ストックホルム合意

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ストックホルム合意(ストックホルムごうい)は、2014年平成26年)5月28日ストックホルムで開かれた日本国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の政府間協議(第3回)で確認された合意[1][2]

1977年、13歳で拉致された横田めぐみ

2008年6月、中国北京市で開かれた日朝実務者協議では、北朝鮮による日本人拉致問題について、日本側から、全ての拉致被害者の帰還と真相の究明、被疑者の引渡しを改めて求めるとともに、北朝鮮側が拉致問題を含む両国間の諸懸案の解決に向けて努力する場合、日本側も北朝鮮に対してとっている制裁措置等の一部を解除する用意があることを伝え、北朝鮮側の具体的行動を求めた[3]。その結果、北朝鮮側は、「拉致は解決済み」という従来の見解を見直して、今後拉致問題の解決に向けた具体的行動をとるため、再調査を実施することを約束した[3]

こうした歩み寄りの背景には、2006年に初の核実験をおこなった北朝鮮に対し、それまで「悪の枢軸」と名指しし、敵視してきたアメリカ合衆国が核放棄を求めて柔軟路線に転じ、2007年の六者会合では60日以内の核施設稼働停止の見返りにエネルギー支援を約束、さらに、テロ支援国家指定解除の方向を示すといった国際情勢の変化があった[4]。テロ支援国家指定の解除の要件には日本人拉致問題も含まれており、指定解除を目指す北朝鮮と「対話」を重視して一歩でも拉致問題を前進させたい福田政権の思惑が一致したのである[4]2002年日朝首脳会談に向けた交渉で田中均の北朝鮮側のカウンターパートとして知られる「ミスターX」こと柳敬がこの時はまだ生きており、水面下での交渉も進んでいた[4]。しかし、福田康夫内閣総理大臣が辞意を表明した後の9月4日、北朝鮮側から日本側に対して、新しい内閣が本合意にどう対応するか見極めたいとして調査開始を見合わせるとの連絡が入った[3][4]

韓国情報筋によれば、2011年1月、「ミスターX」こと柳敬はスパイ容疑で粛清された[4]。その際、柳敬の部下たちも責任を問われたが、日本との連絡役を務めた1名のみは許されて以後の対日交渉にたずさわったという[4]。この年の12月17日1970年代に直接拉致を指示したとされる北朝鮮の最高指導者、金正日朝鮮労働党中央委員会総書記が死去した[5][6][7][8][9][注釈 1]。すでにさまざまなかたちで世襲路線が示されていた金正日の三男金正恩は、2012年4月11日、朝鮮労働党代表者会において、総書記に代わる党の最高職として新たに設置された「第一書記」に推戴された[10]

民主党野田政権下の2012年11月、4年ぶりの協議となる第1回日朝政府間協議モンゴルウランバートルで開催された[3]。同協議では、拉致問題について以前より詳細にわたる意見交換がなされ、それまでの経緯や双方の考え方の相違等を踏まえた上で、検討をさらに深めるため今後も協議を続けることが決まった[3]。日本側からは「拉致の可能性を排除できない」事案についても北朝鮮側に対して提起した。次の協議は12月5日と6日に開催することが決まったが、同月1日に北朝鮮がミサイル発射を予告したことから、延期を余儀なくされた[3]政権交代によって12月26日に成立した安倍晋三を首班とする第2次安倍内閣は、拉致問題を「安倍政権の最重要課題として取り組む」として、その解決に「オールジャパン」で臨む姿勢を示した[11]

2014年3月上旬から中旬にかけて、日朝の外務省担当課長は、中国瀋陽市で開催された日朝赤十字会談を利用して非公式な意見交換をおこない、中断されていた政府間協議を再開することで一致した[3]。同3月30日と31日、これを受けて北京で第2回日朝政府間協議が開催された[3]。ここでは、双方が関心を有する幅広い諸懸案について率直な議論が交わされ、今後も協議を継続することで一致した[3]。なお、3月10日から14日までの間、拉致被害者横田めぐみの両親(横田滋早紀江夫妻)が孫でめぐみの娘のキム・ウンギョンとウランバートルで面会しているが、これも日朝赤十字会談での交渉において調整が進められたものである[12]

