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ジョチ

チンギス・カンの長男。ジョチ・ウルスの始祖。 From Wikipedia, the free encyclopedia

ジョチ(ᠵᠥᠴᠢ Jöči、現代モンゴル語:Зүчи、生没年:1182年/1184年? - 1225年/1226年/1227年?)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ペルシア語由来のジュチ、ジュウチ[1]とも表記される。漢字史料では主に朮赤、アラビア語・ペルシア語史料では主にجوچى خان jūchī khān(ジューチー・ハーン[注釈 1])と綴られる[注釈 2]。

配偶者 サルタク・カトゥン(ソルカク・カトゥン)
概要 ジョチ ᠵᠥᠴᠢ朮赤, 在位 ...
ジョチ
ᠵᠥᠴᠢ
朮赤
ジョチ・ウルス初代君主
在位 1207年 - 1225年/1226年/1227年

出生 1182年/1184年
死去 1225年/1226年/1227年
配偶者 サルタク・カトゥン(ソルカク・カトゥン)
  ベクトゥトミシュ・フジン
  オキ・フジン
  スルターン・カトゥン
子女 オルダ
バトゥ
ベルケ  他
家名 ボルジギン氏
父親 チンギス・カン
母親 ボルテ
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誕生する以前に母ボルテがメルキト族の捕虜となったことから、その出自は疑惑を呼んだ。数々の遠征において参戦あるいは指揮を務め、モンゴル帝国の勢力拡大や防衛に貢献した。ホラズム遠征では主要な司令官として北方の都市や部族を征服した。しかしこの遠征を経て弟たちや父との関係が悪化し、その軋轢はついに解消されなかった。

生涯

生まれ

ジョチの母ボルテは、アルグン川南部の大興安嶺山脈に沿って居住するコンギラト族の出身である[4]。10歳の時、ボルテはモンゴル部[注釈 3]の首長イェスゲイ・バアトルの子テムジン(チンギス・カン)と婚約した。その7年後(1178年頃)、テムジンは過酷な青年期を生き延び、両者は結婚した[6]。1179年または1180年、二人の間に初子のコジン・ベキが生まれた[7]。

盟友であるジャダラン氏族のジャムカや、父の旧友であるケレイト部族のトオリル(オン・カン)といった、草原において名のある首長たちと盟約を結んだテムジンは、彼自身のカリスマの助けもあり、支持者を集め力を有するようになった[8]。テムジンの台頭が知れ渡ると、そのことはただちに北西部のメルキト族の注意を引いた。かつてイェスゲイはテムジンの母ホエルンを奪って結婚したために、メルキト族との間で抗争が生じていた[9]。メルキト族はイェスゲイの後継者に対する報復を決めた[9]。テムジンの陣営は襲撃を受け、彼の家族の多くはからくも逃れることができたが、ボルテは捕らえられた[10][注釈 4]。

後に続く出来事は、もたらされる影響の重大さにより、テムジンの物語の中でもとりわけ物議を醸すものとなった[7][注釈 5]。当代の著者たちの多くはこれらの出来事への言及を避けた[7]。一方、それらに言及した二つの文献(13世紀半ばの史書『元朝秘史』、14世紀のペルシアの歴史家ラシード・アッディーンの『集史』)は記述が矛盾している上[13]、どちらの説も問題を孕んでいる[14]。

『元朝秘史』によれば、ボルテは牛車に隠されていたところを見つかり、チルゲル・ボコ(ロシア語版)に妻合せられた[15]。彼はホエルンの本来の嫁ぎ先であるチレドゥの弟だった[16]。翻ってテムジンは、オン・カンやその弟ジャカ・ガンボ、そしてジャムカの助けを得て、ボルテを救うべく相当の軍勢を集めていた[17]。ジャムカの指揮のもと、連合軍は遠征を行ってメルキト族を破り、大量の戦利品を得た[18]。妊娠後期に入っていたボルテはジャムカの陣営で出産したが、彼女はメルキト族のもとに9か月近くもの間身を置いていたため、ジョチの父が誰であるかは疑わしいものだった[19]。「客」を表す彼の名前には、このことが反映されていると言われる[20]。

