ディーコン・ホワイト

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ディーコン・ホワイト
Deacon White
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ケイトン
生年月日 1847年12月7日[1]
没年月日 (1939-07-07) 1939年7月7日(91歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 捕手三塁手右翼手
初出場 1871年5月4日
最終出場 1890年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • クリーブランド・フォレストシティーズ (1872)
  • シンシナティ・レッズ (1879)
殿堂表彰者
選出年 2013年
得票率 87.5%
選出方法 ベテランズ委員会選出

ジェームズ・ローリー・ホワイト(James Laurie "Deacon" White、 1847年12月2日[2] - 1939年7月7日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ケイトン出身のプロ野球選手内野手捕手)。右投げ左打ち。

アメリカのプロ野球リーグ誕生から20年間選手として活躍、ナショナル・アソシエーション時代を含め首位打者2回、最多打点を3回獲得した。

ホワイトは1868年にクリーブランドのフォレストシティ・ベースボール・クラブにプロの選手として所属し、主に捕手を務めていた。所属するフォレストシティ・クラブは、1871年にナショナル・アソシエーションが創設された際1年目からリーグに参加し、ホワイトは1871年と1872年にそれぞれ3割を超える打率を残したが、チームは成績が芳しくなく2年でリーグを脱退し破綻する。翌1873年にはハリー・ライトの誘いでボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)に参加、3年目にリーグ最多の77打点と.390の打率を記録、また1875年にはリーグ最高打率となる.367を記録するなど、ボストンのリーグ連覇を牽引する役割を担った。

1876年ナショナルリーグが設立された年には、1年間シカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)に参加、アルバート・スポルディングキャップ・アンソンロス・バーンズらとともにナショナルリーグ初代優勝の立役者の一人となる。この年ホワイトはリーグ最多の60打点を上げ、ナショナルリーグの初代「打点王」にもなった。[3]翌1877年はボストンに復帰し、同年打率(.387)、安打数(103)、打点(49)、三塁打数(11)の4つの部門でリーグトップとなる成績を残し、ここでもボストンをリーグ優勝に導いた。

その後はシンシナティに3年間、バッファローに5年間在籍し、1885年オフにバッファローが解散した際7,000ドルの金銭と引き換えにダン・ブローザースら4選手(当時「ビッグ・フォー」と呼ばれていた)とともにデトロイト・ウルバリンズに移籍した。大幅に補強されたウルバリンズは1887年にナショナルリーグ優勝を飾ったが、翌1888年に年俸高騰などの理由から、球団はホワイトら選手の所有権を一方的にピッツバーグ(現パイレーツ)に売り渡すなどした。ホワイトはこれに異議を唱えて長い間法廷で争ったが、結局は翌1889年のピッツバーグ(現パイレーツ)でのプレーを強要されることになった。1890年に42歳でプレイヤーズ・リーグに参加、122試合に出場し、この年を最後に選手を引退した。1939年にイリノイ州で91歳で他界。

ホワイトの活躍は長く歴史に埋もれていたが、2008年にアメリカ野球殿堂のベテランズ委員会による、殿堂入り投票の候補者の一人としてその名前が挙がった。

2013年ベテランズ委員会の選考により、アメリカ野球殿堂入りを果たした。

人物

ホワイトは信心深く、いつも聖書を持ち歩き教会通いを欠かさなかった。また顔は面長でいつも物憂げな表情を見せ、「セイウチのような」口髭を蓄えた風貌は、とてもプロの野球選手には見えなかったという(Baseball Libraryより)。いつも節度のある態度で振る舞い、煙草は吸わなかった。年俸や移籍の自由がなかった当時の野球選手たちの権利を訴え、1880年代にジョン・モンゴメリ・ウォードの呼びかけによる野球選手組合の設立にも積極的に関わっていた。当時の著名な選手達の多くと同じチームでプレーし、またその長い現役生活とあいまって、多くの選手達からも尊敬されていたという。

またリー・アレンの著書(The National League Story,1961)によれば、ホワイトは最後まで地球は平らだと信じていた一人だったそうである。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1871 CFC 291501464047651662122--4--10.322.340.452.792
1872 221131092137220432200--4--10.339.363.394.757
1873 BSN 6031131179122178115877193--0--21.392.392.508.900
1874 70357352751065731345211--5--05.301.311.381.692
1875 803743717613623311686023--3--22.367.372.453.824
1876 CHC 6631030366104181112760----7--3-.343.358.419.777
1877 BSN 59274266511031411214549----8--3-.387.405.545.950
1878 CIN 6126825841814108729----10--5-.314.340.337.677
1879 7833933355110166114152----6--9-.330.342.423.766
1880 351501412142420507----9--7-.298.340.355.695
1881 BUF 783283195899244013153----9--8-.310.329.411.740
1882 833523375195170111533----15--16-.282.313.341.654
1883 9441439162114145013847----23--18-.292.331.353.684
1884 110484452821471611520074----32--13-.325.370.442.812
1885 984164045411866013657----12--11-.292.313.337.649
1886 DTN 124522491651421951174769---31--35-.289.331.354.686
1887 11148444971136201131877520---26-915-.303.353.416.770
1888 1255575277515722542017112---21-924-.298.336.381.717
1889 PIT 552452253557101069262---16-418-.253.314.307.621
1890 BUF 122525439621141340135473---67-1930-.260.381.308.688
通算:20年 1560697366241140206727098242605988*70*9--308-*41221*8.312.346.393.740
  • 「-」は記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
  • 太字はリーグ1位。

タイトル

表彰

投手記録

  • 通算:2試合、0勝0敗、投球回10.0、奪三振3、被安打19、被本塁打0、防御率7.20

年度別監督成績

※順位は年度最終順位

年度チームリーグ試合勝利敗戦勝率順位備考
1872年CFCNA202.0007位8月17日~、選手兼任
1879年CINNL1899.5005位開幕~6月7日、選手兼任
通算20911.450

脚注

関連項目

外部リンク

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