パフォスのヴィーナス
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| フランス語: La Vénus à Paphos 英語: Venus in Paphos | |
| 作者 | ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル |
|---|---|
| 製作年 | 1852年頃 |
| 種類 | 油彩、キャンバス |
| 寸法 | 91,5 cm × 70,3 cm (360 in × 277 in) |
| 所蔵 | オルセー美術館、パリ |
『パフォスのヴィーナス』(仏: La Vénus à Paphos, 英: Venus in Paphos)は、フランス新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルが1852年頃に制作した絵画である。油彩。主題はギリシア神話の愛と美の女神アプロディテ(ローマ神話のヴィーナス)から取られている。しかしおそらくはもともとフランス第二帝政初頭の社交界においてその美しさで有名であったアントワーヌ・バレイ夫人(Madame Antonie Balaÿ)をモデルとする肖像画であったが、制作途中で神話画に変更された。変更された事情はよく分かっていない。絵画のいくつかの部分は未完成のまま残されている。現在はパリのオルセー美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5]。
ヘシオドスの『神統記』によると、クロノスは父である天空神ウラノスの横暴に苦しめられる母ガイアを助けるため、ウラノスを去勢して切断した男性器を海に投げた。するとそこに白い泡が生じ、その中からアプロディテが誕生した。アプロディテはまず最初にキティラ島を訪れ、そしてさらにキプロス島へと渡った。アプロディテがキプロスの陸に上がると、その足元からは若草が萌え出でたとされる[6][7]。古代キプロス島の都市パポス(パフォス)は古来よりアプロディテ信仰の聖地として有名で、地理学者ストラボンによるとアプロディテの聖域から約11キロ離れたパポス市へ行進する大祭が毎年のように行われていた[8]。ノンノスは叙事詩『ディオニュソス譚』の中で、パポスはアプロディテが波間から現れて上陸した場所であったと述べている[9]。叙事詩人ホメロスはアプロディテが夫であるヘパイストスにアレスとの浮気がばれるとパポスに逃げ帰ったとデモドコスに語らせている[10]。
作品
ポール・フランドランの1852年の素描『バレイ夫人の肖像』。リヨン美術館所蔵[11](左)。 ドミニク・アングルの「バレイ夫人の準備習作」。アングル・ブールデル美術館所蔵と[15]「パフォスのヴィーナスのための準備習作」。ボルチモア美術館所蔵(中央・右)。いずれも1852年頃。 | ||||
アングルは果実をつけた緑豊かなオレンジや月桂樹の前で岩の上に腰を下ろした裸婦像を描いた[2]。女性はアングルに典型的な女性像の容貌とは異なる面長の顔と青灰色の瞳を特徴としている[2][4]。女性の左腕は明らかに未完成である。両腕はもともと胸の下で組まれていたが、後になって構図を変更したことがペンティメントとしてはっきり確認できる。女性の隣には同様に未完成のまま残された悪戯好きのキューピッドが立っている。背景のわずかな隙間には晴れ渡る青空が見え、画面左上に白い大理石で建設された古代の神殿が建ち、反対側では切り立った岩の断崖がそびえている。アングルはこうしたキューピッドの存在や背景の神殿によって描かれた女性像が愛と美を司る女神ヴィーナスであることを示している[2][3][4]。ヴィーナスの背後の生い茂る樹々は、アングルの弟子で、絵画制作の協力者の1人であったアレクサンドル・デゴッフが描いたものである[2][4][5]。多くの作品と同様に、アングルは解剖学的な正確さを無視し、ヴィーナスの身体をデフォルメして描いた。女神の背中の線は大きく曲がり、左肩に対して首は奇妙な角度を形成している。また喉から胸にかけての造形は乳房が3つあるかのようにも見える[2]。
モデル