一方『集史』によれば、ボルテはメルキト族にさらわれる時点ですでに妊娠していた[21]。彼女はオン・カンのもとに捕虜として送られたものの、彼とイェスゲイとの旧縁により丁重に扱われ、信頼に足る付き人と共にテムジンのもとへ返還されたが、その途中に突然ジョチが生まれた[22]。このことから、「思いがけない客」を意味する「ジョチ」と名付けられたという[23]。しかしラシード・アッディーンは「ジョチと兄弟のチャガタイ、オゴデイとの間には絶えず頑なな態度や口論、不和が生じていた。その一方で、彼とトルイ・カンおよびその一族との間には常に合意があった。彼らはジョチを嘲ることなく、嫡子だと見なしていた」とも述べている[24]。ウィーラー・サクストン(英語版)によれば、これは『集史』において非嫡出の疑いが表明されている唯一の箇所だという[25][注釈 6]。

いずれにしてもジョチの出生にまつわる噂が存在し、彼を生涯にわたって悩ませたという[27]。テムジンは常にジョチを実子として扱い、目をかけていたが、次男のチャガタイをはじめとする多くのモンゴル人からは、ジョチは私生児だと見なされていた[28][注釈 7]。

婚姻

Five men gather around a man sitting cross-legged on a throne.
ジョチの次男であり次代の当主となるバトゥ

1202年、テムジンはジョチにトオリルの娘チャウル・ベキ[注釈 8]を、トオリルの孫トス・ブカに自身の娘コジン・ベキを娶らせようとした[34]。婚姻は同盟を結ぶ根源的な手立てであるため、婚約者の選択は政治的になされた[35]。また当時、メルキトはナイマンと、モンゴルはケレイトとそれぞれ結び、さらにケレイトはナイマンと対立していた[36]。しかしこの縁談はケレイトから侮辱と受け止められ、両者の間に不和を生じさせることになった[37][38]。

1203年、テムジン・カンはケレイトを滅ぼすと、ジャカ・ガンボの長女イバカ・ベキを自ら娶り、次女のベクトゥトミシュ・フジンをジョチに、三女のソルコクタニ・ベキを自身の四男トルイに娶らせた[39]。ベクトゥトミシュとソルコクタニの姉妹関係は、後の時代においてジョチ家とトルイ家の間に見られた密接な関係の一因だと考えられる[40]。なおジョチの第一妃が誰であるかは不明だが、オキ・フジンまたはサルタク・カトゥンのどちらかと見なされている[41]。

宇野伸浩は、オン・カンの娘であるチャウル・ベキとの縁談が計画されたこと、1208年以前にはモンゴルにとって重要な姻族であるコンギラト部のオキ・フジンを娶っていることなどを踏まえ、「チンギス・カン家にとって重要な姻戚関係の担い手として常にジョチが選ばれていた」ことを指摘している[42]。そのため、少なくとも「ジョチがその血筋を疑われ他の兄弟より低く見られていたとは考えにくい」と述べている[43]。

ジョチの長男オルダと次男バトゥは、それぞれサルタク・カトゥンとオキ・フジンを母に持つ[44]。どちらもコンギラト部の出身であり、後者はノヤンの娘でもある[44]。しかし、この二人とベクトゥトミシュのいずれも、もう一人の著名な子であるベルケの母ではない[45]。その他11名の子の名が知られているが、ベルケを除いて彼らの記録が乏しいことには、その母たちの序列の低さが影響しているという[46]。彼らの子孫は、ジョチ家の血筋であることを利用することで支配の正当化を図った。このような人物として、シバン裔のヒズルや、ジョチの末子トカ・テムルの子孫であるトクタミシュが挙げられる[47]。

