九条道家

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九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿太政大臣九条良経の次男。官位従一位准三宮摂政関白左大臣九条家3代当主。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。摂関家としては藤原道長以来となる実娘を母とする天皇の外祖父となった。

時代 鎌倉時代前期
改名 道家→行恵(法名)
概要 凡例九条 道家, 時代 ...
 
九条 道家
九条道家像(『天子摂関御影』、紙本着色)
時代 鎌倉時代前期
生誕 建久4年6月28日1193年7月28日
死没 建長4年2月21日1252年4月1日
改名 道家→行恵(法名)
別名 光明峯寺関白、光明峯寺殿、光明峯寺入道殿、峯殿、峯入道殿、東山入道、東山褝閤
官位 従一位摂政関白左大臣准三宮
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 九条家
父母 父:九条良経、母:一条能保の娘
兄弟 立子慶政道家教家基家、良尊、道慶
養兄弟:良平
正室:西園寺掄子西園寺公経の娘)
源有雅の娘、源重房の娘
竴子教実二条良実藤原頼経一条実経法助、行昭、深忠、勝信、慈実、円実、慈源、道智、道意、仁子、佺子
特記
事項
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父
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生涯

朝廷内で出世

幼少時から祖父の九条兼実に寵愛され、祖父に引き取られて養育された。建仁3年(1203年)2月13日、元服すると同時に正五位下に叙任される。その後も侍従左近衛中将従三位権中納言と栄進を続ける。元久3年(1206年)春、父の良経が急死すると、道家はその後を継ぐ。

承元3年(1209年)3月、姉の立子を皇太弟の守成親王(後の順徳天皇)の妃として娶わせる。そのため、その後も左近衛大将権大納言内大臣右大臣と栄進を続ける。更に順徳天皇と姉立子との間に懐成親王(後の仲恭天皇)が生まれると、東宮補佐役となる。建保6年(1218年)12月には叔父の九条良輔が死去したこともあり、左大臣にまで栄進した。これは天皇家の外戚関係になったことと、岳父の西園寺公経鎌倉幕府との関係が深かった事から[注釈 1]、幕府の後ろ盾によるところが大きかった。

鎌倉幕府と提携

建保7年(1219年)1月、3代将軍・源実朝がその甥の公暁によって暗殺されると、道家の母が頼朝の姪に当たることから、執権北条義時より3男の三寅、後の藤原頼経を4代将軍にと要請される[注釈 2]。道家はこれに応じて同年6月、頼経(2歳)を鎌倉に下向させた。承久3年(1221年)4月には順徳天皇が懐成親王に譲位して上皇となり、懐成親王(2歳)は践祚して仲恭天皇となり、道家はその外叔父に当たるために摂政となった。ところが実朝の死で朝幕の力関係が崩れたのを機に、後鳥羽上皇によって承久の乱が起こされる。これはしかし幕府方の勝利に終わり、朝廷方の首班が続々と処断される中、7月には仲恭天皇は廃位された。道家は後鳥羽上皇や順徳上皇たちの討幕計画には加わらなかったが、摂政を罷免された。

廃位された仲恭天皇は道家に預けられ、天福2年5月20日(1234年6月18日)、17歳で死亡するまで幽閉・蟄居処分のままであった。混乱期であり、在位もごく短く(歴代最短記録)、上皇にもならないまま蟄居のまま死亡した。ゆえに即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、即位の事実も曖昧なまま、長く九条廃帝、承久の廃帝、半帝、後廃帝などと呼ばれた[注釈 3]

嘉禄元年(1225年)、幕府の陰の実力者であった北条政子が死去したため、翌年1月に鎌倉に下向していた頼経は正式に征夷大将軍に任命される。承久の乱後、朝廷では幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨していたため[注釈 1]、政子の死や頼経の将軍就任、公経の叔母である北白河院の支持も手伝って、道家は安貞2年(1228年)12月、近衛家実の後を受けて関白に任命された。翌年11月には長女の竴子(のちの藻璧門院)後堀河天皇女御として入内させた(安貞二年の政変)。

