三願転入
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語義
三願転入の文は、浄土真宗の宗祖親鸞の著書『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)「化身土巻」に以下のように記されている。
ここを以て愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ宗師の勧化に依りて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今、特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよ斯れを喜愛し、特に斯を頂戴するなり。—『顕浄土真実教行証文類』化身土巻
意訳は、以下の通りである。
幸いにも親鸞は、七高僧方のお導きによって、久しく留まっていた弥陀の十九願(万行諸善の仮門)を出て、二十願 (善本徳本の真門)に入った。しかるに今特に、その弥陀の二十願(方便の真門)から、十八願 (選択の願海)に転入させていただいた。選択の願海(十八願)に入ってはじめて、種々に善巧方便されていた阿弥陀仏の、深いご恩が知らされた。この広大な仏恩に報いる一端にもと、弥陀の救いの大切なところを明らかにして、間違いなく皆さんにお伝えしたいと思うばかりである[4]。
親鸞は、衆生摂生の三願に、真実願(十八願)と方便願(十九・二十願)のあることを明らかにされ、方便から真実へと弥陀に導かれ、救われた自らの体験を、上記の「三願転入」のご文に示されている。
三願転入の名称は、直接親鸞が使っていたわけではないが、今日では上記の言葉を、三願転入といわれている。
言葉の語義は、以下の通りである。
- 論主の解義
- 論主は龍樹菩薩、天親菩薩の教え[4]。
- 宗師の勧化
- 宗師は曇鸞、道綽、善導、源信、法然のこと。それらの方の教によって[4]。
- 雙樹林下の往生
- 十九願の通り実行して得られる往生のこと[4]。自力諸善によって行く化土の往生のこと[5]。
- 善本徳本
- 諸善の根本であり、諸功徳の総体にして真実行なる南無阿弥陀仏の名号のこと。善本は『大無量寿経』下巻の修習善本をいい、徳本は、二十願文の植諸徳本をいう。
- 回入
- 十九願より二十願に入ることをいう。今迄の雑行雑善を翻じて念佛門に入る故に回入という。転入と区別されている。
- 難思往生の心
- 難思往生は、二十願の通り実行して得られる結果[4]。能修の心は自力にして、所修の行は阿彌陀佛を称して、化土往生するを難思往生と云う。この往生を願求する心を難思往生の心という[5]。
- 方便の真門
- 方便が、目的を果たすために不可欠な手段[4]。自力策勵の心を以て阿弥陀仏の選び与えられたる弥陀の名号を称すること。二十願の自力念仏のこと。
- 選択の願海
- 四十八願のうち、阿弥陀仏の選び取られた十八願のこと。
- 転入
- 一念(何億兆分の1秒より、もっと短い時間)で救われること[4]。転入は最後の選択本願に帰入されたところにのみに言われている言葉。真実弘願による廃立をあらわしたものであることを注意しておきたい。ゆえに転入とは単なる三願通過の経路を意味するのでなく、方便の意をすべて転捨して、真実弘願に帰入することをあらわすものである[6]。和讃の左訓には「うつりてはいる」とあり。
- 難思議往生
- 阿弥陀仏の浄土に往って仏に生まれること[4]。他力によって与えられた真実信心によって入ることのできる報土往生をいう[5]。報土往生は凡心の思度するところにはなく、言語も及ばないところなので、嘆じて難思義という。
- 果遂の誓
- 必ず十八願の絶対の世界に転入させるという誓い。阿弥陀仏の二十願のこと。二十願文に「果遂せずは、正覚を取らじ」とあることから二十願を「果遂の願」とも名付けられている。
- 良に由あるかな
- 不可欠な御方便だったと知らされた[4]。
- 至徳
- 「至」は無上、「徳」は功徳(幸福にする働き)。南無阿弥陀仏のこと[4]。
- 真宗の簡要
- 阿弥陀仏の救いを明らかにするに大事な教え[4]。
- 不可思議の徳海を称念す
- 他力の信心を得て称える報恩の念仏のこと[4]。
- 頂戴
- 感謝[4]。
図示
わかりやすく図示[7]するならば、
- 十九願 (『要門』:万行諸善の門・自力修善・方便願)
- ↓(回入)
- 二十願 (『真門』:善本徳本の門・法は他力、機は自力・方便願)
- ↓(転入)
- 十八願 (『弘願』):選択の願海・純粋他力・真実願)
ということである。
真仮廃立・従仮入真
なぜ阿弥陀仏は、三願を誓われたのであろうか。阿弥陀仏の本意はあくまで第十八願にあるのであって、十九・二十の両願にあるのではない。
それでは生因三願として、十八願の外に十九・二十の両願を誓われた理由は何れにありやと云えば、それは真仮廃立・従仮入真にありと考えられる。
真仮廃立とは、十九願・二十願と十八願とを対立廃立せしめることによって、十八の他力往生の真義をいよいよ明白ならしめようとするものである。
また従仮入真とは、真仮は単に廃立に止まることなく、十九願・二十願の自力執心の機を導いて、十八の他力往生に入らしめようという、仏大悲の活動である。
「化巻」に「按方便之願、有仮有真」(方便之願を按ずるに仮有り、真有り)とあるは、正しくこれを述べたものと見ることができる[8]。
教行信証の解釈の規範とされた存覚の『六要鈔』には、「果遂の誓」(二十願)の解説の中で以下のように説明されている。
「久出」等とは、万行諸善は是れ聖道の意。双樹林下は是れ『観経』に約す、十九願の意。善本徳本は是れ『小経』に約す、二十願の意。乃ち是れ難思往生の心也。選択本願は是れ『大経』の意、即難思議往生是れ也。「果遂」 等とは、此の如く展転して仮従り真に入る、 方便の門を出でて真実の門に入る、即ち果遂の願の成ずる所也。—『六要鈔』
自力(仮)よりしか他力(真)に入いることのできない、従仮入真について、教えられている。