ジョチ・ウルスの成立

Map of the course of the Irtysh river, from its sources on the Mongolia-China border, across northern Kazakhstan and through Siberia before emptying into the Arctic Ocean
イルティシュ川の流域。ジョチの所領はモンゴル高原の西部、川の最上流部に位置するが、後にこの地図に描写される地域の大部分が含まれるようになる。

1206年、モンゴルの諸部族を統一した(英語版)テムジンは、クリルタイと呼ばれる大規模な集会を開き、そこで「チンギス・カン」として称えられた[48]。そして大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)を建国した[49][50]。慣習として、長子であるジョチの所領は本国から最も遠い最西端の地域、「その〔北西の〕方向、タタル馬の蹄が至った限りまで」だった[51]。この分封では、南シベリアとアルタイ山脈の間に位置するイルティシュ川流域に加え[52]、4個の千人隊を所領(ウルス)として与えられた[53][注釈 9]。さらに、シル川流域や、キプチャク草原の中心部にあたるヴォルガ・ウラル地方[52]、ヴォルガ川が流れ北西アジアにおいて最良の牧草地を潤す一帯のほか、ホラズム北部、そして将来的に征服されるであろう土地もまた含まれていた[55][注釈 10]。

この分封はジョチが領土を拡大することを期待して行われた[57]。父から右翼軍を任されたジョチは、1207年、アンガラ川とイルティシュ川の間に位置するシベリアのタイガ(英語版)、その辺縁部に住む部族連合である「森の民(ホイン・イルゲン)」に対して遠征を行い、これを平定した[58]。ジョチはオイラト族の指導者クドカ・ベキの案内を受けて、バイカル湖方面のブリヤト、バルクン、エニセイ川上流域のトバス、同川下流域のエニセイ・キルギズなどその他の「森の民」の居地へと赴き、これらの部族をまもなく服属させた[59]。チンギス・カンはクドカ・ベキがいち早く従ったことを称え、その二人の息子に自身の娘とジョチの娘を娶せた[60]。またジョチが損害なく務めを成し遂げたことを賞賛し、降伏したオイラト族およびその他の人々を与えた[61]。シベリアを所領として得たジョチは[62]、この地域における穀物や毛皮の交易、金鉱山をも掌握した[63]。ジョチ・ウルスはこの一連の経緯をもって成立したとされる[64]。

その後、ジョチはスブタイ(「四狗」の一人)の軍に増援を送り、1208年終盤または1209年初頭のイルティシュ川の戦い(英語版)で、叛乱を起こしたメルキト族を撃破した[65] 。逃げ延びたメルキト族はウイグルに向かったが、すでにチンギス・カンの勢力圏に取り込まれていたので、ウラル川・ヴォルガ川間の地域にいる東キプチャク、カンクリ族のもとへ身を寄せた[66]。

金朝遠征

モンゴル時代の華北投下領。

1211年、チンギス・カンは金への遠征を開始し、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイを伴った[67]。この遠征において、ジョチ、チャガタイ、オゴデイは右翼軍(西部軍)を率いた[68]。1211年11月、モンゴル軍は現内モンゴルにある遠征軍本部から南下し、フフホトと大同の地域間にある諸城を攻めた後、太行山脈を越えて山西地方へと進軍し、1213年秋には掠奪と破壊を行った[69]。1216年に至った時点で金は降伏する寸前だったため、チンギス・カンはムカリに平定を任せて本国へ帰還した[70]。この時の功績により、ジョチは平陽一帯を投下領として与えられ、以後平陽路は代々ジョチ家の領地として受け継がれた[71]。