全盛期 大殿として

寛喜3年(1231年)7月、道家は長男の教実に関白を譲り、同日に従一位へ昇叙された。関白退任後も内裏に直廬を持ち、現任関白の父である大殿として政務と朝廷儀礼に関与した[2]。ただし、海上貴彦は、『民経記』『明月記』『吾妻鏡』『公卿補任』などに道家への正式な内覧宣下を示す記録がなく、吉書内覧の事例も確認できないことから、その政務参加には内覧宣下による制度的な裏付けがなかったとする[3]。貞永元年(1232年)7月6日条の『民経記』自筆本でも、藤原経光は道家への上申を当初「内覧」と記した後に抹消し、「申入」と書き改めている。海上は、道家への上申が実質的には現任摂関への内覧に近い一方、摂関の職務や内覧宣下に基づく正式な手続ではなかったことを示すものと解している[4]。しかも中宮となった竴子に秀仁親王(後の四条天皇)が生まれ、秀仁親王が貞永元年(1232年)10月に後堀河天皇の譲位を受けて践祚[注釈 4]すると、道家は四条天皇の外祖父となり、教実は摂政に転じた。道家は日常的な案件については教実の決裁を尊重していた。貞永元年(1232年)3月21日、教実が不在であった際に蔵人の藤原経光が大殿道家へ政務を申そうとすると、道家は「可申殿下」と命じ、関白教実へ申し入れるよう指示した[6]。一方、伊勢公卿勅使の日時や宸筆宣命の作成、寛喜から天福への改元、延暦寺衆徒の訴えなど、重要な儀礼や天皇と摂関のみでは処理の難しい案件では道家の意見が求められた[7]天福元年(1233年)正月には、摂関以下の公卿・殿上人らが道家の邸宅を訪れる大殿拝礼が行われた。大殿拝礼はすべての摂関退任者に対して行われたものではなく、道家以前には藤原道長藤原師実藤原忠通の事例が確認される[8]。道家は四条天皇の元服や朝覲行幸などにも参仕し、天皇外祖父として儀礼的後見を担った[9]

しかし、教実は文暦2年(1235年)3月に早世した。右大臣には近衛兼経がいたが、道家は近衛家への摂関職の移動を避けて、自ら摂政に再任された。その後、寺社の対立や強訴が相次ぐなかで近衛家との関係を改め、嘉禎3年(1237年)正月に娘の仁子を兼経に嫁がせ、同年3月には兼経へ摂政を譲った。海上は、これを九条家と近衛家が相互の摂家としての地位を認め、摂関の地位を共同で担う体制へ移った転換と評価している[10]

嘉禎4年(1238年)、この年は道家にとっては全盛期を象徴する年となった。2月9日には16歳で既に権大納言になっていた一条実経が将来の摂関就任の要件となる左近衛大将を兼ね、2月17日に鎌倉にいる頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会を果たし、閏2月16日には慈源がわずか20歳で天台座主に任ぜられ、4月10日には12歳である5男の福王(後の法助)が仁和寺に入って道深法親王の弟子となり、翌11日には嫡孫(長男・教実の嫡子)である11歳の九条忠家の元服が行われた。一連の行事を終えた道家は4月25日に叔父の大僧正良快を戒師として出家し、法名は行恵とした[11]。出家後も大殿と称され、朝廷政務への関与を続けた。

仁治2年(1241年)正月に行われた四条天皇の元服の際には本来はに遣わされるべき報告の使者が代わりに道家の元に遣わされ(『宗雅卿記』。なおこの時期には治天にあたる院は不在)、同年末には孫娘(長男・教実の娘)の宣仁門院を四条天皇の女御として入内させる。

東福寺の造営

道家は九条家の菩提寺として、京都東南部に東福寺の造営を進めた。延応元年(1239年)7月21日に仏殿の立柱、同年8月5日に上棟が行われた[12]。永井規男は、創建当初の東福寺が最初から専一の禅宗寺院として構想されていたわけではなく、道家の信仰と寺院構想には顕密仏教と禅門の要素が併存していたとする[13]。道家は円爾に普門院を与えたが、その時期を明確に示す史料はない[14]。東福寺が伽藍と寺内制度の両面で本格的な禅宗寺院へ転換するのは、道家の死後、文永年間に法堂などが造営された時期であったと考えられている[15][16]

