東本願寺
京都市下京区にある仏教寺院
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東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院。山号はなし。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)である[注釈 1][注釈 2]。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称はお東さん。2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
| 東本願寺 | |
|---|---|
|
御影堂 | |
| 所在地 | 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754 |
| 位置 | 北緯34度59分27.66秒 東経135度45分30.44秒 |
| 山号 | なし |
| 宗旨 | 浄土真宗 |
| 宗派 | 真宗大谷派 |
| 寺格 | 本山 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 |
大谷本願寺 - 元亨元年(1321年) 東本願寺 - 慶長7年(1602年) |
| 開山 |
大谷本願寺 - 覚如(本願寺第3世) 東本願寺 - 教如(本願寺第12世) |
| 中興年 | 文明10年(1478年) |
| 中興 | 蓮如(本願寺第8世) |
| 正式名 |
真宗本廟 (1987年(昭和62年)までは本願寺) |
| 別称 | お東さん |
| 文化財 |
『教行信証』(坂東本)全6冊(国宝) 御影堂、阿弥陀堂、絹本著色親鸞聖人像(安城御影)ほか(重要文化財) 渉成園(国の名勝) |
| 公式サイト | 東本願寺 |
歴史
本願寺の分立
天正19年(1591年)に浄土真宗本願寺派法主で本願寺第11世の顕如は、豊臣秀吉により新たな寺地として京都堀川六条の地の寄進を受けると大坂天満にあった本願寺をそこに移転させ[1]、同年8月には天正14年(1586年)8月に再建した御影堂を天満から移築してここを新たな本願寺(現・西本願寺)とした[1]。
天正20年(1592年)7月には本堂である阿弥陀堂が新築されるが、依然として石山合戦以来の教団内の内部分裂は継続していた。同年である文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともなって長男の教如が本願寺を継承して本願寺第12世となった[1]。この時、教如は石山合戦で自身とともに織田信長と戦い続けて大坂本願寺に籠城した強硬派を側近に置いて重用し、顕如とともに紀伊国の鷺森御坊に退去した穏健派は重用しなかったことから、教団内の対立は激化した。
そこで、穏健派と顕如の室の如春尼(教如の実母)は、顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴した。この訴えを受けた秀吉は文禄2年(1593年)閏9月12日に教如を大坂に呼ぶと、今から10年後に弟の准如に本願寺法主を譲るように、との命を下した。教如はこの命に従おうとしたが、側近の強硬派坊官たちが秀吉に異義を申し立てたために秀吉は激怒し「今すぐ退隠せよ」との命が下された。それにより、同年閏9月16日に准如が新たに本願寺法主を継承し、教如の第12世は取り消されて准如が第12世となることが決定する[1]。以後、教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられた[1]。しかし、引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、本願寺の中に作った自らの隠居所に阿弥陀堂と御影堂を設けるなどし、「本願寺」を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建などを行っていた。このことが後の本願寺分立の萌芽となった。
また秀吉の死後、教如は徳川家康に接近するようになった[1]。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康は親しくしていた教如に京都烏丸七条[2]の地を寄進した[1]。これにより、本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立してしまった[1]。この時、江戸幕府内では本願寺法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