ストックホルムの日朝政府間協議に日本側代表として参加し、合意成立後も交渉にあたった伊原純一

北京での政府間協議によって、同年5月26日から28日まで、スウェーデンのストックホルムで第3回日朝政府間協議が開催された[1][2]。日本側代表は伊原純一アジア大洋州局長、北朝鮮側代表は宋日昊外務省大使であった[1]。北朝鮮政府は、ここで「拉致問題は既に解決済み」としてきた従来の立場をやや改めて、新たに「特別調査委員会」を設置し、拉致被害者を含むすべての日本人行方不明者の全面的な再調査を行うことを約束し、日本政府は、その代わりに独自の制裁措置(国連安全保障理事会決議に関連して取っている措置を除く)の一部を解除することで合意した[2][13][14]。これが、いわゆる「ストックホルム合意」である。合意内容は、2014年5月29日に発表された[1][注釈 2]。北朝鮮当局が拉致被害者の調査を行うとしたのは10年ぶりのことであり、日本国内では拉致問題の解決に向けた動きに期待が寄せられた[4]

しかし、その後何度か日朝間で会合が持たれたものの、2016年1月6日北朝鮮による核実験と同年2月7日弾道ミサイル発射によって、日本政府が再び独自制裁を決定すると、同年2月12日、北朝鮮は調査の中止と特別調査委員会の解体を一方的に発表した[2][14]。ストックホルム合意は、新たな拉致被害者の帰国がかなうことなく、事実上決裂した[4]

合意内容

日朝首脳会談(2002年9月17日)での小泉純一郎金正日

日本側が取るべき行動措置は以下の通り[13]

  1. 北朝鮮側と共に、2002年9月の日朝平壌宣言に則って、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現する意思を改めて明らかにし、日朝間の信頼を醸成し関係改善を目指すため、誠実に臨むこと
  2. 北朝鮮側が包括的調査のために特別調査委員会を立ち上げ、調査を開始する時点で、人的往来の規制措置、送金報告及び携帯輸出届出の金額に関して北朝鮮に対して講じている特別な規制措置、及び人道目的の北朝鮮籍の船舶の日本への入港禁止措置を解除すること
  3. 日本人の遺骨問題については、北朝鮮側が遺族の墓参の実現に協力してきたことを高く評価し、北朝鮮内に残置されている日本人の遺骨及び墓地の処理、また墓参について、北朝鮮側と引き続き協議し、必要な措置を講じること
  4. 北朝鮮側が提起した過去の行方不明者の問題について、引き続き調査を実施し、北朝鮮側と協議しながら、適切な措置を取ること
  5. 在日朝鮮人の地位に関する問題については、日朝平壌宣言に則って、誠実に協議すること
  6. 包括的かつ全面的な調査の過程において提起される問題を確認するため、北朝鮮側の提起に対して、日本側関係者との面談や関連資料の共有等について、適切な措置を取ること
  7. 人道的見地から、適切な時期に、北朝鮮に対する人道支援を実施することを検討すること
金正恩(2019年撮影)

北朝鮮側が取るべき行動措置は以下の通り[13]

  1. 1945年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施すること
  2. 調査は一部の調査のみを優先するのではなく、全ての分野について、同時並行的に行うこと
  3. 全ての対象に対する調査を具体的かつ真摯に進めるために、特別の権限(全ての機関を対象とした調査を行うことのできる権限)が付与された特別調査委員会を立ち上げること
  4. 日本人の遺骨及び墓地、残留日本人並びにいわゆる日本人配偶者を始め、日本人に関する調査及び確認の状況を日本側に随時通報し、その過程で発見された遺骨の処理と生存者の帰国を含む去就の問題について日本側と適切に協議すること
  5. 拉致問題については、拉致被害者及び行方不明者に対する調査の状況を日本側に随時通報し、調査の過程において日本人の生存者が発見される場合には、その状況を日本側に伝え、帰国させる方向で去就の問題に関して協議し、必要な措置を講じること
  6. 調査の進捗に合わせ、日本側の提起に対し、それを確認できるよう、日本側関係者による北朝鮮滞在、関係者との面談、関係場所の訪問を実現させ、関連資料を日本側と共有し、適切な措置を取ること
  7. 調査は迅速に進め、その他、調査過程で提起される問題は様々な形式と方法によって引き続き協議し、適切な措置を講じること

