準名人
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江戸時代に本因坊道策により段級位制が定められ、名人が九段、上手(御城碁の出場資格者)が七段とされ、名人上手間の手合いであった準名人は八段とされた。
囲碁の準名人の中には名人に劣らぬと評価された者が少なくない。名人にならなかった本因坊元丈、安井知得仙知、井上幻庵因碩、本因坊秀和の4棋士は「囲碁四哲」とよばれた。嘉永の頃、安井算知(俊哲)の家に太田雄蔵、伊藤松和、阪口仙得などの棋士が集まり、囲碁四哲の芸の話になって、本因坊秀和を筆頭とし、幻庵因碩を最下位にすることで意見が一致したと伝えられている[3]。また、この算知、雄蔵、松和、仙得の4名の強豪をさして「囲碁四傑」「天保四傑」と呼ぶことがある。
元丈と知得は互角に戦ったライバル同士で、名人は「斯道の最長者が其の威望と古今に絶したる神技を以てする」、すなわち、最強の棋聖の地位という信念から名人を望まなかったと伝えられる[4]。
幻庵因碩は本因坊丈和との名人碁所の地位獲得の争いに敗れ、名人になれなかった[5]。秀和は寺社奉行に碁所願いを出したが、井上家の反発があり、却下されてしまった。その後は幕末の混乱に巻き込まれ、名人碁所の許可を得る機会は失われてしまった[6]。
本因坊秀甫は1881年(明治14年)に準名人に昇り、1884年 - 1885年(明治17、18年ごろ)に名人に推されたが、きっぱり拒絶した[7]。
