ジョチ (泰寧衛)
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出自
ジョチは泰寧衛都督の「阿只罕」なる人物の息子と伝えられるが、阿只罕の出自については諸説あって定かではない[2]。阿只罕をテムゲ・オッチギンの末裔である遼王アジャシュリと同一人物と見る説もあるが、これを否定する意見もある[2]。兄のトゴチ、叔父の灰王哈剌孩といった親族がいた。
オイラトへの接近
1430年代、それまでモンゴル高原東部を支配してきたアルクタイがオイラトのトゴンに敗れて弱体化し、これに乗じてジョチの兄のトゴチら三衛の首領はアルクタイからの独立を図った[1]。しかし、アルクタイの反撃を受けて三衛は敗れ、この一件が影響してか1433年(宣徳8年)5月にトゴチは死去したとの報告が明朝になされた[1]。トゴチにはテギンという息子がいたが、新たに都督僉事に任命され泰寧衛を統轄したのはトゴチの弟のジョチであった[3][1]。1441年(正統6年)12月には当時の泰寧衛の有力者(トゴチの子のテギン、ゲゲン・テムル、ナガチュ、コルチタイ)らが揃って朝貢を行った記録があるが、筆頭で名が挙げられているのが「泰寧衛都督僉事」のジョチであり[4]、泰寧衛全体を統轄する立場にあったことが分かる[1]。
以後、ジョチは同年中より朝貢を始め[5][6][7]、1436年(正統元年)[8][9]・1437年(正統2年)[10]と朝貢を繰り返したが、この頃にはオイラトのトゴンがウリヤンハイ三衛にも進出しており、ジョチは娘をトゴンに嫁がせたと伝えられる[11][1]。このような関係からか、同年8月にはジョチが「トゴンがアダイ・ハーンを殺害した」との報告を明朝に行っている[12][13]。
これ以後、オイラトに通じた三衛は明朝に従順ではなくなり、1438年(正統3年)にジョチが派遣した使者に対して[14]、この頃三衛の人馬が明領の辺境を侵している事や、衛の印信を偽って朝貢を行っていることを咎めたとの記録がある[15][16]。1439年(正統4年)[17][18][19][20]・1440年(正統5年)[21]・1441年(正統6年)[22][23]には通常通りの朝貢が行われたが、この年末よりウリヤンハイ三衛とみられる「達賊」の明朝領での掠奪が始まり、三衛と明朝の関係は悪化していった[11]。
正統9年の明軍北征
ジョチは1443年(正統8年)[24][25]・1444年(正統9年)[26]も引き続き例年通りの朝貢を行っていたものの、一方で明朝領での掠奪をやめない三衛の動向に正統帝は怒りを募らせていた。正統9年2月、正統帝は「泰寧等衛都督僉事ジョチおよび大小頭目」らに対し、三衛が去年10月以来明領の辺境で掠奪を行っていること、掠奪を行っている者を差し出すよう重ねて勅を出しても従わないこと、等を糾弾し、これが改められないようであれば配下の諸将に命じて北征を行わせると通告した[27]。
しかし正統帝からの通告は三衛の反明的な動向を変えさせるには至らず、むしろ三衛がよりオイラトと親密な関係を築くことを後押しする結果となった[28]。まず同年7月には、福余衛のアルチュより「泰寧朶顔頭目のジョチらは官軍に人畜を掠奪・殺害されており、その報復として人馬を集めて明辺を犯そうとしている。また、エセンが配下の頭目を三衛に派遣し、散在する三衛の人馬を取ろうとしている」との報告がなされ[29]、また同年8月には「ウリヤンハイ頭目のジョチがエセンに兵を請うている」とも記録されている[30][28][1]。
このように三衛の行動は改められなかったため、遂に同年末より1445年(正統10年)初頭にかけて朱勇を総司令とする北征軍が派遣されたが、三衛を屈服させるには至らなかった[31][1]。なお、明軍の北征にあわせてエセンも出兵する予定であったようであるが、恐らくは後述の三衛と女直の軍事衝突によりエセンの出兵は実施されなかった[32]。
三衛と女直の衝突
