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神道

日本固有の宗教・信仰 From Wikipedia, the free encyclopedia

神道(しんとう、しんどう[2])は、現代の日本では主に「日本の伝統的な神祭り」の総称である[3]。日本で太古から連綿と続く、天皇と密接な関りを持つ「日本固有の民族宗教」[4][5]の総称ともされているが、こうした一般的な理解は学術的に否定されつつある[6][7][8][9]。現代的な意味での「神道」の定義は一様でなく、また歴史的に見ても「神道」の意味は一様でない[10]

国・地域 日本の旗 日本など
信者数 8337万1429人[1]
成立年 諸説あり
創始者 なし[注 1]
概要 神道, 国・地域 ...
神道
国・地域 日本の旗 日本など
信者数 8337万1429人[1]
成立年 諸説あり
創始者 なし[注 1]
信仰対象 ・仏など
母体 律令祭祀制・自然信仰祖先信仰など
宗派 下記神道諸派参照
主な指導者 神職
聖地 神社などの祭祀施設・などの自然物など
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神道がいつからあると言えるかの見解は多様であるが、学術的には主に、早くて7世紀後半・8世紀 天武天皇持統天皇朝の律令祭祀制において、遅くても、15世紀に教義が整備・体系化され仏教から自立し成立したと考えられている[11][12]

※ 本項では便宜的に神祇または神祇信仰、カミ信仰、神信仰と神道の使い分けは行わず、律令祭祀制以降の日本の神信仰(カミ信仰、神祇信仰)を神道と呼ぶ[注 2]

概要

大嘗祭が斎行された令和の大嘗宮

神道は、宗教学では大きく自然宗教もしくは民族宗教に分類される[7]日本の民族信仰[13][14][15]仏教儒教といった日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた外来の宗教・思想に対して、それらが伝わる前から日本にあった日本土着の神観念に基づく宗教的実践・宗教的態度をあらわす言葉として用いられる[4][5][2]。神道の語に、宗教としての神道を支える生活習慣や習俗、道徳、倫理まで含めることもある[4][5][2]

起源は定かではないが日本の長い歴史の中で次第に培われてきた信仰であり、日本人の生活文化の全般に浸透している生活態度や理念であると説明される[7]。『宗教学辞典』(1973年、東京大学出版社)では、神道学者の河野省三が戦前に「神道とは神の道である。神の道とは日本民族祖先以来の生活原理である」(『神道の研究』1930年)とし、「神道とは日本民族の伝統的信念及び情操」(『国民道徳本義』、1932年)と述べたことが取り上げられている[7]。現代の事典や辞書でも「日本固有の民族宗教」ともされる[4][5]。また民俗学者の柳田國男は、太古の昔から国家神道とは異なる民間信仰としての神道が存在するとし、それは氏神信仰を基礎とした「日本固有」の民俗宗教であると主張した[16]。どちらの論も、神道とは、起源は定かでないが古代から現代まで連綿として続く宗教であり、よって天皇と密接な関係をもつものと推察され、日本固有の宗教的伝統であり、土着の信仰形態であるというものである[7]。これが現代日本の一般的な神道観となっており、広く受容され常識となってきた[7][注 3]

こうした神道理解は、戦前、遡ると近世(江戸時代)の国学で繰り返し説かれ続けてきたものと同様だが、今日では学術的に否定される傾向にあり[7][8]、今日の学会では「日本の古来から続く漫然としたものの考え方や宗教が、天皇制と共に連綿と終始一貫して、現在まで日本の国を形作る原動力となっているという幻想によるもの」という理解が共通認識となっている[9]

一般的に見られる神道理解は実際の歴史とは齟齬があることが明らかになっており、神道は太古の昔から変わらず連綿と続いてきたのではなく、歴史的に形成されたものと理解され、最近では形成の歴史的な変遷を段階的に辿る歴史研究の成果が数多く提示されている[7][8]。神道研究者の井上寛司は、「日本歴史上の最大のドグマ」とされる「原始・古代から現代にいたるまで連綿と続く、天皇の存在と密接・不可分のかかわりを持つ、日本に固有の土着的(民族的)宗教」という神道理解・主張は、事実との整合性の問題としても、歴史理論としても多くの問題があり、成立しえないことを指摘している[17]。日本の民族宗教という見方についても、「民族」も「民族宗教」も明確な輪郭を持つ概念ではなく、学術的に疑念が示されている[12][18]。しかし、こうした超歴史的な神道観は力を持ち続けており、学者にも影響がみられる[19]。「自然発生的な日本固有の民族宗教」とする神道観は、戦後、国家神道解体後に急速に広まり社会通念化したものであるが、柳田國男がナショナリズム的信念から唱えた「神道」=「固有信仰」論がベースにあると考えられている[20]

「神道」という概念は非常につかみどころがなく、漠然としており、神道がいつからあると言えるかの見解も定まっておらず、創始者もおらず、「神道」と称されるものの歴史的見解を辿ってみても一貫した姿は把握できない[21][22][23][注 4]。過去の神道史をどう描くかが混乱しているだけでなく、近代社会において「神道」とは何を指すのかもよくわかっていない[22]。現代の神の観念や行事の在り方も、地域によってかなり異なる[21][22]。神道はかなり複雑かつ曖昧で、統一した見解があるとは言い難く、「神道は日本の基盤信仰である」とも、「神道の中核にあるものは変わらない」とも断言し難い[26]