メルキト族の絶滅

1216年春、メルキト族の部族長トクトア・ベキの弟クドゥとトクトア・ベキの3子がアルタイ山中に兵力を集結させていることを知ったチンギス・カンは、将軍スブタイとトクチャルに命じて討伐に向かわせた[72][73]。イルティシュ川の戦い以後、メルキト族とその同盟者であるカンクリ族に対して断続的に遠征を行っていたジョチは[74]、1217年または1218年、ジャム川周辺での戦闘を経て、スブタイと共にこれらの部族の残党を殲滅した[75][73][注釈 11]。トクトア・ベキの三男クルトガンはキプチャク草原まで逃れたが、ジョチの追撃を受けてついに捕虜となった[77]。『集史』によれば、ジョチは彼の巧みな弓の技術を気に入ってチンギス・カンに助命を願い出たが、メルキト族との深い因縁ゆえに生き残りを作ってはならないと強く拒絶されたため、クルトガンを処刑した[78]。

トゥマト族の征服

1216年、一度はモンゴルに服属したトゥマト族の首長タイトウル・ソカルが、チンギス・カンの不在に乗じて反旗を翻した[72][79]。そこでチンギス・カンは、翌1217年にはスブタイ率いる軍団をケム川(エニセイ川上流)・ケムチク川(英語版)間にいたメルキト部の下に[80]、ボロクル(「四駿」の一人)率いる軍団を叛乱したトゥマト族ら「森の民」の下に、そして1218年にジェベ(「四狗」の一人)率いる軍団を天山山脈のナイマン部=カラ・キタイの下へ、それぞれ派遣した[81][79]。

このうち、ジェベとスブタイは順調に敵軍を討伐したが、ボロクル軍のみは敵軍の奇襲を受けて指揮官のボロクルが死亡してしまうという事態に陥った[82][79]。チンギス・カンはトゥマト族を征服するために、その隣族であるキルギズ族に対して出兵を要求したが、拒否して叛乱を起こしたため、1218年よりジョチに一軍を率いさせてこれを鎮圧させた[83]。ジョチは凍結したセレンガ川・エニセイ川を渡って、キルギズ族をはじめとする諸部族の叛乱を平定した[84]。そして1219年春までにカラ・クムの方面へと西進した[85]。

カラ・クムの戦い

ジョチ、スブタイの軍勢は、敗走してキプチャク草原東部まで逃れたメルキト族残党を追撃した際、期せずしてホラズム・シャー朝の支配圏にまで入った[86]。これを察知したホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドが出撃してイルギス川(英語版)まで至り、モンゴル軍とホラズム軍はカラ・クムの地で激突することになった[87]。戦利品を得て帰投中のジョチは使者を送り、チンギス・カンからの戦闘命令もないため戦闘は避けたいという旨を申し入れ、戦利品の譲与すら提案したが、聞き入れられなかった[88]。結果として、ホラズム側はスルターン自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援によってようやく危地を脱する有様であった[89]。モンゴル軍は火を焚いて偽装すると、闇に紛れて撤退した[90]。モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなく、オアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている[91][注釈 12]。また、チンギス・カンはこの戦闘に関する情報を通じて、ホラズムの力量を比較的弱いものと判断し、出撃へと踏み切った[94]。

ホラズム遠征

Map of a large empire spanning much of Central Asia, Persia, and the Middle East
1220年頃のホラズム・シャー朝。ジョチは北の国境沿いを東から西へと進軍した。アラル海に到着すると、ウルゲンチを包囲すべく南進した。

1218年にモンゴルの隊商がオトラルの長官イナルチュクに殺害され、それに引き続く外交交渉も不首尾に終わったことを契機として、1219年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝への遠征を開始し[95]、同年の初夏には夏営地のイルティシュ川流域まで移動した[96]。『秘史』によれば、チンギス・カンの妃の一人イェスイが、遠征に先立って後継者を定めるよう夫に求めた。チンギス・カンはジョチが非嫡出子かもしれないことを気に留めていなかったにもかかわらず、チャガタイはジョチが次のカンとなることに対し、「いかにして我々がメルキトの私生児のもとに支配され得るというのでしょうか」と強く抗議した。兄弟の間で乱闘騒ぎが起きた後、跡継ぎとしてのオゴデイの指名は父と両兄から支持を得たという[97]。ただし、『秘史』のこの逸話は後世の挿入とも考えられている[98]。

