不安な恋人

From Wikipedia, the free encyclopedia

製作年1715年-1720年ごろ
素材板上に油彩
寸法24 cm × 17.5 cm (9.4 in × 6.9 in)
『不安な恋人』
フランス語: L’Amante inquiète
英語: The Worried Lover
作者アントワーヌ・ヴァトー
製作年1715年-1720年ごろ
素材板上に油彩
寸法24 cm × 17.5 cm (9.4 in × 6.9 in)
所蔵コンデ美術館シャンティイ

不安な恋人』(ふあんなこいびと、: L’Amante inquiète: The Worried Lover[注釈 1] iは、18世紀フランスロココ期の巨匠アントワーヌ・ヴァトーが板上に油彩で制作した絵画である。現在、シャンティイコンデ美術館に所蔵されている[2]。1715-1720年ごろの制作とされる。18-19世紀に何人かの個人に所有された後、国王ルイ・フィリップの息子オマール公アンリ・ドルレアンに取得された。なも、この絵画はコンデ美術館に所蔵されているが、1884年にシャンティイ城のオマール公のコレクションとともにフランス学士院に遺贈されたものである。

本作はヴァトーの作品にしばしば見られる、着飾った単身人物像を全身で表している小型作品である[3]。描かれているのは風景を背に座っている若い女性で、彼女は牧歌的な服装を纏い、研究者たちから終わった愛の象徴と見られている、切られたバラの花を持っている。絵画は、ヴァトーの2人の快活な女性を描いた素描にもとづいている。この素描中の1人の女性像は、本作の女性のポーズと完全に一致している。 ヴァトーは、やはり非常に類似したポーズの座っている女性像のエッチング版画も制作している。本作は、その来歴から、ヴァトーのほかの2点の絵画『調和』 (コンデ美術館)、『夢想家英語版』 (シカゴ美術館) と関連づけられた。

歴史

本作の最初の知られている所有者は、サン=ジェルマン=ロクセロワ英語版修道士ピエール=モリス・アランジェ (Pierre-Maurice Haranger, 1655–1735年) であった。彼はヴァトーの最も親しい友人の1人で、ヴァトーの死後、画家の素描を多数受け継いだ人物である[4]。1729年に、本作は、ピエール=アレクサンドル・アヴリーヌ 英語版作のエッチングの形でエドム・フランソワ・ジェルサン英語版によって出版された。アヴリーヌはまた、アランジェが所有していた別のヴァトーの絵画『夢想家』もエッチングにしている[5]

ヴァトー『夢想家英語版』 (1712–1717年ごろ)、シカゴ美術館

エッチング版画には本作がアランジェの所有であったことは記述されていないものの、ピエール・=ジャン・マリエット英語版は自身の手稿でそのことを述べており、ヴァトーの庇護者ジャン・ド・ジュリエンヌ英語版によるヴァトーの版画集に本作と『夢想家』が同じページに載せられていることもアランジェ修道士の所有であったことを裏づける[6]。版画集にいっしょに記載されていることと同じ来歴であることにより、これら2点の絵画が対作品であると考える研究者もいる[7]。それに対し、ピエール・ロザンベール英語版は、おそらく両作品は修道士のコレクションでいっしょになったものであろうと述べている[8]。また、本作は、1985年に出版されたアランジェ修道士の目録で33番の作品であるが、この目録の全体的曖昧さにより、その目録番号ははっきりとはしていない[9]

ヴァトー『調和』 (1714–1717年ごろ)、コンデ美術館

本作は、1780年代に別のヴァトーの絵画『調和』とともにふたたびアントワーヌ・クロード・シャリオ (Antoine Claude Chariot, 1733-1815年) のコレクションに登場している。1788年1月に、両作品は競売で目録番号44の作品として221リーヴルで、著名な肖像画エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの夫であり、画家兼画商であったジャン=バティスト=ルブラン英語版 (1748-1813年) に売却された。ルブランは本作と『調和』を長く所有せず、1791年11月に売却したが、結局132リーヴルで買い戻した。その後、両作品は1792年2月の競売で目録番号25の作品として登場し、次いで19世紀半ばには、著名な将軍で外交官であった二コラ・ジョゼフ・メゾン英語版の息子アンドレ・ジョゼフ・メゾン (André Joseph Maison, 1798–1869年) 侯爵のコレクションに登場している。本作を含む、彼のコレクションの一部は、1868年にルイ・フィリップの5番目の息子アンリ・ドルレアンがイギリスに亡命している間に購入した。彼はフランスに戻ると、本作を自身のシャンティイ城のカロリーヌの間に掛け、現在もコンデ美術館の所蔵品としてそこに展示されている[2][10][11]

ヴァトーの研究者たちの間で、本作は画家の中期から晩年までの制作とされている[12]。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、コンデ美術館の学芸員たちから作品の制作年は1717-1720年ごろと見なされた[13]。1912年の目録で、ドイツの研究者エルンスト・ハインリッヒ・ツィンマーマンドイツ語版) は、ヴァトーが 『シテール島の巡礼』 (ルーヴル美術館パリ) を制作した1717年に近い制作年を想定した[14]。1950年のヴァトー作品のカタログ・レゾネ (総目録) で、ルーヴル美術館の学芸員エレーヌ・アデマール (Hélène Adhémar) は、本作の制作年を1716年の春から秋として記載した[15]。1959年に、画家で鑑識家であったジャック・マテ (Jacques Mathey) は、1715年ごろの制作年を提唱した[16]。1968年のカタログ・レゾネで、イタリアの研究者エットーレ・カメサスカ (Ettore Camesasca) は、本作をヴァトーの後期の作品として1720年ごろに制作されたものとした[17]。カメサスカの制作年は、フェデリコ・ゼーリ英語版によっても支持されている[18]。後の1980年のカタログ・レゾネで、フランスの研究者マリアンヌ・ロラン・ミシェル (Marianne Roland Michel) は、制作年を1716–1718年ごろとした[19]

ギャラリー

注釈

脚注

参考文献

追加参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI