五箇山十日講

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五箇山十日講の中心であった下梨念仏道場(現瑞願寺)。

五箇山十日講(ごかやまとおかこう)とは、戦国時代越中国礪波郡五箇山(現・富山県南砺市内)の村々の門徒を統括した惣中組織[1]

仏教教団では経典の講究を行う集会を講会と呼び、これが転じて「寺院で修する法会」、「宗教的集団組織」を意味するようになった[2]本願寺では8代蓮如の時代より集団組織としての「講」の普及がはじまり、これがやがて本願寺へ志納金を供出する集団としての性格を有するようになった[2]

五箇山十日講もこのような集団の一つであり、この名称は「十日を集会日とした五箇山全域の講」を意味する[2]。なお、講の日は当該地域に縁のある人の命日や宗主の命日に基づいて決められることが多いが、直近で十日を命日とする者がいないため、「十日講」の由来については明らかになっていない[3]

証如影像。証如の残した『天文日記』に五ヶ山に関する多くの記述が見出される。

「五ヶ山十日講」という名称の初見は『天文日記天文6年(1537年)12月7日条で、遅くともこの頃までに「五箇山十日講」は成立していたようである。文亀元年(1501年)成立の「道宗覚書二十一カ条」には「講」についての記載がないため、16世紀初頭にはまだ「五箇山十日講」は存在しないが、後述の「斎」「非時」の頭人を務めるようになるまでには組織が形成されたと推定される。よって、五箇山が「非時」を務めた最も古い記録である大永3年(1523年)ころまでに「五ヶ山十日講」の組織が形成されたと考えられる[4]

享禄4年(1531年)には加賀一向一揆で内紛が起こっており(大小一揆)、超勝寺・本覚寺(大一揆)側が勝利を収めた[5]。本覚寺は五箇山への布教を先導した寺院であり、これを機に五箇山門徒はより一層本願寺との結びつきを強めたようである[6]。後述するように五箇山門徒が本願寺に直属するようになった結果、本願寺10代証如が残した『天文日記』や実従の『私心記』に五箇山十日講の記録が残り始める[7]

天正10年(1582年)8月には窪城(井口城)において佐々成政越中一向一揆の攻防が繰り広げられ、窪城の陥落が決定打となって佐々方による五箇山制圧が一挙に進んだようである[8]。また、天正11年6月付で「赤尾」に対して佐々成政が禁制を出した記録が残っており、これこそ佐々成政による五箇山制圧が達成された証であるとみられる[9]

天正13年(1585年)、富山の役を経て佐々成政は越中の領有を奪われ、代わって前田家が越中を統治することとなった。同年10月14日には前田利長が五ヶ山からの河上糸の請取状を出しており、これによって本願寺-五箇山十日講による五箇山支配が名実ともに終焉し、加賀藩による近世的支配に移行したことが確認される[10]

五箇山十日講の活動

『天文日記』などに見られる五箇山十日講の活動は、(1)本願寺への志の納入、(2)本願寺の法事の「斎」「非時」の頭人を勤めること、(3)下田長門の成敗命令を受けたこと、(4)本願寺へ祝儀を差し出したこと、の4種類に分類される[7]

(1)懇志の納入

懇志の納入については下梨瑞願寺に『天文日記』の記述と対応する古文書が現存しており、五箇山の側でもこの懇志を重視していたことが窺える[7][1]。例えば、『天文日記』天文5年7月19日条には「従越中五ヶ山毎年報恩講ニ来糸綿唯今来、糸十把綿十把」という記述があり[11]、これに対応する瑞願寺所蔵文書には下記のように記される[12]

又ここ許無事の儀につけて、弐百疋のぼせられ候。誠用のおりふし一しお喜入候。五ケ山より、毎年報恩講のこころざし、当年分糸十把、綿十把たしかに請取候。志有難くこそ候へ。皆々法儀のたしなみ肝要になさるべく候。老少不定のならいにて候間、油断候ては勿体なく候。一時も早々信心決定候て、つねに報謝の念仏申され候べく候。あなかしこ。

