1968年8月10日の小倉でデビューすると、ほぼ休み無く走り続け翌年の皐月賞にも出走歴がある(22着)。その後も毎日杯の2着がある程度の成績であり、京都杯では12頭立ての最低人気であった。しかし、不良馬場を活かしての大逃げで2着アカネテンリュウに9馬身差の圧勝を飾った。続く菊花賞ではハクエイホウらの存在でハナに立てず、3コーナーで一杯になり20着に敗れた。
障害入りしたのは1970年の2月から8月の間であるが、すべて圧勝。10戦10勝の成績を残した。
しかし、脚部不安を発症して長期休養に入り、再び出走する事が無いまま1972年に登録を抹消、地方競馬へ転出した。
その後の消息は不明である。