トゥブシン

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トゥブシンモンゴル語: Tübšin、生没年不詳)は、15世紀初頭に登場した福余衛の首領の一人。その事跡については全く記録がないが、後のモンゴルジン=トゥメト部の始祖ではないかと推定されている。

1404年(永楽2年)の記録によると、この年の4月に永楽帝ウリヤンハイ三衛の首長に官爵を授与しており、この時朶顔衛ではトルクチャル(脱児火察)が左軍都督府都督僉事に、泰寧衛では忽剌班胡が都指揮僉事に、福余衛ではアルチュ(安出)とトゥブシン(土不申)が都指揮僉事に、それぞれ任命されている[1][2][3]。トゥブシンが登場するのはこの箇所のみでその事績は全く不明であるが、北元史研究者のBuyandelgerは下記の通り、トゥブシンを『アルタン・トプチ』に見えるTübšinと同一人物と見る説を提唱している[4]

Buyandelgerはトゥブシンが非モンゴル系のツングース系野人女直に由来する集団の長で、この集団は1406年(永楽4年)10月に「卜剌罕衛」の名を与えられたものと推定する[5]。『明実録』の記述によるとこの集団は亦答魯・能木里(=嫩江のモンゴル語名「ノーン・ムレン(Naγun mören)」の音訳)の女直野人を頭目としており、また「泰寧衛の地面」であったという[6]。ただしここでの「泰寧衛の地面」という表現は「三衛の支配下にあった」ということを意味し、実際には嫩江東岸のフユル河を本拠とする福余衛が卜剌罕衛を支配下においていたようである[7]。このことは、1447年(正統12年)に福余衛が「脳温江(ノーン・ムレン)に逃げ込んだ」との記録があること、福余衛がモンゴル語で「uje=野人女直」から転化した「オジェート(Öǰiyed)」と呼ばれている事からも裏付けられる[7]

一方、モンゴル年代記によるとチンギス・カンの弟のカチウンの末裔は「チャガン・トゥメン」という集団を形成したと伝えられるが、この集団は永楽年間に察罕達魯花(チャガン・ダルガ)なる人物に率いられた「察罕部」に相当するのではないかと推定される[8]。卜剌罕衛はチャガン・トゥメンの支配下に入ったようで、恐らくはこのために土不申と卜剌罕衛は140年代以後、約40年近くにわたって史料上に現れなくなる[9]

1466年(成化2年)、約半世紀ぶりに卜剌罕衛の動向が明朝に伝えられたが、この時卜剌罕衛を支配していたのは「卜剌罕衛頭目脱脱罕」と、その部下「脱羅罕阿剌忽知院」なる人物であった[10]。この二名は、行動遍歴の一致などからモンゴル年代記に登場する「カチウンの末裔のドーラン・タイジ」と「トゥメトの領主トゥルゲン」と同一人物と見なされている。以上の経緯をBuyandelgerは要約して、野人女直系の集団を統べる土不申は当初福余衛の隅下として登場し、その配下は一時卜剌罕衛の名を与えられたが、何らかの事情でチャガン・トゥメン=察罕部の支配下に入った[11]。このため土不申の一族は1410年代から1460年代まで全く明側に動向が伝わらなかったが、ドーラン・タイジとともにモンゴル高原南部に移住したことによって有力な部族集団(モンゴルジン=トゥメト部)の長として広く知られるようになったものとする[11]

モンゴルジン首領の家系

脚注

参考文献

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