神道研究者の岡田荘司は「神道とは何かと問われれば、その具体的な姿は神社の中に備わっているといえよう。」「神道の信仰を最も具体的に表示した場が神社である。」と述べている[27][28]。神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社である[29]。神社とは常設の神殿を持つ宗教施設・祭祀施設であり、常時そこに神(祭神)が鎮座し、これを信仰の対象とし諸々の祭礼・儀礼を執行するものである[30][注 5]。井上寛司は、常設の神殿を持つ神社とは「7世紀後半の律令制の成立にともなって、中央政府の命にもとづいて全国的な規模で創出された、官社と呼ばれる常設神殿を持った新たな宗教施設」であると述べ、神社の成立を天武天皇朝以前に遡ることはできないこと、在地社会で仮設の神殿から常設の神殿に自然に移行したわけではないことを指摘している[31][32][33]。神社は律令期以降に続々と創建されたと推定されている[28]。岡田荘司は「神社と神道を奉じた地域社会の営み」が日本国家の形成に影響を与え、日本の歴史に大きな影響を与えてきたと述べている[34]

なお、現代の神社神道の主要教団である民間の宗教法人・神社本庁は、神が宿るとされた自然物(山や岩など)に対する祭祀の祭りの場所に建てられた建物が神社であり、こうした神々への信仰が日本の各地で発生し神社が建てられたという見解を示しており、また神社の誕生が古墳時代ヤマト王権(大和朝廷とも。律令国家成立以前の連合勢力)による国土統一以前であるかのように述べている[14]

学術的に見て「神道」とは祭祀体系を伴うものであり、縄文時代弥生時代、古墳時代といった祭祀体系成立以前は「神道」の成立には至っていないとする見解が主流である[35]。神道が弥生時代に成立したとする一般書も多いが、農業従事者がまだ多く農村文化を懐かしく思う人の多かった戦後の時代によく見られた神道観で、稲作文化こそ日本文化のベースであり、神道をその代表とみなすものである[36]。こうした見解は、「皇室の祭祀、及びそれと一体の伊勢神宮こそが神道の本来の姿」だという考えに通じるものであり、神社本庁関係者の多くは、記紀神話(『古事記』『日本書紀』)、伊勢神宮、皇室祭祀が整備された時点で神道は確かに存在しており、その源流を弥生時代の稲作祭祀とみなしている[36]

太古の日本では他の地域と同様に自然崇拝が起こり、更にアニミズムやそれに基づくシャーマニズムへと展開したと考えられる[37]。日本史研究者の岡田精司は、仏教伝来前後の在来の信仰形態を、①大王の挙行する国家的祭祀、②地方首長層のもの、③一般的な村落レベルの祭祀、の3つに区分している[38]。宗教民俗学者・修験道研究者の宮家準は、公伝仏教と区別された神道/神祇信仰、いわば当初の神道は、在来の自然信仰と道教儒教仏教といった外来思想が習合して成立したものとしている[37]

古代の律令政府は、宗教政策として仏教(仏法[注 6])と神道(神祇祭祀)の2つを重視する方針を取り、以降日本の宗教は仏教と神道の2つが中心となり、神道は仏教を容認しながら、仏教と対置することで変質し発展していった[40][41]。日本では仏教優位の形で神仏習合が展開していったが、同時に宮中祭祀伊勢神宮では神仏隔離(神仏の棲み分け)もみられ、両者は部分的に合一しながらも、それぞれ独自性を保とうという相反する力が働いて緊張関係が維持され、完全に融合して一つの新しい宗教になることはなかった[42][43][40]明治時代には神仏分離が行われ、神道と仏教は分離したと考えられているが[44]、仏教学者の末木文美士は、仏教と神道が無関係になったのではなく、分離しつつも相互に相手を必要とするような新たな神仏補完の関係を生んだと述べている[42]。また末木は、歴史的に見て「復古神道から国家神道の流れに見られるような純粋神道はもともとありえないもの」と述べている[43]。神道は地縁血縁などで結ばれた共同体部族など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に人々の安心立命や救済国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[45]

教義的・組織的な仏教をはっきり異質なものとみなしていた一方、同じ外来宗教でも道教は非常に親近感を持って取り入れており、道教は神道そのものの基盤となっている(日本は国として道教教団は受け入れていない)[41][40]

神道は、仏教やキリスト教、イスラム教や儒教のように、創始者の教えを基本教典として創られた宗教ではなく、仏教や儒教などの外来の宗教思想・実践形態に接しながら様々に形成されたものである[26][注 7]。神道は特に教えの面で、仏教儒教などと比べて体系性が乏しい[46]。とはいえ、日々の生活の中で重んじるべき道徳や倫理に当たるものはみられ、不文律的に「明るさ、きよらかさ、正しさ、そして素直さ」といったものが良しとされる[47]