これらについて、日朝両国は速やかに具体的な措置を実行に移し、そのために緊密に協議していくことで合意した[13]

ストックホルム合意後の動き

日朝政府間協議(2014年7月:北京)

2014年7月1日の日朝政府間協議(北京)

ストックホルム合意を踏まえ、2014年7月1日中華人民共和国北京市で局長級の第4回日朝政府間協議が開かれた[1][14]。この協議では、北朝鮮側から、特別調査委員会の組織、構成、責任者等に関する説明があり、日本側は主に、この特別調査委員会に全ての機関を対象とした調査を行うことのできる権限が適切に付与されているかという観点から、集中的に質疑を行った[3]

北京での協議を受けて第2次安倍内閣は7月3日安倍晋三内閣総理大臣菅義偉内閣官房長官岸田文雄外務大臣古屋圭司拉致問題担当大臣による4大臣会合および国家安全保障会議(9大臣会合)を開いて、北朝鮮の設置する特別調査委員会が実効性をともなう調査を実施するための一定の体制を整えているものと判断し、調査が開始された時点での、北朝鮮への制裁措置の一部(人的往来の規制措置並びに支払報告及び支払手段等の携帯輸出届出の下限金額の引下げ措置)の解除と人道目的の北朝鮮籍船舶の入港を認めることとした[3][15][16]

7月4日、北朝鮮側は、朝鮮中央通信など公式メディアを通じて、特別調査委員会の権限、構成、調査方法等について、日本側の理解と同趣旨の内容を国内外に発表し、拉致被害者を含む全ての在朝日本人について調査を開始することを公表した[3][15]。同日、日本政府は閣議を経て、北朝鮮に対してとっている措置の一部を解除した[15]

ここにおいて日本側が高く評価したのは、特別調査委員会のトップである委員長に、国防委員会参事と国家安全保衛部(現、国家保衛省)副部長を兼職する徐大河が就任したことであった[16]。軍と秘密警察という北朝鮮の最高権力機関の関与が保証されたことで、「北朝鮮は本気で再調査に取り組むつもりだ」との期待が広がったのである[16]。拉致被害者の家族をはじめ日本国民の期待も大きくふくらんだ[17]

報告遅延の通告

2014年9月18日、北朝鮮側が初回の報告が予定された「夏の終わりから秋の初め頃」よりも遅れることを日本側へ通報してきた[16]。7月以降、日朝両国は公式・非公式に複数回接触し、話し合ってきたが、北朝鮮側は報告時期も定まらなかった[16]。菅義偉官房長官は、翌9月19日、記者会見を開き、報告の通報に関する日本側の照会に対して、北朝鮮側から「特別調査委員会は全ての日本人に関する調査を誠実に進めている。調査は全体で1年程度を目標としており、現在はまだ初期段階にある。現時点でこの段階を越えた説明を行うことはできない」旨の回答があったことを明らかにした[16]

報告の延期は、日本国内の対北朝鮮世論を硬化させ、なかには解除した制裁の復活を主張する声もあらわれた[16]

日朝外交当局者間会合(2014年9月:瀋陽)

9月29日、中国の瀋陽市で開かれた日朝外交当局間会合では、北朝鮮から調査の現状について説明を受けた[3]。会合は4時間半におよび、このなかで日本側は「北朝鮮側が拉致被害者を始めとする全ての日本人に関する包括的かつ全面的な調査を迅速に行い、その結果を速やかに通報すべきこと」を強く求めた[3]。その際、日本側としては「全ての分野における調査が重要ではあるが、とりわけ、拉致問題が最重要課題であると考えている」ことを強調した[16]。北朝鮮側からは、現段階では日本人の一人ひとりに関する具体的な調査結果を通報することはできないが、日本側が平壌市を訪問し、直接特別調査委員会のメンバーと面談すれば調査の現状についてより明確に聴取できるであろうという説明があった[3]