北元時代を通じて、女直はモンゴルの影響を強く受けていた[32]。1440年(正統5年)には「建州女直の李満住がモンゴルに兵3万を請うて朝鮮に出兵しようとしている」、「建州女直と福余衛が互いに馬を盗み抗争が生じている」といった風聞が生じており、これらはオイラトの三衛進出が影響したものと考えられている[33]。1442年(正統7年)には朝鮮に対して「蒙古皇帝(=タイスン・ハーン)からの勅書」が届けられたが、その正使が朶顔衛の人で、副使は海西女直の人であった[33]。朝鮮ではこの頃、達子/達達(モンゴル)からの侵攻の風聞が立っており、朝鮮-女直一帯においても情勢が緊迫しつつあった[34]。
このような情勢下で、1444年(正統9年)中に海西女直に属する肥河衛の使者が三衛において拘禁・殺害される事件が起き、肥河衛都指揮の別里格が明朝朝廷の許しを得て三衛に出兵するに至った[35]。別里格は同年7月に格魯坤迭連の地において泰寧衛のジョチと福余衛のアルチュの軍勢を破り、これを聞いた明朝朝廷では別里格に下賜を行ったという[36][35]。更に翌1445年(正統10年)には同じく海西女直に属する「塔山等十七衛」が「かさねてウリヤンハイ三衛達賊に擾害させられたため、復讐のため三衛に出兵することを欲する」と明朝に申し出て、明朝朝廷はこれを認めている[37][35]。
上述のように、オイラトの支援を受けた三衛の伸張に危機感を抱いた海西女直諸部は大同団結して三衛出兵を企図し、三衛とオイラトの接近を危険視する明朝も女直側を支援した結果、1445年(正統10年)に女直の三衛侵攻が生じた[38]。海西女直は主に隣接する泰寧衛・福余衛に出兵したが、この戦役は痛み分けに終わったようで、同年10月には明朝が調停に入っている[38]。明朝は福余衛のアルチュ(安出)・ダイドゥ(歹都)、泰寧衛のジョチ(拙赤)・ゲゲンテムル(隔干帖木児)に使者を派遣し、「三衛と女直は皆朝廷が衛分を開設したものであり」「隣境と和睦する」ことを諭した[39][38]。この時明朝は「夷を以て夷を征する」の論理に基づき、三衛が増長すれば女直を支援してこれを叩かせ、その後は女直が増長し過ぎないように調停に入ったものと考えられている[1]。
オイラトの三衛出兵
明軍の北征、女直の出兵といった危機を潜り抜けた三衛であったが、1446年(正統11年)よりは後ろ盾としていたオイラトからも狙われるようになった。明朝がこの年正月に泰寧衛のジョチ・朶顔衛のトゥルゲン・福余衛のアルチュに下した勅によると、「三衛はオイラトが『アルクタイの孫を捜索する』との名目で出兵しようとしていることを察知しており、明朝に助けを請うてきたため、正統帝は辺将に三衛を攻撃しないよう命じた。また三衛は女直に使者を派遣して和議を結ぶことも願ったため、その仲介も図った」という[40][41]。ここで挙げられる「アルクタイの孫」とは、アルクタイの息子のホルフダスンとその妻の速満答児のあいだの息子で、速満答児は三衛の首長、特に阿只罕の娘(すなわちジョチの姉か妹)と推定されている[41][42]。同年6月には「オイラトのエセンが朝貢のため派遣した乞児吉歹が、泰寧衛に属する迭的谷らが兵を集めてオイラトの朝貢使節を阻もうとしていることを察知し、迭的谷を捕らえて明朝朝廷に差し出す」事件があり、これを受けて明朝はジョチら泰寧衛の首領たちを咎める勅を下している[43]。
オイラトと三衛の関係は突如として急変したように見えるが、明の兵部尚書の鄺埜らの考察によると、「オイラト虜酋のエセンは、父トゴンの時にアルクタイの勢力を併呑し、部落は益々強大となり、西北一帯の戎夷その脅威を受けて服従しない者はなかったが、ただウリヤンハイ三衛のみが服従しなかった。そこでエセンは自ら人馬を率いて三衛を掩殺し、これより北漠の東西万里に敢えて抗う者はないなくなった」という[44][45][46]。すなわち、ウリヤンハイ三衛は早くからオイラトと通じていたといっても完全に服従していたわけではなく、これを完全に屈服させることを前々から狙っていたエセンが、機会を捉えて出兵したというのが実状であったようである[45][46]。