神道について論じる場合、論者が宗教というものの実践(プラクティス)と教説(ビリーフ)をどう評価しているか、教説・思想体系をどの程度重視しているか、不可欠であると考えているかによって、いつの時点の何をもって成立したと判断するかが違ってくる[48]。宗教研究者の島薗進は、「儀礼(祭祀)に主要な統合のよりどころがある」ことが神道の特徴としてあげられるとし、教説を不可欠なものとはせず、「祭祀がある種の体系性をもったときに神道が成立したと考えるのはごく自然なこと」であると述べている[48]。一方、「ある種の体系的教説を備えた集団が『宗教』とよぶに値する」という前提に立ち、体系的な祭祀があっても体系的な教説をもつより前の神祇祭祀は神道とは呼べないという見方もある[48]。神道の成立期の定説はないが、主要な学説(2021年時点)が4つある[注 8]。4つの説には800年の隔たりがあり、それは神道の把握の違いに起因するため、この主要4説について述べる[11]。4つの成立期論とその神道認識は次の通りである。

伊勢神宮の内宮新殿舎が完成した際の空撮写真。1953年。
  • 第1説:「7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武持統天皇朝成立説。」
律令国家体制を確立させた天武天皇・持統天皇の時代に太政官神祇官の二官体制のもとで律令官社制度が完成し、「神祇令」が制定され、国家的祭祀体系とその体系が整備・確立されたことをもって「神道」の成立とする説[50][51]大嘗祭伊勢神宮式年遷宮もこの時代に開始されており、『日本書紀』にも「神道」という用語が見られる(ただしこれ以降、「神道」の語は中世(第3説の時期)までほぼ使われていない[10])。
丹波国一宮、出雲大神宮(京都府亀岡市)
  • 第2説:「8・9世紀、平安時代初期成立説。提唱者は高取正男。」
奈良時代から平安時代初期の「神仏隔離(神仏の棲み分け)」に着目した歴史学者の高取正男が唱えた説[50][51][52]。平安前期には仏教が日本社会に定着しており、神仏習合思想の形成期であるが、朝廷では天皇が関わる朝廷の神事において仏教(仏法)を避けるべきことが定められ、神仏隔離が確立した[53]。なお、天皇の仏教への信仰が深まる中、天皇制のもとで仏教と神道の併存・棲み分けを図り、神祭りで確かに神の加護を得るための制度であり、廃仏思想ではない[54]。高取は、朝廷における禁忌意識・神仏隔離の成立に着目して「神道」の自覚過程を提示し、地域社会に根ざした「神道」の台頭に着目した[50]。この時代は平安祭祀制の確立期で、律令祭祀制からの転換が見られる[50]。神木信仰と関係があるとされる一本造による仏像彫刻が隆盛したが、この技法で神像も製作されるようになる等、この時代に思想・制度・儀式・美術など広範にその後の神仏関係の基盤が形成されている[52]
中世史の研究者黒田俊雄が唱えた「顕密体制」の成立期を「神道」の成立期とする説で、この時期は神道思想の形成期に当たる[55]。平安時代中期以降、院政期に朝廷で二十二社奉幣の制度が固まり、その後諸国一宮制が成立、中世的天皇神話や神国意識が地域社会へ広まっていった時期に「神道」が成立したとみなす[55]。院政期以降、神の世界が様々に言語化され語られるようになり、注釈・秘説が多く展開し、こうして形成された中世の神道説が広まる中で「神道」という用語が多用されるようになった[55]
吉田神社 (京都市) 斎場所大元宮 社殿
「顕密体制」が解体されていく中で顕密仏教の一部であった神祇が自立し、15世紀に吉田兼倶吉田神道を作った[55][46]。「神道」という宗教は近代以前には存在せず、仏教の一部門・ 一宗派として捉えるべきとみなし[12]、「顕密体制」の終焉と共に初めて「神道」が成立したとする説であり、高度な教義体系を具えた「宗教」としての確立をもって「神道」の成立としている[55][12][注 9]

岡田荘司は『日本神道史』(2021年)で、「神社の信仰体系は、古代以来の神社と祭祀とに備わって」おり、「第一説の古代律令神祇体系の中に、神道的要素を抽出することは可能」として、成立期の基本を律令祭祀制に置き、本書で神社と祭祀に焦点を置いて日本神道史を展開している[56]。岡田荘司は第1説について、「大方の了解を得られる得られる妥当性な学説と考える」と述べ支持を示している[50]井上順孝ネリー・ナウマンもこの時期に神道の原型が成立したとしており、同様の立場の論者は多い[48]。ただし、律令国家制度のもとで神道祭祀(神祇祭祀)において強固な宗教統制・支配が進められたわけではなく、律令祭祀制は「制度としての実態は十分機能していなかった」と考えられている[50][注 10]。島薗進は、「神社神道」と「皇室神道/宮廷神道」の成立を区別し、天皇家の祖神・朝廷と関わりが深い神祇を国家的祭祀システムに組み込もうとするこの試みは実効性に乏しく、したがって「この時点で『神社神道』が成立したとは言えないだろう。」と評し、とはいえ「『伊勢神宮と天皇の祭祀の職掌をもつ家筋の人々が司る祭祀のシステムを『皇室神道』『宮廷神道』とは言えるだろう。」としている[20]。井上寛司は、7世紀頃(第1説)の時点の日本で「『惟神の道』と呼べるような体系的な儀礼や教義が整っていたとは考えがたく、これを一個の体系性をもった自律的な宗教と考えることはできない」と述べている[57]

第1説を支持する場合も、第2 - 4説は神道史上の転換点といえる。神道思想を重視する立場からは第3説以降が有力な説である[56]。第3説・第4説は「神道」の語義解釈を重視して意味を限定し、「神道」の成立を以前の説よりも遅らせており、これは近年の神道研究の傾向である[56][58]

日本史学では1970年代以降、黒田俊雄の研究成果を受けて、「少なくとも平安時代から中世のある時期までは、全国の神社が神道とよべるだけの自立性をもったり、共通の基盤をもつようなことはなかった」という見方が有力となっている[17]。今日の日本の神仏関係の研究において黒田の業績は重要で避けて通れないものと評価されていており、彼の第4説は中世宗教史の研究者をはじめ広く受け入れられている[12]。日本古代史・日本仏教史研究者の吉田一彦は「日本宗教史(全6巻)」(2020年)シリーズ巻頭の総論で、「〈日本古来の神道〉といった言い方があるが、しかし実際には日本の神信仰がその多様性を一つの形にまとめて一定の体系性を形成していくのは平安時代のことと見るべき」として第1説に疑念を示し、さらに「この宗教を『神道』なる語を持って呼ぶのがふさわしくのなるのは室町時代以降のこととすべき」と述べ、吉田神道の成立を神道成立の画期として第4説を支持し、吉田神道が戦国時代、江戸時代を通じて日本の神道界の中心勢力であったことを指摘している[59]。第4説は欧米の研究者にも広く知られており、本説の影響で、神道は「古代から一貫してあった独立した宗教」ではないと考える外国人研究者は少なくない[46]。津田左右吉や黒田俊雄の研究を受けて、古代の宗教概念に「神道」の語を使うことを避けて「神祇信仰」「神祇祭祀」「神祇制度」等と言い換える研究者もいる[9][注 11]。日本宗教史研究者の三橋正は、神道の成立を中世にまで遅らせる見解を極端であると評し、「研究の細分化と片偏の結果」であるとみている[52]

神道が独立性を持つのは近世の江戸時代という考えや、近代の明治時代という考えもある[46][注 12]。現代の神道が形成された時期について、最も遅い時期とみるのが近代(明治時代)説である[46]

国家公認の仏教は神道と習合することで地域に定着し、神道も仏教をとり入れて施設(神社)や教義を整えていき、また神道、道教(陰陽説)、古来の山岳信仰、仏教が習合した修験道が成立した[37]。 神道を含むこれら日本の諸宗教では、霊地の寺社に属しながらも各地を遊行する民間宗教者が普及を担い、彼らは民衆の生活に即する形で教えを説き、独自の儀礼を行って人々の期待に応えることで地域に広めた[37]

同じ教祖を敬い共通の自己定義(アイデンティティ)を分かち合う自覚的な信徒が多い創唱宗教(開祖がいる宗教)に対して、神道やヒンドゥー教道教等は自覚的でない信徒が多く、自己定義の機能も限定的であり、信徒が分かち合うものも明確化しにくい[61]。また当事者は、「神道」等と呼ばれることに違和感を覚えることもあり、特定の宗教としての定義や輪郭は曖昧化しがちである[62][注 13]。現在の日本各地に見られる諸宗教の融解や習合、併存は、神道や仏教が互いに取り入れ合い、影響し合い、習合・併存していた長期にわたる営みの所産であり、現代日本の宗教の受けとめ手側である一般の人々は、安産祈願は神社、結婚式はキリスト教の教会、葬儀は仏教寺院というように、様々な宗教を自身の生活感覚に合わせて適宜とり入れ使い分け、複数の宗教を習合さたり併存させて受容している[37]

『宗教年鑑』(文化庁)には、日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると記載されているが[63]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守り御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無宗教を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[64]

「神道」という語

由来・語義

国産みを描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯画、ボストン美術館所蔵)。天地開闢神話は『古事記』にはないが、中国の思想・信仰の影響を強く受けた『日本書紀』には記述されており、宗教文化論・神話思想史研究者の斎藤英喜は、中国の陰陽思想に基づくことを指摘している[65]

日本における「神道」の初出は720年(養老4年)成立の『日本書紀』であり、当時の中国で使われていた成語からの借用である[10]。『日本書紀用明天皇紀に「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とある[66]

「神道」は中国で古くから使われた言葉で、「自然の理法」「霊妙なる理法」を意味し、これが道教仏教の教典に取り入れられ、道教・仏教が自らの教えを「神道」と呼ぶ例もみられた[10]。また、より一般的には神祇・神霊(神々)や、その祭祀・呪法を意味した[10][67]。「神道」の語は中国の『易経』や『晋書』の中にみえる[68]

『日本書紀』でどのような意味で使われたかは諸説あり、中国の「神道」すなわち道教などの影響を受けた信仰だったことを示すとする説や、単に神祭りや神祇(神)を意味する普通名詞として用いたとする説、日本固有の神祇信仰を外来の仏教(仏法)と対比するために用いたとする見方もある[69]。神道学者の三橋健は、『日本書紀』の用法は、中国における外来の宗教・思想である仏教に対し、伝統的な在来信仰である道教もしくは広義の道教的信仰を指す用法に準じたものとしている[70]。なお、古代の日本では、「神道」が道教を指す場合もあった[71]

