油小路家
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公家
西大路隆政の二男である正二位権大納言隆蔭を家祖とする[3]。隆蔭は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿で、四条もしくは大宮と号した[3]。家名は京都の油小路に由来するが[4]、『油小路家譜』によれば、油小路を号したのは、中絶後江戸期に再興された後だという[3]。
隆蔭の後を継いだのは、宗家四条家の庶流隆継(従二位権中納言)。『油小路家家譜』では、この隆継が天文4年(1535年)に死去したことで絶家としているが、『尊卑分脈』には隆継の息として隆秀(従四位上左中将)の名を記しており、早世としている[5]。
江戸初期の元和5年(1619年)に権大納言広橋兼勝の次男隆基が再興した[3]。『義演准后日記』慶長12年12月13日の条によれば、隆基は14歳で理性院附弟として得度することになっていたところ、にわかに後陽成天皇の勅命で取り消されて公家衆に列せられ、代わりに6歳の弟(観助)が入室したという[5]。
公家としての家格は羽林家[5]、旧家[4]、外様[5]。有職故実を家職とする[5]。九条家の家札[3]。江戸時代の所領の表高は150石[4][6][注釈 1]。
華族
隆晃の代に明治維新を迎えた[7]。維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると油小路家も公家として華族に列した[8][9]。
明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で275石7斗[10][注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は9995円52銭8厘(華族受給者中390位)[12]。
明治前期の隆晃の住居は京都府上京区二十二組亀屋町にあった[13]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 3]として隆晃が伯爵位が授けられた[2]。