建長2年(1250年)の道家惣処分状には、仏殿・法堂・二階楼門・僧堂・鐘楼・経蔵・温室などを備えた伽藍が記されている。しかし、同じ箇所には未完成の堂宇が多いことも記されており、『聖一国師年譜』および「東福寺大工広定請文案」によれば、鐘楼・経蔵・法堂・温室などは道家の死後に造営された[12]。永井は、惣処分状の堂宇目録を建長2年当時の完成状況とみることはできず、建長2年以後のほぼ完備した伽藍を記した目録が、道家の作成した当初の処分案へ後から組み込まれた可能性を指摘している[17]

道家の存命中には仏殿の造営が進められたが、その落慶供養が行われたのは道家の死後にあたる建長7年(1255年)であった[12]。その後、大工末広の下で法堂・祖堂・祠堂の造営が進められ、文永10年(1273年)に法堂が落成した[12]。永井は、文永年間の法堂造営を東福寺における禅宗様の採用と禅宗寺院化の画期とみている[16]。ただし、創建期の仏殿や三門の具体的な建築様式は直接確認できず、和様・大仏様・禅宗様が併存したとする復原は仮説として提示されている[18]

権勢の衰退

道家は嘉禎3年(1235年)4月、道家は菅原為長の献策を受けて、鎌倉に二条定高と中原師員を派遣して、鎌倉幕府に対して後鳥羽法皇(当時出家していた)と順徳上皇の京都への帰還を提案したが、幕府からは拒否されている[19]。これは四条天皇がまだ5歳である一方で、治天の君であった後堀河上皇も母院である藻璧門院も既に亡くなっており、代わりとなる治天の君を必要としたからと推測されている。しかし、このことは幕府の道家に対する警戒感を強めたと考えられている[20]

しかし四条天皇は仁治3年(1242年)に12歳で夭折する。道家は次の天皇として順徳上皇の皇子で縁戚に当たる岩倉宮忠成王を推薦したが、北条泰時はかつて承久の乱に積極的に加担した順徳上皇[注釈 5]の子孫から天皇を擁立することに強硬に反対したため、これは実現せずして終わった。なお、順徳上皇の兄の土御門上皇は承久の乱に関与しなかったため、その皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)が四条天皇の後を受けて践祚することとなった(仁治三年の政変)。

その後、次男の二条良実が関白となった。良実の就任には外祖父の西園寺公経の推挙があったとする説があるが、これを直接示す史料は確認されていない。海上貴彦は、四条天皇の死によって天皇外祖父の地位を失った道家が、摂関の地位をいったん自家へ戻そうとした可能性を指摘している[21]。後嵯峨天皇の下では西園寺公経と土御門定通(天皇の大叔父)が大きな政治的地位を占め、四条天皇の外祖父であることを基礎としていた道家の大殿としての立場は後退した[22]。また、公経は独断で自分の孫娘である西園寺姞子を後嵯峨天皇の中宮に立て、その母方の叔母にあたる四条灑子を良実の室にすることで道家と距離を置き始める。

寛元2年(1244年)8月に西園寺公経が死去した後、道家は朝廷と鎌倉幕府との交渉において中心的な役割を担った。『葉黄記』寛元4年(1246年)3月15日条によれば、幕府へ伝える「重事」は道家が処理し、「細々雑事」は修理大夫藤原経雅が道家の命を受けて伝達していた[23]。山本博也は、寛元4年以前の朝幕交渉には、西園寺公経や道家が幕府・将軍家との政治的関係を背景として担った経路と、院司などが公務として文書を伝達する経路が併存していたとする[24]。この段階の関東申次は、後世のように幕府が指定した一人の担当者に統一された職務ではなかったと考えられている[25]

寛元4年正月、後深草天皇の践祚に際して、道家は良実から実経へ関白を交代させた。仁治3年(1242年)7月の道家置文では、良実がいずれ実経に摂関を譲り、その後には教実の子である忠家が就任すべきことが定められていた[26]。良実は辞任を渋って道家や後嵯峨上皇の意向に背く言葉を発したとされるが、教実の死後に良実が道家の嫡子・家門の唯一の継承者として確定していたわけではなかった[26]。実経は関白となり、後深草天皇の践祚後には摂政に転じた。同年の政変によって道家と実経が失脚すると、幕府は10月に西園寺公経の子西園寺実氏を関東申次に指定した。山本は、この任命について、担当者が幕府の指名によって決定されたことと、従来複数の経路に分かれていた朝幕交渉が原則として実氏一人に集約されたことを、制度上の転換と位置づけている[27]。山本博也によれば、この措置には、朝廷内部の人物が幕府の意向を利用して朝政を動かすことを抑え、幕府が公家政権内部の争いへ過度に巻き込まれることを避けようとする意図があった[28]