同時代の「神道」の用例はごくわずかだが(平安中期まで十数例のみ確認)、そのほぼ全てが「神の権威、力や働き、または神そのもの」という意味で使われており、日本固有の神祇信仰を意味する用例はない[72]。よって、日本の神信仰やそれにまつわる言説の総体」を「神道」と呼ぶことは、解釈が分かれる『日本書紀』での使用の可能性を除き、古代には存在しなかったと考えるのが妥当である[72]。日本の神信仰やそれにまつわる言説・教説を「神道」と呼ぶことは、中世もしくは近世に起こったと考えられている[72]

中世になって「神道」という言葉における「神」が天皇神話上の神々を指すようになり、天皇神話に対する思想的解釈・「神道」教説もまた「神道」と呼ばれるようになった[73][67]

神道理解に関する諸問題

戦後の神道観と天皇中心の超歴史的日本史理解

現代日本で広く見られる「自然発生的な日本固有の民族宗教」とする神道観は、戦後の国家神道解体後に「あらゆる分野や階層の人々からあたかも疑う余地の全くない真理」であるかのように広く受容され、社会通念として定着した[20]井上寛司によると、こうした神道観の普及には、民俗学者の柳田國男が国家神道批判を通じて提示した「固有信仰」論の存在が大きい[20]

柳田固有信仰論とは、柳田國男が内務省による神社神道の統制(国家神道)に反対して提示した、「国家管理以前の地域の神祇祭祀こそ『民族』『固有』のものであり、だからこそ皇室神道と共通の基盤をもつものだと考え、儒教や仏教の影響を極力排除した神道観」であり、彼の「日本民俗が古代から一貫して『固有信仰』を保持してきたというナショナリズムに裏打ちされた強い信念」に基づいている[20]。彼は、日本の民俗文化から儒教・仏教といった大陸伝来の宗教・思想、特に仏教という覆いをはぎ取ることで「仏教以前」の日本人固有の宗教を究明できると信じ(つまり、日本の民俗文化において仏教等の外来思想は外被に過ぎず、取り除けるものであり、日本化・土着化英語版していないと考えている)、このためだけに「重出立証法」を考案し、自身の研究を「新国学」と呼んだ[74]。柳田固有信仰論は、折口信夫ら柳田民俗学系統の多くの人々に受け継がれた[20]。柳田固有信仰論には1960年代から非常に多くの批判がなされたが、「神道」概念問題の明確な提起には至らず、黒田俊雄によって「『神社神道』が古代以来、連綿として続いてきて近代にいたったというのは史実に合致しない」という論点が明確にされた[75]

井上寛司は、神道が日本史が始まる古代から存在するという「天皇を中心とした超歴史的な日本歴史の捉え方」が、新たなナショナリズムによる「新自由主義史観」と結び付いていると述べ、「日本歴史上最大のドグマ」とされる「原始・古代から現代にいたるまで連綿と続く、天皇の存在と密接・不可分のかかわりを持つ、日本に固有の土着的(民族的)宗教」という神道理解が、これを根底で支えていることを指摘している[19]

神道固有信仰論における日本主義

日本における「日本文化論」には、「日本的なもの」を「日本的なもの」であると説明し特別視するという、科学とも学術ともいえない日本主義的側面があり[注 14]、それは神道固有信仰論にも見られる[76]。日本文化論批判の代表的論客として梅原猛石母田正がいるが、両者は神道について「歴史の基底を探っていくと、結局、一種の『日本的な』基底信仰がある」としており、歴史学者の保立道久は、「日本的なものを日本的なもので説明する」という、彼ら自身が批判した日本文化論と同様の、日本主義的な曖昧な説明に陥っていると評している[77]。保立道久は、この問題を最も強く意識した歴史家は黒田俊雄であろうと述べ、彼は農民の共同体的祭祀に見られる素朴な信仰を固有信仰的なものとしたが、習俗に過ぎず宗教史の範疇にないとして扱うことを避けたと述べ、「神道」を日本の「固有信仰」「基層信仰」として論じることの困難を指摘している[78]

日本古代史・日本仏教史研究者の吉田一彦は、「『固有』というと、太古の昔からこの日本列島で自生的に発生し、継続、存在してきた文化要素という意味合いが色濃い。しかしながら、人間が移動し、文化が交流して世界各地の宗教が形成されてきたという実態からみると、『固有』という概念は幻想にすぎないように思われる。」と述べ、日本固有とイメージされるものでも、詳細に研究するとある段階で他からもたらされたと判明するものが少なくないことを指摘し、日本宗教史を考えるうえで重要な視座として、どこで生まれたにせよその地に定着し根を下ろしたという意味での「土着」を挙げている[79]。東アジア環境文化史研究者の北條勝貴は、そもそも「神道」の側に「『固有信仰』、『基層信仰』を自明化すること自体がナンセンス」であると述べ、 日本における「神道」現象は東アジアにおける「儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い」の一種であり、「『固有信仰』の問題」ではないとしている[78]