カラ・クムの戦いにおける戦況を鑑みて、モンゴル軍は全軍で西進を始めた[96]。1219年秋、推定15万人のモンゴル軍がオトラルに進軍した[99]。1218年から1219年にかけてのジョチの活動は、ホラズム遠征におけるモンゴル軍の大規模な機動を可能にしていた[67]。チンギス・カンはチャガタイとオゴデイにオトラルの包囲を任せると、トルイと共にキジルクム砂漠を横断し、ブハラを攻撃した[100]。1220年3月までに両都市が陥落した[101]。

1219年から1221年にかけてのモンゴルによるホラズム遠征の進路図。

一方、ジョチ軍は単独で中核的任務に当たっていた[102]。ジョチはシル川の北方に住みホラズムに与するカンクリ、キプチャク両族の平定を任されていた[103]。そしてシル川を下り、ホラズムの首都かつ中継貿易の拠点でもあるウルゲンチへと進軍するに従い、途上の諸都市も制圧することになったが、これらはチンギス・カンによってジョチの領地となることが約束されていた[104]。ジョチはジャンドに向かう際、近隣都市のスグナクに降伏を勧告すべくムスリムの商人ハサン・ハッジーを使いに出したが、当地の住民が「アッラーフ・アクバル」と叫びながら彼を殺害した[105]。そのためジョチは怒り、昼夜問わずの攻撃を命じた[106]。モンゴル軍は一週間でスグナクを制圧し、住民を殺戮した[107]。そしてハサンの息子をスグナクの代官(ダルガチ)に置くと、続けてウズケンド、バルジリグカント、アシュナースを攻略した[108]。アシュナースで敵対した者のほとんどは戦死した[109][注釈 13]。

抵抗した者に対するモンゴル軍の虐殺は、近辺の兵士や住民を恐怖に陥れた[111]。ジョチがジャンドに近づくと、この国境地方の司令官クトルグ・カン[注釈 14]は夜中、城を出てシル川を渡り、砂漠を経由してウルゲンチへ逃れた[113][114]。このことを知ったジョチは、ジャンドにチン・テムルを派遣して、モンゴル軍に従いその行動を妨げないよう告げさせた[111]。憤慨した住民に対し、チン・テムルはスグナクでの顛末を語りながら、ジャンドの安全を保証すると約束した[111]。1219年4月21日、ジャンドはあっさりと陥落した[115]。住民は9日間にわたり町を追い出されて野外に晒され、一方のモンゴル軍は掠奪に専念した[116]。ジョチはジャンドをウルゲンチ攻略の拠点として使用し[117]、ブハラ人のアリー・ホージャをジャンドおよびその周辺地域の代官に任命した[118]。アラル海に近いヤンギケント(英語版)の攻略も完了したが[119]、この際に派遣された指揮官タイナル・ノヤンは、背いたトルクメン人部隊の大部分を殺した[120]。1220年の終盤、ジョチはアラル海に沿って南西に進み、ウルゲンチへと向かった。同年3月にオトラル攻略(英語版)を完了したチャガタイとオゴデイは、サマルカンド[注釈 15]攻略のため父のもとに参じ、それからジョチと合流した[123][注釈 16]。

ウルゲンチ包囲戦(英語版)においてジョチが果たした役割については、矛盾する複数の説が存在する。確かなのは、包囲が4か月から7か月の長期間にわたったこと、そして戦闘が熾烈なものになったということである[125][注釈 17]。入念な準備と度重なる降伏勧告は、むしろ主君に見捨てられ孤立した住民の反発を呼んだかのようだった[131]。行方をくらましたアラーウッディーン・ムハンマド自身も住民に対して降伏を勧めていたが、守備隊や一部の住民は頑なに抗戦を訴えた[132]。アム川の橋を奪取するためにモンゴル軍が攻撃に向かわせた3000の兵は戦死した[133][134]。さらにジョチとチャガタイとの間に不和が生じ、その上ホラズム軍が攻勢に出たため、モンゴル軍の損害は拡大し、包囲も長引いた[131][134]。結果として、モンゴル軍は家屋ごとの激しい市街戦へと持ち込んだ[133]。ホラズムのムフタスィブがジョチに慈悲を乞うたものの、彼ももはや顧みることはできなかった[132]。都市の大部分は、モンゴル軍によるナフサの散布と燃焼や、アム川の堤防の破壊で生じた洪水により壊滅した[135][注釈 18]。

