書類上、80人乗りボギー電動車(101-103)への改造認可を得た。20は火災に遭わず、晩年は屋根に作業台を付けた工事用車両となった[8][10]
モハ101-103
日本車輌、1949年製。書類上は同年の車庫火災で破損した18、22、24を復旧の際に改造するとして設計認可を得ているが、実際には新製されたボギー電動客車。改造認可は1950年3月16日。定員80名(座席30立席50)。電動機は東洋電機製37.8 kW×4。廃線まで主力として運用され、廃線後はモハ101が東川町郷土館で大切に保存されている[11][10]。モハ102は1973年4月に旭川追分駅で解体された。
モハ1001
日本車輌、1955年製。ノーシル・ノーヘッダのスマートな車両で、ドアエンジン付き。全長18 m の大型車[10]。製造当初よりラジオ放送をスピーカーより流す装置をメーカーオプションにより備えていた。設計認可は1955年9月9日。定員120(座席60立席60)。電動機は東洋電機製60 kW×4。廃線後、旭川市立郷土博物館に置かれていたが、現在は東旭川農村環境改善センターで大切に保存されている[11][10]
モハ501
日本車輌、1956年製。定山渓鉄道モハ100形の車体や部品を利用して製造されたとされているが[10]、台車や各種部品などが1001と共通設計である。ドアエンジン付き。設計認可は1958年4月12日。定員は100名(座席44立席56)。電動機は東洋電機製37 kW×4。廃止後、モハ103やコハ051、排雪車などと共に洞爺湖畔の施設に置かれていたが、1990年代初めに解体された。
コハ051
鉄道省小倉工場1936年製。国鉄キハ05を購入して気動車として認可を受けたが、エンジンの老朽化が著しく、付随客車として設計変更した。なお、国鉄との売買契約書ではキハ0516となっているが、竣功図に記された製造年や改造年、銘板表記より、倶知安区でキハ0516と同日に廃車となったキハ0512の振り替えと推測されている[10]
電動排雪車(無番号)
1951年、自社工場改造。2軸貨車を基にしたロータリー除雪車。木造車体の後ろ半分程が機械室と運転室で、前半分が無蓋。無蓋部分の先端にロータリーを装備している。自走能力は無く、電車に後押しされて使用する[10][注釈 2]
電動排雪車(無番号)
汽車会社、1931年製。廃線となった旭川市街軌道の排1 (ロータリーブルーム式) を購入したもの[10]。設計認可は1958年9月16日。入線に際し、片側のトロリーポールを撤去してパンタグラフが設置された。
ワ101-104, ワ24
開業に際して鉄道省より払い下げを受けた11t積の木製2軸有蓋貨車。鉄道省での番号はワ52436、53044、53036、54945、53652(改番時の順序不明)。設計認可は1927年7月11日。ワ101-104は国鉄線直通可能であった。ワ104のみ1967年廃車。
ト31-33
開業に際して鉄道省より払い下げを受けた10t積の木製2軸無蓋貨車。鉄道省での番号はト14344、14303、14253(改番時の順序不明)。設計認可は1927年7月11日。ト32は1965年に廃車。
セキ1, 1001
国鉄より購入したボギー石炭車で、セキ1が元セキ118、セキ1001が元セキ1217。設計認可は1951年11月19日。軌道入線中に脱線事故を起こして破損したため、責任上国鉄より購入したとされているが、設計認可申請書や売買契約書にそのような記載はなく、詳細は不明。1954年に三菱鉱業大夕張鉄道 に売却されてセキ1、2となり、現在も保存中。
トム50001
ト32が1965年に廃車になったあと、国鉄より購入した元トム54747。自社線内のみで使用された。

廃線跡

区間のほとんどは併用軌道であったため、道路整備により線路の痕跡は残っていない[11]。旭川追分駅跡地はアモールショッピングセンターとなっている[11]。旭正駅、十号駅、西川駅跡地には農業倉庫が残る。終点の東川駅跡地には農業倉庫に加え、駅跡を示す標柱とプラットホームの跡が残る[11]。また、北町/西町2丁目の東川電気工事付近から東町/南町1丁目の現在のハマナスクラブ東川店付近までは軌道が路肩から車道中央部に移行していた名残として現在も車道部が広く、車線が中央に寄っているためこの間のみ路側帯が広くなっている。

脚注

参考文献

関連項目

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