シェリー・マギー
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1884年8月6日 |
| 没年月日 | 1929年3月13日(44歳没) |
| 身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 179 lb =約81.2 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 外野手 |
| 初出場 | 1904年6月29日 |
| 最終出場 | 1919年9月27日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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シェリー・マギー(Sherwood Robert "Sherry" Magee、1884年8月6日 - 1929年3月13日)は、主に1900~1910年代に活躍したアメリカ合衆国のプロ野球選手。ポジションは外野手。ペンシルベニア州クラレンドン生まれ。右投げ右打ち。
1900~1910年代のフィリーズの主力選手で、ナショナルリーグで首位打者1回、4度の打点王となった。
ペンシルベニア州で油田労働者の息子として生まれる。1904年、19歳の時に当時のフィラデルフィア・フィリーズのスカウトの目にとまりフィリーズに入団。6月の終わりには怪我をした正外野手ジョン・テトスの代役としてメジャーの試合に出場する。1年目は95試合出場で、チーム最多の12本もの三塁打を放ち、以後フィリーズのレフトのレギュラーを不動のものとした。
2年目からは持ち前の俊足と強打を発揮するようになった。1905年から1908年まで4年連続で40盗塁を記録したほか、1906年には長打数がリーグトップとなった。二塁打数は1906年から1910年まで5年続けてリーグ2位の数字を残す。1907年にはリーグ最多の85打点を上げるなど、毎年高いレベルの数字を残した。1910年には首位打者のタイトルを獲得、この年は出塁率及び長打率でもリーグ1位となり、同じ年に挙げた123打点、110得点もリーグ最多の数字を残した。外野守備もうまく、当時のマギーは背走してボールをとる背面キャッチを得意にしていたそうである。
フィリーズのスター選手となったマギーだったが、一方で勝負へのこだわりからか、周辺としょっちゅうトラブルを起こすようにもなっていたそうである。1911年のセントルイスでのゲームでは、判定に不服を言って退場処分を受けたこの試合の主審ビル・フィネランを殴って鼻を折る怪我を負わせ、罰金と出場停止処分を受けている。それ以外にも地元フィラデルフィアのファンの中には、マギーを「チームのためでなく自分の記録のために野球をやっている」とか「マギーがいるからフィリーズは優勝できない」など非難するものも多かったそうである。しかし1914年シーズンにマギーはチームキャプテンに指名されると、この年自身3度目となるリーグ最多打点に加え、最多安打、最多二塁打などの記録を残し、早々と優勝争いから脱落していたチームを牽引する役目を果たした。
1915年のシーズンが始まる前、マギーは前年ワールドシリーズを制したボストン・ブレーブスに移籍するが、スプリングトレーニングでいきなり怪我を負い、打率も.241にとどまるなど活躍できず、翌年にはシンシナティ・レッズに移った。1918年シーズンには第一次世界大戦中で徴兵された選手もいる中、76打点で自身4度目となるリーグ最多打点を記録する。しかし1919年シーズンは重い病気で2ヶ月試合に出られず、若手選手にレギュラーの座を奪われた。この年レッズはリーグ優勝を果たし、マギーは自身最初で最後のワールドシリーズに代打として出場、同年メジャーリーグから退いた。
メジャーリーグ引退後もマギーはマイナーリーグでしばらくプレイし、その後リーグの審判やニューヨーク・ペン・リーグの運営などに携わっていたが、1929年に肺炎のため死去。2009年のアメリカ野球殿堂入り選考の際候補者の一人となった。