神道「日本の民族宗教」論

歴史学者の津田左右吉は「神道」の語には本来「日本の民族的宗教」という意味は含まれていなかったとしたが、『日本書紀』における「神道」の用例について、仏教と対置される民族的信仰としての神道を意味する事例と解釈しており(1937-1939年の論文)、これは通説的理解として強い力を持っている[12][80][57]

仏教学者の末木文美士は、神道を素朴に「日本古来の民族宗教」とする発言には、「神道に『日本民族』の一体性と優秀性をみようとする、いわば神道ナショナリズムともいうべき主張と密接にかかわっており、一見学術性を装いながら、強いイデオロギー性をもっている。」と述べ、それを批判した人物として黒田俊雄を挙げ、「多くの人は民族宗教という規定から、日本人にとって不可避な、選択の余地のない、深層に潜む強制力ないし価値という意味合いを受け取って」いるという彼の発言を紹介し、的確であると評している[81]

黒田俊雄は、「神道」の語には本来「日本の民族的宗教」という意味は含まれていないという津田の解釈を踏襲し研究を行ったが、『日本書紀』における「神道」の用例についての解釈は否定しており、黒田に学んだ井上寛司も津田の論は『日本書紀』の用例1点の解釈のみに拠って立つもので、しかもその解釈は唯一の史料解釈であるとはいえないことを指摘し、理論的・実証的根拠がないと否定している[82]。黒田俊雄は、「しかしこういう習俗は、(島薗注:その地域の神様をお祭りしている、一年の一度のお祭りがあるとか、祠があるとか)世界の各地の諸民族に類例をいくらでも見出すことができるもので、神々の固有名詞とか祭具の素材や形態の風土的特色などを別にすれば、果たして民族的と呼ぶに値するかどうか、疑わしいといわなければならない。」(1990年)と述べており、島薗進はこうした見解について、「『民族』という言葉が使いにくくなっていく過程」と関係していることを指摘している[83]。「日本民族」がいつからあるのか、東北地方のどこまでが「日本民族」でどこが「蝦夷」だったのか、ユダヤ教、ヒンドゥー教、道教、神道などをくくって「民族宗教」とする概念は有効なのか等、容易に説明し難い[83]

日本近代宗教の研究者村上重良は『国家神道』(1970年)で神道史研究に大きな影響を与えたが、この中で宗教を「創唱宗教」と「民族宗教」に大別し、「神道の基体(ベース)は神社神道として存在してきた民族宗教である」とし、特定のパターンを持った神社神道が古来より日本社会の基層に一貫して存在し続けていたと主張した[18]。村上は宗教進化論的なフレームを用いて、創唱宗教は「体系的なイデオロギーを持ち、個人の内面を支えることができる」が、民族宗教は未発達で近代性にそぐわないとしているが、「民族宗教」という語の使い方がかなりおおざっぱで、特徴づけも図式的である[18]。また、古来より明確な輪郭を持つ「民族」が実在し、その民族の輪郭に対応した、明確な輪郭のある民族宗教が実在するという印象を与える語り口であり、島薗進は「民族宗教が実体的に特定できる輪郭を持つかのように述べていることも誤解を招く」と述べている[18]

宗教ではなく日本人の伝統的習俗という解釈

末木文美士は、しばしば言われる「神道は特定の宗教ではなく、日本人としての伝統的な習俗である」という解釈について、神道を「日本人すべてに当てはまる不可避的なもの」とみる見方に通じるもので、その意味では神道を日本の民族宗教とする解釈と同様の問題があるとし、神道を非宗教と規定することで全国民に強制した戦前の国家神道の理屈と同じであることを指摘している[81]

分類

神道はかなり漠然としたものであるため、細かく分類して歴史的展開や社会における機能を考える方法があり、神道の姿を整理する助けになるが、どう区分するかには難しさがある[21]。1994年に刊行された國學院大學日本文化研究所編『神道事典』は、戦後の研究では最も体系的かつ包括的な神道事典であるが、この事典に「○○神道」として掲載されているものは「伊勢神道忌部(いんべ)神道烏伝(うでん)神道雲伝神道正親町(おおぎまち)神道家伝神道橘家(きっけ)神道国家神道御流神道山王神道儒家神道垂加神道太子流神道対馬神道土御門神道伯家神道仏家神道復古神道法華神道物部神道吉川神道吉田神道理当心地(りとうしんち)神道琉球神道両部神道霊宗神道」である(五十音順)[84]。なお、これには一部の専門家しか知らないような神道説や、現存しない神道説、現在の神道の展開とは関わりの薄いものも含まれている[84]

特定の思想や実践を共有する人々の集合体がイメージしやすく、ある程度の輪郭を持った、垂加神道復古神道や、数で数えられるような実体を伴う教派神道は、何を意味するか比較的明確で混乱は少ない[22]。神社神道や国家神道は、神道の輪郭不明瞭な側面に関わる語と言え、これらをどう考えるかには議論があり明確でない[22]

