竹島
日本海にある島
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概要
男島(西島)、女島(東島)と周辺の岩礁群からなる総面積約0.20 km2の島である。日本は、江戸時代の鬱陵島への渡海免許や漁業活動をもって17世紀半ばに領有権を確立し、1905年に「無主地」として島根県に編入したことにより、国際法上も領有権が明確化されたと主張している。一方、韓国は、『三国史記』(1145年)や『世宗実録地理志』(1454年)などの文献に登場する「于山島」が現在の竹島(独島)であるとし、古来より韓国(朝鮮)固有の領土であったと主張している。そのため、1905年の島根県編入は「無主地」への編入ではなく、日本による領土の不法な併合であったと見なしている。第二次世界大戦後の1952年、韓国は「李承晩ライン」を設定して竹島(独島)をその内側に含め、警備隊を常駐させるなど実効支配を開始した[4]。
名称
日本での名称
日本においては竹島と呼ばれている。また、幕末以前は「松島」と呼ばれ、鬱陵島が「竹島」[5]と呼ばれていた。少なくとも1876年には隠岐国の島嶼の一つとして「竹島(現在の鬱陵島)」「松島(現在の竹島)」の記載を見ることができる[6][7]。
幕末から明治中期にかけて西洋の地図の流入による島名の混乱[8][9][10]があったが、1905年(明治38年)現在の竹島を正式に島根県へ編入した時から「竹島」と呼んでいる。
韓国・北朝鮮での名称
韓国・北朝鮮においては「独島(獨島、トクト[注 1]、독도、Dokdo)」と呼んでいる。韓国では、歴史書『太宗実録』太宗17年(1417年)の条に初出する「于山島」が現在の竹島であるとしており、一時1900年の大韓帝国「勅令第四十一号」にある「石島」という呼称に変わり、1906年までに「独島」という名称に変更したとしている。なお「独島」表記の初出は、日本海軍 防護巡洋艦 新高の1904年9月の日誌にある「韓人これを獨島と書し」という記録があり、この時鬱陵島の朝鮮人が独島と呼んでいたということがわかる[11]。
その他
他の国では、中立的立場から「リアンクール岩礁(Liancourt Rocks)」などと呼ばれている。この名称は、1849年にヨーロッパで初めてこの島を発見したフランスの捕鯨船 Liancourt 号の船名にちなんでいる。 なお、ニホンアシカのリャンコ大王の命名の経緯から分かるように、日本に於いてもリァンクール島、或いは略称であるりゃんこ島と呼称していた事実がある。
地理・自然
竹島は、北緯37度14分30秒、東経131度52分に位置する[注 2][12]。
女島(東島)、男島(西島)と呼ばれる2つの小島とその周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約0.21平方キロメートル(東京ドーム約5個分)である。最頂部は男島が海抜168メートル(北緯37度14分30.5秒 東経131度51分54.6秒)、女島が海抜98メートル(北緯37度14分26.8秒 東経131度52分10.5秒)。周囲は断崖絶壁で、飲料水に乏しく、人の住みにくい環境である。
なお、日本の国土地理院が2007年12月に発行した竹島の2万5千分の1の地形図では二つの島について「東島」と「西島」と表記しているが[13]、隠岐の島町では資料の調査や聞き取り調査を行い、2つの島について「女島(めじま)(東島(ひがしじま))」と「男島(おじま)(西島(にしじま))」とするとともに岩礁や湾などの名称を定めて2013年6月に国土地理院に申請した[13][14]。
隠岐と竹島の距離は両島の一番近い所で約157キロメートル、鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近い所で約87キロメートルである[注 3]。
地史・地質

竹島は、現代からおよそ460万年前から250万年前(新生代新第三紀の鮮新世)の海底火山活動により誕生した火山島であり[15]、水深約2,000mの海底から噴出した溶岩が硬化したことにより形成された[16]。朝鮮半島北部の白頭山から金剛山、鬱陵島、隠岐諸島へと連なる白頭火山帯の系列に属する[17]。竹島の火山活動は約250万年前に停止した[18]。当初は1つの島塊であったが、その後の風化と浸食により2つの小島とその周辺の数十の小岩礁の構成となった[19]。
岩石と地質構造の分析結果によると、竹島は単一の火山爆発によって形成されたものではなく、200万年以上の長い期間の断続的爆発と噴火によって形成された[20]。竹島は粗面岩、粗面安山岩、玄武岩質角礫岩、凝灰岩など計8種類の岩石によって構成されている[20]。竹島の下部は主に玄武岩質の集塊岩であり、上部は粗面岩質の集塊岩と凝灰岩が互層を形成している[20]。岩石の年代は、竹島下部を構成する玄武岩が約460万年前、女島にある火口跡を満たす粗面安山岩が約270万年前であり、島の北西部には約250万年前に貫入した粗面岩が分布している[20]。また火山堆積層が厚く積もった地点があり、断層が2箇所発見されている[20]。
竹島と鬱陵島の間の海底は、深く沈降する凹地(対馬海盆)となっている。
気候
暖流の影響を多く受ける典型的な海洋性気候[21]。平均降水量は年間1,240 mm程度であり、冬場の降水量が多い[21]。年平均気温は約12°C[21]。1月の平均気温は1°C、8月の平均気温は23°Cであり、世界平均と比較して温暖である[21]。年平均風速は4.3m/s[21]。冬と春は北西風、夏と秋は南西風の傾向があり、季節に応じた風向きがはっきりしている[21]。霧が多く、晴れの日は年45日程度、曇りの日は年160日程度、雨や雪の日は年150日程度である[22][23]。
| 鬱陵島と竹島(2003年〜2007年平均、鬱陵島気象台観測)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C (°F) | 4.88 (40.78) |
6.12 (43.02) |
9.06 (48.31) |
14.70 (58.46) |
18.62 (65.52) |
23.00 (73.4) |
24.52 (76.14) |
27.14 (80.85) |
22.84 (73.11) |
19.12 (66.42) |
14.16 (57.49) |
7.44 (45.39) |
15.967 (60.741) |
| 日平均気温 °C (°F) | 1.82 (35.28) |
2.94 (37.29) |
5.20 (41.36) |
10.62 (51.12) |
14.88 (58.78) |
19.36 (66.85) |
21.60 (70.88) |
23.88 (74.98) |
19.82 (67.68) |
15.66 (60.19) |
10.82 (51.48) |
4.52 (40.14) |
12.593 (54.669) |
| 平均最低気温 °C (°F) | −0.40 (31.28) |
0.44 (32.79) |
2.30 (36.14) |
7.30 (45.14) |
11.68 (53.02) |
16.64 (61.95) |
19.44 (66.99) |
21.58 (70.84) |
17.62 (63.72) |
13.24 (55.83) |
8.38 (47.08) |
2.26 (36.07) |
10.04 (50.071) |
| 降水量 mm (inch) | 94.72 (3.7291) |
66.00 (2.5984) |
86.30 (3.3976) |
136.54 (5.3756) |
181.88 (7.1606) |
148.82 (5.8591) |
259.06 (10.1992) |
200.14 (7.8795) |
277.82 (10.9378) |
100.06 (3.9394) |
124.44 (4.8992) |
155.34 (6.1157) |
1,831.12 (72.0912) |
| 出典:大韓民国気象庁、2003年〜2007年 | |||||||||||||
生態系
陸地は、わずかに草が生えるだけの岩石島であり、樹木の生育は少ない[24]。ただ、独島のマサキなどわずかに樹木の生育も確認できる。
竹島周辺の海域は対馬暖流と北からのリマン海流の接点であり、付近の海域はアジ・サバ・ワカメなど魚介類・藻類が豊富な好漁場である[24]。哺乳類ではシャチなどの鯨類も近海を通過している[25]。
竹島は、伊豆諸島と並んでニホンアシカ (Zalophus californianus japonicus) の主要な繁殖地の一つであった。竹島では海蝕洞に生息していたが、明治・大正年間に大量捕獲が行われ[26]、戦後の1950年代には50〜60頭と少数の目撃例があり、韓国が竹島を実効支配して警備隊が常駐するようになり、1975年の目撃を最後に確証のある目撃例がなく、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは「絶滅」と記載されている[27]。
ニホンアシカの絶滅原因

研究によれば、竹島周辺に生息していたニホンアシカの絶滅は人為的な乱獲によるものとされており、海洋水産部および釜山大学の研究チームは個体数シミュレーションモデルを用いて、1904年に日本による捕獲が本格化した後に個体数が急減し、約8年で初期約3万頭から8,500頭程度に減少し、その後も捕獲が継続された結果、1930年には約790頭、1940年には約227頭まで減少したと推定している。またこの研究は、長期的な乱獲が個体数減少の主因であると結論づけている[29]。
