難波家
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平安貴族
平安時代後期の摂政太政大臣藤原師実の五男権大納言藤原忠教を祖とする[3][1]。忠教は、花山院家の家祖家忠、大炊御門家の家祖経実の実弟だが、創立当初からこの2家とは家格差があった[1]。『中右記』の寛治5年(1091年)11月12日の条に左少将忠教が兄の大納言家忠の養子である旨の記述があり、忠教は兄の養子として一家を創立したようである[1]。
忠教の次男教長は、正三位参議まで進んだ後、保元の乱の際に崇徳上皇軍に付いたことで乱後常陸国に流されたが、能書家の誉れ高く、書道の口伝『才葉抄』や和歌に関する『古今集註』を著した[1]。
忠教の四男頼輔が忠教の跡を継いだ[1]。頼輔は「本朝蹴鞠一道長」と謳われるほど蹴鞠に秀で、蹴鞠の祖として仰がれた[3][1]。
公家
頼輔の子である刑部卿頼経は源義経の同盟者として解官のうえ伊豆に流された[3][8]。その子宗長は蹴鞠の難波流の祖となり、宗長の弟雅経も飛鳥井流の祖となった[3]。
以降鎌倉時代を通じて蹴鞠の名手を出して難波流を伝承する家となった。特に宗緒は、幼い頃から蹴鞠の才を示した。『実躬卿記』正安4年(1302年)2月7日の条によれば、後深草法皇仙洞蹴鞠御会で、亀山法皇・後宇多上皇も臨幸する中、宗緒は、13歳(14歳もしくは15歳とも)の初めて参仕でありながら、「頗堪能」であったことから、蹴鞠が終わったのち、法皇の御前に召されて褒美として御剣を賜ったことが見え、同13日の条にも後二条天皇の蹴鞠の師範を命じられたことが見える[8]。
南北朝時代に宗富の薨去で一時、絶家となる[3]。15世紀に入ると蹴鞠の難波流も衰え、飛鳥井流が主流となった[9]。江戸時代初期に飛鳥井雅庸の次男宗勝によって約239年後に難波家が再興されたが[3][4]、左少将の時の慶長14年(1609年)の猪熊事件で勅勘を蒙り、伊豆に配流[8]。3年後に勅免があり帰京、名を雅胤(後に雅宣)と改め実家の飛鳥井家を相続している[8]。難波家の方は宗勝の実子宗種が継いだ[8]。
江戸時代中期の当主宗建は、蹴鞠の技に長じ、『御鞠場之記』・『蹴鞠問答』を著した他、編著書や日記『宗健卿記』を記した。また議奏や院伝奏を務め、官位も家祖以来の正二位権大納言まで昇って家格を高めた[8]。
幕末の当主宗弘の子宗礼は日米修好通商条約の際に無勅許締結に抗議して参内した八十八廷臣の一人[10]。
公家としての家格は羽林家[5]・旧家[4]・内々[1]。家業は蹴鞠[4]。江戸時代の所領の表高は300石[1][注釈 1]。
華族
明治元年(1868年)7月28日に宗弘が薨去し、宗礼が家督を継いだ[11]。明治2年(1869年)に公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると難波家も公家として華族に列せられた[12][13]。明治時代初期に定められた家禄は、現米で307石3斗[14][注釈 2]。1876年(明治9年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万1141円18銭3厘(華族受給者中370位)[16]。
明治時代前期の宗礼の住居は東京府北豊島郡阪本村にあった。当時の家扶は岩井義雄[17]。
1875年(明治8年)に宗礼が隠居し、長男の宗明が家督。宗明は陸軍軍人になったが、1877年(明治10年)3月26日の西南戦争に陸軍大尉として出征して戦死したため、父宗礼が再家督[11]。1884年(明治17年)2月24日に宗礼が死去すると、宗礼の次男宗美が家督を相続[11]。
同年7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、翌8日に大納言直任の例がない旧・堂上家[注釈 3]として宗美が子爵に叙爵された[5]。
宗美も陸軍軍人となり、輜重兵大尉まで進級した[2][11]。宗美が1925年(大正14年)11月11日に死去した後には、長男の宗治が爵位と家督を相続。宗治は満州電気水道会社大連支社長や京都市主事などを務めた[2]。彼の代の昭和時代前期に難波子爵家の住居は東京府東京市大森区山王にあった[2]。