失脚と家門の継承

寛元4年(1246年)閏4月から6月に執権北条時頼下で起きた名越光時らの陰謀に、将軍辞任後も大殿として息子の将軍藤原頼嗣を後見していた頼経が関与していた事が発覚し、頼経は7月に京へ追放された(宮騒動)。

同年5月5日、病に伏していた嫡孫の忠家の平癒を願った春日社願文で、道家は、自らには子孫が多いものの、忠家について「可継家之者是也、為嫡孫故也」と記している。海上貴彦は、この時点では早世した教実の嫡子である忠家が道家の最も重視する後継候補であり、教実存命中の嫡々継承の方針が継続していたとみている[29]

九条道家自筆告文(『古文書時代鑑 上』所収)

同年6月10日、道家は自筆の告文で、前将軍の藤原頼経が何の通告もなく京へ送還されることについて、その経緯を知らされず、事前の相談も受けず、同意もしていなかったと述べた。また、前執権の北条経時を呪詛する調伏法についても、その実施を求められたことはなく、自ら修したことも、他人に修させたこともないと否定した。さらに、これら二件について、災いを免れるために虚偽を述べているのであれば神罰・冥罰を受け、私心なく申し述べているのであれば神仏の冥応を受けるよう誓っている[30]

敬白両部界会・諸尊聖衆乃至梵天帝釈・四大天王・日本国中王城鎮守諸大明神而言、近日関東有騒動入道大納言無告送事、不知其由来、無被示合旨、不同一意于此事、不知不聞也、又修調伏法、被呪咀武州経時云々、可修彼法之由、無被申旨之間、自モ不修之、以人モ不令修、上件両事、一旦為免其殃、偽申無実者、所奉勤請神祇冥道、諸尊聖衆、一々照我身中、毎其毛穴蒙神罰受冥罰、所啓白若無私者、還蒙冥応、敬白、
寛元四年六月十日沙門行慧敬白『九条家文書』所収「九条道家告文案」(『鎌倉遺文』古文書編第9巻、6713号)

同年7月16日の春日社願文では、道家は、実経がすでに摂政へ昇り、後嵯峨上皇から「奉公之器」と評価されたことを挙げ、実経と忠家の双方が自らの後を継ぐことを願っている[31]。海上は、寛元4年の政変によって実経と忠家の前途がともに不安定になったため、道家が家門の存続を両者の二系統へ託す構想を明確にしたと解している[32]。また、この構想を、道家が当初から複数の摂家を並立させる既定方針を持っていたことの表れとはみず、教実の早世、四条天皇の死、寛元4年の政変などに応じて形成されたものと位置づけている[33][34]

こうした弁明にもかかわらず、道家は頼経の追放に連座したほか、道家が親しくしていた雅成親王(後鳥羽天皇の皇子で承久の乱後但馬国に流されていた)が幕府によって一時帰京を許された折に、後嵯峨上皇と後深草天皇を排して同親王を皇位に就けようとしていたとする容疑[注釈 6]によって、道家は10月に関東申次の職を罷免(公経の子・西園寺実氏に交代)され、実経も翌寛元5年(1247年)1月に摂政を罷免させられた[注釈 7]。これにより道家は政治的立場を完全に失った。なお、名越の陰謀にも関与していた三浦光村宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で兄の泰村と共に北条執権方に討たれた際に「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、(名越の陰謀の時に)泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされていることから、一連の「反得宗家」の陰謀に道家自身が積極的に関与していた可能性も指摘されている。

建長2年(1250年)11月、道家は寺院の管領、邸宅、日記・文書、荘園などの継承を定めた惣処分状を作成した[37]。その後、建長4年(1252年)2月19日にも、光明峯寺などの寺院の管領を中心として規定を改めた第二度惣処分状が作成された。第二度処分状は一部の抄出のみが現存するが、所領配分の基本的内容は建長2年の処分から大きく変更されなかったとみられる[37]

