五ヶ山市助

From Wikipedia, the free encyclopedia

五ヶ山 市助(ごかやま いちすけ、生年不詳  1606年)とは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて井波瑞泉寺下下梨道場(現下梨瑞願寺)の道場主であった人物。苗字高田[1]下梨村市助とも。

加賀藩による五箇山(五ヶ山)統治の初期に代官職(十村)を務めたことで知られ、以後5代にわたって子孫が「五ヶ山市助」の名と代官職を継承している。古文書上では五ヶ山市介とも表記されるが、藩政にかかる文書では「市介」を、寺役や百姓としては「市助」を用いていたようである。

現在の瑞願寺山門。

瑞願寺の由緒によると先祖は楠氏の流れをくむ天台宗の常見坊とされ、本願寺5代綽如の教えを受けて井波瑞泉寺道場坊となり下梨道場を開いたという[2][3]。もっとも、現代の歴史学上では綽如の時代に既に五箇山で真宗が広まっていたとする伝承には否定的で、本願寺8代蓮如の時代に初めて本格的に真宗が浸透したとする見解が主流である。

本願寺8代蓮如は文明年間越前国吉崎御坊に滞在することで北陸地方の門徒を増やし、長らく無住であった井波瑞泉寺にも本願寺の血統が住持として入った。瑞泉寺6代の賢心赤尾の道宗と交流があったとの伝承があり、賢心の時代に五箇山地方で瑞泉寺門徒が形成されたようである[4]。この頃、既に五箇山では本覚寺・専光寺・常楽寺といった越中国外の有力寺院が教線を伸ばしていたが、瑞泉寺は地元の利を活かして庄川沿いに小谷・下梨谷地域に門徒を増やした[5]

五箇山内の瑞泉寺門徒の中心となったのが下梨道場で、修理亮乗者という人物がこの頃道場主であったようである[6]。修理亮乗資は道宗の没後に五箇山の真宗門徒を代表する立場に就いたようで[7]、天文21年10月27日付五箇山衆十日の連中定では連絡 86名の筆頭者として名が記されている[2][6]。また、瑞願寺所蔵古文書の中でも最も古いものとして、本願寺9代証如から下された天文5年(1536年  天文8年(1539年)付けの請取書状が残っている[8]。天正9年(1581年)に井波瑞泉寺が佐々成政の攻撃によって陥落すると、瑞泉寺7代顕秀と弟の維秀は下梨道場へ避難するなど、 井波瑞泉寺にとって下梨道場は五ヶ山で最も重要な拠点と見なされていた。

歴代市助の活動

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI