ラリー・ドイル
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | イリノイ州ケイシーヴィル |
| 生年月日 | 1886年7月31日 |
| 没年月日 | 1974年3月1日(87歳没) |
| 身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 165 lb =約74.8 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 二塁手 |
| 初出場 | 1907年7月22日 |
| 最終出場 | 1920年10月2日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ローレンス・ジョゼフ・"ラリー"・ドイル(Lawrence Joseph "Larry" Doyle、1886年7月31日 - 1974年3月1日)は、アメリカ合衆国イリノイ州ケイシーヴィル出身の元プロ野球選手(二塁手)。右投げ左打ち。
ニックネームは"Laughing Larry"(ラフィン・ラリー)。ナショナルリーグ3連覇の頃のニューヨーク・ジャイアンツのキャプテンを務め、1912年にはリーグ最優秀選手に選ばれた。
炭鉱夫の息子として生まれ、自身も少年期にはイリノイ州の炭鉱で坑夫として働いていた。1907年にマイナーのスプリングフィールド球団からニューヨーク・ジャイアンツに入団、当初は三塁手だったが、メジャーではジョン・マグローの進言で二塁にコンバートされ、以後二塁以外のポジションについたことはなかった。2年目からジャイアンツのキャプテンを務め、守備率が低くエラーの多かったドイルを起用するマグローにも批判があったが、ドイル自身は3年目の1909年から打撃面・走塁面での活躍するようになり、この年はリーグ最多の172安打を記録、またこの年から1913年まで5年連続の30盗塁以上を記録した。
ジャイアンツがナショナルリーグを3連覇する間、ドイルは1911年にリーグ最多の25本の三塁打と102得点を記録、次の年の1912年には打率.330を記録し、リーグの最優秀選手に選ばれる。チームは1913年まで3年続けてワールドシリーズに出場するも、アメリカンリーグのフィラデルフィア・アスレチックスやボストン・レッドソックスの前に屈し、ドイル自身は一度もワールドシリーズ制覇を経験することがなかった。1913年オフには、ジョン・マグローらが率いる「世界周遊野球チーム」に参加し、日本でも試合を行っている。
その後1915年にはリーグ最多の189安打と.320の打率を残しナショナルリーグの首位打者となったが、翌1916年のシーズン終盤にヘイニー・ジマーマンらとの交換でシカゴ・カブスにトレードされる。カブスには1年在籍後、1918年にジャイアンツに復帰、1920年まで選手を務めた後引退。引退後1942年に結核を発症したあとは、ニューヨーク市郊外のサラナク湖岸で長く療養生活を送った。1974年に87歳で死去。