ジンジャー・ビューモン
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
ウィスコンシン州ロチェスター |
| 生年月日 | 1876年7月23日 |
| 没年月日 | 1956年4月10日(79歳没) |
| 身長 体重 |
5' 8" =約172.7 cm 190 lb =約86.2 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 外野手 |
| 初出場 | 1899年4月21日 |
| 最終出場 | 1910年10月15日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ジンジャー・ビューモン(Clarence Howeth "Ginger" Beaumont、 1876年7月23日 - 1956年4月10日)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ロチェスター出身のプロ野球選手(外野手)。右投げ左打ち。
ニックネームの"Ginger"(ジンジャー)は『赤毛』の意味。1901年からのパイレーツのリーグ3連覇の頃のリードオフマンで、1902年に首位打者となった。
ベロア大学を卒業後、1899年にピッツバーグ・パイレーツに入団する。1年目から持ち前の俊足を発揮し、111試合に出場して.352の打率を記録する。ビューモンは長打は少ないものの足でヒットを稼ぐタイプで、1899年7月22日の試合では内野安打ばかり6安打で6得点を記録したそうである。1906年までパイレーツのリードオフマンをつとめ、パイレーツがナショナルリーグを3連覇する1901年から1903年にかけては、3年続けて打率.330以上、180安打以上、100得点以上という成績を挙げた。この間、1902年には.357でナショナルリーグの首位打者を獲得、また1902年から1904年には3年続けてのリーグ最多安打、1903年にはリーグ最多得点を記録した。
1906年以降は度重なる足の怪我に悩まされるようになる。同年は80試合に出場したのみで、オフにエド・アッバティッチオとのトレードでボストン・ダブスに移籍した。1907年はフルシーズン復活し自身4度目となるリーグ最多安打と、.322の打率を残す活躍をしたが、以後目立った活躍ができず1910年にシカゴ・カブスに移籍。この年のワールドシリーズにも出場したが、3度の代打のみの出場に終わった。
1911年に1年マイナーリーグで活動した後引退し、その後は故郷ウィスコンシンのハニークリークで農場を経営していた。1951年に、この年創設されたウィスコンシン州スポーツ殿堂の最初の殿堂入り表彰者の一人となったが、ほどなく脳出血で倒れた後、1956年に79歳で死去した。後年、故郷ウィスコンシン州のバーリントンの野球場に、彼にちなんだ名前がつけられた。