建長2年の惣処分状では、実経に一条室町殿をはじめとする計40か所、忠家に九条富小路殿をはじめとする計26か所が譲与された[38]。近衛家に嫁いだ仁子を除き、道家の娘や孫娘に譲られた所領の多くは一期分とされ、その後には実経または忠家の子孫へ伝えるよう定められた[38]。実経・忠家とその子孫については、「前途」を遂げて「家長者」となった者が所領を相伝し、「大位」に昇らず「俗塵」に混じった場合には、その相続分を返付して「家長者」が惣領するよう定められていた。海上は、この規定を、実経・忠家とその子孫が摂関就任を条件として所領相続を認められたものと解している[39]

道家は惣処分状の末尾で、先年に重病となった際にも処分状を作成したが、その後、良実が自らに「違背」したため、「先度之処分」を改めたと記している。旧状については「破却投火中既畢」とあり、すでに破却して火中に投じたとされる[40]。海上貴彦は、この「先度之処分」を良実が義絶される前の処分とみているが、その内容を明らかにする材料はないとしている[41]

巽昌子は、道家が家領を実経・忠家の二系統へ分けるにあたり、家領の範囲とその証拠文書を再確認し、家産を再構成するために惣処分状と重書目録を作成したとする[42]。この処分により、実経の子孫が継承する一条家と、忠家の子孫が継承する九条家には、それぞれ独立した家領と家政運営の基礎が与えられた。海上は、これを、一方の家系が政治的に失脚した場合にも他方によって摂家としての存続を図るための継承構想と位置づけている[43]

建長3年(1251年)12月、了行らによる幕府転覆計画が発覚し、道家と頼経にも関与の嫌疑が及んだ。海上によれば、寛元・宝治・建長の政変を通じて将軍勢力が敗れ、道家とその一門の政治的基盤は一層不安定となった[44]

建長4年2月4日、道家は院伝奏の藤原顕朝を自邸へ呼び、実経・忠家・佺子らによる自らの「遺跡」の継承について後嵯峨上皇へ奏上するよう求めた。道家は、教実が存命であれば嫡々相承によって異論なく家を継承できたものの、教実の早世後は家の継承が定まらなくなったため、実経と忠家を中心として遺跡を分けた経緯を説明した[45]。後嵯峨上皇は顕朝の奉書を通じ、道家の申入れに相違がなければ、その意向どおり安堵する旨を伝えた[46]

海上は、この安堵が個別の所領ではなく、道家の家領全体とその継承者を対象としていた点で、後世の家門安堵に近い性格を持つとする。一方、文書は年号を欠く内々の書状で、相続人ではなく道家本人に宛てられており、建武期以後の正式な家門安堵と同一の制度ではない。海上は、摂関家が天皇との外戚関係を背景として特別な保証を受けた時代から、他の公家と同様に治天の君から家門の継承を認められる時代へ移る過渡的な事例と評価している[47]

同月19日、道家は第二度惣処分状を作成し、21日に死去した。享年60。同年には孫の頼嗣も将軍職を解任され、京都へ送還された。

『玉蘂』について

書名の由来

九条道家の日記は『玉蘂(ぎょくずい)』と呼ばれている。「玉蘂」という一見奇異な書名がつけられているのは、祖父・九条兼実の日記が『玉葉』と名付けられているのに因んだもので、草木において葉よりも更に末端である花弁の中の蘂に譬えて命名されたものと考えられている。

更に『玉蘂』は、曾祖父・藤原忠通の日記『玉林』、祖父・兼実の日記『玉葉』などの末の意味で、謙称の名であろう。また晩年の住居から『光明峯寺殿記』や『峯禅閣記』とも称されている。

現存状況と伝本

一条兼良著『桃花蘂葉』当家相伝正記事に「玉蘂七合、光明峯寺禅閣自筆記」とある。『玉蘂』は文明12年(1480年)の頃、室町時代の中頃までは、かなり大部のものが伝わっていたものと思われるが、戦国の争乱に罹災して、今日に伝わっているのは次の期間の日記のみである。