韓国によって竹島が要塞化されたことなども絶滅要因の一つとして指摘されている[30]。具体的には、1970年代の韓国紙は竹島駐在の「警備隊員たちの銃撃で絶種」と報道しており、世界自然保護基金(WWF)の1977年度報告書では韓国人研究者さえ「最上の保護策は警備隊の島からの撤収だ」と主張しているという[27]。
歴史
古代 - 中世
512年6月、新羅の将軍であった異斯夫が于山国を征服し、新羅に編入したとされる[31]。ここでいう于山国は、鬱陵島と竹島をあわせた領土を有する国家であったとされる[32]。
1434年、全羅道宣慰別監の卞孝文は、三峰島で日本人を捕らえた件について復命し、日本人たちは武器をほとんど所持せず漁具のみを携えていたため海賊船ではないとみられると報告した。しかし、三峰島は本来漁労活動を行う場所ではないとして取締り自体は妥当であるとしつつ、日本人10人のうち4人を殺害したのみで生け捕りにできなかった点や、軍兵12人が行方不明となった点を問題視し、褒賞を与えず再調査すべきだと建議した。その後、議政府と六曹も倭船を無理に追撃して被害を拡大させたと判断し、関係者の処罰と褒賞中止を建議し、世宗はこれを受け入れた[33]。ここでいう三峰島とは、南島・女島および観音島を指す当時の竹島の名称である[34]。
1470年、朝鮮の成宗は永安道観察使李継孫に対し、三峰島へ逃亡した者たちについて調査して報告するよう命じた。朝廷は彼らを租税を逃れ国家に背いた者とみなし、冬季は海路が険しく小舟では容易に渡航できないため、状況を見極めて対処するよう指示した[35]。
近世
1618年、鳥取藩伯耆国米子の住民である大谷甚吉と村川市兵衛は、鳥取藩主を通じて江戸幕府から鬱陵島(当時の日本名「竹島」)への渡航許可を取得した。その後、両家は交替で年1回鬱陵島へ渡航し、アワビ採取やアシカの捕獲、伐木などに従事した[36]。

1665年以降には、江戸幕府の許可を受けた上で、アワビなどを対象とした漁業活動も行われていた[37]。
1695年12月24日、江戸幕府は竹島(現在の鬱陵島)および松島(現在の竹島)の帰属を確認するため、鳥取藩に7か条の照会を行った。これに対し、鳥取藩は翌12月25日に回答書「竹嶋之書附」を提出し、竹島および松島はいずれも因幡国・伯耆国には属さないことを報告した。また、竹島(鬱陵島)は無人島であり、大谷九右衛門と村川市兵衛が幕府の許可を受けて渡海し、鮑などの漁を行っていたことも報告した[38]。
- 竹島一件
- 1696年、安龍福は柳一夫・柳奉石らの漁民や僧侶たちとともに鬱陵島へ渡り、その後日本の伯耆州まで赴いて日本人と鬱陵島の帰属問題をめぐって争った後、朝鮮へ帰国した。この事実は江原監司・沈枰の報告を通じて朝廷に知らされ、備辺司で議論された[39]。
- 安龍福は蔚山から僧侶の朴栄らとともに鬱陵島へ渡航し、そこで日本の漁船が漁を行っているのを見てこれを叱責し退去させたと述べた。その後、漂流して日本の隠岐に至り、さらに伯耆へ移動して自らを鬱陵島・松島の監税将と称し、日本側と交渉したと供述した。彼は日本側に鬱陵島と松島が朝鮮領であることを主張し、侵入した日本人の処罰を求めたとし、日本側も両島を朝鮮所属と認めるような発言をしたと報告した。備辺司はこの供述の真偽をさらに検討し、後に国王へ報告することとした[40]。
- 対馬藩から交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、「鬱陵島には日本人が定住しているわけではなく、また鬱陵島は朝鮮から近く伯耆から遠い。無用の小島をめぐって隣国との友好を損なうのは得策ではない」として、朝鮮との友好関係を重視し、日本人の鬱陵島渡航を禁止する決定を下した。幕府はこの方針を鳥取藩に指示するとともに、対馬藩を通じて朝鮮側にも伝達させた[41]。
- 1696年の安龍福事件後、対馬藩側は朝鮮が回答書契で「鬱陵島」の名称を使用したことに反発して削除を要求したが、朝鮮朝廷は「竹島は鬱陵島であり朝鮮領である」との立場を維持した。粛宗は日本人による鬱陵島占拠の意図を警戒し、張漢相を派遣して実態調査を行わせた。その後、朝鮮は鬱陵島が江原道蔚珍県に属し、竹島はその別称であると日本側へ通達したが、日本側の表現修正要求は受け入れなかった。以後、朝鮮は住民移住や鎮設置ではなく定期的な捜討を実施する方針を採用し、鬱陵島に対する領有認識と管理政策を維持した[42]。
1729年、江原道観察使の趙最壽は、凶作による住民負担を理由として鬱陵島の捜討の中止を建議した。しかし朝鮮朝廷は、過去に日本側から鬱陵島に関する要求があった後、張漢相を派遣して鬱陵島および于山島の地形や実態を調査した結果、両島が広く人が居住した痕跡も確認されたことを挙げ、その後は領有管理の一環として3年ごとに定期的な捜討を実施してきたと説明した。これに対し英祖は、「その地を放棄しない以上、どうして視察を怠ることができようか」と述べ、捜討の継続を命じた[43]。
近代
- 大韓帝国の勅令第41号の公布
- 19世紀末、日本人による鬱陵島での違法伐採や無断居住の問題が発生すると、大韓帝国は日本政府に対して彼らの撤収を要求する一方、鬱陵島に対する行政支配の強化を進めた。これを受けて1900年10月、大韓帝国政府は鬱陵島を「鬱島(울도)」へ改称し、島監を郡守へ昇格させる内容を議政府会議で議決し、高宗の裁可を経て同年10月27日に「勅令第41号」として公布した。勅令第41号第2条では、鬱島郡の管轄区域を「鬱陵全島と竹島・石島」と規定している[44]。韓国側は、この「石島」を現在の独島(竹島)を指すものと解釈しており、「石島」を朝鮮語で訓読した「トルソム(돌섬)」が方言上「トクソム(독섬)」とも呼ばれた点などをその根拠として挙げている[45]。
1903年、隠岐島西郷町出身の中井養三郎が竹島に漁舎を建てて移住し、人夫を移してアシカやアワビ、ナマコ、ワカメの漁獲を始めた。[46]。
- 日本による領土編入

- 1904年9月29日、アシカの絶滅を危惧した中井は申請書「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を日本政府に提出し、日本海の孤島・竹島の領土編入と貸下げを内務省、外務省、農商務省の3省に対し、願い出た[37][46]。
- 中井養三郎は、島を調査し、その特徴を説明し、また、自身の調査によれば誰にも所有されたことがなく、それゆえ今後はおおいに活用していきたい旨を申請書に記している[46]。告示は、一次一級史料としては「北緯37度9分30秒、東経131度55分にある無人島」と経緯度による位置と現況が明示されたものであった[46]。
- 当時の島根県知事松永武吉は、これを受けて同年2月22日「島根県庶十一号」を発し、県に編入した[47]。以降、竹島での漁猟は島根県の許可制となった[37]。なお、島根県制定の「竹島の日」はこの「島根県庶十一号」を発した日にちなんでいる[46]。
日本による編入の直後、これを知った鬱陵郡守の沈興沢は、竹島が本郡の管轄下にあることを明確にし、その旨を内部に報告した。報告を受けた大韓帝国内部は、「独島を日本の属地とすることは理に合わない」としてこれを明確に否定した[49]。
1905年には島根県知事による視察、1906年3月の県部長らの調査、1905年5月の官有地としての土地台帳への記載がなされ、1905年4月の県令によるアシカ漁の許可制、同年6月5日の中井ら4人に対する免許、さらに免許者からの土地使用料国庫納入がなされた[48]。
同年から、日本の竹島漁猟会社は8年間にわたり、竹島で雌雄や年齢を問わず約1万4,000頭のニホンアシカを集中的に捕獲したとされる[50]。ニホンアシカは動物園やサーカス団などに高値で売れた[51]。また、ニホンアシカの皮で作られた鞄はパリ万国博覧会で金賞を受賞するほど人気を集め、ニホンアシカから採取した油も広く利用されたとされる[52]。
同年、日本海海戦に際してコンクリート製の監視所がつくられたといわれている[51]。
1920年3月1日、三・一運動1周年にあたり、大韓民国臨時政府の国務総理であった李東寧は、1905年の日本による竹島編入を不法なものとして非難した[53]。
竹島での日本人の経済的な営みを記した記録に、『竹島日誌』がある[51]。これは、隠岐郡五箇村の収入役であった八幡才太郎が60余年、ほぼ毎日書き綴った記録である[51]。この記録によれば、才太郎の弟の伊三郎はアワビの密集する瀬やワカメの生息地などを熟知しており、詳細な手書き地図を残している[51]。竹島のアワビについては、以下のような記録がある[51]。
竹島のアワビは、古来から最高級と賞賛され、都への献上品として使われた隠岐産のものよりもっと肉が厚かった。収穫量は多い日で200貫(750kg)にもなった。畳一畳分の岩にアワビが重なり、更に重なり合う状態で、採っているうちに、小舟が沈みそうになり、終いには着ている服を脱ぎ捨て海に飛び込み、泳いで船を引っ張った。

漁業者としては、日本人だけでなく鬱陵島から出稼ぎにきた朝鮮人(当時朝鮮半島は日本統治下であった)の海女のすがたもあった[51]。1935年の記録には給与150円とあり、男たちへの報酬が100円であったことを考慮すれば、かなりの高給であり、彼女たちの技量は高く評価されていたことがうかがえる[51]。
1941年、竹島は帝国海軍の軍用地となり、管轄が島根県から舞鶴鎮守府に引き継がれたため、竹島のアシカ漁・アワビ漁は停止を余儀なくされた[51]。戦後は漁の再開を望む声が高まり、1951年、橋岡忠重は「竹島漁労権報告書」および「嘆願書」を島根県に提出した。1954年6月には島根県監視船「しまかぜ」が竹島視察をおこなった[51]。