作品名が示すように本作品は愛と美の女神ヴィーナスを描いている。しかしアングルは自身のノートに「ヴィーナス像のための荒描き、肖像画」と記し、「肖像画」の下に線を引いて強調していることから、単なる神話画ではないことがうかがえる。このアングルのメモは絵画に特定のモデルがいたことを示している。モデルは美人として知られたアントワーヌ・バレイ夫人(1833年-1901年)であることが分かっている。彼女はロワール県サン=テティエンヌの出身で、リヨン地域から選出された裕福な政治家ジュール・バレイの娘として生まれ、従兄弟の実業家・政治家フランシクス・バレイと結婚した。彼女の美しさは第二帝政期初頭の社交界でも有名で、好色なフランス皇帝ナポレオン3世を避けるためにパリを去らなければならなかったと言われている[2]。
制作過程
発注主や制作経緯に関する資料は発見されていない。しかし制作過程と関連していくつかのことが判明している。たとえばアングルの弟子である兄弟の画家イポリット・フランドラン、ポール・フランドランは夫人の素描を制作しており、バレイ家のコレクションによって所有されていたことが知られている。両画家は夫人をそれぞれ異なるポーズで描いており、イポリットは立像として、ポールは座像として描いた。この2つの素描に描かれた夫人の頭部は本作品のヴィーナスの特徴と完全に一致しており、この事実は3点の作品が同時期の夫人をモデルに制作されたことを物語っている[2](イポリットとポールの素描はどちらも現在リヨン美術館に所蔵されている[11][16])。アングルはこのうちポールの素描を使ってアントワーヌ・バレイの肖像画の習作素描を制作した。すなわち両画家が夫人の素描を制作しているところにアングルが現れて、ポールの素描の出来に満足していたことをポール自身が1852年4月19日の日記に書き記している。さらにポールは同年5月17日の日記にこのデッサンの写しを制作し、アングルのもとに送ったと記している[2]。
アングル自身の習作はほとんど知られていないが、裸婦の美術モデルを使った裸体習作がモントーバンのアングル・ブールデル美術館とメリーランド州のボルチモア美術館に所蔵されている。前者はポール・フランドランの素描に基づく制作初期のもので女性は胸の下で両手を組んでいる。一方のボルチモア美術館の素描では夫人は本作品と同様に手を差し出しており、ほとんど本作品に近い変更が加えられている[2]。
これらを踏まえ、美術史家エレーヌ・トゥッサン(Hélène Toussaint art historian)は本作品の制作過程を次のように推測した。まず肖像画制作の依頼を受けたアングルはポール・フランドランがすでに描いていた夫人の素描のポーズを踏襲しようとを考え、彼から素描のバージョンを受け取った。続いて美術モデルを使ってポーズに関する裸体習作を制作し、その習作に基づいて油彩画の制作を開始した。そして弟子のアレクサンドル・デゴッフに絵画を送り、背後の植物の制作を依頼した。デゴッフが植物を描き終わると、アングルは夫人の顔を完成させたが、おそらくこの段階に至って夫人にナポレオン3世を含む何らかの問題が発生し、依頼がキャンセルとなった。そのためアングルは肖像画を神話画に変更することを考え、夫人のポーズを女神のものに変更した。さらに弟子に依頼してキューピッド像を追加したが、結局未完成のまま放置されることとなった[2]。
当時の反応
来歴
『パフォスのヴィーナス』はアングルが死去するまで画家のアトリエに残されていた。未亡人デルフィーヌ・アングルは夫の死後ポール・フランドランに絵画を贈った。絵画はポール・フランドランが死去する1902年まで彼のもとにあり[2][4][5]、政治評論家アドリアン・ミトゥアールによって購入された。その後、1905年のサロン・ドートンヌ、1921年のアングル展に出展された[2][4]。しかしその後は本作品の存在はほとんど忘れ去られた。1911年のアンリ・ラポーズの著書をはじめ、ウィルデンシュタイン(1954年)、カメサスカ(1968年-1971年)、テルノワ(1980年)といった主要な研究者のカタログ・レゾネやモノグラフで本作品が言及されることはなかった。1981年、オルセー美術館友の会の協力により国立博物館が絵画を取得し、同年にオルセー美術館に収蔵された[4]。