平鹿町浅舞

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平鹿町浅舞
大字
浅舞の朝市
浅舞八幡神社琵琶沼
浅舞公園 秋田スカイフェスタ
北緯39度16分38秒 東経140度28分47秒 / 北緯39.27719度 東経140.47981度 / 39.27719; 140.47981座標: 北緯39度16分38秒 東経140度28分47秒 / 北緯39.27719度 東経140.47981度 / 39.27719; 140.47981
日本の旗 日本
都道府県 秋田県の旗 秋田県
市町村 横手市
地域 平鹿地域
人口情報2020年10月1日現在[1]
 人口 3,738 人
 世帯数 1,184 世帯
設置日 1956年9月20日[2]
郵便番号 013-0105[3]
市外局番 182[4]
ナンバープレート 秋田
ポータルアイコン ポータル 日本の町・字
ポータルアイコン ポータル 秋田県
プロジェクト 日本の町・字
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平鹿町浅舞(ひらかまちあさまい)は、秋田県横手市大字郵便番号は013-0105[3]。人口は3,738人、世帯数は1,184世帯(2020年10月1日現在)[1]住居表示は全域で未実施[5]。旧平鹿郡平鹿町浅舞、旧平鹿郡浅舞町大字浅舞、旧平鹿郡浅舞村大字浅舞、旧平鹿郡浅舞村に相当する。

地名の由来

平鹿地域の中央西部に位置しており、平鹿地域局などが置かれる平鹿地域(旧平鹿町)の行政の中心地となっている[2]中世には小野寺氏の拠点として浅舞城が築かれ、浅舞はその城下町として機能した[6]。また、旧平鹿郡の中央部に位置する地勢から、郡内支配の拠点的役割を担った[6]。このため、当初は陣屋が、のちには御役屋が置かれている[6]。御役屋が置かれた町の中心部には、県指定の天然記念物である浅舞のケヤキ(槻の木)がある[2]。また、市街地南部の浅舞公園[2]は、通称・あやめ公園と呼ばれ、毎年浅舞公園あやめまつりが開催される[7]

全域が都市計画区域に含まれるが、区域区分非設定区域となっている[8]都市計画法上の用途地域では準工業地域近隣商業地域第一種中高層住居専用地域第一種住居地域に指定されている[9]

かつては「浅前」や「朝前」、「浅廻(あさまわり)」とも称され[10]、地下水位の高い地勢に由来するとされる[11]。一方で、菅江真澄の『雪の出羽路 平鹿郡』では、近世に藩主佐竹義隆が当地で鷹狩をしていた際、鶴が舞い飛ぶ様子を見て地名を命名したとされる[10]。しかし「浅舞」という地名は中世にはすでに存在していたとされ[10]、後世において縁起の良い由来が創作されたものと推定されている[11]

小字

2024年令和6年)10月5日時点での「横手市(秋田地方法務局大曲支局)登記所備付地図データ[12]デジタル庁公表の「アドレス・ベース・レジストリ」の「秋田県 横手市 町字マスター(フルセット) データセット[13]、横手市公表のオープンデータ[14]によれば、平鹿町浅舞の小字は以下の通りである。

町・字 出典
大字 小字 登記[12] 町字マスター[13] 行政区一覧[14]
平鹿町浅舞 字浅舞
字伊勢堂
字一関向
字一本杉 ×
字越部合 ×
字横手街道北
字沖谷地 ×
字下高口
字下中野
字下猪岡 ×
字下白山田 ×
字下平沢 ×
字加羽
字加羽後 ×
字覚町後
字釜池
字間兵衛野
字館廻
字丘見
字九合谷地 ×
字研町
字古本町
字五味川
字後野
字向高口
字荒小屋東
字高野 ×
字高野尻
字桜森境
字獅子塚 ×
字十五野南
字十五野北
字十六石野
字小勝田前 ×
字小泉
字小野墳 ×
字沼下
字沼下竹原
字蒋沼
字上高野
字上蒋沼
字上中野
字上猪岡 ×
字新沼 ×
字新平川
字新堀
字諏訪野
字西小泉 ×
字西田
字千刈田
字前田表
字足附橋
字大宮北
字大清水 ×
字大中嶋
字大東
字大道合 ×
字鷹野
字檀ノ前
字中堰向 ×
字中東
字中平沢
字長沼東
字堤下 ×
字田ノ神 ×
字土井尻 ×
字道川
字道川東
字道川南
字道川北
字白山田 ×
字八幡小路
字反見
字肘曲 ×
字百合子谷地 ×
字蛭野
字蛭野尻
字福田
字福嶋 ×
字返諏訪
字蜂笛
字豊前
字堀ノ内 ×
字野尻 ×
字野々助
字林崎
字林崎後 ×
字六日町後
字大樋
字沈樋
字樋下 ×
字餅田