- 画像
- 朝鮮半島が日本の統治下であったときの竹島(1934年6月):竹島近景
- 竹島をルポ取材するために訪れた大阪朝日新聞の記者と竹島の漁民
- 岩礁の上に乗るニホンアシカ(1934年6月)
戦後

1945年の第二次世界大戦における日本の敗戦後、1946年1月29日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が発したSCAPIN第677号により、竹島は鬱陵島および済州島とともに日本政府の行政権行使の対象外とされた。さらに同年6月22日のSCAPIN第1033号では、日本の船舶および乗組員が竹島から12海里(13海里以内の接近)に立ち入ることが禁止された[54]。
戦後、鬱陵島の漁民は竹島周辺で漁業活動を行っていたが、1947年4月には、島根県境港に住む日本人が自らの漁区であると主張し、独島近海で操業していた鬱陵島の漁船に向けて機銃掃射を行ったとされる[54]。
この事件を受け、慶尚北道は同年6月19日に南朝鮮過渡政府へ状況を報告し、その後複数の新聞で取り上げられたことで全国的な関心を集めた。こうした中、同年8月16日から28日にかけて、南朝鮮過渡政府の独島調査団と朝鮮山岳会の鬱陵島学術調査隊が、竹島および鬱陵島に対する合同調査を実施した[54]。
- 竹島爆撃事件
- 1948年6月8日、アメリカ極東空軍第5空軍所属のB-29爆撃機が竹島周辺で訓練中に誤爆し、韓国側の資料によれば韓国漁船11隻が破壊され、漁民14人が死亡したとされる。一方、生存者の証言では、実際には80隻以上の漁船が被害を受け、150人以上の漁民が死傷したとも主張されている[55]。
- 米極東空軍(FEAF)が作成した「竹島爆撃事件報告書」は、竹島が韓国領であるにもかかわらず、その認識が一般に共有されず日本の島と理解されていたため、在韓米軍への事前通知が行われず、韓国漁民に多数の死傷者が生じたと記録している。また、竹島が韓国領である以上、爆撃訓練に先立ち韓国の関係当局へ通知すべきであったとしている[56][57][58]。
大韓民国政府樹立後の同年12月24日には、韓国文教部が公布した初級中学校用地理教材『わが国の地理』の「嶺南地方」の項目に「鬱陵島と独島」が掲載された[54]。
1950年6月8日竹島現地で慶尚北道知事が参席するなか、1948年に竹島爆撃事件で犠牲になった韓国漁民のための独島遭難漁民慰霊碑除幕式が挙行された[59]。
1952年1月、韓国の李承晩大統領は、いわゆる「李承晩ライン」と呼ばれる海洋警界線を一方的に設定し、その中に竹島を含める形で海域主権を宣言した[60]。
日本の海上保安庁は竹島に巡視船を派遣し、1953年5月から7月にかけて数回にわたり警告板を設置し、同年10月23日には「日本領土」とする標識を設置した[61]。
- 同組織は、1954年8月中旬頃まで竹島西島に単独で駐留し、その後、韓国政府が東島に警備施設および灯台を設置すると、警察部隊とともに同地域に駐留した。1954年8月には接近した日本巡視船との対峙が発生し、同年11月には竹島周辺で日本巡視船3隻および航空機との衝突が発生し、日本側16人が死亡、韓国側4人が死傷したとされる[61]。事件直後、NHKは「竹島において韓国側警備隊が日本海上保安庁の艦艇に対して発砲し、16人の死傷者が発生した」と報じた[62]。
独島義勇守備隊は1956年12月30日、警察に警備業務および装備を引き継ぎ活動を終了したが、隊員の一部は鬱陵警察署の警察官として採用され、その後も竹島警備に従事した[61]。
日韓国交正常化
1965年6月、大韓民国政府は日韓国交正常化と同時に、李承晩ラインで規定された漁業境界線に代わる日韓漁業協定を締結した。当時、大韓民国と日本の双方がこの島の領有権を主張していたため、この島に関する事項は協定に含まれなかった。交渉過程において、日本の伊関佑二郎当時国長が金鍾泌当時の大韓民国中央情報部長に対し、この島を爆破しようという提案をしたこともあるとされる[63]。
- 竹島密約
- 1965年1月11日、ソウル城北洞の朴健碩・汎洋商船会長宅において、丁一権韓国国務総理と宇野宗佑自民党議員が非公式に接触し、いわゆる「竹島密約(独島密約)」に合意したとされ、この過程で金鍾泌元総理の兄・金鍾洛が重要な役割を果たしたと伝えられる[64]。日韓両政府はこれを否定しているもののKBSの取材により日本外務省の内部資料の一部が確認されたとの報道もあり、この合意内容はその後の両国の対応と一定の類似性を示しているとの見方もある[65]。また金鍾洛が関連文書の写しをすべて焼却したとの証言もある[64]。この密約における両国の合意内容は以下の通りとされる。
- 竹島は今後、日韓双方が自国領土であると主張し、これに対する反論には異議を申し立てない。
- 将来、漁業区域を設定する場合、両国は竹島を自国領土として扱う線を画定し、両者の重複部分は共同水域とする。
- 現在の韓国による実効支配を維持する。ただし、警備の増強や新たな施設の建設・増築は行わない。
- 両国はこの合意を継続的に遵守する[64]。
- 民間人の居住開始
- 竹島に初めて住民登録を移して居住した人物は崔鍾徳であり、住所は慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里30番地(旧住所:道洞里67番地)であった。崔鍾徳は1965年3月、鬱陵島の住民として道洞漁村契の共同漁場における水産物採取のため竹島に渡り居住を始め、1968年5月には施設の建設に着手した。その後、1981年10月14日に竹島を住所地として住民登録を行い、1987年9月23日に死去するまで同島で生活した[66]。
- 1991年11月17日以降は、竹島の住民第3号とされる金成道・金申烈夫妻の1世帯2人が、鬱陵邑独島里20-2番地(旧住所:道洞里山63番地)の独島住民宿舎に居住し、漁業に従事した[66]。
21世紀
2000年代
2005年3月25日、島根県議会は、2月22日を「竹島の日」とする「竹島の日を定める条例」を制定した[67]。
同年には「竹島の日」の制定に反発した韓国政府は観光客の入島を解禁し、3月28日に一般観光客が初めて竹島に上陸した[68]。
2006年4月、日本側が科学的調査のため竹島周辺海域の調査を行うと通告したことを受け、韓国の盧武鉉大統領は「日本の調査船が独島に接近した場合には直ちに攻撃し撃退せよ」と、海洋警備当局に対して秘密指示を出したとされる。この事実は2011年に明らかになったとされている[69]。
2010年代
2010年3月30日、日本が小学校の社会科地図において竹島を自国領として表記する方針を示したことが報じられた[70]。
また、同年4月8日には、鳩山由紀夫首相が竹島の領有権に関して従来の日本政府の立場を維持する趣旨の発言を行い、これに対し韓国国会議長の金炯旿はこれを容認できないとして批判した[71]。
同年9月、李明博政権は、竹島の領有権に関する研究や活動に関与したとして、2007年に死去した白忠鉉教授および崔書麺客員教授に勲章を授与した[72]。

2012年8月10日、韓国の李明博大統領は、竹島を訪問・上陸した。これは、韓国の現職大統領としては初の上陸事例である[73]。日本政府はこの行動に反発し、玄葉光一郎外相は武藤正敏駐韓国大使を一時帰国させた[74]。
同年8月21日、日本政府は竹島をめぐる問題について、国際司法裁判所(ICJ)への共同付託を韓国政府に正式に提案したが[75]、韓国政府は30日にこれを拒否した[76]。
2013年10月25日、「独島の日」に合わせて韓国軍による竹島防衛訓練が実施され、海軍特殊戦旅団(UDT)が独島に上陸する訓練が行われた[77]。
2014年1月、日本の文部科学省は、中学校および高等学校の教科書作成指針において、尖閣諸島および竹島を「日本固有の領土」と明記したと発表した[78]。
同年11月、韓国政府は竹島に計画していた災害時などの避難施設の建設を中止し入札公告を取り消したが、報道では関係閣僚会議で尹炳世外相が「(安倍政権を)刺激しかねない。日本との外交摩擦を避けるべきだ」との意見を出し中止が決まったという[79]。韓国の尹炳世外相は、国会答弁で建設予定だった施設の入札を中止したことに関し、「独島は明白なわが国領土であり、日本がいかなる行動を取ろうと、われわれのやり方で領有権の行使を行えばよい」と述べ、外交的配慮によるものではないと強調している[80]。
2019年7月、ロシア航空宇宙軍所属のA-50早期警戒機が竹島周辺の領空に2度進入したとされる事案を受け、韓国国家安保室の鄭義溶室長は、ロシア連邦安全保障会議のパトルシェフ書記に対し、このような事態が繰り返される場合にはより強い措置を取る可能性がある旨を伝えたとされる[81]。
2020年代
2021年3月30日、日本の文部科学省は教科書検定調査審議会を開催し、2022年度から使用される高校1年向け社会科教科書の検定を承認した。対象となった地理総合6種、歴史総合12種、公民12種の計30種すべてにおいて竹島を日本領とする記述が含まれており、特に地理総合の一部では「日本固有の領土」や「韓国による(不法)占拠」といった表現も見られた。これに対し韓国外交部は声明を出し、竹島に関する一方的な主張が含まれた教科書の検定通過について遺憾を表明し、強く抗議した[82]。また同日、韓国外交部は相馬弘尚駐韓日本大使館総括公使を呼び、該当教科書の検定通過について正式に抗議を行った[83]。
同年6月、2020東京オリンピック組織委員会の公式サイトにおける竹島の表記をめぐり、韓国文化体育観光部は、大韓体育会とともに前月24日に日本オリンピック委員会(JOC)へ表記の是正を求める書簡を送付し、さらに6月1日にはIOCに対して積極的な仲裁を要請する書簡を提出すると発表した[84]。また外交部は同日午後、相馬弘尚・駐韓日本大使館総括公使を公開で呼び出し、日本の領有権主張に対して抗議するとともに、関連資料の即時修正を要求した[85]。さらに6月3日には、共に民主党や正義党などの国会議員132人が、東京五輪組織委員会の地図における日本領土表記への独島掲載を批判する声明を発表した[86]。
2025年7月、就任30日記者会見において、李在明大統領は日本の産経新聞記者の質問に答える形で竹島に言及した。大統領は、竹島をめぐっては様々な見解や主張があるものの「領土紛争」とは言えないとし、大韓民国が実効支配している明確な領土であるため紛争ではなく議論の余地がある問題であるとの認識を示した。また、一定の対立要素は存在するとしつつも、これらを混同する必要はないとの考えを述べた[87]。
同年11月、中国外交部は、日本政府が東京の「領土・主権展示館」を拡張して竹島領有権を主張したことに関連し、日本の一連の行動は近隣諸国の警戒と反発を招いていると批判した。また、日本に対し、侵略の歴史を真摯に反省し、平和の道を堅持するとともに、具体的な行動によってアジアの近隣諸国および国際社会の信頼を得るよう求めた[88]。
同年12月、髙市首相は衆議院予算委員会において、自民党の高見康裕議員から「韓国による不法占拠の状況は一切変わっていない」として毅然とした対応を求められたのに対し、「竹島は日本の領土」と述べ、従来の日本政府の立場を改めて表明した[89]。
同日、韓国大統領室は「独島は歴史的・地理的・国際法的に明白な韓国固有の領土である」とし、「独島に関する領有権紛争は存在しない」との立場を改めて示した[90]。
2026年2月、茂木敏充外務大臣は特別国会の外交演説において、島根県の竹島について「歴史的事実に照らしても、国際法上も日本固有の領土である」と述べ、「毅然と対応する」と発言した[91]。
同年3月、韓国政府は2030年までに4,339億ウォンを投入し、竹島の科学調査と研究協力の拡大、接近性の向上、安全管理の強化、環境・生態系の保全、教育・広報の活性化などを柱とする「第5次独島の持続可能な利用のための基本計画(2026〜2030年)」を確定した。計画には、AIやドローンを活用した観測体制の高度化、竹島専用管理船の整備、接岸施設や通行路の維持補修、森林・海中林の復元、専門人材の育成など67の事業が盛り込まれている[92]。
島内の現況

現在、韓国による支配が続いており、韓国政府は竹島を、海洋警察庁を傘下に持つ大韓民国海洋水産部の管理下に置き、軍に準ずる装備を持つ韓国国家警察慶北警察庁独島警備隊の武装警察官40人と、灯台管理のため海洋水産部職員3人を常駐させ、軍事要塞化を進めている。また韓国海軍や海洋警察庁が、その領海海域を常時武装監視し、日本側の接近を厳重に警戒している。そのため、日本の海上保安庁の船舶や漁船はこの島の領海内には入れない状態が続いており、日本政府の再三の抗議にもかかわらず、灯台、ヘリポート[93][94][95]、レーダー、船舶の接岸場、警備隊宿舎などを設置している。
2011年には韓国における道路名住所の導入に伴い、西島・東島に道路が1つずつ設定され、公募により西島側(10 m)に独島安龍福キル(독도안용복길)、東島側(345 m)に独島異斯夫ギル(독도이사부길)の名称が与えられた。
- すでに建設された主な施設
- 東島:警備隊宿舎、灯台、ヘリポート、気象観測台、船舶接岸施設、送受信塔、レーダー
- 西島:漁民宿舎
民間人の居住
西島の漁民宿舎には、1991年からキム・ソンド(朝: 김성도)、キム・シンヨル(朝: 김신열)夫婦が居住していた[96]。2005年4月には、韓国人の結婚式が竹島で初めて執り行われた他、独島防衛として992人の韓国人が竹島に戸籍を置いている。
観光
2013年9月時点では、1日平均805人もの人が入島している[97]。鬱陵島から定期運航している観光船があり2時間程度で行くことができる。鬱陵島との間に水陸両用機による航空路を開設する計画もある[98]。
高い波の影響により接岸できる確率は40%程度にとどまるとされ、韓国では竹島をきちんと見るためには三代にわたって徳を積む必要があるという冗談が語られることもある[99]。また、観光終了後に帰航する船に対して警備隊員が手を振って見送ることもある[100]。
韓国側発表によれば、2005年から2010年までの間で日本人観光客も70人程度上陸している[101]。また、韓国では竹島へ上陸して申請すれば「独島名誉住民」として登録され名誉住民票が発行される。現在、名誉住民の数は7万人(内、日本人17人)を越えている[102]。
日本の外務省は2010年以降、自国民に対して韓国を訪問する際の「竹島観光の自粛」を呼びかけている。これは、同島を自国の領土とする立場を前提としつつ、パスポートを所持して韓国法に基づいて竹島を訪問する行為が、韓国の管轄権を認めるものと受け取られる可能性があるとの懸念によるものである[103]。
日本の外務省は日本人の渡航について、以下のような声明を発表している[104][105]。
韓国による竹島の不法占拠が続いている状況の中で、我が国国民が韓国の出入国手続に従って竹島に入域することは、当該国民が竹島において韓国側の管轄権に服することを認めたとか、竹島に対する韓国の領有権を認めたというような誤解を与えかねません。そのような入域を行わないよう、国民の皆様のご理解とご協力をお願いします。
また航路を運営するフェリー会社は日本人と判明した者へのチケット販売を行わない旨を告知している[106]。これに対して船会社は「やむを得ない」と主張している。「竹島」の象徴性のため、船内で日本語が聞こえるだけでも韓国内乗客と摩擦を起こす可能性があるという主張である。シースポビル関係者は「最近は顧客はもちろん国家情報院まで独島(竹島)行き旅客船を注視している」とし、「もし鬱陵島・竹島行きの船で日本人乗客が日章旗を振れば、その非難や被害は船会社がそのまま負わなければならない」と述べた[103]。
問題
領土問題
第二次世界大戦中まで、朝鮮半島は日本の統治下にあり、そもそも韓国という国自体がなかったため領土問題は存在しなかった。サンフランシスコ平和条約の起草過程において、米国はラスク書簡(1951年)などで「竹島は日本の領土である」との見解を示した。最終的な条約文において、日本が放棄する領土として竹島は明記されなかった。日本政府はこの経緯をもって、竹島が日本の領土であることが(連合国側によって)再確認されたと解釈している[107]。対して韓国政府は、同条約が日本から分離される領土として竹島を明記しなかったことは、竹島が日本領であることを認めたものではないと主張している。この時、韓国は北朝鮮との間で内戦(朝鮮戦争)を行っていたが、サンフランシスコ条約が発効する直前の1952年1月、アメリカが発効まで一時的に日本の施政権範囲を設定していたマッカーサー・ラインに倣い、李承晩ラインを設定し竹島を韓国側水域に含めた。翌1953年4月、朝鮮半島内戦中に独島義勇守備隊と名乗る民兵組織が常駐し、以来韓国は竹島の実効支配を強化している。日本は現在まで抗議を続けているが[108]、韓国側は領土問題は存在しないとして応じていない[109]。
漁業問題
竹島周辺海域を含む日韓の排他的経済水域(EEZ)では、日韓漁業協定に基づき「日韓暫定水域」が設けられている。領有権問題は協定上棚上げされており、同水域では両国漁船がそれぞれの国内規則に従って操業する枠組みとなっている[110]。
同水域では漁業資源管理や操業秩序をめぐる調整上の課題が指摘されている[111]。
環境破壊問題
竹島を取り巻く海洋環境については、島内の下水処理施設の運用問題や廃棄物処理をめぐり環境汚染への懸念が指摘されている。韓国側施設から発生する汚水や廃棄物の海洋流出問題については、一部メディアなどで周辺海域の水質や海洋生態系への影響が報じられており、2004年には汚泥投棄問題も報道された[112]。
慶尚北道は2026年4月、独島警備隊内で一部廃棄物の放置や海洋汚染への懸念が提起されたことを受け、海洋環境浄化船「慶北0726号」を竹島・鬱陵島海域に緊急投入し、廃棄物の回収作業を実施した。慶尚北道は独島警備隊の要請に基づき廃棄物を迅速に回収・運搬したほか、鬱陵島・竹島海域の環境改善のため継続的な海洋浄化活動を行っている。2024年には71回の運航で535トン、2025年には55回の運航で416トンの海洋ごみを回収しており、2026年には80回の運航と500トン以上の回収を目標としている[113]。
韓国社会における情勢
政府の立場
韓国外交部は、竹島に対する大韓民国政府の基本的立場を次のように記載している。
独島は、歴史的にも、地理的にも、国際法上も明白な大韓民国固有の領土です。独島をめぐる領有権紛争は存在せず、独島は外交交渉及び司法的解決の対象になり得ません。 大韓民国政府は、独島に対し確固たる領土主権を行使しています。
大韓民国政府は、独島に対するいかなる挑発にも断固かつ厳重に対応しており、今後も引き続き独島に対する大韓民国の主権を守っていきます[114]。
世論調査
2008年、CBSが世論調査機関リアルメーター(代表:イ・テクス)に依頼して韓国人の意見を調査した結果、98.2%が「独島は韓国の領土である」と回答した[115]。
