お小夜
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五箇山地方では、お小夜の生涯について以下のように伝えられている。
お小夜は加賀藩領能登国輪島西隣の暮坂集落に生まれたとされる[1]。12-13歳で親の口減らしのため、わずかな給銀の前借りで輪島にある麦屋(素麺屋)へ年季奉公に出された[1][2]。その後、18歳になったときに、今度は人買いによって金沢の曖昧屋「いずみや長右衛門」に売られてしまった[2]。お小夜が遊女として売られてしまったのは、このころ加賀藩士の高崎半九郎らが長右衛門ら町人と結託して遊郭経営を広めていたことが背景にあったとされる。
しかし元禄3年(1690年)、高崎半九郎ら複数の藩士が遊女を扱っていたことが発覚した。過去に例のない不祥事を受けて、加賀藩内では関係する加賀藩士・町人・遊女らみなが処罰を受けることが決められた。お小夜ら遊女は奥能登に流されることとなったが、お小夜はもともとの生まれが奥能登の鳳至郡であり、これでは流刑の意味にならないとの抗議がなされた[2]。このために、お小夜のみが高崎半九郎らと同じく、五箇山上梨谷の小原村に再配流されることとなった[1][2]。
田向村に流されたお小夜は村民に歌舞音曲を教えながら過ごし、やがて吉間という若者と恋に落ちて身ごもった[3]。しかし、罪人の身でありながら身ごもったことで吉間に罪が及ぶことに思い悩み、最期には庄川に身を投げてしまったという[3]。また一方で、お小夜は死んだのではなく、吉間とともに飛騨白川に逃れたとの伝承もある[3]。
史実でのお小夜
高崎半九郎ら加賀藩士による遊郭経営は加賀藩初期の大事件としていくつか記録が残されており、特に『御仕置留十種』所収の「元禄三年遊女調理一件」には処罰を受けた遊女について詳細に記されている[4]。
この史料によると、処罰を受けた遊女の中には確かに「さよ」という者がおり、鳳至郡定広村に流され、現地の百姓次兵衛の下女とされたという[5][6]。その後、元禄10年(1697年)には鳳至郡池原村百姓の左衛門九郎と縁組したが、左衛門九郎が「不情者」であったことから十村役の仲介を得て、宝永6年(1709年)に離縁して定広村の次兵衛の元に戻った[7]。そして、次兵衛の下女の身分のまま、寛保3年(1743年)7月10日に71歳で死去したことまでが記録されている[8][6]。
これらの記録によると、「さよ」は能登国鳳至郡に流された後他郡に出た形跡がなく、伝承上での「お小夜」と同一人物とは考えられない[9][10]。一方で、現門前町暮坂の野口家には唄の上手な歌い手であった「おさよ」という娘がいたとの伝承があり、また門前町腰細にも唄の上手い「こさよ」という娘がいたと伝えられている[9]。以上の点から、五箇山に伝わる「お小夜」伝承は、実在する何名かの「奥能登在住で、唄を得意とした女性」の逸話が組み合わされて形成されたものではないかと考えられている[9]。また、五箇山の合掌造り家屋の建設に輪島大工が携わったとの記録があり、お小夜はこのような職人が連れてきた人物ではないか、とする説もある[11]。
上平村(現南砺市)での顕彰
小原村は明治維新後、東礪波郡上平村に属したため、上平村ではお小夜の顕彰に関する様々な取り組みが行われた。小原村の小原谷付近にはお小夜節の歌碑などが建てられた「民謡の里」が整備され、合掌造り家屋である上中田念仏道場が移築されている。また、1985年(昭和60年)にはお小夜の出身地とされる、石川県門前町と上平村が友好町村の締結を行っている[12]。
2024年の城端むぎや祭では、能登半島地震で被災した石川県輪島市にゆかりのある「お小夜節」が、復興の願いを込めて届けられた[13]。2025年にはお小夜がむぎや節を伝えたとの説があることを縁として、城端むぎや祭に輪島市門前町の能登麦屋節保存会が招かれている[14]。
