ヒュー・ダフィー

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ヒュー・ダフィー
Hugh Duffy
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロードアイランド州クランストン
生年月日 1866年11月26日
没年月日 (1954-10-19) 1954年10月19日(87歳没)
身長
体重
5' 7" =約170.2 cm
168 lb =約76.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
初出場 1888年6月23日
最終出場 1906年4月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
殿堂表彰者
選出年 1945年
選出方法 ベテランズ委員会選出

ヒュー・ダフィー(Hugh Duffy, 1866年11月26日 - 1954年10月19日) は、アメリカ合衆国ロードアイランド州クランストン出身のプロ野球選手外野手)。右投げ右打ち。

ニックネームは"Sir Hugh"(ヒュー卿)。19世紀の参考記録扱いながら、シーズン打率.440を記録した。

1888年シカゴ・ホワイトストッキングスでデビューし、2年目からレギュラーの右翼手となった。1890年に結成されたプレイヤーズ・リーグに移籍し、シカゴ・パイレーツでリーグの最多安打と最多得点を記録する活躍を見せたが、プレイヤーズ・リーグは1年で解散。1891年アメリカン・アソシエーションのボストン・レッズでプレーし、この年は110打点を上げリーグ打点王になっている。

1892年ナショナルリーグボストン・ビーンイーターズに移籍、この頃には打率3割以上をコンスタントに打てる打者になっていた。更に1893年に投手-本塁間の距離を現在と同じ60フィート6インチとするルール改正によって打率は更に上昇し、1893年には131試合で203安打を放ち.363の打率を残す。翌1894年はキャリア最高の年で、125試合で237安打し、近代野球以前のメジャーリーグシーズン歴代最高打率.440を記録するなど、安打数、打点、本塁打、二塁打数でリーグ最高の数字を記録した。[1]。この年ダフィーが「三冠王」であったことは、後年になって記録を調べなおされた際、判明する。打点はサム・トンプソンが147打点で1位であるとする説もあったが[2]、さらに後年、サム・トンプソンの打点が見直されて149打点となったため、ダフィーは三冠王ではなくなった。

同年のオフ、彼は当然年俸が上がると思って交渉の席についた。しかしオーナーのアーサー・ソーデンはなんとそれを拒否した。翌年彼が.352を打つと、ソーデンはようやく重い腰を上げた。しかしその額はたったの150ドルだった。そしてソーデンは彼をキャプテンに任命した。チームの規定で、器具がなくなっていたりしたら彼が代金を支払うことになっており、シーズン終了後彼は150ドル以上の代金を支払わされることになったという。

当時ボストンはダフィーと後に殿堂入りするトミー・マッカーシーの二人の外野手が突出した活躍をしており、彼らは"ヘブンリー・ツインズ"(ふたご座の意)と呼ばれていた。1895年にマッカーシーはチームを離れ、「ふたご座」の後釜にはビリー・ハミルトンが座る。彼らがチームを牽引し、1890年代にボストンは5度のリーグ制覇[3]を成し遂げる。

1897年にリーグ最多の11本塁打を放つなど、1900年までボストンに在籍、その後1901年に、アメリカンリーグミルウォーキー・ブルワーズで選手兼任監督となるが、チームの成績は振るわなかった。先の移籍とあわせ、4つのリーグでプレーしたことになる。

1902年と1903年に一時メジャーリーグからはなれ、1906年にフィリーズで引退。以後ホワイトソックスやレッドソックス、マイナーリーグの監督等を歴任したが、優勝争いに顔を出すことは少なかったようである。1920年にマイナーリーグのトロントを指揮した時には、7割を超える勝率を上げたものの、2位に終わった。メジャーリーグに最後に関わったのは1939年で、この時はレッドソックスの一塁コーチを務めていた。

1945年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1954年ボストンにて死去。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1888 CHC 71308298608410471234113---9-132-.282.305.413.718
1889 136632584144182217122538952---46-230-.312.364.433.797
1890 CHI 137657596161191361672808278---59-220-.320.384.470.853
1891 BOS 127601536134180208924311085---61-429-.336.408.453.861
1892 BSN 147673612125184281252518151---60-137-.301.364.410.774
1893 131611560147203237625811844---50-113-.363.416.461.876
1894 12561653916023751161837414548-10-66-115-.440.502.6941.196
1895 131618533112188306925710042-16-65-417-.353.427.482.909
1896 13160152797158168520511339-20-52-219-.300.365.389.754
1897 13462155013018725101126512941-13-52-617-.340.403.482.885
1898 15264556897169133821210829-17-59-113-.298.365.373.738
1899 147641588103164297522210226-11-39-313-.279.327.378.705
1900 552021812755542743111-5-16-05-.304.360.409.769
1901 MLA 79314285408615921254512-12-16-17-.302.341.439.780
1904 PHI 18594610131101653-0-13-01-.283.441.348.789
1905 1541407122101630-0-1-00-.300.317.400.717
1906 11100000000-0-0-00-.000.000.000.000
通算:17年 1737784170441554229332511910631741302574-*104-664-29268-.326.386.451.837
  • 「-」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
  • 太字はリーグ1位、赤太字は歴代最高。
  • 1902 - 1903年は試合出場なし。

タイトル

記録

  • シーズン打率史上1位:.440(1894年)[4]
  • 1イニング最多出塁:3回(1894年6月18日

監督としての戦績



















1901MLAAL1394889.3508位選手兼任
1904PHINL15552100.3428位
19051558369.5464位
19061547182.4644位
1910CWSAL1566885.4446位
19111547774.5104位
1921BOS1547579.4875位
19221546193.3968位
通算成績1221535671.444

脚注

関連項目

外部リンク

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