2023年、慶尚北道出捐機關である(財)独島財団は「独島の月」を迎え、韓国人5,487人を対象にモバイル調査を実施した結果、独島に関する連想語として「守るべき民族自尊の島」(56.7%)が最も多く、次いで「日本の歴史歪曲および侵奪の野望」(34.3%)などが挙げられた。また関連ニュースでは「国内公共機関の誤表記」(41.6%)が最多となったほか、解決方法としては「外交・政治を通じた国際的支持拡大」(35.2%)が最も多かった[116]。
領土教育
韓国教育部は、竹島が歴史的・地理的・国際法的に大韓民国の領土であるとの認識に基づき、学生や教員、国民の領土主権意識を高めることを目的として「独島教育活性化方案」を推進している。この政策は、日本による竹島領有権主張をめぐる国際的な議論を背景に、竹島に対する理解と教育的関心を広げることを目的としている[117]。
韓国政府は2011年以降、教育課程の「範教科学習テーマ」に竹島教育を含めており、2017年から2024年にかけては全国の市・道教育庁を中心に独島体験館の整備を進めてきた[117]。
学校教育の分野では、「独島教育週間」を設けて教科授業や創意的体験活動と連携した教育が行われており、プロジェクト学習や体験型プログラム、各種イベントなどが実施されている。また、一部の学校は「独島守護学校」に指定され、学生主体の活動や地域連携を通じた教育活動が展開されているほか、研究学校ではデジタル教材や体験型コンテンツの開発が進められている[117]。
さらに、独島体験館ではVR・ARなどを活用した体験型コンテンツが提供され、関連機関を中心に教育資源の共有や施設整備が進められている。加えて、教員研修の実施やデジタル教材の整備、特수教育向け資料の開発、民間協力事業などを通じて、独島に関する教育および広報活動が継続的に行われている[117]。
「独島の月」
韓国の慶尚北道は2005年7月4日、「独島の月条例」(条例第2879号)を制定した。この条例は、島根県議会が2005年に「竹島の日」条例を制定したことへの対応として制定されたものである[118]。
同条例では毎年10月を「独島の月」と定め、該当期間中に公務員および道が出資・出捐した法人・団体の職員に対し、日本への公務出張を制限することができると規定している。また、竹島関連行事の開催や関連団体への支援を行うことができるとされている。さらに、島根県および島根県議会が「竹島の日条例」を撤回しない限り、両自治体との交流を制限する方針が定められている[118]。
学術界における活動
「独島」呼称の国際認知を目的とした韓国のキャンペーンは多方面で行われ、たとえば学術界においても、新規に発見された生物種の学名の名付けなどによって続行されている[119]。竹島では多くの新種微生物が発見されているが、2005年頃より韓国系生物学者によって、新規学名に「独島」が含まれるようになっている。新属としては、Dokdonia donghaensis (Yoon et al. 2005) ほか6種[120]、新種としては、Maribacter dokdonensis (Yoon et al. 2005) ほか11種の「独島」を含む学名が提唱された[121]。
民間での活動
1999年に設立された韓国の民間団体VANK(Voluntary Agency Network of Korea)は、韓国の歴史・領土認識などを海外へ発信する活動を行っており、韓国政府から支援を受けている[122][123]。VANKは竹島問題や歴史認識問題に関する広報活動、オンラインキャンペーンなどを行っている[124]。さらに、VANKは韓国観光公社や慶尚北道などと協力し、竹島問題に関する広報・教育活動を実施している[125]。
俳優のキム・テヒと弟のイ・ワンは、2005年に「独島守護天使」に委嘱され、独島愛キャンペーンを展開した。兄妹は同年5月、親善文化大使として訪問したスイスで、「独島は我が領土」と書かれたTシャツや同名のリメイクアルバムを配布した[126]。
独島芸能人広報団は、2017年1月に結成された民間の広報団体であり、芸能人が竹島に関する広報活動に参加している。団長は白奉基であり、ユン・テク、キム・チャンヨル、金成恩、ホン・ギョンインらが活動メンバーとして知られている。同団体は竹島広報の強化を目的として「DOKDO STARS」というCIを公開し、独島愛運動本部などと業務協約を締結して共同キャンペーンを展開している。また、スポンサー企業と連携し、鬱陵島および竹島訪問キャンペーンなど各種広報活動を推進している[127]。
大衆文化
1982年、KBSのPDであった朴文永は、この島を題材とした歌「独島は我が領土」を制作し、コメディ番組『ユーモア一番地』で発表した。その後、鄭光泰による正式な音盤が発売され、広く知られるようになった[128]。また、パク・ミョンスの「We Love 独島」など、多くの韓国の芸能人や歌手が竹島を題材とした楽曲を発表している[129]。
韓国で制作された竹島関連の歌は、2017年時点で約350曲に達するとされる[130]。
2004年には、韓国と北朝鮮が共同開発した携帯電話ゲーム「独島を守れ」が韓国で配信された[131]。このゲームは韓国統一部から外交的問題を避けるよう要請され、「島を守れ」に改題されたが、ユーザーの抗議により再び元の名称に戻された[132]。
2011年9月24日に放送されたMBCの番組『無限挑戦』の「スピード特集」では、登場するバスや車両、暗号などの演出が竹島と関連付けて解釈された。1964年式バスは日韓関係を示唆する要素とされ、駐車場に登場したK7は竹島関連活動との関連が指摘されたほか、「811.15.ㅎ.155」という暗号は詩人高恩の詩集とその中の詩「独島」に結び付けて説明された[133]。
2016年には、慶尚北道文化コンテンツ振興院によりアニメーション『独島守備隊カンチ』が制作された[134]。
2025年10月26日、KBSのバラエティ番組『1泊2日』で「独島特集」が放送された。番組には誠信女子大学の徐坰徳教授が出演し、韓国のバラエティ番組として初めて公式な許可を得て竹島の山頂にある「韓国領」と刻まれた岩や郵便ポスト、大型の太極旗などを紹介したほか、東海地方海洋警察庁所属の警備艦に乗船して竹島周辺を巡視し、海洋警察の活動の様子を取り上げた[135]。
「独島」切手の発行

大韓民国郵政事業本部は、竹島を題材とする切手を1954年、2002年、2004年の3回発行している[136]。
1954年9月15日、韓国は3種の竹島切手を発行した。これに対して日本政府は11月19日に対応を決定し[137]、11月29日には外務省が抗議を行った[138]。その後、万国郵便連合 (UPU) の規定により郵便物の取扱いは継続されたとされる。
2002年には記念切手セットの一部として独島を題材とする切手が発行された[139][140]。
2004年には「独島の自然」と題する切手が発行され、日本政府は韓国側に抗議し、UPUを通じた対応を行った[140]。
クリスマス・シール
大韓結核協会は、2006年のクリスマス・シールとして、「独島」(竹島)の自然を描いた「アイラブ独島(아이러브 독도)」を発行した[141]。
日本社会における情勢
日本外務省は、竹島に対する日本国政府の基本的立場を次のように記載している。
竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに日本固有の領土です。韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。 日本は竹島の領有権を巡る問題について、国際法にのっとり、冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。
(注)韓国側からは、日本が竹島を実効的に支配し、領有権を再確認した1905年より前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません[142]。
世論調査
2019年、内閣府は、竹島に関する世論調査結果を公表した。竹島について知っている内容としては、「わが国固有の領土」が77.7%、「韓国による不法占拠」が63.5%であり、いずれも過去の調査とほぼ同水準であった。また年代別では18~29歳の回答割合が相対的に低い傾向が示された[143]。
2022年、内閣府(内閣官房領土・主権対策企画調整室)は、「竹島に関する世論調査」を実施した。調査では全国の18歳以上3,000人を対象に、1,765人から有効回答を得た。結果として、竹島問題に「関心がある」と回答した割合は63.6%(非常に関心がある26.9%、ある程度関心がある36.7%)であり、「関心がない」は32.0%であった。また関心があると回答した層では、「日本の領有権の正当性」(79.3%)や「歴史的経緯」(59.2%)などが主な関心内容として挙げられた。情報入手経路はテレビ・ラジオ(89.7%)が最も多く、今後の対策としてはテレビ・新聞による情報提供(73.1%)などが重視された[144]。
領土教育
2014年1月改定の教員向けの学習指導要領解説書で竹島に関する記述が盛り込まれ、2018年3月告示の学習指導要領では、高校教育では「地理総合」、「歴史総合」、「公共」の3科目において竹島を扱うこととした[145]。
資料のデータベース化
日本政府は竹島の領有権を裏付ける過去の行政文書や地元新聞記事などの歴史資料をデータベース化してインターネットで公開するとともに、領土に関する論文を英訳して発信することとしている[146][147]。郷土史などの歴史資料を集めて電子化したうえで編さんし、英語訳も付けるなどの広報活動を行うとともに、資料を学校教育にも役立てるとともに教員向けに特別の研修を実施する方針である[148]。