特別調査委員会との協議(2014年10月:平壌)

2014年10月28日、29日の2日間、伊原純一アジア大洋州局長をはじめとする日本政府担当者は、平壌において特別調査委員会と協議を行った[3][14][16]

日本側は、「拉致問題が最重要課題であること」を繰り返し伝えるともに、全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国、拉致に関する真相究明並びに拉致実行犯の引渡しが必要であること、政府認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者を発見し、一刻も早く安全に帰国させることを求めていることを伝達した[3][16]。また、調査が「透明性及び迅速性」を持って行われること、日本側が「徹底的な検証を行う」ことも伝え[16]、調査の結果を一刻も早く日本側に通報するよう、北朝鮮側に強く求めた[3]

北朝鮮側からは、「委員会及び支部の構成といった体制や、証人や物証を重視した客観的・科学的な調査を行い、過去の調査結果にこだわることなく新しい角度からくまなく調査を深めていく」方針であることの説明があった[3][16]。また、「調査委員会は、北朝鮮の最高指導機関である国防委員会から特別な権限を付与されており、特殊機関に対しても徹底的に調査を行う」との説明があった[3][16]

協議は2日間で10時間以上に及び、日本側は、特別調査委員会の4つの分科会(拉致被害者、行方不明者、日本人遺骨問題、残留日本人・日本人配偶者)から説明を受け、質疑を行った[16]

拉致問題について北朝鮮側は、個別に入境の有無や経緯、生活環境等を調査しており、拉致被害者が滞在していた「招待所」跡等の関連場所を改めて調査するとともに、新たな物証・証人等を探す作業を並行して進めているとの説明があった[3]。伊原局長は「(訪朝の目的の)趣旨に沿った形での説明はあった」と述べたものの、北朝鮮側は日本人遺骨問題の調査が終了したと一方的に通告するなど、双方の主張・立場の懸隔が露わになる場面もあったという[16]。それでも日本側は、徐大河委員長が最高指導部とつながっていることを確認できたとして平壌での協議を前向きに捉えた[16]

対話と圧力

それまで「対話と圧力」の姿勢によって、拉致問題について交渉し、ストックホルム合意によって「拉致問題は解決済み」との従来の見解を見直させた安倍晋三首相は、政府訪朝団から報告を受けた10月30日夜、『読売新聞』に対し「拉致問題の解決に向けた日本の強い決意を先方に伝えた。北朝鮮の最高指導部に伝えたわけだ」と述べた[16]

しかし、「拉致問題については、拉致被害者及び行方不明者に対する調査の状況を日本側に随時通報」するとストックホルム合意の合意文書に明記されているにもかかわらず、北朝鮮側からの通報が1度もないまま2014年が過ぎ、2015年に入ってからも合意の履行に関する進捗はなかった[16]。日朝間ではむしろ互いを批判するような動きが目立つようになり、日本国内では、再調査の報告を先延ばしし、不誠実な対応を続ける北朝鮮に対する厳しい見方が強まった[16]。日本政府は、制裁復活・強化を求める国内世論を踏まえて「圧力」の維持を決定する一方、日朝政府間では水面下の接触を続けていた[16]

報道によれば、日朝両国は2015年に入ってからも複数回にわたり非公式協議を行っており、2015年3月2日に北朝鮮が短距離弾道ミサイルを発射し、国内の「圧力」論が高まる中にあっても日本政府が「対話」を維持する姿勢には変化がなかった[16][18]

再度の遅延連絡

2015年7月2日、北朝鮮側は「全ての日本人に関する包括的調査を誠実に行ってきたが今しばらく時間がかかる」という調査遅延の連絡を再度日本側にしてきた[16]。菅官房長官は翌日の記者会見で「具体的な行動を引き出すのに何が一番効果的か、あらゆる検討を行っている。いつまでも引き延ばしていくわけにはいかない」と述べたが、その後も北朝鮮側からの肯定的な動きはなかった[16]

同年8月6日ASEAN地域フォーラムの機会を利用して、岸田文雄外相と北朝鮮の李洙墉外相による日朝外相会談が行われたが、北朝鮮側からは「ストックホルム合意に基づき特別調査委員会は調査を誠実に履行している」との応答があっただけであった[16]。日本政府は、李洙墉外相が金正恩朝鮮労働党第一書記と近い関係にあると見ていたが、その後も合意履行の進展はみられなかった[16]

2015年9月9日、北朝鮮の宋日昊大使は共同通信社とのインタビューに応じ、拉致事件の報告書はほぼ完成していると語った[19]

北朝鮮の核実験・ミサイル発射と特別調査委員会の解体(2016年2月-)

2016年1月6日、北朝鮮は核実験を行い、同年2月7日、「人工衛星」と称する弾道ミサイル(「光明星」)の発射を行った[2][3][20]。これに対し、日本政府が再び北朝鮮に独自の対北朝鮮制裁を強化することを決定すると、同年2月12日、北朝鮮は包括的調査の全面中止と特別調査委員会の解体を一方的に宣言した[2][3][注釈 3]

日本は北朝鮮に対し厳重に抗議したうえで、ストックホルム合意を破棄する考えはないこと、北朝鮮が同合意に基づいて一日も早く全ての拉致被害者を帰還させるべきことについて、強く要求した[3]

北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(通称「家族会」)の人びととトランプ米大統領・日本の安倍首相
2017年11月6日迎賓館赤坂離宮にて

その後も日本政府は北朝鮮に対し、日本の基本的な考えを繰り返し伝えている[3]2018年2月の平昌冬季オリンピック開会式の際の文在寅韓国大統領主催レセプション会場において、安倍晋三首相は金永南最高人民会議常任委員長に対し、拉致問題、核問題ミサイル問題を取り上げて日本側の意向を伝え、特に拉致被害者の全員帰国を含め、拉致問題の解決を強く申し入れた[3]

また、ドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領は、安倍首相からの要請を受け、2018年6月(シンガポール)と2019年2月(ハノイ)の2度にわたって開かれた米朝首脳会談において北朝鮮の金正恩第一書記に対して拉致問題を直接取り上げた[3]。しかし、北朝鮮の公式メディアは、米朝首脳会談で拉致問題が提起された後も「拉致問題は解決済み」という主張を繰り返している[22]

ストックホルム合意とは何だったのか

松原質問

以上みてきたように2014年5月に合意されたストックホルム合意は、公式には、1つの「随時通報」もなく、拉致問題に関して何ら成果を上げることができなかった。

これについて、2016年3月28日第190回国会常会)において民進党松原仁衆議院議員が政府に対し、「菅官房長官は、北朝鮮の調査委員会による調査が1年を超えることはないと説明したが、政府は1年を経過した時点で、一部解除した対北朝鮮制裁措置を再び科すことをしなかった」ことなどを指摘し、調査期限についての3つの質問と「なぜ政府はこの期に及んでストックホルム合意を破棄しないのか」という質問を行った[23]。これに対し、安倍首相は「合意を破棄するつもりはない」と答弁した[24]

家族や「救う会」の受け止め

北朝鮮は2002年の日朝首脳会談で日本人拉致を認め、被害者5人が帰国したが、残された被害者については「死亡した。後は関知していない」と説明し、横田めぐみと松木薫に関しては、のちに「死亡診断書」や「遺骨」の捏造まで行われた[17]。ストックホルム合意では同じ轍を踏まないよう政府に訴えていた横田早紀江(めぐみの母)は、2017年の産経新聞の取材に応じて「真意がどこにあるか理解できない。ストックホルム合意とは一体、何だったのか…」との感想をもらしている[17]

2021年12月18日に故人となった飯塚繁雄

北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(通称「家族会」)代表の飯塚繁雄田口八重子の兄)は、合意内容について「拉致被害者を帰す明確な項目がない」と疑義を呈し、「このままでは『茶番劇』とそしりを受けても仕方ない」と指摘した[17]

