窪岡俊之
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星野之宣が週刊少年ジャンプの手塚賞を受賞したのがきっかけで、星野の持つリアリティにはまり、切り抜き・模写を繰り返した[2]。
高校時代に進路に悩んでいた時、教師をしていた実父の同僚の生徒が湖川友謙と知り、湖川が手掛けた「伝説巨神イデオン」を知ることで、アニメーターを意識する[2]。
「大学の受験に失敗したら、湖川さんの元に付いていい」という約束を取り付けていた。大学の二次試験に落ちた窪岡はそのまま湖川が主宰するスタジオ「ビーボォー」に所属した。同期に北爪宏幸・恩田尚之がいた。窪岡はタイムシートの読み方・原画・動画の違いどころか、アニメーターの専門用語すらわからない状態で何日かトレスを引いた後に、「伝説巨神イデオン」の動画を担当した。「自分の中でゲージを作って、教科書のパラパラ漫画を描く要領で挑んだ」と振り返っている[2]。
その内にビーボォーの走るアクション・被写体の煽り方がパターンが限定されている描き方に不満を抱き、ビーボォーを退社する。しかし、後に「どのポーズを抜いて原画にするのかを考えろ」「デフォルメを表現したいなら、基本をしっかり覚えろ」と湖川の教えを思い出し、基本を崩して応用する発想が思い浮かばなかった自身を反省する[2]。
同時にアニメーターとしての自分自身の現状に疑問を抱き[2]、用意された絵コンテのレンズの置き方にアニメーターとして疑問を抱いた所から、演出に興味を抱く。「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」「MS ERA 0001〜0080 ガンダム戦場写真集」制作の際に、「この画にはこういう意図があるんだ」と考えを巡らせるようになり、窪岡の絵コンテに書かれた内容以外のアイディアを監督を務めていた高山文彦に提案し、高山が窪岡のアイディアを沢山採用したことで、「何故そこでそのカットが必要なのか?」の疑問が少しずつ解けて行った[3]。
「電脳学園III トップをねらえ!」を担当していたスタッフが独立して知り合いとゲーム制作会社を立ち上げ、窪岡にキャラクターデザインの依頼を出した。それが「LUNAR」シリーズだった。メガCD版版ではキャラクターデザインのみを担当していたが、セガサターン版ではキャラクターデザインのみならず、脚本開発・絵コンテ・作画監督・原画等に全て参加して、管理・チェック作業にも関わった。窪岡は「初めてアニメーションの監督を務めた」と振り返っている。本作がきっかけでゲーム制作業界にしばらく席を置く様になる[3]。
2000年、「LUNAR」のナンバリング第3作にキャラクターデザイン・ムービー監督以外にも、オープンワールドを取り入れて、ユーザインタフェース等の基盤となるシステム周辺のチェックも担当する総監督に就任し、実制作まで進んでいた。しかし、開発費が膨れ上がることを危惧した上層部の判断で開発が中止になった。そのショックを半年引きずっていた頃にサンライズの制作進行から「絵コンテを手伝ってほしい」というオファーを受ける形でアニメーション業界に復帰する[3]。
2005年に初代『THE IDOLM@STER』のキャラクターデザインを担当した[4]。基本的にメインキャラクターは全て窪岡のデザインしたものである。キャラクターデザインをすることになったきっかけは、以前よりナムコのゲーム作品のキャラクターデザインを手がけることが多かったからであり、担当プロデューサー直々の指名であった。そのデザイン開発の手腕を評価され、後の作品群でも知的財産権の権利者の項目に名を連ねている[3]。
ビーボォー・グラビトン・ガイナックスを経て、2012年頃にはSTUDIO 4℃に所属していた[5]。2018年以降はC2Cを中心に監督・演出家として活動している。
評価
貞本義行からは「キャラクターの目が中々再現できなくて、顔が崩れてしまって困っていた時に、目だけを窪岡君に修正してもらっていました。この助けがあったから、以降もキャラクターデザインの参考になりました」と語り[6]、窪岡も「服のしわを一生懸命描いていました。『僕はもう覚えたんで、あげますよ』とそのスケッチを一式僕にくれたんです。それがその後の貴重な資料になりました。必要な線を抜き出すには、センスと理屈が必要になります。貞本さんはその取捨選択が物凄く巧くて、僕の仕事はそれを応用したんです」「誰が描いてもそのキャラクターになるように、『パーツ』として突き詰めていく様にはショックを受けました」[2]と影響を受け合っている。