皇室神道 (宮中祭祀
宮中における祭祀を総称した呼称[85]。島薗進は、「伊勢神宮と天皇の祭祀の職掌をもつ家筋の人々が司る祭祀のシステム」「古代朝廷を中心に行われた神祇祭祀のシステム化」を皇室神道とよんでいる[86]。明治時代以降に宮中三殿で行われた祭祀も皇室神道に含むとされる[85]。律令祭祀は律令制度のもとで国家的な祭祀として整えられたものであり、律令制度の国家の中心にいたのが天皇であるなら、律令祭祀の中心が天皇であるのは当然であると言えるが[85]、天皇は神道の「教主」ではなく、カトリックにおけるローマ教皇のような存在と考えることはできない[87]。代表的な宮中祭祀としては、天皇即位後に行われる大嘗祭天皇即位後初の新嘗祭)等がある[85]
なお、宮中祭祀を含む朝儀の多くは応仁の乱(1467年 - 1477年)で公家の多くが京を離れことで多くが断絶し[88]、弱体化した朝廷は長く困窮状態で宮中祭祀の復興や芸能の伝承も困難であった[89]。一部は(機能・役割を同じくするかはともかく)後世に復興したがその中絶期間は長く、大嘗祭は約220年[90]大祓は約400年行われていない[91]。また、天皇家の祭祀が神道中心のものになったのは、近代以降である[92]
現在の宮中祭祀は明治政府が整備したものがベースである。明治政府は、国の根幹の精神の基礎に「古代よりの神祇信仰」を据えることを決めて神道国家主義体制を取り、その一環として皇室の古儀(古い儀式)を復興した[93][94]。2月の祈年祭、6月・12月の大祓、11月の新嘗祭紀元節祭(神武天皇祭)、天長節祭、伊勢両宮遥拝式、元始祭、孝明天皇祭、春秋二季皇霊祭などを定めたが、そのうち紀元節祭・天長節祭は完全に新しく作られた祭典であった[95]。一方、江戸時代に行われた人日上巳端午七夕重陽五節供を廃止している[95]。現代の宮中祭祀としては、新年の四方拝歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭などが行われる[96]
宮中祭祀は地方の神社で神職が行う神社祭祀との共通点が少なくなく、かなり似通っており、一般的に神社神道も宮中祭祀も「神道」とされている[87]。しかし、現代の日本は政教分離であり、「神道」は特定の宗教を指すため、天皇の存在と神道を結びつけることはできず、天皇が神道の立場に立つとはされていない[87]。大嘗祭は国事行事でなく「皇室の行事」とされており、天皇の宮中祭祀を管轄する宮内庁が宮中祭祀を「神道祭祀」と称することもない[87]。一方、神社本庁は、天皇が行う宮中祭祀は「神道」であるとしている[14]
神社神道
神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[97]。神社は中世においては、各神社が担った政治的・社会的・宗教的機能の違い、どういったレベルの世俗秩序の鎮守神であったかによって、大きく以下の3つに分類される[98]
  • 国家権力(地域支配権力を含む)の一翼を担い、あるいはそのイデオロギー支配機関としての機能を果たした二十二社・一宮などの、公的・国家的な性格を持つ有力神社[98]
  • 個々の領主権力と結んで民衆支配の一翼を担った荘郷鎮守などの中小神社[98]
  • 村落や地域民衆などの素朴な信仰の対象となっていたその他の零細な神社や祠など[98]
現代の神社神道で重要と考えられる諸要素のうち、罪穢れを除去する水浴である、神の移動を行うご神幸(神輿渡御)は律令祭祀には見られず、鳥居注連縄も律令祭祀で規定されたものではなく、地方の神祇祭祀で特徴的に見られるものである[99]。現代の神社祭祀は明治政府が整備し統一したもので、律令祭祀や記紀神話に由来する要素だけで形成されているわけではないが、現代神道の関係者の多くは、古代の国家祭祀や記紀神話に遡って説明している[99]
仏家神道
中世の神道思想の形成は仏教の僧侶が担ったが、これは仏家神道と総称される[26]
儒家神道
近世の神道思想には儒学の影響が大きく、これが儒家神道と総称される[26]
国家神道
明治政府が神道を神社神道教派神道に分け、教派神道を仏教やキリスト教と同じく「宗教」とし、神社神道を「非宗教」として宗教のカテゴリーから除外し国家が直接管理した宗教制度である[100]。1971年(明治4年)に、明治政府は「神社はすべて国家の宗祀(そうし)」であると宣言、官庁の制度としては1900年に確立した[100][101]第二次世界大戦敗戦後、GHQの「神道指令」で解体された[101][注 15]。神道は事実上、国家宗教に近い機能を持っていた[103][101]。(国家神道#語誌を参照)
教派神道(神道十三派)
教祖開祖宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い[要出典]

神道における「神」

三輪山神体山
那智の滝
厳島神社

日本列島に居住した人々は、最初期から何らかの神信仰を持っていたと思われ、それはおそらく東アジア全般に展開した神信仰と共通性の高い、その一地域的形態であったであろうが、実態は未解明の部分が多い[104]。時間をかけて次第に地域的な特性が形成されていったと考えられる[104][注 16]