この包囲戦において、ジョチとチャガタイは戦いの進行をめぐって争ったという[137]。豊かで美しい都市であるウルゲンチを自らが領するものとして認識していたジョチは、不要な被害をもたらすことを嫌った[138]。ナサウィー(英語版)が伝えるには、ジョチはウルゲンチに降伏を呼びかける際、都市を傷つけないために自軍がそれに対して害をなさないよう行動している旨を伝え、保護の意思を示した[139]。ジョチはモンゴル軍の慣例に反して、近隣地域に危害を及ぼすことも控えていた[139]。しかしチャガタイにそのような躊躇はなく、町の破壊を主張した[140]。ジョチは住民の抵抗に対する弟の焦りに同意しなかった[131]。チンギス・カンはこの兄弟間の対立を知って怒り、オゴデイが包囲軍の指揮を取るように命じた[141]。オゴデイは両兄を和解させ、軍の規律は取り戻された[142]。

1221年春、ウルゲンチは陥落した[143]。そして定例通り、住民は城外に出され、分類が行われた[144]。工芸家と職人はモンゴル高原に送られ、それ以外の男やモンゴル高原行きを拒否した者は殺された[145][146]。婦女子は奴隷にされた[124]。

父との軋轢

ホラズム遠征を通じて、チンギス・カンの後継者およびシベリア・中央アジアの支配者としてのジョチの立場は確固たるものとなるはずだった[147][注釈 19]。しかし遠征後、ジョチはチンギス・カンの寵愛を失い、継承者の座から遠のいたとされる[151]。その正確な理由は依然として明らかではない[52][注釈 20]。チャガタイとオゴデイは南方のアフガニスタンに向かい、反逆したホラズムの王子ジャラールッディーンを追うチンギス・カンのもとへ合流した[153]。ジョチはひとり彼らと別れてシル川の北方へ移動した[131][154]。チュイ川西部の草原を含む新たな所領においてカンクリ族を従わせたというが[155][注釈 21]、ジョチは狩りに勤しんで時を過ごしていたとも伝えられる[157]。

1223年頃の春、シル川のほとりでクリルタイが開かれた[158]。『世界征服者の歴史』によれば、チンギス・カンはそれより以前の冬の時点で、ジョチに使者を送り、狩りに参じるよう招いていた[159]。その後、チンギス・カンがクラン・バシ[注釈 22]に滞在していた夏の頃になってから[162]、ジョチはおびただしい数の野生ロバに加え、1000頭の芦毛の馬をキプチャク草原から駆り立てて来ると、贈り物として父に献上した[163]。しかしジョチが父と顔を合わせたかは定かではない[164]。

1224年夏までに、チンギス・カンの遠征軍はイルティシュ川流域まで帰還した[164]。ジョチが自身の所領から離れる気配はなく、両者の関係は確実に悪化していった[165]。ジョチは以前より、チンギス・カンから「ブルガール、バシキール、ルーシ、チェルケス、キプチャク草原、その他の諸地域」といったカスピ海および黒海の北方地域の征服を命じられていたが、それに従わなかったため、父の不興を買った[166][167]。『集史』によれば、チンギス・カンは「私はあの者の心づもりが何であれヤサにかける(処刑する)だろう」と言ったという[168]。一方、病に苦しんでいたジョチは、チンギス・カンの帰還に同行できないお詫びとして、たくさんの獲物を贈り届けた[25]。チンギス・カンはその後もモンゴルへ来会するよう何度も命じたが、そのたびにジョチは体調が優れないとして、父の召喚を断ることに対して許しを乞うた[169]。