江戸時代以後
教如は烏丸七条の地を新たな本願寺(現・東本願寺)としそこに入ると、慶長8年(1603年)に上野国妙安寺(現・群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる木像の御真影を迎え入れ、同年11月10日に阿弥陀堂を、翌慶長9年(1604年)9月16日に御影堂を建立した[3]。
江戸時代の当寺は、創立時における家康との関係もあって江戸幕府との関係は一貫して良好であった[3]。そのためか寛永18年(1641年)には第3代将軍徳川家光から1万坪の土地が寄進されている。ただ、寄進された土地は当寺から少し東に行ったところであり、以後、当寺の飛地境内となった。その後、承応2年(1653年)に石川丈山によって庭園が造られ、渉成園と名付けられた。
承応元年(1652年)に御影堂の規模を拡大するため再建に着手する。西本願寺の御影堂が桁行31間半であったので、当寺はそれを超える桁行32間での再建が行われたという[4]。明暦4年(1658年)3月28日に落成する。
寛文7年(1667年)に阿弥陀堂の規模を拡大するために再建に着手、寛文10年(1670年)3月15日に落成された。また、同年には親鸞聖人を祀る大谷祖廟が造立されている。後の延享2年(1745年)には第8代将軍徳川吉宗が、大谷祖廟に隣接している長楽寺の境内地1万坪を没収し、そのまま大谷祖廟に寄進している。
天明8年(1788年)1月の天明の大火によって阿弥陀堂、御影堂の両堂(以下、両堂)が焼失してしまう[3]。その後、寛政2年(1790年)に八尾御坊大信寺の本堂を移築して仮本堂とするが、幕府より飛騨国白川の木材4,600本の寄進を受けたことにより再建工事が始められ、寛政10年(1798年)3月に両堂が落成した[5]。
文政6年(1823年)11月15日に境内からの失火によって鼓楼と宝庫を残して両堂以下が焼失する[3]。その後、幕府より飛騨国の巨木2,000本の寄進を受けて天保6年(1835年)に両堂は再建された[6]。
安政5年(1858年)京都市中を襲った大火に巻き込まれて両堂以下が焼失する[7][3]。また、渉成園にあった枳殻邸も焼失している。今回も幕府より巨木2,000本の寄進を受けている。しかし、3年後の文久元年(1861年)に親鸞聖人六百回御遠忌が控えていたこともあってか当寺は頭を悩ましていたところ、幕府は便宜を図ってくれた。通常は京都での大工仕事は京都役大工仲間による独占となっており、大工・杣・木挽三職の田舎職人の入京は許されていなかったが、今回は特別とされ、主に北陸地方から当寺の再建のためにたくさんの大工がやってきた。そのために万延元年(1860年)には早くも両堂は仮堂としてではあるが再建された[8]。しかし、仮堂とはいえその平面規模は焼失以前の両堂と同規模であった。
元治元年(1864年)7月20日、禁門の変を発端とする兵火が元となり、京都市街はどんどん焼けと呼ばれる大火災が発生して両堂以下諸堂が全焼する[3]。
当寺は江戸時代には4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、当寺が火元となったのは文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。
慶応元年(1865年)11月に孝明天皇より白銀30枚を賜っている。また、幕府より5万両の寄進を受けている[9]。
1880年(明治13年)10月1日、2日に阿弥陀堂、御影堂の両堂の釿(ちょうな)始式が行われ[10]、その後も多くの門徒の寄進によって1895年(明治28年)にようやく両堂は落成した[3]。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。
1897年(明治30年)、当寺が独力で敷設した防火用水道である本願寺水道が完成する。それは琵琶湖疏水の水を蹴上水源池から全長4.6キロメートルの導水管を通じて当寺まで引き込み、約44メートルもの高低差を利用する自然水圧によって両堂の屋根まで水を供給するというシステムであった[11]。
昭和以降
1977年(昭和52年)11月2日、東本願寺爆破事件が起きる。
1981年(昭和56年)6月11日、新『真宗大谷派宗憲』(「新宗憲」)発布。宗憲改正にともない、「法主」を廃して「門首」を新たに設け、本願寺住職および管長の役職を廃止した(詳細は「お東騒動」を参照。)。
