富山刑務所
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収容分類級
- B級
再犯者の短期処遇が目的の刑務所である。
収容定員
- 505人(受刑者441人、未決収容者64名)[2]
沿革
1881年(明治14年)5月28日、石川県富山囚獄懲役署を、石川県富山監獄署と改称[4]。
1883年(明治16年)4月、石川県富山監獄署が富山監獄支署と改められ[5]、同年2月24日の出口変更の願い出を受けて[5]、同年5月9日に出口変更の工事に着手した[6]。同年7月に富山県監獄本署と改められ、高岡、魚津に支署を設けた。1886年(明治19年)には、高岡、魚津の支所が監獄に昇格したものの、1890年(明治23年)6月に廃止された[7]。
富山監獄所時代の1888年(明治21年)には、同所の囚人を分駐して、現在の富山市大沢野地区に『大沢野外役所』を設置していた[8]。
1899年(明治32年)6月5日、富山城西の丸跡にあった県富山監獄署が西田地方(後の西中野町)に移転[9]。同年6月中に再び高岡、魚津に支署を設けたものの1902年(明治35年)に魚津支署が廃止された。1903年(明治36年)4月に司法省直轄の施設となる。1905年(明治38年)4月には高岡支署も主張所に改められた[7]。1913年(大正2年)5月、管制改正により金沢監獄富山分監となる[2]。
1920年(大正9年)11月14日、金沢監獄富山分署として堀川村(現・富山市)に新築落成し[10]、1921年(大正10年)4月に再度富山監獄となり[2]、1924年(大正13年)12月に管制改正により金沢刑務所富山支所となった。1945年(昭和20年)には富山大空襲により施設の大半を焼失。1947年(昭和22年)4月に復旧工事完了および本所に昇格したことに伴い現在の名称『富山刑務所』に改称された[2]。施設の老朽化に伴い[11][12]、1966年(昭和41年)7月に施設の移転について富山市と協議が開始され[2]、1970年(昭和45年)11月30日に少年鑑別所も含めた用地約75,600m2の売買契約が仮調印され[13]、1972年(昭和47年)1月11日に移転が決定し[14]、1973年(昭和48年)に現在地の刑務所が着工(1974年〔昭和49年〕1月に新築工事着手)、1974年(昭和49年)度中の完成を目標に工事を進め、1975年(昭和50年)2月に竣工、同年6月3日に現在地へ移転した[11][12][2]。
組織
所長の下に2部1課を持つ2部制である。
- 総務部(庶務課、会計課、用度課)
- 処遇部(処遇担当、企画担当)
- 医務課