ビー・ジーズ

オーストラリアの音楽グループ From Wikipedia, the free encyclopedia

ビー・ジーズ: Bee Gees)は、英国王室属領マン島生まれのイギリス人のギブ3兄弟を中心に構成された男性ボーカルグループ及びバンド。1963年にオーストラリアでレコードデビューし、1973年からは米国を中心に活動。兄弟3人で楽曲制作は行われ、1960年代前半から息の長い活動を展開。「ラヴ・サムバディ」、「マサチューセッツ」、「メロディ・フェア」、「若葉のころ」、「ジョーク」「ブロードウェイの夜」、「ステイン・アライヴ」、「ユー・ウィン・アゲイン」「アローン」など数多くの名曲を発表し、他のアーティストへの楽曲提供でもヒットを飛ばした。

ジャンル
活動期間
概要 ビー・ジーズ, 基本情報 ...
ビー・ジーズ
上からバリー、ロビン、モーリス(1977年)
基本情報
出身地 オーストラリアの旗 オーストラリア クイーンズランド州ブリスベン
ジャンル
活動期間
レーベル
公式サイト ビー・ジーズ公式サイト
旧メンバー
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メンバーの死によって現在は活動を停止しているが、これまでに2億2千枚[4][5]を売り上げるなど最も売れた音楽グループの一つに数えられる。更に数々の記録を打ち立て、グラミーブリットを含む多くの賞で殿堂入りするなど音楽界に多大な貢献と影響をもたらした。5つの殿堂に顕彰された唯一の音楽グループでもある[6]。1960年代から2000年代に渡り作詞作曲した曲が5年代連続で1位を獲得した初の音楽グループとしてギネス世界記録にも認定[7]

メンバー

ビー・ジーズはギブ3兄弟を中心に5人編成で結成されたが、1972年からは完全に兄弟のみのトリオ編成となった。全員共通してボーカルを担当。

元メンバー

  • ヴィンス・メロニー ・・・ギター担当
  • コリン・ピーターセン ・・・ ドラム担当
  • ジェフ・ブリッジフォード ・・・ドラム担当

来歴

デビュー以前からオーストラリア時代まで

ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な英国王室属領マン島に生まれた。1946年9月1日にバリー[8]、1949年12月22日にロビンモーリス二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、イングランドマンチェスターに移る。

1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。自宅の近所には後にハーマンズ・ハーミッツのリードボーカルとして英米で大人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。1958年、父の仕事の都合により家族7人(両親、バリー、ロビン、モーリス、姉のレズリー、末っ子アンディ)でオーストラリアクイーンズランド州ブリスベンに移住。一番下の弟、アンディ1958年3月5日1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。ここで兄弟は、小遣い稼ぎに歌うようになる。最初のグループ名はラトルスネークス(Rattlesnakes)、その後、ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ(Wee Johnny Hayes & The Bluecats)になった[9]

そして3人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ(Bill Gates、マイクロソフト創業者とは別人)に紹介される。紹介者は、レーサーのビル・グード(Bill Goode)。ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)から彼らのグループ名をBee Geesとつける。1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになった。1963年にフェスティバル・レコードより「The Battle Of The Blue And The Grey / 三つのキッス」でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的人気を博すこととなる。ビー・ジーズはエヴァリー・ブラザースからの影響も受けていた。

ソフト・ロック期:1960年代-1974年

60年代の写真。左からバリー・ギブ、ロビン・ギブ、ヴィンス・メロニー、モーリス・ギブ、コリン・ピーターセン。

彼らは、1966年にはオーストラリアで最優秀ボーカルグループに選ばれ、翌1967年2月、シングル「スピックス&スペックス」が全豪ナンバーワンヒットしている頃、オーストラリアでの大人気に着目したビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインは、自らが経営するNEMSエンタープライズに入社したての新人ロバート・スティッグウッド(1934~2016)をオーストラリアへ赴かせ、ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ち掛ける。

イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリア・クイーンズランド州生まれでロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948~2024)、そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングにたびたび参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニー(1945~)をリードギターに迎え、5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より「ニューヨーク炭鉱の悲劇」でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコードアトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約した。