死去

ある時、ジョチの所領を通りがかったマングト部の者に彼の容態を聞くと、「病気については何も存じません、彼は山で狩りに励んでいました」と答えたため、ついに激怒したチンギス・カンはジョチを討伐することを決めた[170][171]。この決心は、長子の不服従は父に背いてその言いつけを蔑ろにしているためであり、狂気の沙汰だと捉えたことから発していた[172][171]。そしてチャガタイ、オゴデイの部隊を先行させ、自らもそれに続いたとき、ジョチが亡くなったという知らせが届いた[173]。チンギス・カンはこの訃報に深く嘆き悲しんだ[174]。ジョチが狩りをしていたというのは別人と取り違えての誤報であり、ジョチ本人は病に臥していたため狩場にはいなかった[174][167]。チンギス・カンは誤報を伝えた者を捕らえて処刑しようとしたが見つからなかった[175][167]。ジョチの享年は40歳に満たず[176]、1227年8月に死亡したチンギス・カンよりも数か月[177]か半年ほど[178]早く没したという。没年は1227年(2月)とされるほか[179]、1225年[180]や1226年[181]とする説もある[注釈 23]。

13世紀半ばの史書『ナースィル史話』は、ジョチはチンギス・カンに対して叛意を示し、狩りの際に父を殺害してアラーウッディーン・ムハンマド[注釈 24]と同盟を結ぼうと考えていたが、そのことがチャガタイの報告によって発覚した結果、チンギス・カンがジョチを毒殺したと伝える[187]。同盟のくだりはおそらく、著者であるジューズジャーニー(英語版)の希望的観測の域を出ないものの、ジョチとチンギス・カンとの間に何らかの悪感情が生じていたことが認められる[188]。またヒヴァ・ハン国で編纂された16世紀半ばの史書『チンギズ・ナーマ』は、ジョチはキプチャク草原のウルグ・タグ(カザフスタン中部、アラル海・イルティシュ川間の山)において狩猟をしていた際、鹿を追う最中に落馬して亡くなったと伝えている[189]。

A large brick building with a round bright blue dome.
カザフスタンの「ジョチ・ハン廟」は旧来、ジョチの埋葬地だとされているが、おそらく事実とは異なる。

ジョチは死後、「国の主(ウルス・イディ)」と称された[190][注釈 25]。チンギス・カンの承認をもってバトゥが後継者となり[192]、父によって果たされなかった西征の任務をも受け継いだ[193]。オルダはバトゥに次ぐ地位に就き、それ以外の兄弟たちはそれぞれ所領の一部を得た[194] 。ジョチの子孫たちは次第に独立傾向を強め、ついには「金帳/黄金のオルド」として知られる「国」を形成した[195]。

カザフスタンのウルタウに位置する大規模な墓廟は、ジョチが葬られた場所であると伝えられてきた[196]。その地点は『チンギズ・ナーマ』や『王の栄誉の書』といった諸資料の記述とも符合しているが、モンゴル帝国初期の君主の墓は秘匿されたために、確証はない[197]。放射性炭素年代測定によれば、これははるか後世に建てられたもので、実際の墓所ではないことが示されている[198]。ジョチのものと見なされる墓廟は16世紀後半の時点ですでにキプチャク草原に存在していたといい、現在に至るまで崇拝の対象となっている[197]。

人物

ジョチは弓射と狩猟に秀で、戦場では熟練した勇将だった[119]。我が強い面もあったという[119]。またジョチは、彼が被征服民に対して慈悲を示し穏当な措置を取ろうとしたことにナサウィーが触れたように、チンギス・カンの息子たちの中でも随一の人道的な人物として認められていた[199]。『ナースィル史話』では、ウルゲンチの住民に対して最終的に示した冷酷さが咎められるかたわら[199]、ジョチについて「極めて精力的で、勇敢で、男らしく、勇武だった。その偉大さは彼の父〔チンギス・カン〕が畏敬の念を抱くまでに及んだ」と述べられる[200][注釈 26]。屠寄『蒙兀児史記』では、性急だが勇猛果敢で、将軍たちから深く敬服されていた上、殺しを好まない性格だったとされる[204]。ホラズム遠征以降は憂鬱に囚われていたと見る向きもある[205]。