2015年、日本政府は前年度から民間に委託して1,500点あまりの資料を調査し、実効支配してきたことを示す資料をまとめた報告書を、内閣官房領土・主権対策企画調整室のホームページで公表した[149]。
新藤義孝衆議院議員は、「日本の領土を主張する資料は、国がきちんと管理する体制を整えるべきだ」と述べ、国が資料保存に積極的に関与する仕組みが必要だとの認識を示している[150]。
島根県の活動
竹島を所属とする島根県は、2005年に「竹島の日」を定めたほか、竹島資料室を設け、2007年には Web竹島問題研究所 を開設した[151]。2019年の竹島の日「国際司法裁判所による竹島問題の解決」と題する特別展示を行った。そのなかで島根県は、単独提訴によって、黙認を回避し、時効を止めること、日本が韓国の主張に同意していないことを国際社会に知らしめること、および日本の意思を韓国に知らしめることが可能であり、また、竹島問題は歴史問題ではなく、国際法上の解決が求められることを訴えることができることを指摘している[59]。
その他
日本の新左翼の中核派の影響下にあるとされる、東日本旅客鉄道(JR東日本)の労働組合の国鉄千葉動力車労働組合は、2008年の新学習指導要領の解説書で竹島を「日本固有の領土」と教えるよう求めると発表したことについて、「日本政府が、帝国主義的領土略奪と国益主義・排外主義の扇動で危機を突破しようとする許し難い攻撃である」と批判し、「日韓労働者連帯の立場から、怒りを込めて弾劾する。日本政府は解説書を撤回し、今後一切、独島強奪策動を中止せよ」と宣言した[152]。
また、小沢一郎の国際担当秘書であった韓国人金淑賢は、自民党政府時代に日本が領有権を主張していたのは支持率低下を防ぐためだと述べた[153]。
2021年8月、日韓近代史資料集が閉鎖された。
在日韓国・朝鮮人の見解
在日韓国人2世で元東京大学教授の姜尚中は、2010年1月2日、韓国MBCの取材に「独島は韓国が実効支配してるじゃないか。だから日本は戦争をしない限り、独島を実効支配することは不可能です。日本が竹島だと主張しても、放っておいてかまいません。私達が我々の領土を実効支配しているからね」と述べ[154]、また同年3月10日、韓国中央日報の取材を受けて、「日本から独島問題を巡る妄言が出てきても、韓国は実効的支配をしているため感情的に対応する必要はない」と主張を行っている[155][156]。
また、在日本朝鮮人総聯合会の関連団体である在日本朝鮮留学生同盟(留学同)は、日本の領有権主張について反対の声明を発している[157]。
「メチのいた島」
2013年2月、隠岐の島町在住の元小学校教員がかつて竹島で漁業をなりわいとしていた町内の人びとから聞き書きした絵本が自費出版された[158]。竹島が豊かな漁場であったことや連れ帰ったアシカ(メチ)と島の子どもたちとのふれあいが描かれている[158]。その後この絵本は、2017年に山陰中央新報社から出版された[159]。
ロシアと中国による竹島周辺海域での活動
- 2019年2月23日、中国人民解放軍空軍の軍用機1機が鬱陵島と竹島の両島の間の上空を初めて飛行し、韓国の防空識別圏に入ったとして韓国政府は抗議した[160]。
- 2019年7月23日、韓国軍合同参謀本部はロシア航空宇宙軍のA-50空中警戒管制機が竹島周辺海域で領空侵犯したとして18機の韓国軍の戦闘機F-15とF-16が出動して360発警告射撃したと明らかにした[161][162][163]。また、韓国軍合同参謀本部は中国軍機もロシア軍機と行動を共にするような飛行を行い韓国の防空識別圏内に入ったとしている[161]。日本の航空自衛隊も10機のF-15JとF-2でスクランブルを行って4カ国入り乱れ[164][165]、空自機は尖閣諸島上空を領空侵犯する90 km手前の中露機に針路変更を促した[166][167]。ロシア国防省と中華人民共和国国防部はロシア軍のTu-95MP爆撃機2機と中国軍のH-6K戦神爆撃機2機で共同警戒監視活動を行ったとして領空侵犯は否定した[168][169][170][171]。韓国政府はロシアと中国に抗議し[163][172]、日本政府は韓国とロシアに抗議した[173]。
アメリカでの地図等の表記
Google マップなどでの記述
Google の提供する Google マップにて竹島について日本語で「ウルルン郡」という記述があることに関し、自民党の佐藤正久参議院議員により質問主意書が提出され、政府は2012年3月17日、「閲覧者に対し竹島が韓国領であるかのような誤解を与えるもので、わが国の立場に照らし受け入れられない」とする答弁書を決定した。
また、Google マップにおいて、竹島が韓国領として表記されているとして、島根県が Google日本法人に対し、「閲覧者に対し、韓国領であるとの誤解を与える虞がある」として、表記を改めるよう、2012年6月15日付で要望書を提出している[174]。
Appleが独自に提供する iOS 用の地図サービスでは、当初「独島」だけの表記だったが、日本からの抗議を受け「竹島」「独島」「リアンクール岩礁」の併記に変更された[175]。
Xbox Live
2007年秋の Xbox 360 アップデートにおいてユーザーのプロフィール機能が強化された。この際住所の項目には「独島」と入力することができるのに対して、「竹島」と入力すると登録できない。これが一部の利用者の反感を買い、Xbox 360 のボイコットが発生、問題になったため後日「竹島」も入力できるように変更された[176]。
オレゴン州自動車管理局朝鮮語版マニュアル
アメリカのオレゴン州自動車管理局のホームページ朝鮮語版における運転マニュアルに、翻訳者である韓国系アメリカ人が「独島は韓国の領土である」といった記述を数ページにわたって追加した。日本の外務省はオレゴン州政府に対し公式に抗議した。オレゴン州政府は遺憾の意を表明しこのような表現を認めたことはないと釈明、当局は直ちに閲覧中止にし、当該ファイルをウェブサイト上から削除した。翻訳者の韓国系アメリカ人は「韓国系の住民が見る物であるので問題はない」と話した[注 5][177][178][179][180]。
年表
江戸時代
- 1618年(元和4年):伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが、幕府から許可を得て“竹島”(現在の鬱陵島)に渡航。
- 1692年(元禄5年):“竹島”(現在の鬱陵島)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2人を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
- 1696年(元禄9年):江戸幕府が“竹島”(現在の鬱陵島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が、鬱陵島ならびに于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
- 1849年(嘉永2年):フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島(現在の竹島)を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩、リアンコールト列岩とも呼ばれる)。
明治以降
- 1877年(明治10年)3月29日:「元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該国ト往復之末遂ニ本邦関係無」という理由をもとに「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官の指令が内務省に伝達された。(竹島外一島を参照)
- 1900年(明治33年)10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道鬱島郡に昇格、同時に竹島石島(韓国では石島を独島と解釈している)を管轄範囲とした。
- 明治時代 隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎、池田吉太郎他、地元の有志が、竹島に出漁しアシカや海産物を採取していた[181]。
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)
- 3月28日:島根県関係者が欝島郡守の沈興澤に日本の竹島領有を伝える。翌日、沈興澤は江原道観察使署理春川郡守の李明来に、独島が日本領になったと報告。
- 4月29日:李明来、議政府賛政大臣の朴斉純に日本の独島領有の件について注進。朴斉純は5月20日付の指令第三号で「独島便地之説은 令属無根하니(独島が便宜を図ったかの地の説は、令(指令や勅令)によって属した根拠はない」とした上で、「該島の形便と日本人の行動」について調査報告を命じる。
- 4月30日:中井養三郎を代表とする竹島漁猟合資会社の設立許可申請(同年7月2日許可)。
- 7月13日:韓国の『皇城新聞』[182]で、欝島郡の管轄範囲について統監府に対し「東西が六十里(約24 km)、南北が四十里(約16 km)。合わせて(周囲)二百余里(約80 km)」と回答する記事が掲載される。
- 1910年(明治43年)8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
- 1914年(大正3年):鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。