以後、「ラヴ・サムバディ[注 1]、「ホリディ」、「マサチューセッツ」(全米11位)、「ワールド」、1968年に「ワーズ」、「獄中の手紙」(初の全米トップ10入り)、「ジョーク」(同じく全米トップ10ヒット)をリリースしヒットさせていく。日本でも「マサチューセッツ」がオリコンチャートのシングルチャート総合部門で初めて1位を獲得した洋楽シングルになった[5]

同年末にヴィンスがプロデューサー業に転向するため正式に脱退、翌1969年春、4thアルバム『オデッサ』およびシングル「若葉のころ」の発売間もなくロビンがソロ・シンガーになるべく独立(シングル「救いの鐘」は英国でヒット)、同年夏にはアルバム未収録シングル「トゥモロウ・トゥモロウ」の発売を最後にバリーとモーリスがコリンを解雇。 これによって2人となったビー・ジーズは、「想い出を胸に」を全英トップ10に送り込むも、翌1970年春先にシングル「アイ・オー・アイ・オー」およびアルバム『キューカンバー・キャッスル』発売直後の兄弟喧嘩によって空中分解。その後、それぞれソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は結束の下に改めてビー・ジーズとして再出発することを誓う。

10月に再スタート第一弾アルバム『トゥー・イヤーズ・オン』を発売、翌71年1月にシングルカットされた「ロンリー・デイ」を全米3位(キャッシュボックス誌では1位)を記録、続くシングル「傷心の日々」はビー・ジーズにとって念願となる初の全米ナンバーワンを記録する。音楽を手掛けた71年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』は、本国では成功しなかったものの、日本では興業的にも大成功となり、サントラ盤に収められた「メロディ・フェア」、「若葉のころ」などは日本人に親しまれた。

コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードがドラムを叩いていたものの1972年春、初の来日公演(アイドル的人気を獲得していた1969年に予定されていたが、メンバーの脱退などの諸問題で延び延びとなっていた)寸前に解雇される。

1973年に、マネージャー兼プロデューサーでもあったロバート・スティッグウッドが設立したRSOレコードへ移籍し、アメリカでの発売元であるアトコ・レコードでかつてはヤング・ラスカルズなどを手掛けるなど華々しい経歴の持ち主であるアリフ・マーディンのプロデュースを受け、アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリース。マンネリ化した従来のストリングスサウンド(1967年以降ステージではバックに30人編成から成るストリングス・オーケストラをつけていた)からサウンドを変更したが、翌1974年のアルバム『ミスター・ナチュラル』とともに不発に終わる。マーディンは自信を失って迷いの中にいるメンバーに「課題は自分たちの新しい音楽スタイルの追求と発展とヒットレコードの制作だ。まわりの音楽状況やほかのアーティストのヒット状況に耳を傾けるように。ファンが何を求め、時代や状況に合った音楽は何か、その中の自分たちの可能性は何なのか」と問うてきた[10]。そしてビー・ジーズの大転換がはじまる。

ディスコ期:1975年-1979年

70年代の写真。ステージでは基本的に左からモーリス、ロビン、バリー・ギブの順に並ぶ事が多かった。

1975年に芸能生活20周年記念アルバムでもある『メイン・コース』からシングルカットされた「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウェイの夜」がディスコブームに乗り、全米でヒット。これよりディスコ時代の幕開けとなる。リズム主体のディスコなサウンドへと脱皮を図った彼らに対して、旧来のファンからは「売れるためにサウンドを変えた」と猛反発された。しかし以後も、ディスコ・ナンバーを中心とする路線を継続し、全米1位シングル「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」などの大ヒットを次々に飛ばした。

