平鹿町下鍋倉
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| 平鹿町下鍋倉 | |
|---|---|
| 大字 | |
北緯39度15分03秒 東経140度28分57秒 / 北緯39.25075度 東経140.48242度座標: 北緯39度15分03秒 東経140度28分57秒 / 北緯39.25075度 東経140.48242度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 地域 | 平鹿地域 |
| 人口情報(2020年10月1日現在[1]) | |
| 人口 | 808 人 |
| 世帯数 | 239 世帯 |
| 設置日 | 1956年9月20日[2] |
| 郵便番号 | 013-0103[3] |
| 市外局番 | 182[4] |
| ナンバープレート | 秋田 |
平鹿町下鍋倉(ひらかまちしもなべくら)は、秋田県横手市の大字。郵便番号は013-0103[3]。人口は808人、世帯数は239世帯(2020年10月1日現在)[1]。住居表示は全域で未実施[5]。旧平鹿郡平鹿町下鍋倉、旧平鹿郡浅舞町大字下鍋倉、旧平鹿郡浅舞村大字下鍋倉、旧平鹿郡下鍋倉村に相当する。
小字
平鹿地域の南西部、皆瀬川中下流域の北方に広がる平野部[6]に位置し、水田を中心とする農村地帯となっている[2]。下鍋倉保育所のほか、曹洞宗の寺院・永蔵寺や、手足観音として知られる沖掵神社が所在する[2]。
全域が都市計画区域に含まれるが、区域区分非設定区域となっている[7]。都市計画法上の用途地域には指定されていない[8]。
2024年(令和6年)10月5日時点での「横手市(秋田地方法務局大曲支局)登記所備付地図データ」[9]、デジタル庁公表の「アドレス・ベース・レジストリ」の「秋田県 横手市 町字マスター(フルセット) データセット」[10]、横手市公表のオープンデータ[11]によれば、平鹿町下鍋倉の小字は以下の通りである。
| 町・字 | 出典 | |||
|---|---|---|---|---|
| 大字 | 小字 | 登記[9] | 町字マスター[10] | 行政区一覧[11] |
| 平鹿町下鍋倉 | 字大沢田 | ○ | ○ | × |
| 字下雨沼 | ○ | ○ | × | |
| 字下糸畑原 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下川前 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下川端 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下都 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下六ッ段 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下詫宣 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下掵 | ○ | ○ | ○ | |
| 字外沢見 | ○ | ○ | ○ | |
| 字関根小屋 | ○ | ○ | ○ | |
| 字境沢田 | ○ | ○ | × | |
| 字御倉前 | ○ | ○ | ○ | |
| 字沼向 | ○ | ○ | × | |
| 字菖蒲沼 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上雨沼 | ○ | ○ | × | |
| 字上糸畑原 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上甚平 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上川前 | ○ | ○ | × | |
| 字上川端 | ○ | ○ | × | |
| 字上都 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上六ッ段 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上詫宣 | ○ | ○ | × | |
| 字上掵 | ○ | ○ | ○ | |
| 字城戸 | ○ | ○ | ○ | |
| 字甚平 | ○ | ○ | ○ | |
| 字中都 | ○ | ○ | × | |
| 字中掵 | ○ | ○ | ○ | |
| 字都 | ○ | ○ | × | |
| 字鍋倉 | ○ | ○ | ○ | |
| 字鍋倉雨沼 | ○ | ○ | × | |
| 字二本松 | ○ | ○ | ○ | |
| 字日光 | ○ | ○ | × | |
| 字馬場尻 | ○ | ○ | ○ | |
| 字背戸 | ○ | ○ | × | |
| 字堀切 | × | ○ | × | |
| 字蘭場前 | ○ | ○ | ○ | |
| 字樋向 | ○ | ○ | × | |