エセンの三衛出兵は1446年(正統11年)年末に行われ、三衛に壊滅的な打撃をもたらした。朝鮮側には「オイラトのエセンは兵億万を率い、ほとんど三衛の達子を殲滅した」と伝えられ、1447年(正統12年)7月には明朝において「近年オイラトはウリヤンハイを騙し取った。オイラトは泰寧衛都督のジョチと姻戚関係を結んでいたが、昨年ジョチはオイラト軍の刧掠を受けて死に、その残党は敗亡した」と伝えられている[47][45][46]。後に、アラク・テムルがエセンを討つ際に掲げた「エセンの三つの罪」の一つに「ウリヤンハイ人を殺戮したこと」が揚げられており、エセンによる三衛の出兵が多くの被害をもたらしたこと、また大義名分に悖る出兵であったことが窺える[48]。この一戦を経て三衛は完全にオイラトに屈服し、朶顔衛のアルキマルなどは遠く離れたムナ山まで強制移住させられた[49]。
ジョチの死後、その地位を継いだのは別系統とされるゲゲン・テムルであり、ジョチの子孫については全く記録がない[46]。オイラトの蹂躙を受け、ジョチが敗死した事は泰寧衛を大きく弱体化させたと評され、ゲゲン・テムルとウネ・テムル兄弟を中興期として、以後泰寧衛は弱体化の一途を辿ることとなる[46]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 李 2006, p. 14.
- 1 2 和田 1959, p. 193.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年五月壬戌(十日),「泰寧衛掌衛事都督僉事脱火赤卒。事聞、命其弟指揮同知拙赤為都督僉事、仍掌衛事撫輯民人、且賜之襲衣綵幣」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月丁酉(五日),「泰寧衛都督僉事拙赤・都指揮使脱火赤・討勤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事納哈出・火児赤台、福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・申帖干、朶顔衛都指揮使完者帖木児・都指揮同知倒斤・朶羅干、建州左衛都指揮李張家等、各遣使来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差……」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年七月丁丑(二十六日),「遣使齎勅賜泰寧衛都督僉事拙赤等十五人綵幣四十五表裏。時拙赤等遣人貢駝馬故答之」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年十月丁丑(二十八日),「泰寧衛都督僉事拙赤遣指揮僉事扭林、烏思蔵国師乃爾丹答你麻結的等来朝貢馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年十一月丙戌(七日),「賜泰寧衛都督僉事拙赤所遣指揮僉事扭林等綵幣及紵絲襲衣有差。仍遣扭林齎勅及綵幣表裏、帰賜拙赤」
- ↑ 『明英宗実録』正統元年八月甲申(二十一日),「福餘衛遣使臣指揮使火児赤、兀者等衛都指揮僉事莽剌、泰寧等衛都督僉事拙赤弟灰王納哈出等、嘉河等衛女直指揮弗剌答等、倶来朝貢馬及方物。賜宴并綵幣等物」
- ↑ 『明英宗実録』正統元年十一月丁未(十六日),「泰寧衛都督僉事拙赤……等倶来朝貢馬及方物。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統二年八月戊午(一日),「迤西朶児只伯・泰寧福餘二衛都督拙赤等……各遣人貢馬及方物。賜綵幣等物有差」
- 1 2 和田 1959, p. 276.
- ↑ 『明英宗実録』正統二年八月戊辰(十一日),「行在兵部奏、泰寧衛都督拙赤奏、順寧王脱歓遣部属剿殺阿台。其言未可軽信、宜厳督遼東・宣府・大同・寧夏・甘粛・延安・綏徳等処総兵官、用心哨備。上命遣人馳駅報之」
- ↑ 和田 1959, p. 264.