チンギス・カンからジョチに与えられた役割は狩猟に従事することだった[206]。ジュワイニーやマムルーク朝の知識人ヌワイリー(英語版)によれば、この務めは「モンゴルの人間にとって最大の栄誉」だったという[207]。またアブル=ガーズィーによれば、ジョチは交渉、祝賀の催し、狩猟の分野を担った[208]。匈奴やテュルク系のハン国の時代より、遊牧社会では狩猟が軍事訓練として唯一の手段であり、モンゴル帝国では国家の体制内における強固な制度として導入された上、その社会的な重要性は戦争以上のものだった[208]。

なお、トルイ家の影響のもと編纂された史書に関しては、トルイ家のイデオロギーおよび政治的利害に基づいて書き換えが行われたという指摘がある[209][注釈 27]。ジョチ家はトルイ家にとって有力な協力者でありながら[212]、最大の政敵にもなり得た[213]。いくつかの史書におけるジョチの出自に関する醜聞への言及や、彼の名声が狩人としてのものに限られ軍功が目立たないような叙述には、先祖たるジョチの軍事的・政治的役割を弱めることで、表立っての攻撃を避けながらもジョチ家の台頭を抑えようとしたトルイ家の作為が反映されているという[214]。

宗室

父母

后妃

ジョチには、当時の遊牧民の王侯たち一般と同じく、数多くの夫人と子があった。夫人は「カトゥン」(fa. خاتون khātūn<turc. χatun<mon. qatun)、「フジン」(fa. فوجين fūjīn<mon. fujin, hujin, 'ujin)などの称号をもつ正妃の名が複数知られているが、夫人の間の序列はよくわかっていない。

男子

子女のうち男子は概数として「40人」以上いたと言われているが、子孫がジョチ・ウルスの王侯貴族として残り、『集史』など後世の系譜書に名前が記されている者は以下にあげる14名がいる[215]。

  • 長男 オルダ - サルタク・カトゥンの子。イルティシュ川流域に残り、ジョチ・ウルス左翼(東部)を支配した。
  • 次男 バトゥ - オキ・フジンの子。ジョチ・ウルスの右翼を支配し、ウルス全体を統括する君主(ハン)になった。
  • 三男 ベルケ - スルターン・カトゥンの子。バトゥの死後、傍系からジョチ・ウルスの第4代君主となった。
  • 四男 ベルケチェル - スルターン・カトゥンの子。ベルケの同母弟。
  • 五男 シバン - 子孫はシビル・ハン家とシャイバーニー朝になった。
  • 六男 タングト
  • 七男 ボアル - 13世紀末にバトゥ家のハンと権勢を争った有力者ノガイの祖父。
  • 八男 チラウカン
  • 九男 シンクル
  • 十男 チンバイ
  • 十一男 ボラ(ムハンマド)
  • 十二男 ウドゥル
  • 十三男 トカ・テムル(Tukhtemur) - 子孫はトクタミシュら14世紀後半以降にジョチ・ウルスのハン位を争う有力者たちを輩出し、アストラハン・ハン国、カザン・ハン国、クリミア・ハン国など複数の政権の始祖になった。カギリ・ハトゥンの子。
  • 十四男 セングム

[216]

女子

  • コルイ・エゲチ - オイラト部のトレルチに嫁ぐ。
  • 名前不詳 - アリマリのブザール・ハンに嫁ぐ。

初期ジョチ・ウルスの4千人隊

オルダ・ウルス

バトゥ・ウルス

脚注

参考文献

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