増元照明増元るみ子の弟)は、ストックホルム合意の前後、北朝鮮に対して国際連合総会で人権侵害を国際刑事裁判所(ICC)に付託するよう勧告する決議案が相次いで採択されていたことから、「最高指導者が人道の罪で名指しされるなど、北朝鮮当局は国際的圧力に強い危機感を持っていた。人権に真剣という姿勢を見せようと、合意に動いたのでは」と推測する一方、「進展がないのに、日朝平壌宣言やストックホルム合意にこだわり続けるのは理解できない」とし、北朝鮮を支持する国内団体への厳しい対処のほか「関係者の日本再入国禁止など厳格な『圧力』が必要。日本の意思を、態度で示すべきだ」という意見を表明した[17]

北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称「救う会」)の西岡力は、北朝鮮側では「拉致被害者を帰さなくても日本からカネや物、経済支援をとれる。金正恩朝鮮労働党委員長はそう報告を受け決裁を下した」と推測する一方、日本側も拉致被害者帰国という「具体的成果を見込んだ」結果、双方がたがいの意図を理解せず、合意を公表したという見方を示した[17]。そして、「北朝鮮が被害者全員を帰す決断のない合意に意味はなかった」「調べたら実はまだ被害者がいたというエクスキューズを北朝鮮に与え『出口』とすることにのみ合意の意味がある」との考えを示した[17][注釈 4]

自身拉致被害者である蓮池薫は、拉致被害者の安否確認について、「北朝鮮は調査すると言うが、どこに誰が暮らしているかはすべて把握しているので必要ない」と指摘している[25][注釈 5]

田中実・金田龍光の生存情報

拉致被害者、田中実
菅義偉(2020年撮影)

以上みてきたように、ストックホルム合意以後、拉致被害者の安否情報は皆無とされてきたが、2018年3月16日、神戸市の元ラーメン店員で拉致被害者の田中実が北朝鮮に「入国していた」という情報が2014年以降の日朝両国の接触で北朝鮮側から非公式に伝えられていたことが判明した[26][27]。また同時に、田中と同じ児童養護施設出身で同じラーメン店ではたらいていた「拉致の可能性を排除できない」特定失踪者、金田龍光(韓国籍[28])の入国も認めていたことが明らかになった。

2019年2月、田中が結婚して妻子とともに平壌市内で生活し、金田にも妻子がいることが、北朝鮮から日本側に伝えられていたことが報じられた[29][30]。いずれも日本政府関係者が明らかにしたことで、非公式にではあるが複数回、北朝鮮側から伝えられたものだという[29]。本人たちに「帰国の意思はない」ということであるが、日本政府側はかれらと面会していない[29]

安倍首相は、この報道の真偽について、2020年1月31日第190回国会(常会)における立憲民主党有田芳生衆議院議員から受けた質問に対し、肯定も否定もせず、「今後の捜査・調査に支障を及ぼすおそれや関係者のプライバシーを侵害するおそれを考慮する必要があることから、お答えを差し控えたい」と答弁している[31]

以上、政府見解としては田中・金田両名の生存情報については肯定も否定もせずコメントしないという態度であったが、2021年8月、古屋圭司拉致担当大臣が両名の生存情報と日本政府がそれを受け取らなかったことを認めた[32]。さらに2022年9月、当時の齋木昭隆外務事務次官も同じ事実を認めた[33]。この件については、2022年9月17日、複数の交渉関係者からの情報として、日本政府が2014年から2015年頃にかけて、北朝鮮からこの2名について「一時帰国」の提案を受けていたものの、当時、安倍首相が提案に応じれば拉致問題の幕引きを狙う北朝鮮のペースにはまりかねないと主張し、拒否していたことが報じられている[34]

のちの取材によれば、北朝鮮側は田中・金田について上記のような報告書を出し、それには田中・金田以外の被害者に関する新しい情報はなかったという[20]。担当した伊原純一アジア大洋州局長はその場で受け取らず、口頭で聞いた内容をノートにメモし、日本政府として報告書を受け取るかどうかの返答を保留して首相に報告、その判断を仰いだ[20]。安倍首相は政権幹部らと協議したが、そのなかで菅義偉内閣官房長官は、「これでは国民に説明できない」として報告書を受け取るべきではないと強く主張し、安倍首相もこれを同意して北朝鮮側に調査の継続を求めることにしたのだという[20]