そして音楽を担当した映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が、1977年に公開されると映画のヒットとともにサウンドトラック盤も大ヒット。Billboard 200で24週連続1位を独走し[11]、サウンドトラックとしては異例の4000万枚を売り上げ、マイケル・ジャクソンの『スリラー』に抜かれるまで世界で最も売れたアルバムだった[5]。アルバムからは「ステイン・アライヴ」、「愛はきらめきの中に」「恋のナイト・フィーヴァー」が全米1位を獲得し、ビー・ジーズが楽曲提供したタバレスの「モア・ザン・ア・ウーマン」、イボンヌ・エリマンの「イフ・アイ・キャント・ハヴ・ユー」も同様にヒットした[12]グラミー賞では最優秀アルバム賞を含む4冠を達成[13]。サウンドトラックの受賞は初めてだった。

続いて発売されたオリジナル・アルバム『失われた愛の世界』は2000万枚を売り上げ、グループにとってオリジナル・アルバムとしては初となる全米・全英アルバムチャートの1位を獲得。「愛はきらめきの中に」から「ラヴ・ユー・インサイド・アウト」まで6曲連続で全米シングルチャート1位を獲得した。続けてベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』(原題:The Greatest)も全米1位を獲得。

反ディスコ運動と低迷、そしてカムバック:1980年-1989年

だがディスコ・ブームの立役者として目の敵にされる事になったビー・ジーズはディスコ音楽に対するバッシングの標的にされ、相次いでラジオ局が彼らの曲を流す事を拒否しボイコット[14]。その影響もあって1981年のアルバム『リヴィング・アイズ』がマイナーヒットに終わって以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、ディオンヌ・ワーウィックの「ハートブレイカー」(全英2位、全米10位)、ケニー・ロジャースドリー・パートンの「アイランド・イン・ザ・ストリーム」(全米1位)、バーブラ・ストライサンドの「ウーマン・イン・ラブ」(全米1位)など数多くのヒットを生み出す。

グループとしては1983年の映画『ステイン・アライブ』への楽曲提供を除いて休止状態にあったが、1987年にワーナー・レコードに移籍し活動を再開。移籍後初のアルバム『E.S.P.』よりシングル・カットされた「ユー・ウィン・アゲイン」は8年ぶりの全英1位をはじめとして世界中で大ヒット。「ユー・ウィン・アゲイン」のヒットによりイギリスでは3年代に渡って1位を獲得した初の音楽グループになった[15]

だが1988年にはアンディ・ギブが早逝する悲劇に見舞われた。

1989年、アンディに捧げたアルバム『ONE』を発表。アメリカでは未だにディスコ・グループのレッテルを貼られチャートで苦戦を強いられていたものの、シングル「ONE」が全米トップ10に入り、久しぶりにヒットした。アルバムには日本人への感謝を込めて東京を題材にした「TOKYOナイツ」も収録された。同年には15年ぶりとなる大規模なワールド・ツアーを開催、オーストラリア公演は『グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』として映像化され、来日公演も行われた。

円熟期ー再評価、モーリスとロビンの死:1990年-2012年

1990年代に入っても「シークレット・ラヴ」が全英5位を記録した事で4年代に渡ってトップ5を記録したグループになるなど活躍を続け、1993年のアルバム『サイズ・イズント・エヴリシング』からポリドール・レコードに復帰。

1991年2月、特定の人物の人生を振り返るイギリスの人気番組シリーズ『ディス・イズ・ユア・ライフ』に出演。家族も総出演した同番組ではバーブラ・ストライサンド、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィックといったこれまでに楽曲提供してきたアーティストが顔を見せ、ギブ兄弟と親交があったマイケル・ジャクソンも電話出演した。

1994年からは立て続けに様々な殿堂入りを果たし(業績・受賞の節を参照)、1997年のアルバム『スティル・ウォーターズ』は全英2位をはじめ世界中でヒットを記録。アメリカでも20年ぶりにトップ20(11位)を記録しアメリカ国内で200万枚を売り上げるなどアメリカでもチャートの前線に復帰。

2003年、メンバーのモーリスが急逝。2001年のアルバム『ディス・イズ・ホエア・アイ・ケイム・イン』がグループとして発表した最後のオリジナル・アルバムになった。モーリス死去後にロビンはグループとして活動する意向はないと表明したが、2009年から2人で活動を限定的に再開した[16]

