ラリー・ダーカー
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2014年 | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | カリフォルニア州ハリウッド |
| 生年月日 | 1946年9月22日(78歳) |
| 身長 体重 |
6' 4" =約193 cm 215 lb =約97.5 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1964年 |
| 初出場 | 1964年9月22日 |
| 最終出場 | 1977年10月1日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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ローレンス・エドワード・ダーカー(Lawrence Edward Dierker, 1946年9月22日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ハリウッド出身の元プロ野球選手(投手)・監督。右投右打。
選手時代
1964年に17歳でヒューストン・コルト45'sと契約。18歳の誕生日である同年9月22日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビュー[1]し、初回にウィリー・メイズから三振を奪った。新球場アストロドームに本拠地を移し、それに伴いチーム名がアストロズに変更された1965年は7勝、1966年は6月14日のロサンゼルス・ドジャース戦でメジャー初完封を達成するなど10勝を挙げる。1967年は故障で6月21日を最後に離脱し6勝に留まるが、1968年は12勝15敗・233.2イニングを記録。1969年は前半戦で12勝を挙げ、オールスターゲームに初めて選出される。20勝13敗・防御率2.33・232奪三振、2012年現在も球団記録の305.1イニング・20完投を記録し、球団初の20勝投手となった。1970年は16勝12敗・防御率3.87の成績。1971年は5月までに9勝を挙げるなど前半戦で12勝を記録し、2度目のオールスターゲームに選出されるが故障のため登板はなく、8月8日を最後に離脱した。1972年は5月の3完封を含め前半戦だけで5完封を記録し、15勝8敗・防御率3.40だった。1973年は肩の故障で出遅れ、復帰後もリリーフとしての登板が多く1勝に終わる。1974年は先発に戻り、11勝10敗・防御率2.90と復活。1976年7月9日のモントリオール・エクスポズ戦でノーヒッターを達成。11月23日に2選手との交換トレードで、1選手と共にセントルイス・カージナルスに移籍。1977年は故障もあって2勝に留まる。1978年3月28日に戦力外通告され、31歳で現役引退。
引退後はアストロズのフロントに入り、1979年からテレビ・ラジオで専属コメンテーターとして活動した。
監督時代
1997年から、選手との確執が原因で退任したテリー・コリンズに代わってアストロズの監督に就任。指導者の経験が皆無だったため起用には疑問の声も上がったが、就任1年目で11年ぶりとなる地区優勝を果たす。アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズでは3連敗で敗退。1998年は球団記録の102勝を挙げて地区連覇。サンディエゴ・パドレスとのディビジョンシリーズでは1勝3敗で敗退するが、ナショナルリーグの最優秀監督賞を受賞した。1999年6月の試合中に意識を失い、検査の結果脳卒中と診断され、手術。1ヶ月後には復帰し地区3連覇を達成。しかしディビジョンシリーズではブレーブスに1勝3敗で、3年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。新球場エンロン・フィールドが開場した2000年は地区4位に終わる。2001年は再び地区優勝を果たすが、ディビジョンシリーズでまたもブレーブスに3連敗で敗退し、解任される。
ヒューストン・アストロズの永久欠番に2002年指定。
2002年5月19日に選手・監督時代を通じて着けていた背番号『49』がアストロズの永久欠番に指定された。2004年から再び解説者として復帰。またアストロズの福祉団体の幹部も務め、自らの野球人生を綴った回顧録を2冊著している。