ポツダム宣言受諾後
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 11月19日:シーボルト駐日政治顧問代理は、国務長官宛てに「竹島に対する日本の領土主張は古く正当と思われる」と提言。
- 12月29日:竹島を日本の領土として明記したサンフランシスコ平和条約の草案が作られる。
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 4月5日:英国のサンフランシスコ条約草案が日本が放棄する領土を緯度、経度で記載。竹島は放棄する領土に位置していた。
- 6月14日:サンフランシスコ条約草案で、日本の放棄すべき島から竹島が除外される。(日本の保有領土の項は無くなる)
- 7月6日:SCAPIN-2160 が発令、これに伴い SCAPIN-1778 は廃止され、引き続き竹島を爆撃訓練場とし、隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
- 7月10日:開城で休戦会談が開始。
- 7月19日:梁裕燦韓国大使がダレス国務長官顧問と会談し、対馬への領有権主張の取り下げを確認し、同時に「独島」「パラン島」の領有、マッカーサー・ラインの存続を求めた書簡を提出。
- 8月3日:国務省にて「独島」「パラン島」が確認できないとの認識(ボッグスメモ)。
- 8月10日:ディーン・ラスク国務次官補から韓国大使に宛てた「ラスク書簡」で、「「独島」が朝鮮の領土であったことも主張されたこともなく、「パラン島」は取り下げられたとみなす。」また、マッカーサー・ラインも存続しないと回答[187]。
- 9月9日:サンフランシスコ平和条約に49か国が署名、竹島は放棄すべき領土に明記されず。
サンフランシスコ平和条約署名後
- 1951年
- 1952年(昭和27年)
- 1月18日:韓国政府が李承晩ラインを宣言し、マッカーサー・ラインに続いて竹島を自国側の海域に入れる。日本政府は、韓国政府が竹島に「領土権を主張しているように見えるが」認めないと口上書により抗議[189]。
- 2月12日:韓国政府は、SCAPIN-677 およびマッカーサー・ラインにより竹島が韓国領であることが確認できると反論(竹島に関する日韓政府の初の応酬)。
- 4月25日:マッカーサー・ラインが失効、韓国は李承晩ラインを引き続き主張。日本政府は、韓国政府に再反論[注 7]。
- 4月28日:サンフランシスコ平和条約が発効。
- 5月20日:島根県住民は米軍の竹島爆撃訓練の中止を求める請願書を提出。
- 7月26日:日米合同委員会は竹島を米軍の海上演習場として指定[190]。
- 9月17日 - 9月28日:韓国山岳会が鬱陵島・独島学術調査団を派遣[185]。
- 12月4日:韓国による米軍の竹島爆撃訓練への抗議に対し、米政府は「我々のこの島への領有認識はラスク書簡の通りである。」と回答。
- 1953年(昭和28年)
- 1月12日:韓国政府が李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
- 2月4日:済州島付近で日本漁船の漁労長が韓国軍の銃撃を受け死亡。(第一大邦丸事件)
- 2月27日:韓国国防部は、「アメリカは竹島の領有権が韓国にあることを認めた。」と発表[191]。
- 3月:日米合同委員会は竹島を爆撃訓練場の範囲から外すことを決定。
- 4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、初めて竹島に駐屯。
- 6月27日:日本国海上保安庁と島根県の約30名が竹島調査を実施、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。竹島に住み着いていた韓国の漁民6人を退去させた。
- 7月12日:竹島に上陸していた韓国の独島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
- 7月13日:日本政府は発砲事件に抗議、島からの即時退去と領有権主張の国際法的根拠の照会を要求。韓国に対し「竹島に関する日本政府の見解」文書を送付(第1回見解往復・往)。
- 7月27日:朝鮮戦争の休戦協定が締結される。
- 9月9日:韓国政府は、日本政府の照会に対し『于山島』『沈興澤報告書』等の古文献を提示して反論(第1回見解往復・復)。
- 10月11日 - 10月17日:韓国山岳会が鬱陵島・独島学術調査団を派遣[185]。
- 1954年(昭和29年)
- 2月10日:日本政府は、韓国側が提示した根拠に反論する口上書を提出(第2回見解往復・往)。
- 5月3日:隠岐島五箇村久見漁業協同組合の日本人組合員が竹島で漁労。これが日本人が竹島で漁労した最後の例となっている。
- 8月15日:朝鮮戦争に出征したジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。ヴァン・フリートは「米国は、竹島を日本領であると考えているが、竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望ましい」というアメリカ合衆国の意向を、非公式に韓国に伝達したなどのことを大統領に報告した。
- 9月20日:韓国が竹島を図柄にした切手を発行、日本国外務省は抗議。
- 9月25日:韓国政府、日本の2月の口上書に反論(第2回見解往復・復)。日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案。
- 10月28日:日本のICJ付託を韓国が拒否。
- 11月21日:韓国軍が竹島の西島、北西3マイルの地点を航行中の日本の海上保安庁巡視船「おき」と「へくら」に対し、午前6時58分から午前7時にかけて5発の砲撃を加える[192][193]。
- 11月30日:砲撃事件に対し、日本の外務省が抗議[192][193]。
- 1956年(昭和31年)
- 1959年(昭和34年)1月7日:韓国政府は、日本側の反論に再反論(第3回見解往復・復)。
- 1960年(昭和35年)4月27日:当時の駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世から、米国国務省に李承晩体制が終わるタイミングで「竹島を日本に返還させるよう圧力を加えるべき」との電報による提言が行われる(機密電文3470号を参照)。
- 1961年(昭和36年)12月26日:日本国外務省は在日韓国代表部に対し抗議の口上書を送り、韓国政府に抗議。翌27日に韓国が反駁する[194][195]。
- 1962年(昭和37年)
- 1964年(昭和39年):鬱陵島に安龍福を顕彰する「安龍福将軍忠魂碑」が建立される[196]。
- 1965年(昭和40年)
- 6月22日:日韓基本条約が調印され、日韓漁業協定により李承晩ラインが廃止される。同時に日韓紛争解決交換公文が取り交わされたが竹島の明記は見送られ、韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉に応じない方針を立てる。
- 12月17日:「大韓民国駐日代表部1965年12月17日付口上書」(第4回見解往復・復)。
日韓国交正常化後
- 1975年:竹島近海での最後のニホンアシカ確認。
- 1977年(昭和52年)2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
- 1978年(昭和53年)10月13日:衆議院外務委員会で園田直国務大臣が韓国の竹島支配は「不法占拠」であるとの認識を示す[59]。
- 1982年(昭和57年)11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
- 1996年(平成8年)5月17日:衆議院外務委員会において、加藤良三外務省アジア局長が、竹島について事実上韓国の占有状態にあるものの、実効的支配については「平穏な占有」という要件があり、関係国である日本から継続的あるいは適時に抗議や申し入れがなされている。すなわち時効の中断に相当するものがなされているという状況下では、必ずしも実効的支配が確立されているとは言い難いという認識を示す[59]。
- 1997年(平成9年)11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
- 1998年(平成10年)12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
- 2004年(平成16年)
- 1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
- 2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
- 3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
- 日本の領土を守るため行動する議員連盟結成。
- 11月:悪臭をともなう汚泥が毎日、日本海に投棄される[197]
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2008年(平成20年)
- 2月:日本外務省は、「竹島問題を理解するための10のポイント」という広報をサイトに掲載[202]。