歴史
下鍋倉では、縄文時代の平沢Ⅰ・Ⅱ遺跡や中都遺跡などが確認されているが、いずれも発掘調査は行われておらず、遺構については不明である[12]。このうち平沢Ⅰ遺跡からは、壺形土器・注口土器・鉢形土器・台付土器・土偶・石棒・石刀などが出土している[13]。特に壺形土器は、胴部上半に広範囲に摩消痕があり、珍しい例とされる[13]。また、平沢Ⅱ遺跡、中都遺跡からは弥生時代の土器が数点出土している[14]。
中世には鍋倉館と呼ばれる城館が置かれ、小野寺氏の一族と伝えられる鍋倉氏の居城として機能していた[15]。現在、遺構の大部分は集落に包摂されて失われているが、城戸集落および寺村の東側には堀跡が一部現存している[15]。かつては幅6 - 10メートルの水堀が鍋倉集落全体を囲んでいたと伝えられている[15]。
江戸時代には出羽国平鹿郡のうちであった[6]。もとは鍋倉村であったが、正保年間に上鍋倉村と下鍋倉村に分割されたとされる[6][16]。『正保国絵図』および『元禄7郡絵図』では、上鍋倉村と下鍋倉村の位置が享保年間以降の位置と入れ違いになっており、元禄7郡絵図には新田村として独立して記されている[6]。下鍋倉新田村は、鍋倉城のあった鍋倉村(享保年間以降の下鍋倉村)から十五野新田村が成立し、その後、下鍋倉新田村の「新田」の字が削られる過程で、上下の村名が地理的条件などを踏まえて入れ替えられたと推定されている[6]。
石高は『正保国絵図』では928石、『元禄7郡絵図』では1,096石、『享保黒印高帳』では村高898石余、当高880石余、『寛政村附帳』では872石余とある[6]。戸数は『享保郡邑記』で87軒、『秋田風土記』で63軒、『雪の出羽路』で61軒とある[6]。『六郡郡邑記』では枝郷に、羽場村、河前村(元禄年間に廃村)が見える[17]。河前村は二本松集落の南方で、下川前、上川前として地名に残る[18]。享和3年(1803年)の『出羽国郡村仮名附帳』では、都町村、あら所村、羽場村が見える[17]。
荒処の勧行院境内(現在は廃寺)には犬子清水があり、清水町新田村はこれを水源として万治から寛文年間に開墾された[17]。
下鍋倉村は、町村制施行に伴い、1889年(明治22年)4月1日に浅舞村と合併し、新制・浅舞村が発足した。下鍋倉村はもともと植田村・越前村・木下村・源太左馬村と合併する案があったが、人情風俗の点からも浅舞村と合併することが適当であるとし、浅舞村と合併した[19]。
沿革
- 1872年(明治5年)2月 - 秋田県第14大区第5小区に属する[20]。
- 1873年(明治6年)7月 - 秋田県第6大区第5小区に属する[21]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、浅舞村・下鍋倉村が合併し、浅舞村となる。下鍋倉村は浅舞村大字下鍋倉となる[6]。
- 1895年(明治28年)7月25日 - 町制施行し、浅舞町となる[22]。浅舞町大字下鍋倉となる[6]。
- 1956年(昭和31年)9月20日 - 浅舞町と吉田村が合併し、平鹿町となる[23]。平鹿町大字下鍋倉となる[6]。
- 2005年(平成17年)10月1日 - 〈旧〉横手市と平鹿町を含む平鹿郡5町2村が合併し、横手市となる[24]。横手市平鹿町下鍋倉となる。
世帯数と人口
2020年(令和2年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
| 大字 | 小字 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|---|
| 平鹿町下鍋倉 | 字城戸 | 38世帯 | 118人 |
| 字馬場尻 | 32世帯 | 115人 | |
| 字蘭場前 | 26世帯 | 95人 | |
| 字鍋倉 | 46世帯 | 169人 | |
| 字関根小屋 | 33世帯 | 98人 | |
| 字二本松 | 64世帯 | 213人 | |
| 計 | 239世帯 | 808人 | |
人口・世帯数の推移
以下は国勢調査による1995年(平成7年)以降の人口の推移。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[25] | 1,066 |
| 2000年(平成12年)[26] | 1,002 |
| 2005年(平成17年)[27] | 1,005 |
| 2010年(平成22年)[28] | 970 |
| 2015年(平成27年)[29] | 880 |
| 2020年(令和2年)[1] | 808 |
以下は国勢調査による1995年(平成7年)以降の世帯数の推移。
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[25] | 240 |
| 2000年(平成12年)[26] | 239 |
| 2005年(平成17年)[27] | 256 |
| 2010年(平成22年)[28] | 254 |
| 2015年(平成27年)[29] | 245 |
| 2020年(令和2年)[1] | 239 |