  • 承元三年(三月~八月)
  • 承元四年(正月~十二月)
  • 承元五年(建暦元年三月~十一月)
  • 建暦二年(二月~十二月)
  • 承久二年(正月~十二月)
  • 承久三年(正月)
  • 安貞二年(正月~三月)
  • 安貞三年(寛喜元年三月~十月)
  • 文暦二年(嘉禎元年正月~十二月)
  • 嘉禎二年(十一月)
  • 嘉禎三年(正月~九月)
  • 嘉禎四年(暦仁元年正月~六月)
  • 仁治三年(三月)

誤伝について

承久3年(1221年)はその間の重要な年代であるが、惜しまれることに現存する記録は少ない。また、残存する記録にも欠落部分が多い。なお、陽明文庫蔵本には仁治2年(1241年)1月と記された一冊があるが、その内容は実際には承元4年(1210年)1月の日記である。いつ頃から誤って伝えられたかは明らかではないが、大阪府立図書館蔵本において、仁治2年(1241年)1月の日記の次に仁治3年(1242年)3月の日記が掲載され、その末尾に以下の記載がある。

右以正親町家本令書写者、
正德二年辰四月、
吉見刑部大輔源幸和、

これにより、正徳2年(1712年)以前には既に誤って伝えられていたことが明白である。また、陽明文庫蔵本の表紙は近衛家熈の筆跡であることから、誤伝は元禄年間以前に遡ると推測される。

仁治三年三月十八日条の記録

次に、仁治3年(1242年)3月の日記は、12日から30日までの記録である。そのうち18日条、後嵯峨天皇の御即位に関する記述中に、

外弁、
大納言藤隆親
権大納言藤定雅
権中納言源顕定
権中納言藤公親
予参議侍従見端、
参議左大弁、

とあり。『公卿補任』仁治3年(1242年)条によれば、「参議左大弁」は二条資季であり、また「参議侍従丹波権守」も同人物を指す。したがって、この日記は資季の日記『荒涼記』であり、道家の日記ではない。陽明文庫蔵本には該当部分が存在せず、大阪府立図書館蔵本などにのみ存在する。

伝本と刊行状況

自筆本『玉蘂』は一条家に伝わり、室町時代まで現存していたが、現在では近世の写本を伝えるのみである。主な所蔵者は、陽明文庫・京都府立総合資料館国立公文書館内閣文庫等である。思文閣出版から昭和59年(1984年)に今川文雄校訂で一冊本として出版された。

内容と記述の特質

以上を概観すると、道家自身やその家族の身辺の儀礼に関することと、朝廷において自分が主催または関与した臨時・恒例の公事、とくに儀式典礼に関することに、多くの紙幅を費して詳記しており、道家の関心の存したところが知られるのである。この日記に機務に関する記述が殆ど見えないのは、現在残存している日記が、全体から見て一部分にすぎないことにもよると思われるが、星野恒博士が、

道家平素頗陰謀秘計アリ、蓋其人世故ニ熟練シ、巧ニ応酬ヲ為ス、コレ其一門貴盛ヲ極ムル所以、又其事故多キ所以ナリ、機智アルモノハ妄ニ底蘊ヲ示サス、日録記ス所裏面ノ事情ニ及フモノ少キハ、或ハコレ等ノ為ナラジ、

と指摘されているように、記事が非常に詳細であるのに、儀式典礼に関することに殆ど終始して、政局の裏面やその批判に及ぶことの少ないのは、他人に披見された場合を顧慮して記述をさし控えたことも考えられる。

「平家記事」について

かつて『平家物語』の異本研究において注目された、承久2年(1220年4月20日条の記事に以下の記述がある。

資頼朝臣送書云、来廿六日行啓也、而件日可有御方違行幸、同日之条惮有無如何、答曰、問例於外記、可問忌禁有無於在継朝臣者、以有長為使、平家記事仰遣光盛卿許、彼卿多持平家世、有可供与之返報、

この文中の「平家記」は、『平家物語』ではなく、平家一門の公式記録を指す。しかし、過去には誤って『平家物語』と解釈された経緯がある。『玉蘂』の中心的な記述内容は、朝廷の儀礼や有職故実に関する事柄である。

