玄沙師備
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福州閩県の謝家に三男として生まれ、30歳まで漁師をしていたが(異説あり)、突然出家を思い立ち、芙蓉霊訓の所で出家したとされている。しかし、芙蓉霊訓の没年は851年であるため整合がつかず、真相は不明である。
その時に福建地方に戻っていた兄弟子に当たる雪峰義存と意気投合して、共に福州閩県の雪峰山に登って寺院を開創した。
雪峰義存門下においては堅固な求道者ぶりから「備頭陀」と称されるほどで、一番弟子として布教を行い、閩の王審知の帰依を受け、師の雪峰義存と共に政庁で供養を受け、紫衣と宗一大師の号を賜った。
のちに独立して玄沙院で布教活動を続け、雪峰義存の禅風を発展させて「十方世界は一顆の明珠」という独自の思想を開発し、やがてそれは羅漢桂琛・法眼文益と受け継がれ、五家七宗の一つである法眼宗へと発展していった。