1987年(昭和62年)12月、門首が第24代闡如の時、当寺つまり「単位宗教法人(被包括宗教法人) 本願寺(通称:東本願寺)」[注釈 3]は宗教法人法に基づいて解散の登記が行われ[注釈 4]、「単位宗教法人 本願寺」は「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収合併された[注釈 5]。このことを「宗本一体」という。合併により当寺は単位宗教法人としての寺院ではなくなり(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照)、法人格を有さない寺院となり[注釈 6]、真宗大谷派が直接管理する寺院とされ、その本山としての「礼拝施設」となる。そのため、正式名称が「真宗本廟」に変更される。
よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない。しかし、大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派[注釈 7]の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定されている[12]。
また、これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺(通称:西本願寺)のみとなっているのだが、現在でも真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて公式に使用されている。
2003年(平成15年)11月に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の特別記念事業の一環として行われる御影堂修復のため、御影堂に安置している御真影(宗祖親鸞の坐像)を阿弥陀堂へ移す御真影動座式を執り行う。御真影は阿弥陀堂の本間右側に新たに設けた仮の御厨子に安置された。
2004年(平成16年)3月4日、真宗本廟御影堂御修復起工式が行われた。修復は非解体修理を基本とし素屋根工事、瓦葺き替え工事[注釈 8]、御厨子・須弥壇の修復を含む内陣・外陣等の美装工事、大虹梁鉄骨補強補強を含む構造補強工事、耐震補強工事、土居葺工事、木工事、金属工事、外部鋩金物工事等の大規模修復である。
2009年(平成21年)8月3日に御影堂において真宗本廟御影堂修復竣工式が行われる。同年9月30日には阿弥陀堂に安置されていた御真影を御影堂の御厨子に戻す、宗祖親鸞聖人御真影還座式が行われた。
同年11月20日、御影堂御修復完了奉告法要が済まされた。
境内
- 阿弥陀堂(重要文化財) - 本堂。1880年(明治13年)に起工され、1895年(明治28年)に再建された[11]。禅宗様を取り入れた仏堂で、本尊・阿弥陀如来立像を安置する[13]。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52メートル・奥行き47メートル・高さ29メートルである[11]。床面積比で御影堂の半分以下しかないが[注釈 9]、全国屈指の規模の仏堂である。堂内は、内陣・外陣・参拝席に分かれている[注釈 10]。内陣の本間中央に須弥壇を設け、その壇上の宮殿内に本尊・阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。また、本間右側の壇上には「聖徳太子御影」の絵像が、本間左側の壇上には「源空上人御影」の絵像が奉掛される。内陣の「本間」から右側の余間を「北余間」と呼び、その床上に内側から「龍樹大士御影」・「天親菩薩御影」・「曇鸞和尚御影」の絵像が、左側の「南余間」の床上に「道綽禅師御影」・「善導大師御影」・「源信僧都御影」の絵像が奉掛される[14][11]。なお、北余間には元々亀山天皇の天牌が奉安されていた。内陣の襖絵は羽田月洲と岸竹堂によって描かれている。
- 御影堂修復工事中は、阿弥陀如来像の向って右側に、御影堂より遷座した宗祖・親鸞聖人の像である「御真影」を仮の「御厨子」に安置し、左側には蓮如の絵像・聖徳太子の絵像・七高僧の絵像(法然の絵像と六高僧の絵像)が奉掛された。また、阿弥陀堂で御真影を安置するために製作された仮の「御厨子」は、府中刑務所の講堂の本尊の厨子として利用されている[15]。2009年(平成21年)7月1日、御影堂を覆っていた修復用の素屋根をスライドして阿弥陀堂を覆う。2011年(平成23年)の「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」法要後、阿弥陀堂の修復工事が行われ、2015年(平成27年)12月に完了した。工事では耐震補強もなされた。
- 渡廊下(重要文化財) - 阿弥陀堂と御影堂を繋いでいる。「造り合い廊下」とも呼ばれ、ここには明治時代の当寺の再建に関連した、麻と髪の毛を撚り合わせて編まれた毛綱や、巨大な木材を雪の中で運搬するために使用されたと伝わる大橇[11]、鼻橇、他にも尾神嶽(尾神岳)雪崩被災のジオラマが展示されている。