批判的記述の事例

藤原実宗の死に対する評価

ただし、必ずしもそうとは限らない。例えば、道家は日記の中で藤原実宗の死について評している。実宗は建暦2年(1214年12月8日、64歳で世を去っている。当時、権大納言兼左大将の道家はその日記に実宗入滅のことを次の様に記している。

八日、今日申時入道内大臣、実宗、入滅、年六十四、按察大納言公通卿男、所経歴、侍従・近衛中将・蔵人頭・参議右中将・中納言・大納言、新院御在位之初下﨟超任大臣、仍籠居、其後又中風不出仕、建仁二年内大臣通親薨闕可任大臣之由有勅、而朔旦在前、件日必可出仕之故、右大臣家実不可出仕故也、左大臣故殿重服、難叶、依中風也、辞退、人以為奇、仍隆忠任了、其後経数年、元久之頃任大臣、絶已六代興家、可謂高人欤、又子息為大納言、為宰相、一上労輩可足欤、後生定同前欤、兼日有夢想云々、余即為長俊朝臣使、問大納言公定卿俊家等、答不覚之由了、

実宗の官歴がほぼ尽くされているうち、極官は内大臣である。任内大臣は即ち土御門天皇の元久2年(1205年11月24日である。「六代興家」とあるのは、西園寺家は藤原師輔の子公季に始まっている、公季は太政大臣に到ったが、その子孫実成公成実季公実通季公通はいずれも大納言級止まりであった。この六代の間の極官に対して実宗が、これを超えて内大臣に到ったことを言ったものと思われる。実宗に於て、六代の祖先を超えて内大臣に到り、家を興したということは日記の記主道家の強く印象しているところである。

三条家の三代に対する評価

道家は承久2年(1220年)1月1日の日記の中で、三条実房公房実親の三代にわたる賢愚について、以下のように評している。

入道左府、世稱大恩教主御房、是則公事為諸人師之故也、而其息太相国於事現尾籠、人以属目、孫実親頗勝于父公欤之由、人以存之欤、今有此違失、已不顕金色膚、交俗塵欤、可嘲々々、

藤原宗業の昇進に対する評価

また藤原宗業が順徳天皇の侍読となり、昇殿を許された際、その身分に不相応な昇進に対して、道家は建暦2年(1214年8月3日の日記で次のような厳しい批判と反省を記している。

宗業其身太下品物也、越諸家為家司為後見、踏雲上之条又希有事也、依尋其才、一已被式部大輔・正四位下御侍読井殿上之条、太不可然事也、須申此子細也、然而為人不便、仍不具録、可謂不忠欤、自今以後彌詞可驚奏也、努力々々、

記述の特質

故に特に意を用いて裏面の事情を記さなかったとも思われない。これは機務に直接関与しない者の場合には、他から耳に入れた機密な事柄について非常に興味がわくのであるが、最高の権力者で、自分の意のままに振舞うことのできる人物にとっては、自分が裁決したことは、そのまま公表実施に移されるのであるから、機務に関することも日常のことであって、特にその経過を自ら記録する興味も起らず、また書き止めておく必要も感じなかったのであろう。故に「師員又来、在簾前問密事」あるいは、「言談多端、悉不能記也」などと淡々と書流している。故に日記はその記録者が反主流派の立場にあるとき、または失意の境遇にあるときの方が、却って重要な記述に富む傾向がある。自分の意見が通らなかったり、意表なまたは自分の意に反する方向に政局が推移した場合に、要路の当局者の行動や、ときの政局に対して批判を加えたり、政道を非難したり、時局・世情を慨嘆する情念が凝って思わず筆端に迸って、裏面の事情にも書き及ぶのである。一方権力の座にある人達にとって、自分が主動して開催したり、関与して重要な役目を演じた儀式や典礼について、その一部始終の記事を詳細に書き留めて置くことは誇らしいことであり、後世にも子孫にも永く伝うべき晴の盛儀であって、感激と興味のある事柄である。それはいまも種々の典礼や儀式が行われたときに、それを記念するために豪華な記念誌が編纂されるのと似通った心情の所産であろう。道家が『玉蘂』に非常に詳細な記事を残したのも同じ心境であろう。即ち、政権を鎌倉幕府に奪われたいまもなお、父祖の昔にかわらぬ盛儀を遂行し得たという、当時の公卿一般に共通した喜びと満足感を以て記録したことであろう。