だが2012年5月20日にロビンが死去[17]、グループ活動は消滅した。

活動停止後、伝記映画の公開:2012年-

2016年、ビージーズの作品に関してユニバーサル ミュージック グループ傘下のキャピトル・レコードと長期グローバル契約を締結[18]

2017年、グラミー賞主催でトリビュート・コンサートが開かれ、CBSで放映。スティーヴィー・ワンダーセリーヌ・ディオンエド・シーランといった豪華メンバーによるカバーが披露された[19]

2020年、ドキュメンタリー映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』が公開。

2026年、1970年代に12インチ・シングルとして発表された楽曲を未発表含むエクステンデッド・バージョンで収録した4枚組LPボックス『You Should Be Dancing: The 12″ Collection』を発表。

業績・受賞

バリー(右)とモーリス(左)(1970年)
バリー(右)とロビン(左)(2004年)

1971年から1979年にかけて、ビルボードチャートに9曲のナンバーワン・ヒットを送り出した[20]

1978年3月には、制作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクイン、これはビートルズが1964年4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である[5]

1977年の最終週から翌1978年の8月までの32週にわたり、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。イギリスにおいては、ビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。また、活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。

1994年にソングライターの殿堂[21]、1995年にフロリダ・アーティストの殿堂、1997年ロックの殿堂[22]ARIA殿堂[23]、2001年にボーカルグループの殿堂[24]2004年9月20日にはダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽家として史上初めて主要な4つの音楽賞の殿堂入りを果たした[5]。更に2013年にはアメリカン・ポップミュージックの殿堂入りも果たし記録を更新した[6]。2022年にはオーストラリア人ソングライターの殿堂(ASAI)にも選ばれた[25]

この他にも「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞。アメリカン・ミュージック・アワードの生涯功労賞、BMIのアイコン・アワードの他、BMIソングライター・オブ・ジ・イヤーを4度受賞している[5]ブリット・アワードでも功労賞を受賞。

2003年にはグラミー・レジェンド賞に選ばれ[26]、2015年にはグラミー生涯業績賞も受賞している[5]

バリーとロビンは2004年、マンチェスター大学より音楽博士号を名誉学位を授与され、2009年には既に亡くなったモーリスを含めダグラスの名誉向上に貢献したとして名誉区民に選ばれた。

2009年、1960年代から2000年代まで5年代連続でギブ兄弟が作詞作曲した楽曲が全英1位を獲得した事で、その記録を初めて達成した音楽グループとしてギネス世界記録に認定された[7]

ディスコグラフィ

オリジナル・アルバム

  1. The Bee Gees Sing and Play 14 Barry Gibb Songs(1965年)
  2. Spicks and Specks(1966年)
  3. 『ビージーズ・ファースト』 Bee Gees' 1st(1967年)
  4. 『ホリゾンタル』 Horizontal(1968年)
  5. 『アイディア』 Idea(1968年)
  6. 『オデッサ』 Odessa(1969年)
  7. 『キューカンバー・キャッスル』 Cucumber Castle(1970年)
  8. 『トゥー・イヤーズ・オン』Two Years On(1970年)
  9. トラファルガーTrafalgar(1971年)
  10. 『トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン』 To Whom It May Concern(1972年)
  11. 『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』 - Life in a Tin Can(1973年)
  12. 『ミスター・ナチュラル』 - Mr.Natural(1974年)
  13. 『メイン・コース』 - Main Course(1975年)
  14. 『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』 - Children of the World(1976年)
  15. 『失われた愛の世界』 - Spirits Having Flown(1979年)
  16. 『リヴィング・アイズ』 - Living Eyes(1981年)
  17. E.S.P.』 - E.S.P.(1987年)
  18. 『ONE』 - One(1989年)
  19. 『ハイ・シヴィライゼーション』 - High Civilization(1991年)
  20. 『サイズ・イズント・エヴリシング』 - Size Isn't Everything(1993年)
  21. スティル・ウォーターズ』 - Still Waters(1997年)
  22. ディス・イズ・ホエア・アイ・ケイム・イン』 - This Is Where I Came In(2001年)