- ↑ 『明英宗実録』正統三年五月己亥(十六日),「爪哇国王楊惟西沙遣使臣亜烈麻叶、泰寧衛都督拙赤遣指揮伯都、福餘衛都指揮安出遣指揮哈孩等、倶来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年五月戊申(二十五日),「泰寧衛指揮伯都・福餘衛指揮哈孩、陛辞命齎勅及綵幣帰賜其都督拙赤都・指揮安出等勅曰、爾等遠処東陲、奉公守法。保境恤下、于茲有年。朕屡勅辺将、不許令人需索、聴爾等自在放牧。不期爾処人馬数犯辺疆。朕初以為部属無知、及辺将擒獲解京、詢其所由、悉爾等同悪相済、在廷文武群臣皆欲挙兵征剿。朕慮大軍一出、未免傷及無辜、心所不忍。已嘗遣勅往諭朕意。今爾等遣指揮伯都哈孩等朝貢、具奏作歹之人遠遁不服、此似飾非難信。茲因伯都哈孩等回、再遣勅往諭、爾等宜深念朝廷大恩、即将犯辺賊首擒獲解京、以正国法。否則命将問罪、雖欲追悔、不可及矣。爾等其審思之」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年十二月辛未(二十一日),「泰寧衛指揮答孩等陛辞令齎勅賜都督拙赤等曰朝廷設置諸衛、錫以印章、所以関防姦偽、保境安民、為爾等長久計也。而爾等文移奏状印信互用、使臣来往差遣混淆雑乱若此将何准信。万一小人乗間生事、殆難別白。今後陳奏文字須用本衛印信、所遣使止許本衛人、庶事有帰一朝廷得有所稽、而爾等亦不至為小人所累、蓋欲曲相保全、以永安靖。其聴朕言、毋速爾戻。先是有帖木児者称泰寧衛使臣来貢、而所齎文字乃朶顔衛印、審験之実福餘衛頭目又嘗為朶顔衛使臣、及答孩等来貢、其奏状亦用朶顔衛印。蓋虜人不知法制、且狡黠多端、其印毎相借用、或一人而屡易其名、故戒約之」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年正月甲辰(二十五日),「泰寧衛都督拙赤遣使臣指揮伯都、并朶顔衛指揮兀剌阿互、益実衛指揮答里哈、薛列河衛指揮阿里哥卜、忽禿河衛指揮乃頼忽等、倶来朝貢馬及方物。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年閏二月甲午(十六日),「泰寧衛指揮脱脱等陛辞命齎勅及金幣。賜都督拙赤・頭目納蘭脱脱伯等」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年四月丁亥(十日),「泰寧等衛使臣完者禿等陛辞命齎勅并織金文綺襲衣綵幣等物、帰賜其都督拙赤等」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年五月丁卯(二十日),「朶顔衛千戸哥里干・泰寧衛都督拙赤・福餘衛指揮好古歹、各遣韃靼失里干帖木児等・福餘衛指揮把禿児・東寧衛指揮興福等、倶来朝貢馬。賜宴并賜綵緞鈔幣有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統五年正月(三日),「朶顔衛都指揮同知倒斤遣千戸兀哥赤、泰寧衛都督拙赤遣指揮哈孩等、倶来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月(七日),「泰寧等衛使臣指揮朶羅阿台等辞帰命齎勅并綵緞表裏、帰賜都督拙赤」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月辛亥(十九日),「泰寧・福餘・朶顔・建州左四衛都督僉事等官拙赤等所遣頭目進貢。至是辞帰倶賜勅以諭之俾其永堅臣節帰順朝廷守法循礼安処辺陲」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年四月丁酉(十二日),「遣指揮使季鐸・指揮同知李全等、齎勅諭朶顔衛都揮使完者帖木児・泰寧衛都督僉事拙赤・福餘衛都指揮同知安出及各衛管事大小頭目人等、頒賜綵幣表裏有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年六月壬寅(十九日),「泰寧等衛都督拙赤等遣使臣脱脱伯等来朝貢馬六百匹。賜宴并賜紵絲襲衣綵緞表裏等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年正月戊寅(二十八日),「遼東安楽州達官趙公保等、忽里吉山等、衛野人女直兀札哈等、建州等衛女直色仲哥等、泰寧等衛都督拙赤等、并迤西戎地面扯列必王等、遣頭目沙力免力等、貢馬駝方物。賜綵幣表裏紵絲襲衣有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年二月壬寅(二十二日),「勅泰寧等衛都督僉事拙赤及大小頭目人等曰、爾等自前歳十月以来、不体朝廷眷遇大恩、縦容部属、屡犯辺方。朝廷累勅爾等、令擒首賊并所掠人畜解京。爾等曲蔽悪人、飾詞妄奏。或云被殺親属、報復旧怨。或称遠方部落不能管束。陽遵朝命、心実詭譎。遣使来朝者未回、縦賊犯辺者迭至。去年十月、又侵延安辺境。辺将倶奏、爾等怙罪日深、請調大軍剿絶。朕念天地好生之心、不忍大肆殺戮、姑止進兵。爾等宜痛加警省、改過遷善。仍遵前勅、擒獲首賊及所掠人畜解京。厳禁部属、毋再犯辺境。若爾等仍前作悪、朕必命驍勇将臣、大調精鋭官軍、分路剿殺、窮追沙漠、搗爾巣穴。非惟使爾父母妻孥不保、凡山川草木、亦皆不得寧息。此時雖欲改悔、万無一及矣。爾等其深省之」
- 1 2 和田 1959, p. 277.