今後の課題と展望

2017年4月、宋日昊(朝日国交正常化交渉担当大使)は、平壌訪問中の日本人記者団に対し、日本の要望があれば残留日本人問題に取り組む用意があるとした上で、拉致問題について「誰も関心がない」と言い切った[17]。こうした発言や繰り返される「拉致は解決済み」発言などには、日本と協議することによって多額の過去清算資金を得たいという思惑がみえるとの指摘がある[17][22]。西岡力は、北朝鮮は、拉致についてゼロ回答では日本からカネを取れないことを理解しているが、一方、秘密を知っている横田めぐみたちを生きて返したくないという諜報サイドの企みもあり、今後はいっそう対日工作活動を本格化させるだろうと予測した[22]。具体的には「国交正常化後に拉致問題を解決」という意見や「平壌に連絡事務所を置いて日朝合同調査をおこなう」という意見を表明する政治家・官僚が日本国内にいることを指しており、連絡事務所を作って日朝が合同調査をすることは、2002年に北朝鮮が発表した「被害者死亡」の確認作業をするのに等しい行為であると西岡は指摘している[22]

なお、石破茂は内閣総理大臣就任(2024年)以前より、拉致問題解決のために東京と平壌に連絡事務所を置くことを提案しているが[22]、その是非に対して、産経新聞は2025年7月にアンケートを行っている[35]。これによれば、事務所設置に賛成したのは、日本共産党れいわ新選組社会民主党みんなでつくる党再生の道の5党派、事務所設置に反対が立憲民主党国民民主党参政党日本維新の会日本保守党NHK党の6党派で、自由民主党公明党は「その他(家族に寄り添うべき)」であった[35][36]

古屋圭司(2023年撮影)
荒木和博(2009年撮影)

田中実・金田龍光の生存情報を政府が受け取らなかったことについては、2人は政府に「見捨てられた」「黙殺」されたという受け止めも、当然のことながら、非常に強いものがある[37][38]。立憲民主党の西村智奈美議員も2022年10月5日の衆議院本会議で、「交渉の過程を全て明らかにせよというつもりはないが、帰国の可能性がこのまま封じられて良いとは到底思えない」と述べた[37]。拉致された2人が日本に身寄りのない人たちだから見捨てるというのは差別ではないかという指摘もあり、実際には定年から死ぬまでずっと拉致被害者を待ち続けた高校時代の担任、そして、いまも待ち続けている同級生たちがいる[38]。また、家族がいなくて「家族会」に入れないのならば、代わりに自分たちが声を上げようと救出を訴える集会もひらかれている[39]。「命に変わりはない」と政府の責任を問う声も広がっている[40]

ただ、ほとんどが水面下の交渉となる日朝間で、「水面下の交渉が水上に上がってしまったら、もはや水面下じゃないんですよ。それがもし万が一水面上に出てきてしまったら、あの国は彼らはみんな粛清されますよ」(古屋圭司)、「非公式の接触で北朝鮮が田中さん、金田さんが生きていると言ったということは事実のようです。そのときの条件がこれで拉致問題を終わりにすることだった。だから飲めなかったんだと安倍総理は私に直接説明しました。1人でも生きている人が残されて、そしてこれで終わりにするということは認められない」(西岡力)…これらの言葉からは、交渉当時の政府としても苦渋の選択だったことがうかがわれる[38]

「家族会」と「救う会」はすべての拉致被害者の即時一括帰国を掲げているが、特定失踪者問題調査会(通称「調査会」)代表の荒木和博は1人でも2人でも取り返せるところは取り返して、それを足掛かりに次に進むべきであるとの考えに立っている[38]。荒木らは2024年4月24日日本弁護士連合会に人権救済を申し立て、田中実・金田龍光に関する情報を開示し、2人の速やかな帰国をはかるよう、日弁連から日本政府に要望するよう求めた[41]。また、2025年2月19日衆議院第一議員会館で開催された研究会において、荒木は「少なくともストックホルム合意から何も動かないまま11年が経ってしまった今日、北朝鮮が返せると伝えてきた2人については北朝鮮側に帰国させるよう求めるべきではないでしょうか」と発言している[42]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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