- 御影堂(ごえいどう、重要文化財) - 1880年(明治13年)に起工され、1895年(明治28年)に再建された。境内のほぼ中心に位置する和様で建てられた宗祖親鸞の坐像である「御真影」を安置する建物[11]。屋根は瓦葺きの重層入母屋造[16]。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳階であり単層建築である[17]。建築規模は、間口76メートル・奥行き58メートル・高さ38メートルで、建築面積は東大寺大仏殿を上回る世界最大級の木造建築物であり[18]、内陣・外陣に敷かれた畳は合わせると927畳になる[11]。堂内は阿弥陀堂と同じく、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣は横に7つの室に分かれていて、中央の間を「内陣本間」と呼ぶ[19]。「内陣本間」側から、左側の余間を「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と呼び、同じく右側の余間を「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ぶ[20]。「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き、「御真影」を安置する。「内陣本間」の左右壇上には歴代門首の絵像が奉掛される。平時は「十字の間」の床(とこ)上の中央に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を奉掛し、その両脇に宗祖親鸞と現門首を除く「大谷派御歴代」の絵像を二幅に分けて奉掛する。「九字の間」の床上には、「南無不可思議光如来」の九字名号が奉掛される[11]。報恩講などの法要時は、奉掛される絵像やその配置などが変更になる。内陣の障壁画と襖絵は幸野楳嶺と望月玉泉によって描かれている。御影堂は1889年(明治22年)4月より「大師堂」と呼ばれていた[21]。その由来は、1876年(明治9年)に明治天皇から親鸞に対して「見真大師」の大師諡号が贈られたためである。だが、1981年(昭和56年)に「宗憲」が改正された際「見真大師」号が削除され、同時に大師堂の呼称が取りやめられて御影堂の呼称に復された。
- 2004年(平成16年)3月から2008年(平成21年)12月にかけて大規模修復が行われた。総工費は約98億円[注釈 11]である。御影堂の瓦の枚数は175,967枚[22]で、その内の3割は修復時の検査で合格した瓦を再利用して葺いている。再利用した瓦(明治瓦)は風雨に晒されにくい裳階の奥側、「受平瓦」よりも奥に用いられている[注釈 12][23]。
- 式務所
- 研修道場
- 和敬堂
- 同朋会館 - 真宗同朋会運動の一環である「真宗本廟奉仕」の参加者のための研修宿泊施設。1958年(昭和33年)11月に着工、翌年11月に完成。「仏祖崇敬の念を篤くする」「無上仏道を聞き開く」「同信同行の交りを深める」の3つの願いに立って、真に私自身の人間性を回復することを目的とする。
- 高廊下
- 参拝接待所 - 東本願寺(真宗本廟)の総合窓口である。1934年(昭和9年)に「志納所」に替えて建てられた。「真宗本廟収骨(須彌壇収骨)」「本山読経[注釈 13]」「帰敬式」の申込・受付の他、本尊・蔵版の授与、懇志の受付などの窓口業務を行なう。1998年(平成10年)には「蓮如上人五百回御遠忌」の記念事業として、参拝接待所北側地下に「真宗本廟視聴覚ホール」を増設した。また参拝接待所と視聴覚ホールの間に「展示ギャラリー」を併設し、親鸞聖人の生涯に関する常設展示のほか、季節ごとにさまざまな展示を行っている[11]。
- 大寝殿(重要文化財) - 明治元年(1868年)再建。公式行事や儀式などに使用される。座敷の奥は全面上段となっており、床の間の壁や襖、帳台構えなどには竹内栖鳳筆の「風竹野雀」「歓喜」「古柳眠鷺」(全て1934年(昭和9年))が描かれている[24]。
- 大玄関(重要文化財)- 慶応3年(1867年)再建。東本願寺境内最古の現存建造物である。
- 宮御殿(重要文化財)- もとは慶応3年(1867年)に建てられた大宮御所の一部である。1880年(明治13年)に下賜されたが部材のまま置いていたところ、1901年(明治34年)になって現在地に建てられた。
- 黒書院(重要文化財)- 1911年(明治44年)再建。障壁画は加藤英舟らによるもの。
- 桜下亭(重要文化財)- 1909年(明治42年)に、前年に引退した現如上人(大谷光瑩)の隠居所として建てられた東京の霞ヶ丘別邸の一部を1939年(昭和14年)に移築したもの。内部の襖は岐阜別院にあった円山応挙の襖絵を移設したもの。