- ↑ 『明英宗実録』正統九年七月庚午(二十三日),「勅縁辺諸将曰、近得遼東総兵等官奏、兀良哈頭目俺出伝報、泰寧朶顔頭目拙赤等部屡言被官軍擒殺人畜、欲収拾人馬犯辺。又言也先見差頭目在三衛、索取以先漫散人口、其情倶未可測。此賊譎詐、毎歳秋冬常為辺患、況今春被官軍擒殺、其党類必有報復之心。爾等宜整搠軍馬器械、預備糧草、如法操練。縁辺関隘墩臺急為修整完固、精選守瞭官軍、勤謹哨望、遣夜不収往来巡探、遇賊入寇、即相机擒剿。務在謀画周慎、用図万全、庶幾軍威振挙、辺境粛清。敢有怠慢辺事、遇賊不能殄滅、及聞隣境有賊推托畏避、不即策応者、倶重罪不宥」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年八月庚戌(二十八日),「勅縁辺請諸将曰、比使臣自瓦剌回、備言也先為人、凶狡桀驁、信讒多疑、専行詭道、而兀良哈頭目拙赤等又在彼請兵、図為報復、沙州・赤斤皆与結親、哈密忠順王兄弟亦為所劫制、其心蓋昭然可見矣。今雖朝貢、安知非詐。卿等宜同心協力、経画方略、為先事之備」
- ↑ 和田 1959, pp. 869–870.
- 1 2 和田 1959, p. 279.
- 1 2 和田 1959, p. 280.
- ↑ 和田 1959, p. 283.
- 1 2 3 和田 1959, p. 284.
- ↑ 『明英宗実録』正統九年九月壬寅(二十七日),「初肥河衛都指揮別里格奏兀良哈拘殺其使人、朝廷許其報復。別里格遂同罕河衛都督你哈答等率衆至格魯坤迭連地、与兀良哈頭目拙赤・安出等戦、大敗之。遣指揮咬失以状聞、上賜綵幣奨諭之。時兀者衛指揮莽剌随別里格往諸部互市、格魯坤迭連之戦、達寇悉掠其所齎、莽剌忿其強暴、復請于朝、欲率衆追殺、従之」
- ↑ 『明英宗実録』正統十年二月庚戌(六日),「塔山等十七衛都指揮弗剌出等奏、累被兀良哈三衛達賊擾害、欲率領人馬、前去復讐。従之」
- 1 2 3 和田 1959, pp. 285–286.
- ↑ 『明英宗実録』正統十年十月庚申(二十日),「勅諭福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都及大小管事頭目人等曰、今得爾等奏、女直頭目剌塔等引領人馬、到爾地方、殺掠人畜家財、爾歹都率人馬追逐、奪回人口。今欲復率部属、往彼報讐。然去年冬、剌塔等奏、被爾処部属殺掠其人馬財物、累請擒治。朝廷諭彼令挨尋原賊、依俗賠償講和。爾兀良哈与女直、皆朝廷開設衛分、乃彼此交構報復、論法倶不可容。特念爾等遠人無知、悉置不問。自今各宜謹守法度、毋作非為、与隣境和睦、用図永久。仍宜戒飭部属、凡往来須遠離辺境、恐巡哨官軍一概剿殺難辨、特諭知之。遂并勅泰寧衛都督拙赤・都指揮同知隔干帖木児等各頒賜織金襲衣綵幣表裏、倶命来使孛羅塔等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年正月壬申(四日),「勅泰寧衛都督僉事拙赤等・朶顔衛都指揮同知朶羅干等・福餘衛都指揮同知安出等曰、茲爾等以正旦節各遣頭目来朝貢馬、特以綵幣表裏付各頭目齎回頒賜及得。爾等奏、瓦剌欲遣人馬于爾処、挨索阿魯台之孫、請朝廷憫恤、及称遇急、欲移部属、潜避辺境山谷、朕従所奏、勅辺将不許侵擾、其阿魯台之孫、聴其来朝保全身命。爾等又奏、欲遣人往女直、与都督剌塔等議和、悉聴其便。但在各守礼分、共図悠久、毋生事啓釁、以取罪愆。朕以爾等忠事朝廷、故以至誠諭之、爾等其欽承毋忽」
- 1 2 和田 1959, p. 289.
