渡辺正

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愛称 闘将
カタカナ ワタナベ マサシ
ラテン文字 WATANABE Masashi
国籍 日本の旗 日本
渡辺 正
名前
愛称 闘将
カタカナ ワタナベ マサシ
ラテン文字 WATANABE Masashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1936-01-11) 1936年1月11日
大日本帝国の旗 大日本帝国広島県広島市
没年月日 (1995-12-07) 1995年12月7日(59歳没)[1]
日本の旗 日本千葉県千葉市
身長 170cm
体重 65kg
選手情報
ポジション FW
ユース
1951 日本の旗 崇徳高校
1951-1953 日本の旗 基町高校
1958-1961 日本の旗 立教大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1954-1958 日本の旗 八幡製鉄
1962-1971 日本の旗 新日鐵 79 (19)
通算 79 (19)
代表歴
1957-1970[2] 日本の旗 日本 39 (12)
監督歴
1968 日本の旗 八幡製鐵 (Assistant)
1969-1976 日本の旗 八幡製鐵 / 新日鐵
1971  日本B
1973  日本 ユース
1979 日本の旗 日本 (Assistant)
1980 日本の旗 日本
1984-1986 日本の旗 立教大学
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

渡辺 正(わたなべ まさし、1936年1月11日 - 1995年12月7日)は、広島県広島市大手町(現・中区)出身の元サッカー選手FW)・コーチ・監督サッカー日本代表選手として出場したメキシコオリンピックでは、この大会から初めて怪我などの理由を伴わない選手交代が認められたため、スーパーサブ役を担い、銅メダル獲得に貢献[3][4]

実家は爆心地にあった日蓮宗本経寺で、原爆に残った父を失うが、自身は集団疎開で難を逃れた。終戦後は原爆で焼け野原になった町で、壊れた墓石運びの手伝いをさせられ、これが足腰の鍛錬になった。広島市立千田小学校広島市立国泰寺中学校を経て、崇徳高校へ進学したが、同校にサッカー部が無かったため、1年の2学期に編入試験を受けて基町高校へ転入学。高校卒業後の1954年に同郷の名将・寺西忠成監督率いる八幡製鉄へ入部し、当時は広島出身者が多数を占め、荒っぽい広島弁が飛び交う「野武士軍団」であった八幡の中でも渡辺の個性は出色で、チーム一の酒豪で毎晩のようにネオン街へ繰り出し、泥靴で寝床に入ることもしばしばあった[3][5]。八幡は渡辺が入社した年から勝星を伸ばし、全日本の大会で次々と好成績を収めたが、負けず嫌いな性格から八幡製鉄を一度退社。1958年立教大学へ入学し、2年次の1959年関東大学リーグと東西学生王座決定戦で優勝を経験。3年次の1960年ローマオリンピック予選から代表に選ばれるが、この頃に横山謙三が渡辺と一緒にサッカーをやってみたいと立教に進学した[6]