- 白書院(重要文化財)- 1911年(明治44年)に親鸞聖人六百五十回御遠忌に際して再建。来賓の接待などに使用される。帳台構えや違い棚を設けた書院造で、建築技師の亀岡末吉らによる独創的な彫刻で飾られた欄間や、幸野楳嶺の子息の幸野西湖や、森本東閣、伊藤鷺城ら京都画壇の画家による障壁画で装飾されている[24]。
- 能舞台(重要文化財)- 1880年(明治13年)に建てられたもので、1937年(昭和12年)に現在地に移築した。鏡板に描かれている松は幸野楳嶺によるもの。
- 庫裏
- 内事部洋館(重要文化財)- 1923年(大正12年)武田五一の設計。真宗大谷派門首の居宅。現役の居宅であるため非公開。
- 内事部日本館(重要文化財)- 1923年(大正12年)内田仙司が棟梁を務めた[25]。非公開。
- 菊の門(勅使門、重要文化財) - 門扉に菊の紋があることから菊の門と呼ばれているが勅使門とも呼ばれる。慶長9年(1604年)に徳川家康が寄進したが幾たびか火災で焼失した。1911年(明治44年)の親鸞聖人六百五十回忌迄の再建に間に合うよう、名古屋の信者2名が勅使門(菊の門)の寄進を申し出た。勅使門の設計は亀岡末吉、施工は名古屋南久屋町の鈴木幸右衛門、金物製作は京都の中村猪之助、塗工は京都の三上治三郎という当代の第一人者が担当した。工事は1909年(明治42年)から開始され予定通り1911年(明治44年)2月に完成した[26]。菊の紋は明治維新後に皇室の御紋章と定められたので宮内省にお伺いをしたところ、岩倉具定宮内大臣より江戸時代から使用されていたことを認められ、使用が特別に許可されたいきさつがある[27]。
- 玄関門(重要文化財) - 1911年(明治44年)再建。
- 東本願寺出版建物(旧議事堂、重要文化財)
- 宗務所
- 通用門
- 内事門(長屋門)(重要文化財)
- 鐘楼(重要文化財) - 1894年(明治27年)再建。梵鐘は2010年(平成22年)造。2023年(令和5年)から2024年(令和6年)にかけて大規模な修理が行われた[11]。
- 阿弥陀堂門(重要文化財) - 1911年(明治44年)再建。切妻造・檜皮葺きの四脚門。正背面に唐破風を設ける[11]。境内で京都駅に一番近く、段差の無いバリアフリーの門である。江戸時代中頃に「唐門」の名称で建てられる。2021年(令和3年)から2022年(令和4年)にかけて大規模な修理が行われた[11]。
- 築地塀(重要文化財)
- 総合案内所 - 案内所としての機能の他に、休憩所や喫煙所、「東本願寺お買い物広場」などが入っている。2009年(平成21年)、御影堂修復事業の一環として改修される。境内の諸施設を統合管理する「防災センター」が併設されている。
- 手水屋形(重要文化財) - 1895年(明治28年)再建。2024年(令和6年)から2025年(令和7年)にかけて大規模な修理が行われた[11]。
- 御影堂門(重要文化財) - 正門。1911年(明治44年)再建。高さ約27メートルの入母屋造・本瓦葺き・三門形式の二重門。「真宗本廟」の扁額を掲げる[11]。京都三大門(他に東福寺、知恩院)の1つであり[28]、木造建築の山門としては世界最大級であり、また木造建築の二重門としては日本一の高さといわれる[11]。上層(非公開[注釈 14])には、釈迦如来坐像を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩立像、左側に阿難尊者立像の三尊が安置され、浄土真宗の正依の経典「浄土三部経」の1つである『仏説無量寿経』の会座をあらわす[11]。また、その手前には仏舎利が安置される。天井画は竹内栖鳳によって飛天舞楽図が描かれる予定であったが、結局描かれることはなかった。しかし、原寸大の下絵が残されている。2013年(平成25年)1月、御影堂門の修復が開始され、2015年(平成27年)12月に完了した。
- しんらん交流館 - 2015年(平成27年)に開設された教化センター。花屋町通を挟んで境内の北にある。「しんらん交流館定例法話」や「東本願寺日曜講演」が開催される[29]。所在地は下京区諏訪町通六条下る上柳町199[30](位置情報)。
- 京都教務所
飛地境内
- 修復工事前の御影堂(2003年)
- 御影堂門
- 阿弥陀堂
- 阿弥陀堂門
- 菊の門
- 鐘楼
- 参拝接待所
- 手水屋形
文化財
国宝
重要文化財
- 真宗本廟東本願寺 20棟(建造物)[31][32][33]
- 御影堂(附 厨子1基、造合廊下1棟、二筋廊下1棟)
- 阿弥陀堂(附 宮殿1基)
- 御影堂門
