トミー・デービス (外野手)
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1939年3月21日 |
| 没年月日 | 2022年4月3日(83歳没) |
| 身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 195 lb =約88.5 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 外野手、三塁手、一塁手 |
| プロ入り |
1956年 アマチュアフリーエージェント (ブルックリン・ドジャースと契約) |
| 初出場 |
1959年9月22日 ロサンゼルス・ドジャース (対セントルイス・カージナルス戦) |
| 最終出場 |
1976年10月2日 カンザスシティ・ロイヤルズ (対ミネソタ・ツインズ戦) |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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トミー・デービス(Herman Thomas "Tommy" Davis:ハーマン・トーマス・デービス、1939年3月21日 - 2022年4月3日[1])は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン区出身の元プロ野球選手(外野手、三塁手、一塁手)である。1959年から1976年までMLBでプレイし、ロサンゼルス・ドジャースやボルチモア・オリオールズ等で活躍した。
ドジャース時代 (1956 - 1966)
1956年、当時のブルックリン・ドジャースとアマチュアのフリーエージェント選手として、契約を結んだ。
1959年、対セントルイス・カージナルス戦で代打としてメジャーデビューを果たした。メジャー初打席は三振に終わった[2]。
1960年、外野のユーティリティ・プレイヤーとしてメジャーに定着し、110試合に出場して打率.276・11本塁打・44打点・6盗塁という成績を残した。外野の3ポジション以外にサードの守備に就く機会もあった。シーズンオフのルーキー・オブ・ザ・イヤー (NPBの新人王に該当) の投票で5位にランクインした (同年の受賞者はフランク・ハワード)[3] 。
1961年は、サードでの出場が最も多く (59試合) 、次いでレフト (44試合) だった。サードでは13失策・守備率.901という守備成績に終わり、不安定な守備だった。打撃面では15本塁打を放ったほか、10盗塁を決めて「10本塁打・10盗塁」を同時に記録した。
1962年は、前半戦終了時点で87試合に出場して打率.353・15本塁打・90打点と打ちまくり[4]、ナ・リーグオールスターのメンバーに選出された。同試合には「5番・レフト」でスタメン出場したが、ヒットは出なかった[5]。オールスター明けも調子を維持し、最終的には打率.346・153打点を記録してナ・リーグの二冠 (首位打者と打点王) に輝いた。だが、シーズンオフのMVP投票では、リーグ最多の165試合に出場して104盗塁 (ナ・リーグの盗塁王) を決めたチームメイトのモーリー・ウィルス、49本塁打を放ち本塁打王になったウィリー・メイズに敗れ、3位に終わった[6]。なお、この年から本格的に正左翼手に定着し、他のポジションを守る機会は減少していった。
1963年も、前年ほどではないが好調を維持し、2年連続でのナ・リーグオールスターメンバー選出、ナ・リーグの首位打者となった。この年、チームはワールド・シリーズを制し、世界一に輝いた。
1964年は152試合に出場したが打率.275に終わり、過去2年と比べると大幅に成績を落とした。翌1965年は故障の為、僅か17試合の出場に終わった。1966年は100試合に出場し、打率.313と復活の兆しを見せた。シーズンオフの11月29日に、トレードでニューヨーク・メッツに移籍となった[7]。
度重なる移籍 (1967 - 1976)
メッツ加入1年目のシーズン、154試合の出場で打率.302・16本塁打・73打点・9盗塁を記録し、前年の打率.300超えがフロックでない事を証明、見事に復活した格好となった。だが、12月15日に自身2度目のトレード要員となり、シカゴ・ホワイトソックスに放出された[7]。
1968年、ホワイトソックスでは132試合に出場したが、打率.268・長打の合計本数が僅か16本に終わり、大きく成績を落とした。同年10月15日、エクスパンション・ドラフトの対象となり、新加入チームのシアトル・パイロッツ (現ミルウォーキー・ブルワーズ) に移籍する事になった[7]。