歴史

浅舞では、小勝田川沿いに縄文時代の平沢Ⅰ・Ⅱ遺跡、西小泉遺跡、大清水Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ遺跡、浅舞Ⅰ遺跡などの遺跡群がある[15]。このうち大清水Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ遺跡では、大清水Ⅱ遺跡から遺構として竪穴建物跡1棟、掘立柱建物跡(柱穴410基)、土坑32基、溝跡14条、遺物として縄文土器石器土偶土師器須恵器が出土している[16]。また、大清水Ⅲ遺跡からは竪穴建物跡2棟、掘立柱建物跡(柱穴115基)、土坑35基、溝跡2条、遺物として縄文土器、土師器、須恵器、石器、水晶切子玉が出土している[16]。大清水Ⅱ・Ⅲ遺跡の竪穴建物跡はいずれも平安時代のものとされる[16]

中世には小野寺氏の支城として浅舞城が置かれ、この頃にはすでに町割りが形成されていたと推定される[17]。浅舞城は現在の字館廻のあたりに位置したとされ[18]、町割りは城の東方にかけて発達した[19]。周辺には壕跡と推定される「新堀」や「堀ノ内」、城郭に包摂された「郭町」から転じたと思われる「覚町」といった地名が残されており、名残を留めている[19][17]。また、周辺には浅舞城主が開基と伝えられる龍泉寺や玄福寺、大宮寺が所在する[19]太閤検地での一揆が伝えられており、蔵入地に指定、菅氏が城代を務めた[19]戦国時代には浅舞形部、元禄から慶長小野寺義道の子である左京が城主であったと伝えられており、元和8年(1622年)に一国一城令によって破却された[19]

御役屋門

佐竹氏の入部後、農村支配を進めるため、初代藩主の佐竹義宣により、元和元年(1615年)に平鹿郡支配の拠点として陣屋が設置された[20]。陣屋は寛文3年(1663年)に建て替えられ、天和2年(1682年)には御鷹柵が新築されるなどしたが、享保5年(1720年)に解体された[21]。その後、佐竹義和の藩政改革のうち一つとして郡奉公制が復活、農村支配を強化するため寛政7年(1795年)に御役屋が置かれた[22]。平鹿郡内では浅舞のほか、増田および角間川にも設置された[23]。浅舞は平鹿郡の中心部に位置し、農業に適した好適地で農村集落が発達していたことから、この地に設けられたとされる[24]。御役屋は、明治元年(1868年)の火災により焼失、その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によって御役屋は廃止された[25]

浅舞では定期市が開かれており、その歴史は江戸時代にまで遡る[26]。その起源については判然としないが、菅江真澄の『雪の出羽路 平鹿郡』によれば、「元和元年巳年(1617年)に六日町が始まりたり」とあり、まず六日町に市が立ったと推定される[26]。さらに、市神様が祀られ、信仰を集めていたという[26]。開催日については、享保15年(1730年)の『六郡郡邑記』では「1・4・6の九斎市」、江戸時代の『雪の出羽路』では、「市日朔日、四日、六日、十一日、十四日、十六日、二十一日、二十四日、二十六日也」とある。1892年(明治25年)制定の「市場取締令」にれば「毎月陰暦一日、四日、六日、八日の付く日で月十二回」とあり、1959年昭和34年)制定の「平鹿町営朝市広場の設置並びに使用料徴収条例」によれば、「毎月一日、四日、六日、八日、十一日、十四日、十六日、十八日、二十一日、二十四日、二十六日、二十八日」とある[27]。場所については、当初は六日町・覚町を中心とする役場通り(国道大船渡本荘線、旧街道)にて解説されていたが、道路交通法の規制により、1962年に覚町の西裏の道路へと移動した[28]

『六郡郡邑記』では、浅舞村枝郷として、加羽4ヶ村(新堀村・蒋沼村・酌子村・井野岡谷地村)と、豊前谷地村・蛭野村・本新平川村・大中嶋村・上中野村・下中野村・高口村・高野村・五味川村・沼下村・道川村がある[6][10]

沿革

世帯数と人口

2020年(令和2年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字小字世帯数人口
平鹿町浅舞 字桜森境 37世帯 106人
字大中嶋 23世帯 72人
字餅田 57世帯 180人
字五味川 39世帯 149人
字沈樋 32世帯 100人
字福田 67世帯 223人
字沼下 43世帯 146人
字新平川 45世帯 147人
字蛭野 52世帯 176人
字前田表 17世帯 67人
字新堀 40世帯 240人
字浅舞 381世帯 1113人
字八幡小路 61世帯 170人
字千刈田 41世帯 117人
字古本町 40世帯 125人
字上蒋沼 70世帯 196人
字野々助 - 世帯 - 人
字中平沢 8世帯 23人
字足附橋 11世帯 36人
字長沼東 76世帯 206人
字十五野南 44世帯 146人
1,184世帯 3,738人