- 阿弥陀堂門
- 鐘楼
- 手水屋形
- 宝蔵
- 大玄関及び大寝殿
- 白書院
- 黒書院
- 宮御殿
- 桜下亭
- 能舞台
- 議事堂(現東本願寺出版建物)
- 表小書院
- 菊門
- 玄関門
- 寺務所門
- 内事門
- 十三窓土蔵
- (附指定)百間廊下
- (附指定)築地塀 6棟
- 真宗本廟東本願寺内事 3棟(建造物) - 2023年(令和5年)9月25日指定[34][35]。
- 洋館
- 日本館
- 鶴の間
- 絹本著色親鸞聖人像(安城御影〈あんじょうのごえい〉) - 鎌倉時代作。83歳の頃の影像とされる。西本願寺蔵の原本は、国宝。
- 紙本著色『本願寺聖人伝絵』(康永本)4巻 - 康永2年(1343年)作。詞書(ことばがき)は覚如筆。絵は、上2巻は康楽寺円寂、下2巻は康楽寺宗舜による筆。
- 紙本著色『本願寺聖人親鸞伝絵』(弘願本)4巻 - 貞和2年(1346年)作。各巻末に「釋弘願」の法名が署名されているため、弘願本と通称される。詞書(ことばがき)は善如筆。
- 紙本『一念多念文意』親鸞筆 - 鎌倉時代作。
国指定名勝
- 渉成園
国登録有形文化財
- 阿弥陀堂門南側築地塀
- 御影堂門南側築地塀
- 御影堂門北側築地塀
- 菊の門北側築地塀
- 玄関門北側築地塀
別院
行事
平時行事
特別な儀式・法要・行事のない日の予定。儀式・法要などが営まれる日は、日程および時間を変更する場合がある。
- 7:00 晨朝勤行(阿弥陀堂・御影堂)
- 7:30 晨朝法話(御影堂)[36] - 12月27日〜31日はなし。
- 10:10 真宗本廟法話(真宗本廟視聴覚ホール)[36] - 12日・27日はなし。
- 11:00 真宗本廟収骨[37]・読経・帰敬式[38] - 12日・27日は取扱いなし。
- 13:10 真宗本廟法話(真宗本廟視聴覚ホール)[36] - 28日はなし。11月21日〜28日は御影堂にて開催。
- 14:00 真宗本廟収骨[37]・読経・帰敬式[38] - 28日は取扱いなし。
- 14:00 しんらん交流館定例法話(しんらん交流館・すみれの間)[36] - 12日・27日は10:00に、13日・28日は14:30に時間を変更して開催。
- 16:00 夕事勤行
- 毎週日曜9:30 東本願寺日曜講演(しんらん交流館・大谷ホール)
年中行事
- 日程は、変更になる場合がある。
- 春の法要中の主な行事
- 1日 - 師徳奉讃法要・親鸞聖人御誕生会
- 2日 - 全戦没者追弔法会
- 3日 - 相続講員物故者追弔会 兼 帰敬式受式物故者追弔会
- 立教開宗記念法要(4月15日)
- 蓮如上人御影吉崎別院御下向式(4月17日)
- 蓮如上人御影吉崎別院御帰山式(5月9日)
- 盂蘭盆会法要(7月14日〜15日 〈8月13日〜16日〉)
- 秋季彼岸会法要(秋分の日前後各3日を合わせた7日間)…期間中に永代経総経が厳修される。
- 御正忌報恩講(11月21日〜28日)…宗祖親鸞の祥月命日である11月28日までの1週間に勤められる法要で、年中行事の中で最重要行事とする。
- 御正忌報恩講中の主な行事
- お煤払い(12月20日)
- 歳末昏時勤行(12月31日)
不祥事
- 1977年(昭和52年)1月13日、手形のトラブルに巻き込まれ、紙本著色『本願寺聖人伝絵』、紙本著色『本願寺聖人親鸞伝絵』が差押えを受ける[39]。
- 2017年(平成29年)4月26日、東本願寺の職員2人に過去数年間サービス残業(多い時で月130時間以上)をさせていたとし、未払いの残業代約660万円を支払ったことを明らかになった。2人は寺の研修施設「同朋会館」に宿泊する門徒の世話を担当する「補導」と呼ばれる職員で、寺によると、1973年(昭和48年)に「補導」には残業代を一切支払わないとする違法な取り決めをしていた[40][41]。また、全国の教務所でも残業に必要な労働基準法第36条に基づく労使協定(三六協定)を結ばずに、職員に違法な残業を行わせていたこと、本山宗務所の残業についても労使協定を結んだ「真宗大谷派職員組合」が、協定が法的効力を持つために必要な「労働者の過半数で組織する労組」に該当しないため本山の残業も労基法に抵触している可能性があること、昨年12月に本山を管轄する京都下労働基準監督署から「臨検」と呼ばれる任意の立ち入り調査を受け、職員の労働時間を適正に管理していないとして行政指導を受けたことが明らかになった[42]。
所在地
- 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
アクセス
開門・閉門時間
- 3月〜10月 - 5時50分開門、17時30分閉門。
- 11月〜2月 - 6時20分開門、16時30分閉門。