1位を獲得した楽曲

さらに見る 楽曲タイトル, 1位になった国 ...
楽曲タイトル1位になった国[27]
"Spicks and Specks"ニュージーランド
"World"ドイツ、オランダ
"Massachusetts"チリ、イギリス、ドイツ、オランダ、ノルウェー、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、日本、マレーシア、シンガポール
"Words"ドイツ、オランダ、スイス
"I've Gotta Get a Message to You"イギリス、イタリア、アイルランド
"I Started a Joke"ニュージーランド、カナダ
"Saved by the Bell" (ロビンのソロ曲)オランダ、アイルランド、南アフリカ
"Don't Forget to Remember"オランダ、アイルランド、ニュージーランド、南アフリカ
"Lonely Days"カナダ
"How Can You Mend a Broken Heart"アメリカ合衆国、カナダ
"My World"香港
"Saw a New Morning"香港
"Wouldn't I Be Someone"香港
"Jive Talkin'"アメリカ合衆国、カナダ
"You Should Be Dancing"アメリカ合衆国
"Love So Right"ブラジル
"How Deep Is Your Love"アメリカ合衆国、チリ、フランス、アイルランド、スペイン
"Stayin' Alive"アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、チリ、メキシコ、オランダ、イタリア、フランス、スペイン、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ
"Night Fever"アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、イギリス、スペイン、アイルランド
"Too Much Heaven"アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、チリ、イタリア、スペイン、ノルウェー、ニュージーランド、南アフリカ、スウェーデン
"Tragedy"アメリカ合衆国、イギリス、イタリア、スペイン、アイルランド、フランス、ニュージーランド
"Love You Inside Out"アメリカ合衆国
"He's a Liar"ギリシャ
"Juliet" (ロビンのソロ曲)ドイツ、イタリア、スイス
"You Win Again"イギリス、ドイツ、デンマーク、アイルランド、ノルウェー、スイス、オーストリア、ルクセンブルク、香港
"One"ブラジル
"For Whom the Bell Tolls"ブラジル
"Alone"香港、マレーシア、タイ
"Immortality" (セリーヌ・ディオンと共演)ブラジル
"Man in the Middle"トルコ
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楽曲提供曲・カバーされた曲

提供曲は太字。

1968年

  • Only One Woman / マーブルズ 全英5位
  • To Love Somebody / スウィート・インスピレーションズ 全米74位

1969年

1970年

1975年

  • Only One Woman / ナイジェル・オルソン 全米91位

1976年

1977年

  • 恋のときめき - "I Just Want To Be Your Everything" / アンディ・ギブ 全米1位、米R&B19位、全英26位
  • 愛の面影 - "Love Is Thicker Than Water" / アンディ・ギブ 全米1位
  • Nights On Broadway / キャンディ・ステイトン 全英6位

1978年

  • イフ・アイ・キャント・ハブ・ユー - "If I Can't Have You" / イヴォンヌ・エリマン 全米1位、米R&B60位、全英4位
  • モア・ザン・ア・ウーマン - "More Than A Woman" / タバレス[28] 全米32位、全英7位
  • 愛のエモーション - "Emotion" / サマンサ・サング 全米3位、米R&B42位、全英11位
  • シャドウ・ダンシング - "Shadow Dancing" / アンディ・ギブ 全米1位、米R&B11位、全英42位
  • An Everlasting Love / アンディ・ギブ 全米5位、全英10位
  • (Our Love)Don't Throw It All Away / アンディ・ギブ 全米9位、全英32位
  • ウォーム・ライド - "Warm Ride" / レア・アース 全米39位
  • Night Fever / キャロル・ダグラス  全英66位
  • グリース - "Grease" / フランキー・ヴァリ ※バリー・ギブの作曲 全米1位、米R&B40位、全英3位
  • Aint Nothing Gonna Keep Me From You / テリー・デサリオ 全米43位
  • Stayin’Alive / リチャード・エース 全英66位
  • You Should Be Dancing / 西城秀樹 1978年7月22日後楽園球場コンサートでカバー。『BIG GAME'78 HIDEKI』に収録。

