権大納言・中山親綱の二男為親は、上冷泉家の当主為満が天正13年(1585年)に勅勘を受けて京を出奔したため、上冷泉家の存続のため養子として迎えられた。しかし慶長3年(1599年)に為満が赦されて帰京し、上冷泉家に復帰したため、為親は別に一家を興すことが許され、冷泉または中山冷泉家(なかやまれいぜい)の家号を称した。
江戸時代前期の権中納言冷泉為尚の息子今城定淳(冷泉為継)が家名を今城と改め、名を定淳とした[1]。彼を祖とするのが一般的だが、前身の中山冷泉家を始まりとすることがある[1]。江戸時代の石高は181石。家職は和歌・有職故実。明治維新後は、定徳が子爵に叙せられた[1]。