北朝鮮核問題の年表

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北朝鮮核問題の年表(きたちょうせん かくもんだいのねんぴょう)では、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)核実験及び弾道ミサイル開発の年表を記載する。

北朝鮮が初めてミサイル発射に成功したのは1993年のことであった。北朝鮮による飛翔体が計35発とこれまでの最多を更新したのが2016年のことであり、翌2017年には、 北朝鮮が初めて公式にアメリカ合衆国グアムへの発射を行うと威嚇した[1]

  • 1955年:金日成が核物理学研究所を設置して、南朝鮮革命論を主張して在韓米軍撤退のために核開発を開始[2]
  • 1956年:米国極東海軍司令官で朝鮮戦争停戦協定の上級国連代表部あったC・ターナー・ジョイが北朝鮮や中国など共産主義国家による交渉手法を解説した「共産主義者の交渉手法(How Communists Negotiate)」を出版[3]
  • 1962年:寧辺核施設を開設。
  • 1965年:金日成が核兵器開発に公式に言及。ウラン235を大量採掘したと宣伝開始[2]。寧辺IRT-2000の研究用原子炉が2MWの電力定格に達する。
  • 1968年
  • 1974年:寧辺IRT-2000の研究用原子炉が2MWの電力定格に達する。

1975年から1994年まで

  • 1976年8月18日:ポプラの木を切る国連側のボナファス大尉とベリト中尉を北朝鮮が斧で殺害(斧蛮行事件)。
  • 1983年:核開発に必須な高性能爆薬実験開始[2]。同年10月9日に全斗煥大統領を含めた韓国政府首脳を狙ったビルマを訪問していた韓国の閣僚などミャンマー人らを含む21人が北朝鮮のテロで死亡(ラングーン事件)。
  • 1986年9月14日:ソウル・アジア競技大会の開幕1週間前に、北朝鮮から依頼を受けたテロ組織が金浦空港に設置した爆発物で5人が死亡、29名が負傷。(金浦空港爆弾テロ)[5][4]
  • 1987年
    • 姜哲煥が北朝鮮の収容所から脱北[6]。11月29日に金正日政治局常務委員の指示を受けた北朝鮮工作員が日本人に偽装して大韓航空機にテロ(大韓航空機爆破事件)。当時の北朝鮮外相で、国会に相当する最高人民会議常任委員長を務める金永南が直前までウガンダに五輪ボイコット要請するなどソウル五輪を全力妨害。韓国の全斗煥大統領は反対したが、アメリカは五輪開催前に北朝鮮の孤立化を防ぐことで、「おろかな行動を未然に防止できる」と説得し、同年3月から6月に世界各地で6回接触。アメリカは北朝鮮に第三国での米朝の外交官接触禁止を緩和して、北朝鮮が南北間の対話再開などに応じれば、人道名目で貿易するというシグール構想を提案。しかし、レーガン大統領は11月の大韓航空機爆破事件を受けて、北朝鮮を「テロ支援国家」に指定。シグール構想も撤回[7]
  • 1987年12月:ホワイトハウスでの米ソ首脳会談でレーガン大統領にゴルバチョフ書記長が北朝鮮の依頼を受けて、「南北で構成された連邦共和国の創設」「南北それぞれ10万人未満に兵力削減」「核兵器を含めたすべての外国軍隊の朝鮮半島からの撤退」「南北が署名する不可侵宣言」「休戦協定を平和協定で代替」「南北の軍を統合」「南北が第三国と締結した民族の団結に反するあらゆる協定・条約の破棄」「連邦共和国という単一国号での国連加盟」との北朝鮮の要望伝達[8]
  • 1989年:年約80トンの使用済み核燃料を再利用可能とする再処理施設を稼働[9]
  • 1991年12月:社会主義の没落で守勢に追い込まれたことで南朝鮮革命論から連邦共和国論を主張するようになった金日成は、最終的に韓国の盧泰愚大統領と朝鮮半島における非核化、南北は体制の認定と相互不可侵を盛り込んだ「基本合意書」に合意しに関する共同宣言に合意。南北合意第1条「体制保障」で武力使用の禁止も明記、「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」も同時に出され、南北は核兵器やその製造施設も持たないと約束。合意時にも金日成主席は「自国は核開発をする能力も意図もない」と表明。北朝鮮は国際原子力機関 (IAEA) と核査察協定を調印する代わりに、米韓軍事演習中止と韓国にあった核兵器の撤去に成功。韓国では2018年時点でも合意は有効とされているが、金日成一族は韓国の北朝鮮への統一不可能としている在韓米軍撤退が盛り込まれなかったことから「体制保障」が盛り込まれたにもかかわらず、 合意後も南南葛藤を起こすために韓国を武力攻撃や統一のために核開発するなど不履行[10][11][2][12]
  • 韓国で金泳三大統領就任。就任の挨拶で金泳三大統領は「同盟は民族以上のものではない」と宣言。北朝鮮に融和路線を提示[13][14]
  • 1992年8月24日:韓国と中国が北京で国連憲章の原則と主権と領土保全の相互尊重主権、相互不可侵・内政不干渉、相互の平等と互恵、台湾は中国の一部、朝鮮半島の平和統一支持を骨子とする中韓修交共同声明(中韓国交成立)。しかし、その後の1999年のにんにく騒動やTHAAD報復など「台湾は中国の一部」という中国に有利な内容以外中国側は無視。にんにく騒動では金大中政府は「中国産ニンニクに対する韓国側のセーフガード(緊急輸入制限)措置をこれ以上延長しない」と中国側と秘密合意。 交渉当時に通商交渉本部長を務めていた韓悳洙青瓦台経済首席秘書官、次官補を務めていた徐圭竜農林部次官などが2002年の合意発覚後に更迭[15]
  • 1993年3月13日:金泳三大統領は就任1カ月足らずで未転向長期囚を無条件で北朝鮮に渡すなどスタートから融和路線していたが、北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)からの離脱を宣言し、韓国に対して「ソウル火の海」と脅迫されるなど核への脅威を受けて北朝鮮への路線転換[10][12][13]
  • 1994年
    • 6月:北朝鮮が国際原子力機関(IAEA) からの脱退を宣言。
    • 10月21日:アメリカと北朝鮮国内での核開発の凍結、NPTへの復帰を条件に国交の正常化への道筋を含む「核枠組み合意」を締結。アメリカは北朝鮮に軽水炉の提供や以後北朝鮮に毎年食料と50万tの重油を供与。北朝鮮のミサイル輸出が問題になる。北朝鮮は合意後も秘密裏にプルトニウム抽出やウラン濃縮など核開発を続ける[10][11][16][17]