大学卒業後の1962年に八幡製鉄へ復帰[3]し、1960年代前後の黄金期の原動力として活躍と気性の激しい熱血漢振りから「闘将」と呼ばれた[3]1963年1964年には全日本実業団選手権日立本社を破って2連覇、1964年には天皇杯古河電工との両チーム優勝に貢献[7]1965年1967年には主将を務め、1968年には年間優秀11人賞を受賞[7]。代表としては東京オリンピック(1964年)、メキシコシティオリンピック(1968年)と2大会連続で五輪に出場。メキシコ五輪から、怪我などの理由を伴わない交代が1試合2名まで初めて認められたため[4]、日本はこの新ルールを積極的に使い、FW (ウイング)の渡辺を現在でいうスーパーサブにして成功した[4]。メキシコでは、松本育夫と右ウイングの位置を分け合い、右サイドを高速で駆け上がりゴールを奪った。この大会6試合、日本の9得点のうち7得点が釜本で、あとの2得点は渡辺が挙げたものである[3]。特に1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、1点リードされ敗色濃厚の後半終了間近に投入されると、杉山隆一の左からのクロスを釜本邦茂が相手選手3人に競り勝って頭で折り返し、ゴール前に詰めた渡辺がダイレクトボレーで決めた。この同点弾がなければ、銅メダルもなかった[3]異常な才能、或いはカンで、はるかに前からボールの落ち所を正確に予想し、渡辺に魅せられているかのように目の前にボールが落ちてきたという[要出典]。代表時代は「そうじゃけんのう」という広島弁をやたら使うので、デットマール・クラマーが覚え、ミーティングの時に選手が緊張すると、クラマーはしばしばこの言葉を使いみんなを笑わせた。松本が静岡県で発生した「つま恋ガス爆発事故」で瀕死の重傷を負い長期入院を強いられたときには、仕事の帰りに毎日見舞いに行き松本を励ました。通算39試合出場、Aマッチ通算12得点は歴代13位の記録。晩年はプレーの切れ味こそ衰えたものの、ゴールへの執念はなお健在で、ゴール前のスペシャリストと呼ばれた。八幡では1968年にはコーチ兼任、1969年からはプレイングマネージャーとなり、1971年に現役を引退。JSL通算79試合出場、19得点[7]

引退後も1972年から1975年まで監督を続け[8]、在任中は1971年の天皇杯、1973年のスペシャル・カップで共にベスト4に導く。1976年には1年だけ総監督を務め、1977年4月からは部を離れて新日鐵東京本社に転勤となり、工作事業部・営業総括課に勤務[9]。1971年からは日本B代表、日本ユース代表(1973年)、日本ジュニア代表、日本選抜、日本代表(1979年コーチ, 1980年監督)の監督・コーチを歴任。

ユース監督時代はコーチには水口洋次が留任したほか、アジアユース大会には、ドクター、トレーナーも帯同するというサポート面も向上した [10]。初戦は開会式直後に開催国イランと対戦するが、イランは代表選手3人を含む大人のチームで、後に1978年のワールドカップなどでも活躍するハサン・ロウシャンなどの個人技に苦しみ0-2の敗戦[11]。続くマレーシア戦は日本の方が実力的に上に見られたが、28分(40分ハーフ)に不運なPKを献上して15分には見事な展開から大畑行男(ヤンマー)が決めて追い付くが、相手のラフプレーに苦しみ55分に再度リードを奪われた[11]。1-2のまま時間が過ぎ、残り15秒というところで日本は粘りを見せた。左サイドを上がった石井茂巳(中央大学)がつないで、堀井美晴(ヤンマー)が折り返すと碓井博行がヘッドで決め劇的な同点ゴール。この引き分けが物を言い、グループ最終戦ではイランがマレーシアを3点差で下して日本の決勝トーナメント進出が決まった[11]。準々決勝のタイ戦では一進一退で共に無得点で、延長でも決着が付かずPK戦となるが、GKの峠和盛(大阪商業大学)が相手の3人目、4人目のキックを見事にセーブ。日本は5人が全て決めて、準決勝へ進んだ[11]12回大会13回大会と連続で鬼門の準決勝は新興のサウジアラビア戦で、日本は開始1分に石井のクロスから中井浩史(慶應義塾大学)が先制して波に乗る。8分にも石井の攻撃参加から最後は大畑が決めてリードを広げた。その後は相手に押し込まれる時間帯もあったが、後半24分に堀井が駄目押しの3点目を決めて突き放した[11]。15回大会にして初めて進んだ決勝は初戦でも対戦したイラン戦[11]で、9万人の大観衆が後押し[11]する地元の利が無くても実力は大会ナンバーワンで、立ち上がりから押し込まれる[12]。27分にはCKからヘッドで失点し、後半にもやはり高さを生かされてヘディングを決められ0-2でタイムアップとなり、準優勝に終わる[12]。大会後の報告では「日本もチームとしての構成力や激しさでは引けを取らなかったが、やはり一人ひとりの巧さやプレーの速さで見劣りした。ボール扱いという点では、まだアジアの平均的レベルより下であろう」と記され、技術面でまだまだ向上しなければならない[12]という課題は残った。