- ↑ 李 2006, pp. 14–15.
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年六月庚子(四日),「勅諭泰寧衛掌衛事都督僉事拙赤・都指揮使討勤・火脱赤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事火児赤台・納哈出及大小頭目人等曰、今得爾等遣頭目帖木児奏称、本衛部属迭的谷等、先帯家小往忽克爾帖里温囲猟、被瓦剌也先朝貢使臣乞児吉歹等擒拏解京、乞朝廷給還完聚。然去歳乞児吉歹等奏、迭的谷等糾集人衆、在途邀劫往来使臣、朝廷已明正其罪、及論乞児吉歹功次、陞官職、賞綵幣、以旌其忠。蓋賞善誅悪、国家大法、必出至公、乃合天道。爾等乃為迭的谷等曲詞請憐、使悪者效尤、良善受害、果天道乎。況爾等世受朝命、掌管衛事、部属中為悪者屡勅挨捕、未常獲解一人。今乞児吉歹等係遠方頭目、能効忠捕賊、豈可置之不問乎。因帖木児回、特勅爾等、自今宜体朕意、宣布朝廷法度、禁戒頭目人民各安生業、毋作非為、庶保身家。爾又奏、若尋見阿魯台孫男送来、亦見爾等恤孤済急之意。朝廷必挙賞功之典、爾等其欽承毋忽」
- ↑ 『明英宗実録』正統十二年正月庚辰(十七日),「兵部尚書鄺埜等奏、瓦剌虜酋也先、自其父脱歓時吞併阿魯台、部落益以強大、而西北一帯戎夷被其駆脅無不服従、惟兀良哈三衛不服。也先又親率人馬分道掩殺、自此北漠東西万里無敢与之抗者。前年也先嘗欲俟我辺将送彼使臣出境、乗間搶殺、及分遣人馬于甘粛・寧夏等処、約期入寇。仰頼皇上深燭其姦、豫勅沿辺厳備、又命定西侯蔣貴等統率精兵巡辺備之、其計不行。今也先率其醜類遠離巣穴、来辺窺探、煙火不絶。乞勅在京各営揀選精壮軍馬各数万、令智勇頭目分投管領、整点軍装器械、于虜使起程之日、命将統領往宣府・大同両処駐操、壮我辺軍勇敢之気、消彼虜賊覬覦之心。又京師官軍為因修城摘撥二万人工作、已一年之上、宜令休息養鋭、遇警調用。上曰、已勅大同総兵、鎮守官整兵護送使臣、又命沿辺操兵隄備在京軍馬、且倶不動、只令大頭目用心提督、務要馬匹臕壮、器械斉整、果辺陲有警、相機調遣。修城軍該管頭目加意撫恤、不許私役、俟城完即令休息」
- 1 2 3 和田 1959, p. 291.
- 1 2 3 4 5 李 2006, p. 15.
- ↑ 『明英宗実録』正統十二年七月庚戌(二十日),「敕諭海西野人女直衛分都督剌塔別勒・格寧哈答、都指揮末朶斡・長安保及建州三衛都督李満住・凡察・董山并各衛都指揮等官大小頭目曰、今兀良哈来朝者、言瓦剌復欲侵劫兀良哈部属及爾地方、且瓦剌居迤北之地、兀良哈居迤南之地、本不相侵犯。近年瓦剌謀取兀良哈、以結親為由、与其都督拙赤等交結。去歳為彼劫掠、拙赤等先死、其餘敗亡、往事可鑑。今此虜又欲謀爾野人女直、爾宜戒飭所属頭目人民、但有虜寇来蠱誘者、即便擒拏、送鎮守官具奏処治、侵犯者即併力剿殺、無失建立功名、忠報朝廷之意」
- ↑ 和田 1959, p. 295.
- ↑ 和田 1959, p. 347.
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 李艶潔「明代泰寧衛首領世系変遷」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』第38巻、2006年11月。
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