1995年から2002年まで

  • 1996年9月15日-9月18日:北朝鮮の武装工作員がサンオ型潜水艦を用いて密入国し、韓国へ浸透攻撃。(江陵浸透事件)[10]
  • 1997年
    • 2月:稼働している工場は屑鉄の山を産みだしている軍需工場だけで5年以内の北朝鮮崩壊目前であったため、「主体思想の代父」と呼ばれた北朝鮮幹部黄長燁朝鮮労働党秘書が韓国に亡命し、「私が望むのは北朝鮮の人民を一日も早く飢餓から救い、祖国の平和的統一を成し遂げることだ」として北朝鮮の民主化運動支援開始。北朝鮮の核開発に失望していた金泳三大統領は歓迎した。しかし、数ヶ月後の北朝鮮支援を主張する太陽政策論者の金大中大統領への政権交代による韓国政府の約束違反で「招かれざる客」として入れ替わるように冷遇され、盧武鉉政権発足後の2003年には韓国政府機関から呼びつけや追い出しなど苦難を受ける。「悲運の亡命者」となって、北朝鮮の融和を主張する韓国政府によって訪米を禁止されて北朝鮮から命を狙われ続け、北朝鮮の崩壊を最も望む国は韓国だと信じていたが、韓国は北朝鮮の崩壊を防ぐための金正日政権を支援する国だったと回顧[13][18][19][20][21][22]
  • 12月18日:大統領選挙で北朝鮮への融和政策を主張する金大中が当選[23]
  • 1998年
    • 4月:金大中大統領が「南北経済協力活性化措置」を発表。韓国企業に対北朝鮮事業を積極的に奨励[24]
    • 5月30日:この日パキスタンで行われた核実験が、北朝鮮の代理核実験であったとの疑惑[25]
    • 6月22日:韓国海軍が韓国江原道束草で漁網に引っかかった北朝鮮のユーゴ型潜水艇の中から秘密文書や機器などを処分後に工作員に射殺された乗組員5名と、その後自決と見られる工作員4名の計9体の遺体発見[10]
  • 1999年6月15日:第1延坪海戦[2]
  • 2000年
    • 6月9~12日:韓国の金大中政権が現代グループを通じて4億5000万ドル(約450億円)を北朝鮮へ違法送金。6月11日に現代商船が調達した2億ドルは金正日の海外秘密資金口座である中国銀行のマカオ支店の「DAESUNG BANK-2」名義の口座、他には東北アジア銀行のシンガポール口座などへと送金。朝鮮労働党39号室も関わっていたことが後の韓国における2003年の対北不法送金事件の捜査で発覚。金大中大統領もメディアのインタビューで関与を認めた。対北送金の特別検察は首脳会談との関連と送金違法性のために、関連者に執行猶予を含む有罪判決。後に関係者に恩赦[26][27][28][29]
    • 6月13~15日:韓国政府が5億ドル(約530億円)を北朝鮮に供与したことで初の南北首脳会談開催[30]。韓国の金大中大統領は金正日総書記による南北首脳会談で南北共同宣言を発表し、陸路での金剛山観光開城工業団地の稼働など韓国からの経済協力事業が次々と開始される[10][11]
  • 2001年:金大中政権が3000億ウォンの追加対北送金のために国家機関と6つの都市銀行を動員[31][32]。金正恩はスイスから帰国し、3月に「毎日のように馬に乗り、ローラーブレードもし、バスケットもし、夏にはジェットスキーをし、プールで遊んだりもするが、一般の人民はどのように暮らしているのか」と発言。後の執権後、北朝鮮国内の現実とかけ離れた指示をしていることから専門家から北朝鮮の庶民のことを知らないことの裏付けと指摘[33]

2002年

2003年以降

脚注

関連項目

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