1979年

1980年

  • ディザイア - "Desire" / アンディ・ギブ 全米4位、米R&B49位,
  • I Can't Help It / アンディ・ギブ & オリビア・ニュートン=ジョン 全米12位
  • Hold On To My Love / ジミー・ラフィン 全米10位、米R&B29位、全英7位
  • ウーマン・イン・ラブ」- "Woman In Love" / バーブラ・ストライサンド 全米1位、全英1位
  • ギルティ "Guilty" / バーブラ・ストライサンド & バリー・ギブ 全米3位、全英34位
  • タイム・イズ・タイム - "Time Is Time" / アンディ・ギブ 全米15位

1981年

  • What Kind Of Fool / バーブラ・ストライサンド & バリー・ギブ 全米10位
  • Promises / バーブラ・ストライサンド 全米48位
  • Me (Without You) / アンディ・ギブ 全米40位

1982年

  • ハートブレイカー - "Heartbreaker" / ディオンヌ・ワーウィック 全米10位、米R&B14位、全英2位
  • All The Love In The World / ディオンヌ・ワーウィック 全英10位
  • Take The Short Way Home / ディオンヌ・ワーウィック 全米41位
  • Heart(Stop Beating In Time) / レオ・セイヤー 全英22位

1983年

1985年

  • Eaten Alive / ダイアナ・ロス 全米77位、米R&B10位、全英71位
  • Chain Reaction / ダイアナ・ロス 全米66位、米R&B85位、全英1位

1987年

  • Jive Talkin' / ブギー・ボックス・ハイ 全英7位

1990年

  • To Love Somebody / ジミー・ソマーヴィル 全英8位

1992年

1993年

  • If I Can't Have You / キム・ワイルド 全英12位
  • Grease / クレイグ・マクラクラン 全英44位

1995年

  • How Deep Is Your Love / ポートレート 全米93位、全英41位
  • Stayin'Alive / N-トランス 全英2位 ※ビー・ジーズのオリジナル版のイントロ部分をサンプリング、全編にわたり使用。

1996年

1997年

1998年

  • Y(How Deep Is Your Love) / DJスコット・プロジェクト 全英57位
  • Immortality / セリーヌ・ディオン & ビー・ジーズ 全英5位
  • Night Fever / アダム・ガルシア 全英15位
  • More Than A Woman / 911 全英2位
  • Tragedy / ステップス 全英1位

1999年

2001年

  • Emotion / デスティニーズ・チャイルド 全米10位、米R&B28位、全英3位
  • Chain Reaction / ステップス 全英2位
  • I Could Not Love You More / KLB ※ブラジル人アーチストでビー・ジーズと同じ3兄弟で活動している。伯題は「Te Amar Ainda Mais」。「KLB 2001」収録。

2002年

  • Honey(Love You Inside Out) / R・ケリー & ジェイ・Z 全英35位
  • Sacred Trust / ワン・トゥルー・ヴォイス 全英2位

2003年

2004年

2005年

  • Come Tomorrow / バーブラ・ストライサンド & バリー・ギブ 全英95位

2006年

日本公演

3月23日 渋谷公会堂、24日 日本武道館、25日,26日 大阪フェスティバルホール
9月1日新宿厚生年金会館、9月2日渋谷公会堂、5日 福岡九電記念体育館、6日 倉敷市民会館、7日 名古屋市民会館、8日 渋谷公会堂、10日、11日 大阪フェスティバル・ホール、12日 京都会館、13日 静岡駿府会館、14日、15日 新宿厚生年金会館
10月19日,11月3日,4日中野サンプラザ、10月21日広島郵便貯金ホール、10月22日愛媛県民館、10月23日,25日大阪フェスティバルホール、10月24日京都会館、10月26日名古屋市民会館、10月28日新宿厚生年金会館、10月29日静岡駿府会館、10月30日横浜文化体育館、11月1日新潟体育館、11月5日宮城県民会館、11月6日北海道厚生年金会館
11月28日,29日 横浜アリーナ、12月2日 名古屋レインボーホール、4日 大阪城ホール、6日 福岡サンパレス、7日 愛媛県県民文化会館

脚注

関連項目

外部リンク

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