(天文五年)八月十一日 証如(花押)

越中国 五ヶ山門徒中へ本願寺第十世証如の五ヶ山宛請取書状[12]

なお、瑞願寺所蔵の請取状宛名は「五ヶ山門徒中」「五ヶ山中」「五ヶ山惣中」などバラバラで、表記が統一されていなかったことが分かる[13]。『天文日記』と瑞願寺所蔵文書の関連記録を整理すると以下の表の通りとなる[14]

『天文日記』 瑞願寺蔵 証如書状
日 付 趣 旨 内 容 日 付 趣 旨 内 容 宛 先
天文5.7.19 報恩講志 糸10(把) 綿10(把) 天文5.8.11 報恩講志、
証如への祝い
糸10(把) 綿10(把) 銭200(疋) 五ヶ山門徒中
天文6.4.2 本願寺・
幕府和睦祝儀
20貫 -
天文6.12.7 灯明料 糸2(把) - -
報恩講志 糸10(把) 綿10(把)
講中より 糸2(把) 綿1(把)
天文7.12.8 - 糸12(把) 綿11(把) 天文7.12.8 - 糸12(把) 綿11(把) - 五ヶ山中
天文8.12.5 - 糸10(把) 綿13(把) 天文8.12.4 - 糸10(把) 綿13(把) - 五ヶ山惣中

臨時上納と見られる天文6年の灯料を除けば、毎年系(生系)・綿(真綿)をそれぞれ約10把ずつ納入していたことが分かる[15]。納入品が主に生系、真綿であったのは、五山地方の特産品であったこと、軽くて運送に便利であったことなどが理由と考えられる[15]。なお、糸10把はおよそ33貫文、綿10把はおよそ8貫文に相当したと推定され、当時の五箇山としては重たい負担であった[16]

天文9年以後、『天文日記』には五箇山からの上納にかかる記録が見られなくなるが、これは本願寺坊官の下間氏に事務を任せ、請取状も下間氏が発給する形式に移行したためと考えられる[17][13]

(2)「斎」「非事」の頭人

「斎」「非事」の頭人とは、法事の際の「お斎(食事)」、「非事(夕食)」の担当を意味する[14][18]。五箇山衆は河上衆(瑞泉寺配下)と共同、もしくは単独で歴代宗主の年忌法事でこの役割を務めていた[14]

年月日 法事期間 法事内容 食事種別 品 数 頭 役 出 典
大永3.3.25
1523年
蓮如25回忌 非事 河上・五ヶ山 『蓮如様御遷化之記』
大永5.2.8
1525年
2月8日~3月?日 実如 中陰 非事 汁2・菜3・菓子3 越中五ヶ山 『実如上人闍維中陰録』
天文6.1.27
1537年
1月26日~2月2日 実如13回忌 汁2・菜8・菓子5 河上・五ヶ山 『天文日記』
天文10.1.27
1541年
1月26日~2月2日 実如17回忌 非事 汁2・菜6 越中五ヶ山 『私心記』
天文18.1.27
1549年
1月26日~2月2日 実如25回忌 非事 汁2・菜6 河上・越中五ヶ山 『私心記』
天文22.8.16
1553年
8月14日~8月20日 円如33回忌 非事 河上・五ヶ山 『私心記』
天文23.9.8
1554年
証如 中陰 非事 河上十郷・五ヶ山 『信受院殿記』
天文24.8.9
1555年
8月7日~8月13日 証如1週忌 非事 汁2・菜6・茶子5 河上・五ヶ山 『私心記』
弘治2.8.7
1556年
証如3回忌 非事 河上・五ヶ山 『私心記』
永禄3.8.7
1560年
8月7日~8月13日 証如7回忌 非事 汁2・菜6・茶子5 河上 『私心記』
永禄4.3.19
1561年
3月19日~3月28日 親鸞300回忌 非事 汁2・菜6・茶子5 河上・五ヶ山 『私心記』
永禄9.8.7
1566年
証如13回忌 非事 河上・五ヶ山