在任中は木村和司風間八宏田嶋幸三西村昭宏など若き才能を多く抜擢。特に木村は非常にコントロールの難しい選手で練習嫌い、わがままという評判があったほか、渡辺と同郷でもあったため大学卒業後は新日鐵入りが確実とされ、他はどこも手を出さなかった。しかし諸般の事情により日産自動車に入部した[13]ため、このことはその後の日本リーグの勢力地図を大きく変えたといわれている。コーチ時代はムルデカ大会前の代表合宿で、夜荒れて「お前ら若いのに」と絡むので言い返して喧嘩になったが、奥寺康彦は選手になにクソと思わせるための接し方だったのだろうと述べている[14]。代表監督は就任5ヶ月での治療中[15]クモ膜下出血で倒れ左半身不随となったため、急遽、川淵三郎が後任となった。代表監督が任期中に倒れたのは渡辺とイビチャ・オシムだけであるが、懸命なリハビリの末、半年後には新日鐵東京本社で業務に復帰するまで回復した。母校・立大の監督(1984年 - 1986年)を経て、1987年からは日本サッカー協会へ出向した。

1995年12月7日千葉市心不全により死去した[1]2006年日本サッカー殿堂入り[8]

所属クラブ

  • 1953年 - 1958年:八幡製鉄
  • 1958年 - 1962年:立教大学
  • 1962年 - 1971年:八幡製鉄/新日本製鐵 通算79試合出場 19得点

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦-天皇杯期間通算
1965八幡JSL-
1966-
1967--
1968-
1969-
1970新日鐵--
1971-
通算日本JSL 7919-
総通算 7919-

代表歴

  • 日本代表初出場(国際Aマッチ):1958年12月25日 対香港戦(香港)
  • 日本代表初出場:1957年10月20日 対人民解放軍八一隊(中国)戦(北京)
  • 日本代表初得点:1958年12月28日 対マラヤ戦(クアラルンプール)

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 39試合 12得点(1958-1969)[2]
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1957003030
1958212142
19598473157
196010121131
19616141102
1962304272
19635382135
1964107080
196530105135
1966216283
1967315182
196820152172
19693191122
1970002020
通算 3912932113233

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1958年12月25日香港の旗香港 香港●2-5竹腰重丸国際親善試合
2.1958年12月28日マレーシアの旗クアラルンプール マラヤ●2-6国際親善試合
3.1959年01月04日マレーシアの旗ペナン マラヤ○3-1国際親善試合
4.1959年01月10日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○4-3国際親善試合
5.1959年01月11日シンガポールの旗シンガポール シンガポール●2-3国際親善試合
6.1959年08月31日マレーシアの旗クアラルンプール 香港△1-1(延長)ムルデカ大会
7.1959年09月02日マレーシアの旗クアラルンプール 香港●2-4ムルデカ大会
8.1959年09月06日マレーシアの旗クアラルンプール 韓国●1-3ムルデカ大会
9.1959年12月13日日本の旗東京都後楽園競輪場 韓国●0-2オリンピック予選
10.1959年12月20日日本の旗東京都後楽園競輪場 韓国○1-0オリンピック予選
11.1960年11月06日大韓民国の旗ソウル 韓国●1-2デットマール・クラマー(コーチ)ワールドカップ予選
12.1961年05月28日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 マラヤ○3-2高橋英辰国際親善試合
13.1961年08月02日マレーシアの旗クアラルンプール マラヤ●2-3ムルデカ大会
14.1961年08月06日マレーシアの旗クアラルンプール インド○3-1ムルデカ大会
15.1961年08月10日マレーシアの旗クアラルンプール 南ベトナム●2-3ムルデカ大会
16.1961年08月15日シンガポールの旗シンガポール インドネシア●0-2国際親善試合
17.1961年11月28日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ユーゴスラビア●0-1国際親善試合
18.1962年08月30日インドネシアの旗インドネシア 韓国●0-1アジア大会
19.1962年09月15日マレーシアの旗クアラルンプール ビルマ●1-3ムルデカ大会
20.1962年09月21日シンガポールの旗シンガポール シンガポール●1-2国際親善試合
21.1963年08月08日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア○4-3長沼健ムルデカ大会
22.1963年08月10日マレーシアの旗クアラルンプール タイ○4-1ムルデカ大会
23.1963年08月12日マレーシアの旗クアラルンプール 南ベトナム○5-1ムルデカ大会
24.1963年08月13日マレーシアの旗クアラルンプール 韓国△1-1ムルデカ大会
25.1963年08月15日マレーシアの旗クアラルンプール チャイニーズタイペイ●0-2ムルデカ大会
26.1964年03月03日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○2-1国際親善試合
27.1965年03月14日香港の旗香港 香港○2-1国際親善試合
28.1965年03月25日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○4-1国際親善試合
29.1965年03月27日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア△1-1国際親善試合
30.1966年12月16日タイ王国の旗バンコク シンガポール○5-1アジア大会
31.1966年12月18日タイ王国の旗バンコク イラン●0-1アジア大会
32.1967年09月27日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フィリピン○15-0オリンピック予選
33.1967年09月30日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 チャイニーズタイペイ○4-0オリンピック予選
34.1967年10月10日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 南ベトナム○1-0オリンピック予選
35.1968年03月31日オーストラリアの旗メルボルン オーストラリア●1-3国際親善試合
36.1968年04月04日オーストラリアの旗アデレード オーストラリア○3-1国際親善試合
37.1969年10月10日大韓民国の旗ソウル オーストラリア●1-3ワールドカップ予選
38.1969年10月16日大韓民国の旗ソウル オーストラリア△1-1ワールドカップ予選
39.1969年10月18日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-2ワールドカップ予選

得点数

#年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
11958年12月28日マラヤ連邦クアラルンプールマレーシアの旗 マラヤ連邦2-6敗戦親善試合
21959年1月4日マラヤ連邦、ペナン3-1勝利親善試合
31959年1月10日シンガポールシンガポールの旗 シンガポール4-3勝利親善試合
41959年1月11日2-3敗戦親善試合
51959年8月31日マラヤ連邦、クアラルンプール香港の旗 香港1-1引分ムルデカ大会
61961年8月6日インドの旗 インド3-1勝利
71963年8月8日マレーシア、クアラルンプールマレーシアの旗 マレーシア4-3勝利
81963年8月10日タイ王国の旗 タイ4-1勝利
91963年8月12日ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国5-1勝利
101966年12月16日タイ、バンコクシンガポールの旗 シンガポール5-1勝利1966年アジア競技大会
111967年9月27日日本、東京フィリピンの旗 フィリピン15-0勝利メキシコ五輪予選
121969年10月10日大韓民国、ソウルオーストラリアの旗 オーストラリア1-3敗戦1970 FIFAワールドカップ予選

指導歴

  • 1969年 - 1975年:八幡製鉄/新日本製鐵 監督
  • 1977年 - 1979年:日本代表 コーチ
  • 1980年:日本代表 監督
  • 1984年 - 1986年:立教大学 監督

監督成績

年度所属クラブリーグ戦カップ戦
順位試合勝点勝利引分敗戦JSL杯天皇杯
1969JSL八幡3位1415554-ベスト8
1970新日鐵6位1413536-資格なし
19713位1418824-ベスト4
1972JSL1部6位1412446-ベスト8
19736位1816729ベスト4ベスト8
19745位1819837-3回戦
19754位1821936-ベスト8

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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