- 7月17日:ソウルの日本大使館前で40人あまりの韓国人が、日本の新学習指導要領の解説書に竹島が明記されたことに抗議して、日本の国鳥であるキジ9羽の首を切り落とし、その血を福田康夫内閣総理大臣や歴代首相の写真、日章旗に塗りたくるなどの猟奇的行動におよんだ[203]。なかには殺したキジの内臓を食すという過激な者もいたという[203]。
- 8月8日:韓国外交通商部が、「独島に対する基本的な立場」をホームページに掲載[204]。
- 10月22日:北東アジア歴史財団独島研究所を VANKの支援主体に、李明博大統領は VANKへの予算支援を続けると発表[205]。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 3月26日:衆議院外務委員会で、自民党新藤義孝議員が、竹島問題に対して政府に質疑。岡田克也外務大臣は「類似の機会にわたって説明している」「個別案件については答えられない」との政府答弁書を受け取る[207]。
- 4月14日:衆議院外務委員会にて、新藤義孝議員が再質疑。「竹島は日本固有の領土」と記述した日本の小学校の歴史教科書が検定に合格したことに対し、韓国外交通商省大臣が在韓日本大使を呼び出し抗議されたことと、李明博大韓民国大統領や国会議員・議長も「竹島の実効支配を強化しなければならない」、と発言したことにも触れた。
- 4月22日:衆議院本会議において、新藤義孝議員が鳩山由紀夫総理(当時)に対し、竹島問題に対する対応について答弁を求める[208]。
- 7月7日:重家俊範駐韓日本大使に左派系団体に所属する男がコンクリート片を投げる事件が発生[209]。
- 2011年(平成23年)
- 2月27日:韓国を訪問した土肥隆一民主党党倫理委員長が、金泳鎮韓国国会議員との共同記者会見で日本が竹島の領有権を放棄する「日韓共同宣言」に署名を行った。この署名に対する批判に対して、土肥は「共同宣言は外交交渉上有効になるようなものではない」と述べ、共同宣言の撤回は行わなかった[210]。
- 6月16日、大韓航空が新型機を投入する際に、同社会長、マスコミ、省庁長官等を搭乗させ、竹島上空でデモ飛行を実施。日本の外務省は「領土侵犯に当たる」として、全職員が公務での大韓航空機の利用を同年7月18日から1か月間、自粛することを決定し発表した[211][212]。韓国は撤回を要求したが[213]、自粛は予定通り実施された[214]。
- 7月11日:韓国の国会議員が竹島に上陸し(直近3か月間で4人目)、駐屯警備隊を激励。報道でヘリコプター着陸地増築の様子が伝えられた[215][216]。
- 7月27日:日本の国会議員が鬱陵島訪問を計画していることに対して、李明博大統領は「日本議員が入国する場合、身辺の安全上の憂慮がある」と日本政府に通知し協議するよう韓国外交通商部に指示した[217]。
- 7月31日:日本の自民党議員と大学教授が竹島調査のため鬱陵島訪問を計画して韓国に入国しようとしたが、韓国は空港で入国拒否を行った[218]。これはきわめて異例で初めてのこととされる[218]。李明博政権閣僚でハンナラ党首脳の李在五特任相(無任所相)は「自民議員の鬱陵島訪問は主権侵害」「おれが独島を守る」と発言[218]。枝野幸男官房長官は、合法的な入国で「極めて遺憾」と批判、在韓日本大使館から韓国に抗議するとした[219]。
- 2012年(平成24年)
- 8月10日:李明博大統領が韓国の現職大統領としては初めて、竹島を上陸した[24][注 8]。さらに会見を開いて天皇の「訪韓」と「謝罪」に言及した[24]。日本側は対抗措置として武藤正敏駐韓大使(当時)を一時帰国させ、竹島領有権について国際司法裁判所(ICJ)への共同提訴を提案したが韓国側は拒否した[220]。英国メディアのテレグラフは、これを「韓国大統領、日本の島訪問(South Korean leader visits Japanese islands)」として報じた。なお、李明博回顧録では2012年8月の竹島上陸について大統領就任前から上陸の意思を持っていたと記している[221]。
- 10月23日:韓国国会の国防委員会に所属する議員ら15人が竹島に上陸した[222]。
- 11月:島根県議会(定例会)に「竹島の領有権に係る国際司法裁判所への単独提訴を求める意見書」(提出者は中島謙二、吉田政司、珍部芳裕、白石恵子、島田三郎、三島治、森山健一、佐々木雄三、細田重雄、小沢秀多、絲原徳康)が提出され、同年12月15日に原案が可決された[223]。
- 2013年(平成25年)
- 2月:朴槿恵が韓国大統領に就任して「加害者と被害者という立場は、千年過ぎても変わらない」と演説。中国の習近平と共同歩調をとってに、領土問題を安倍晋三政権の「歴史認識」問題と直結させる考えを国際社会に向けて強くアピールした[24]。
- 5月21日:久保井規夫、黒田伊彦、坂本悠一、一戸彰晃の4人が韓国釜山市で記者会見し、「独島は歴史的に韓国の領土」と述べた[224]。元小学校教員の久保井は日本の古地図などの史資料を提示して、「1775年に制作された古地図には、鬱陵島(ウルルンド)と独島を日本領と表示していたが、幕府側が1779年の改訂版でそれを正し、韓国領と表記した」と主張した[224]。
- 5月23日:久保井規夫、黒田伊彦、一戸彰晃が竹島に上陸し、「独島は韓国領」と書かれたTシャツを着て、朝鮮語で「独島は韓国のものだ」と宣言した[225]。この3人は市民団体『竹島の日』を考え直す会のメンバーであり、久保井は「独島が韓国領であることを確信して来た。この確信を日本国民にも伝えたい」旨のコメントを述べた。一戸は青森県の曹洞宗寺院、雲祥寺の住職であり、2012年9月16日の東国寺における石碑建立を主導した「東国寺を支援する会」の代表者である[注 9]。当初は4人の上陸を予定していたが、坂本悠一のみは「独島は韓国領」と書いたTシャツの着用を拒否したため、韓国の警察当局によってフェリーから降ろされたという。
- 2014年(平成26年)
- 2015年(平成27年)
- 1月:在韓国日本大使館は、竹島を日本領と記載した2014年版防衛白書の朝鮮語翻訳版50部を韓国国防省に対して引き渡したが、韓国国防省は日本大使館の駐在武官を呼んで抗議しすべて日本側に返却された[230]。
- 1月:韓国の国立海洋調査院が竹島北側海域の暗礁に「カンチ(アシカ)礁」という名称を付ける[231]。
- 2月22日:韓国の日本大使館前で日本の竹島領有権主張に抗議する市民団体のメンバーが集合、本籍地を「独島」に移した人々でつくる「独島郷友会」のメンバーで50歳代の男が排泄物を詰めたプラスチック容器を大使館に投げつける事件が起こる[232]。
- 4月:2015年版外交青書で韓国について「自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値と、地域の平和と安定の確保などの利益を共有している」との14年版にあった表現を削除[233]。単に「最も重要な隣国」と表現するにとどめた[24]。竹島については「日韓間には領有権をめぐる問題があるが,歴史的にも国際法上も明らかに日本固有の領土」と明記した[24]。
- 4月:日本の2015年の中学校教科書検定で竹島を「固有の領土」として教科書で扱うよう求めた国の指針を受けて初めて社会科の全教科書(20点)に竹島問題が記述された[234]。
- 2016年(平成28年)
- 2018年(平成30年)
- 2019年(令和元年)
- 7月10日 - 李栄薫が『反日種族主義』を韓国で出版。同書のなかで「独島が韓国の領土であるとの証拠は何もない」との意見を提示[238][注 10]。
- 8月25日-26日:韓国軍が竹島で「東海領土守護訓練」を実施。陸軍特殊戦司令部の兵力やイージス艦世宗大王を投入するなど大規模なものとなった[239]。菅官房長官は「我が国の事前の抗議、中止の申し入れにもかかわらず、軍事訓練が開始されたことは、竹島が我が国固有の領土であることに照らしても受け入れられない」と非難[240]。また、アメリカ国務省は日本のFNNの取材に対して「日本と韓国の最近(日韓秘密軍事情報保護協定破棄)の対立を考えると、タイミング、メッセージ、規模の拡大は、問題を解決するのに生産的ではない」とコメント[241]。
- 8月31日 - 韓国の国会議員で共に民主党所属の薛勲、禹元植、李龍得および朴賛大、ならびに無所属の孫今柱、および李勇周で構成された訪問団が、金浦空港から警察庁のヘリコプターに乗って島を訪問。「安倍政権が、韓国をホワイト国(キャッチオール規制の優遇対象国)から除外した」ことなどに抗議を行った[242]。
- 8月31日 - 衆議院議員の丸山穂高がツイッターで「政府もまたまた遺憾砲と。竹島も本当に交渉で返ってくるんですかね? 戦争で取り返すしかないんじゃないですか? 朝鮮半島有事時を含め、『我が国固有の領土』において自衛隊が出動し、不法占拠者を追い出すことを含めたあらゆる選択肢を排除すべきではないのでは?」と発言[243]。
- 9月15日 - KBS(韓国放送公社)は、タンザニア中央銀行が竹島をモチーフにした記念コイン(額面3000タンザニア・シリング)を製作したと報道。同月17日、菅義偉官房長官が韓国側の報道内容を否定する会見を行った[244]。タンザニア政府もタンザニア銀行もこれを否定している。
- 2020年(令和2年)
- 2022年(令和4年)
- 2026年(令和8年)
- 6月 - 北朝鮮が、昨年刊行した自国の領土を示す地図や書籍に、竹島を記載していないことが1日分かった。これまでは韓国だけでなく北朝鮮も「朝鮮固有の島」だとして領有権を主張し、過去の地図には記載していた。日本の有識者は「主張を放棄した可能性がある」との見方を示した[248]。