人口・世帯数の推移

以下は国勢調査による1995年(平成7年)以降の人口の推移。

平鹿町浅舞の人口推移
人口
1995年(平成7年)[42]
4,935
2000年(平成12年)[43]
4,725
2005年(平成17年)[44]
4,532
2010年(平成22年)[45]
4,245
2015年(平成27年)[46]
3,981
2020年(令和2年)[1]
3,738

以下は国勢調査による1995年(平成7年)以降の世帯数の推移。

平鹿町浅舞の世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[42]
1,279
2000年(平成12年)[43]
1,273
2005年(平成17年)[44]
1,256
2010年(平成22年)[45]
1,217
2015年(平成27年)[46]
1,188
2020年(令和2年)[1]
1,184

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[47]

小字小学校中学校
全域横手市立浅舞小学校横手市立平鹿中学校

交通

鉄道

域内に駅はない。最寄り駅は奥羽本線醍醐駅

1971年まで、横荘線東浅舞駅浅舞駅豊前駅が所在した。

道路

バス

羽後交通[48]
  • 浅舞覚町(横手・本荘線)
  • 浅舞栄町(横手・本荘線)
  • 浅舞小学校前(横手・本荘線)
  • 浅舞新道(横手・本荘線)
  • 浅舞本町(横手・本荘線)
  • 小勝田橋(横手・本荘線)
  • 新町(横手・本荘線)
横手市コミュニティバス[48]
  • ゆとり館(蛭野石成線・吉田馬鞍線)
  • 林崎(蛭野石成線・吉田馬鞍線)
  • 朝市前(蛭野石成線・吉田馬鞍線)
  • 蛭野(蛭野石成線)
  • 道川(吉田馬鞍線)
  • 新平川(蛭野石成線・吉田馬鞍線)
  • 高野(蛭野石成線)
  • 下高口(蛭野石成線)
  • 十五野(蛭野石成線・吉田馬鞍線)
  • 中嶋(蛭野石成線)
  • 平鹿庁舎(蛭野石成線・吉田馬鞍線)
  • 五味川(蛭野石成線・吉田馬鞍線)

施設

神社・寺

  • 浅舞八幡神社(字蒋沼125番地)
    祭神:八幡大神応神天皇)、祭日:6月1日(春祭り)、9月敬老の日直前の土日(秋祭り)[29]
    社伝によれば、天平12年(740年)、浅舞村の開拓が始まった際、水利牧民の地を定め、村内の農民・武士・商人らが村の北西に社殿を建立し、八幡大神を守護神として祀ったという。天明年間以降、周辺住民が市中に移り住んだため、社殿は田園の中に孤立することとなり、雨天時の参拝の不便や取締上の不都合が生じた。このため、寛政12年(1800年)に現在地へ移転した。近代社格制度により、明治5年(1872年)に郷社、明治19年(1889年)に県社に列せられた[29]
  • 龍泉寺(字浅舞286番地)
    山号:長雲山、宗派:曹洞宗、本尊:阿弥陀如来[49]
    浅舞城主・小野寺左京亮友光が元亀から天正年間にかけて開基したと伝えられている。浅舞城の築城に際し、祖先菩提のため古城近くにあった浄土宗の草庵を移し、永禄年間に遷化した増田満福寺三世・梅翁正倫和尚を開山に迎えたとされる[49]
  • 玄福寺(字浅舞142番地)
    山号:市中山、宗派:真宗大谷派、本尊:阿弥陀如来[50]
    古くは「照井山」と称した。寺は東本願寺の末寺で、開祖は岩手県和賀郡出身の照井助之進藤原武重の次男・助四郎高重である[51]。高重は出家して浄賢坊と号し、文禄元年(1592年)春、浅舞城主・小野寺孫十郎義道の要請に応じて浅舞本町に建立した[51]寛永9年(1632年)に現在地の四ツ関に、葬場を諏訪野へ移転した[51]。また、明治中期に深井街道が新道となったため、墓地と寺が分離し、境内の中央を道路が通るようになった[51]

公共

  • 横手市役所 平鹿庁舎(平鹿地域局、横手市立平鹿図書館、字覚町後138番地)[52]
  • 横手市浅舞地区交流センター〈平鹿農村環境改善センター〉(字覚町後140番地)[53]
  • 横手市平鹿体育館(字覚町後131番地2)[54]
  • 横手市平鹿町ゆとり館(字蒋沼289番地)[55]
  • 横手市農村体験学習施設アイリスハウス(字蒋沼291番地)[56]
  • 横手市浅舞スポーツセンター(字野々助80番地2)[57]
  • 横手市平鹿防災センター(字野々助158番地3)[58]

公園

  • 浅舞公園(字上蒋沼)[59][60]
    • 横手市平鹿相撲場(字上蔣沼22番地)[61]
    • 横手市平鹿農村文化伝承館(字蒋沼25番地)[62]
  • 十五野公園(字十六石野ほか)[59]

教育

事務所・出先機関

観光

名所・旧跡

祭事・イベント

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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