年忌法事は土屋夜にわたって行われるが、五箇山衆はその内第1~3日目を務めることが多かった[14]。別日を担当するのは上野(下間氏)・河上・大坂坊主衆講中・大坂六町衆などが多く、年忌法事での担当は慣例化して割当てられていたようである[19]

「斎」「非時」の負担額は1回につきおおよそ10貫文程度と推定されており、後述するように「河上衆」と「五箇山衆」の負担は4:1ほどと見られることから、五箇山衆は1回につき2文ほどを負担していたと考えられる[20]。実如は大永5年(1525年)2月2日に死去し、7日に葬礼、8日に拾骨が行われた[18]。8日に頭人は本願寺の家宰的立場にあった下間頼玄が務めたが、夕非時の頭人を務めたのは「五ヶ山」であった[18]。この後も、五箇山は実如の年忌には頭人として勤仕しており、五箇山衆は実如の法弟と見なされていたことが分かる[21]

実如の非時頭役で、五箇山以外に地域集団名で呼ばれるのは黒江衆・大阪殿北御講衆・北郡小直参衆のみであり、五箇山の特殊な地位が窺える[21]。「斎」「非事」の頭を務めることは名誉なことであり、実如13回忌に斎頭役を担った時には、喜びのあまり証如に御礼として礼銭1000疋(=10貫)を献上している[22]

(3)成敗命令の対応

天文7年(1538年)4月20日、本願寺は大小一揆にて小一揆側の有力指導者であった下田長門の成敗命令を加賀・越中の門末に下した[23]。この時、本願寺は越中国内では「勝興寺」「瑞泉寺」に成敗を命じ、「かんだ」「河上十郷」「五ヶ山」に成敗のことを心得よと申し付けている[24][25][23]

「かんだ (蟹谷)」は勝興寺の、「河上十郷」は瑞泉寺の、それぞれ与力衆であるが、「五ヶ山」のみ対応する寺院がなく、「五ヶ山」が越中一向一揆の中でも特殊な立場(本願寺直参衆)にあったことが窺える[23]。もっとも、「五ヶ山」が瑞泉寺と全く没交渉であったわけではなく、上述の「斎」の頭人を河上衆(瑞泉寺与力衆)と共同で務めるなど、やはり「五ヶ山」は瑞泉寺と密接な関係を有していたと考えられる[26]

(4)本願寺への祝儀

天文5年8月19日に本願寺と室町幕府の間で和睦が成立すると、各地の門徒より祝儀が本願寺に進納された[27]。越中国では天文5年11月5日に「河上十郷」が80貫文を、天文6年4月2日「赤尾惣中(五箇山)」が80貫文を、それぞれ進納したとの記録がある [25][27]。この記録から、(3)成敗命令の対応と同様に、「河上十郷」と「赤尾惣中 (五箇山)」が別個の集団として成立していたことが分かる[25]

また、「河上十郷」と「赤尾惣中(五箇山)」の祝儀額は4(80貫文):1(20貫文)の割合であり、上述の「斎」「非時」の頭役費用も、同様の割合で負担していたのではないかと推定される[28]

越中一向一揆内の立ち位置

上記(1)~(4)に見られる五箇山衆の負担した役目を、他の越中国内の集団と比較すると下記表の通りとなる[23]

戦国時代の越中教団構造図。

「越中坊主 (蟹谷/かんだ)衆」「河上衆」「五ヶ山衆」の中では「河上衆」の負担が最も大きいように見えるが、蟹谷衆が5カ月間隔で番役を務める所を、「河上衆」は2年間隔で務めており、三集団のバランスが保たれている[29]

十日講起請文

脚注

参考文献

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