延安城の戦い
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朝鮮側
李廷馣は、宣祖が開城へ避難したとの報を遅れて聞き、開城へ向かった[3]。 5月3日、金命元率いる朝鮮軍が敗北したとの報を受け、宣祖は再び平壌へ避難した。 当時、李廷馣は新たに開城留守に任命された弟の李廷馧とともに開城に留まっていた[4]。 その後、臨津江の戦いで朝鮮軍が敗れ、日本軍が開城を占領すると、彼らは白川郡(黄海道)へ逃れ、義兵を募った[5]。
光海君は孟山郡・谷山郡を経て伊川に到着し、分朝を設置して各地の兵力を再編し、日本軍への対応体制の整備を図った。 李廷馣は分朝より黄海道の招討使に任命された[5]。 李廷馣は黄海道各地に檄文を送り、離散した兵士を招集した。 500余名が集結すると、8月24日に延安城へ入城して守備を整えた[3]。 李廷馣が入城した時、城内の家屋はすべて空になっていたが、彼らが籠城すると知るや、住民たちは次々に帰還し、逃亡していた郡守も戻った[3]。
日本側
北方戦線が崩壊する一方で、日本軍の平壌方面への進撃は停滞していた。 これは南方各地で義兵蜂起が発生し、遊撃戦が展開されたこと、さらに李舜臣率いる朝鮮水軍によって日本軍の海上作戦が困難となったためである。 この状況を受け、日本軍は周辺地域への支配拡大を必要とし、兵力11,000を有する黒田長政率いる第三軍が黄海道攻略を担当することとなった[5]。
延安城
延安城は高さ約4.5メートルの方形平面を持つ城郭である。 城壁の一辺は延安邑南方の南山南麓に沿って延城里を通り、茅亭里へ至った。 他の一辺は南山中腹を横切り、延安邑の道路を通過し、官川里を経て雪峰山へ登っていた[6]。
1555年、郡守朴応宗が甕城2基と雉城693基を築造し、弓箭および銃砲用の射孔を設置した。 城門は東西南北の四か所に設けられていた[7]。 城内には西風泉井・君子井と呼ばれる井戸が存在した[6]。 また城外には北方の鳳栖山から流れる水を引き入れた広い堀が掘削されていた。 このように延安城は規模こそ小さいものの、防御施設の整った堅固な城郭であった。 1591年、壬辰倭乱前年に辛恪が趙憲の建議を受けて城郭を拡張した[6][8] 。