調和 (ヴァトーの絵画)

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製作年1714-1717年ごろ
素材板上に油彩
寸法24 cm × 19.3 cm (9.4 in × 7.6 in)
『調和』
フランス語: Le Donneur de sérénades
英語: The Chord
作者アントワーヌ・ヴァトー
製作年1714-1717年ごろ
素材板上に油彩
寸法24 cm × 19.3 cm (9.4 in × 7.6 in)
所蔵コンデ美術館シャンティイ

調和』(ちょうわ、: L'Accord: The Chord)、または『セレナーデ奏者』(セレナーデそうしゃ、: Le Donneur de sérénades: The Serenader)、または『メズタン』(: Mézetin: Mezzetino)は、18世紀フランスロココ期の巨匠アントワーヌ・ヴァトーが板上に油彩で制作した絵画である。現在、シャンティイコンデ美術館に所蔵されている[1]。1714-1717年ごろの制作とされる。18-19世紀に何人かの個人に所有された後、国王ルイ・フィリップの息子オマール公アンリ・ドルレアンに取得された。なも、この絵画はコンデ美術館に所蔵されているが、1884年にシャンティイ城のオマール公のコレクションとともにフランス学士院に遺贈されたものである。

ヴァトー『メズタン』 (1718-1720年ごろ)、メトロポリタン美術館ニューヨーク

この絵画は単身人物の全身像で、舞台衣装を纏った男性のギター奏者が風景を背に座っている姿を表わしている。彼の帽子を被っていない頭部は、左を向いている。黄色い地の切込みの入った、青いリボン付きの赤色のコートと膝丈の半ズボンを身に着け、青色のロゼッタ (バラの花模様) の付いた靴を履いている[2][3]

彼は、広くイタリア喜劇コンメディア・デッラルテ」の登場人物メズタン英語版と関連づけられており、ヴァトーの絵画には繰り返し登場する。その姿はルーヴル美術館にある赤色と黒色のチョークで描かれた素描にもとづいたもので、ヴァトーのほかの2点の絵画、すなわち『驚き』 (J・ポール・ゲティ美術館ロサンゼルス) と『愛の喜び』 (アルテ・マイスター絵画館ドレスデン) にも登場する。なお、ニューヨークメトロポリタン美術館にも、別の姿をした『メズタン』が所蔵されている[4]

歴史

本作の最初の歴史上の記録は18世紀半ばに遡り、当時は徴税請負人のマルタン・ドラエ (Martin Delahaye, 1684-1753年) に所有されていた。彼の死後の1754年1月1日の競売で、作品は目録番号47番の「板絵、ヴァトーによるメズタン、縦10プス (pouce) 、横7プス、金メッキの額縁入り」と説明されている。作品は300リーヴル (livre) でボシャン (Beauchamp) という人物に売却された[5]。その直後、本作は、著名な肖像画エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの夫であり、画家兼画商であったジャン=バティスト=ルブラン英語版 (1748-1813年) に売却された。ルブランは、本作を1765年5月には目録番号58として、そして1778年には目録番号40番として2度競売にかけている。

ヴァトー『不安な恋人』 (1715–1720年ごろ)、コンデ美術館

本作は、1780年代に別のヴァトーの絵画『不安な恋人』 (コンデ美術館) とともにふたたびアントワーヌ・クロード・シャリオ (Antoine Claude Chariot, 1733-1815年) のコレクションに登場している。1788年1月に、両作品は競売の目録番号44の作品として221リーヴルで、ジャン=バティスト=ルブランに売却された。ルブランは本作と『調和』を長く所有せず、1791年11月に売却したが、結局132リーヴルで買い戻した。その後、両作品は1792年2月の競売で目録番号25の作品として登場し、次いで19世紀半ばには、著名な将軍で外交官であった二コラ・ジョゼフ・メゾン英語版の息子アンドレ・ジョゼフ・メゾン (André Joseph Maison, 1798–1869年) 侯爵のコレクションに登場している。本作を含む、彼のコレクションの一部は、1868年にルイ・フィリップの5番目の息子アンリ・ドルレアンがイギリスに亡命している間に購入した。彼はフランスに戻ると、本作を自身のシャンティイ城内に掛け、現在もコンデ美術館の所蔵品としてそこに展示されている[1][6]

ヴァトーの研究者たちの間で、本作は一般的に画家の中期に制作されたものと見られている[7]。1950年のヴァトー作品のカタログ・レゾネ (総目録) で、ルーヴル美術館の学芸員エレーヌ・アデマール (Hélène Adhémar) は、本作の制作年を1716年の春から秋として記載した[8]。1959年に、画家で鑑識家であったジャック・マテ (Jacques Mathey) は、1714年ごろの制作年を提唱した[9]。 1968年のカタログ・レゾネで、イタリアの研究者エットーレ・カメサスカ (Ettore Camesasca) は、本作を1715年ごろに制作されたものとした[10]。1980年代に、フランスの研究者マリアンヌ・ロラン・ミシェル (Marianne Roland Michel) は、制作年を1715–1716年ごろとした[11]。2002年に、ルノー・タンペリニ (Renaud Temperini) は、制作をやや遅い時期の1716–1717年とした[12][13]

ギャラリー

脚注

参考文献

追加参考文献

外部リンク

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