道家の学識と性格

道家も若い頃から、儀式に臨む前には、『西宮記』などの有職故実書はもとより、先祖の残した記録類や、書写蒐集した先人の日記などから、関係の資料を抄録して研究を積んでその日に備えた、道家は早く父祖を失ったので、有職故実については伯父の松殿基房を師として教を受けた。基房は摂政・関白・太政大臣・従一位まで昇ったが、平家に反抗して太宰権師に貶せられ、平氏を追うて入京した源義仲と結んで政界復帰を企て、子息の師家を一時は摂政・内大臣に昇進させることができたが、間もなく義仲の敗死によって師家も解官され、当時は失意のうちに入道閑居の身であったが、来訪して熱心に教示を請う若い道家を、喜び迎えて親しく質問に答えた。そこで道家は建暦2年(1214年)9月13日の記録において、基房への敬意と感謝の意を表している。

自故殿御時後、御辺事難遠之上、已公事先達、又先師也、

道家は年少の頃には有職故実の道に通達し、岳父・西園寺公経もその説に耳を傾けるほどであった。道家は議式を記録した後、意に沿わない場合には「以外違失也」「甚以無礼也」「不可然事也」などと痛烈に非難し、また公事の遅滞に対し、承久2年(1220年)3月1日の記録に、

末代之人一切不知礼法、非我所得要事之外、不思公事解怠、可指弾々々々、

という慨嘆を記している。

官歴

さらに見る 和暦(西暦), 月日(旧暦) ...
九条道家の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 8] 事項 特記事項
建仁3年(1203年 2月13日 11歳 元服、正五位下に叙し、禁色を許される
3月2日 侍従に任ず
7月8日 左近衛中将に転ず
12月20日 従四位下に昇叙、左中将如元
建仁4年/元久元年(1204年 1月13日 12歳 播磨介
4月13日 従四位上に昇叙、左中将・播磨介如元 元久への改元後
元久2年(1205年 1月9日 13歳 従三位に昇叙、左中将如元
3月9日 権中納言に転ず、左中将如元
8月9日 正三位に昇叙、権中納言・左中将如元
元久3年(1206年 1月6日 14歳 従二位に昇叙、権中納言・左中将如元
5月30日 橘氏長者の宣旨を蒙る 藤氏摂関による兼帯の慣例
6月16日 左近衛大将を兼ね、左中将を去る
建永2年(1207年 1月5日 15歳 正二位に昇叙、権中納言・左大将・橘氏長者如元
2月10日 中納言に転ず、左大将・橘氏長者如元 左馬寮御監を兼ねる
承元2年(1208年 7月9日 16歳 権大納言に転ず、左大将・左馬寮御監・橘氏長者如元
建暦2年(1212年 6月29日 20歳 内大臣に任ず、左大将・左馬寮御監・橘氏長者如元
建保3年(1215年 12月10日 23歳 右大臣に転ず、左大将・左馬寮御監・橘氏長者如元
建保6年(1218年 2月26日 26歳 左大将・左馬寮御監を辞す
11月26日 東宮傅 東宮は懐成親王(のちの仲恭天皇
12月2日 左大臣に転ず、東宮傅・橘氏長者如元
承久3年(1221年 4月20日 29歳 摂政藤氏長者の宣旨を蒙る
7月8日 摂政・藤氏長者を止む
承久4年(1222年 日付不詳 30歳 橘氏長者の宣旨を蒙る
安貞2年(1228年 12月24日 36歳 関白の宣旨を蒙る
12月27日 藤氏長者の宣旨を蒙る
寛喜3年(1231年 7月5日 39歳 従一位に昇叙、関白・藤氏長者を辞す
文暦2年(1235年 3月28日 43歳 摂政・藤氏長者の宣旨を蒙る
嘉禎3年(1237年 3月10日 45歳 摂政・藤氏長者を辞す
嘉禎4年(1238年 4月24日 46歳 准三宮宣下を固辞
4月25日 出家
建長4年(1252年 2月21日 60歳 薨去(享年60)
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系譜

脚注

参考文献

関連項目

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