各地の地域の神(土地神)や、山の神、川の神(自然神)が祀られ[注 17]、神に対する祈願は漢語的な表現を織り交ぜて日本語で申し上げられた[104]中臣氏の祖アメノコヤネ忌部氏の祖フトダマ大伴氏の祖アメノオシヒ等、有力な豪族は自身の先祖とする神(祖先神)を祀ったが、こうした信仰は政治的な色が強い[104]。7世紀末に天皇制度が開始すると、朝廷はそれに伴い「国家を理念的に支える政治的な神」として『古事記』『日本書紀』に天皇家の祖アマテラスタカミムスビなどを記述し、伊勢神宮を創建してアマテラスを祀った[104]。吉田一彦はこれらの神について、「天皇制度の政治思想に基づいてこの時代に新たに造形された神である。」としている[104]。なお、津田左右吉は『古事記』『日本書紀』について、その神話・神々は、一部民間説話を含むとはいえ、大部分は天皇家による統治の権威化のために創作・構成されたもので、編纂者たちが作り出したものと論じたが、記紀神話を「政治的に創作された創作神話」とする説は、その後の検証を経て確固たる説となっている[107][注 18]

元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた[108](そのような性質から、神の分霊を無限に行うことができるとされる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった[109]

また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている[108]。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている[106]。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることもできる[110]

神道は「万物に神霊が宿るという汎神論的なアニミズム」と認識されており[111]八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された霊魂等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたと考えられている[112][113]。しかし、かならずしもそうではなく、中世の吉田神道の創始者の吉田兼倶は「虚無大元尊神(こむだいげんそんじん)」という唯一神、創造神を祀り、近世の国学者本居宣長は、『古事記』の注釈書『古事記伝』で、原文を超えて「産霊日神(むすびのかみ)」という創造神的神格を見出して「近世神話」を創造し、民俗学者・国文学者の折口信夫は戦後、神道宗教化の議論を通して究極の神格「既存者」を見出していった[111]。こうした事例は異端的または特殊なレアケースに思われるかもしれないが、事実として存在し、かなり大きな影響力を持っていた[111]

怨霊となった菅原道真による祟り、北野天神縁起絵巻

國學院大學日本文化研究所編『神道事典』(1999年)では、神道の神は、自然神文化神の2種類に大きく分類されている[109]。前者には、太陽神月神風神雷神山神海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含む[109]。また、文化神は、屋敷神氏神産土神などの社会集団を守る神や、疫病神田の神漁労神軍神竈神など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けている[109]。生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神[106]。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊信仰)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な死を遂げ死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[106][114]。御霊信仰は疫病神との関係が非常に深い信仰で、政治的に抹殺され非業の最後を遂げた人の霊(「冤魂(えんこん)」や「厲(れい)」)と天変地異等の自然現象との間に因果関係を見出し、そうした霊が個人または社会に祟り疫病や天災をもたらすと考え、それを防ぐ為に祭礼・呪法等を行うという信仰である[115][116][117][118]。御霊(怨霊)の観念は奈良時代から平安初期に広まり朝廷周辺の人々を恐怖に陥れ、疫病、悪霊、凶を「穢れ」として祓う呪術を持つ陰陽師が御霊を祓うようになった[117][118]。御霊信仰は祖霊信仰と共に、現在まで日本人の信仰の基礎をなすものといわれている[117]。疫病(伝染病)は海外からやって来るため、海外から渡来した疫病の神を祀ることで防疫・除疫に繋がるとされていた[119]

蘇民将来子孫家門の注連縄

様々な外国の神信仰が日本に伝えられており、出土品から7世紀前半には中国の民間信仰や道教などで説かれた「鬼神」の信仰が日本に伝えられていた[116]。やがて、鬼神(鬼魅)を路上で饗応し都への進入を防ぐ陰陽道的な祭祀である道饗祭(みちのあえのまつり)、これが転じた疫神祭(四角四界祭)や鬼気祭、牛を殺して鬼神を祭る漢神(からかみ)信仰の殺牛祭神等が行われた[116][120][注 19]蘇民将来牛頭天王に対する信仰もあり、御霊を慰撫する仏教の法会である御霊会も行われたが、これらは疫病封じの祈願を主な目的とするものである[116]。日本では無論、道教的・陰陽道的な信仰だけでなく、様々な神信仰が仏教と複合・融合しており、このように日本の神信仰は、多様な信仰を取り込んで時代を経て累層化している[123]。わかりやすい例としては、疫病の根源であり疫病をもたらす悪神(眷属)を支配しコントロールする神とされた牛頭天王は、インドから中国を経て日本に伝わったと考えられており、疫病封じの目的で信仰を集めたが、仏教思想や渡来系氏族の信仰、特に陰陽道とも混じりあって、神道・仏教・陰陽道などのアジア世界の様々な尊格・信仰[124][125][注 20]が一体視されたものとみなされている[124]。なお、牛頭天王は神とも仏とも分類し難い尊格であるが、明治維新神仏分離(神仏判然令)で仏菩薩に近い存在として明治政府に名指しで排斥され、牛頭天王とスサノヲの習合は否定され、牛頭天王信仰の祇園社(現八坂神社)と全国各地の祇園社系神社の祭神はスサノヲに変更されている[126][注 21]。明治初期の神仏分離では、明治政府の命令により多くの神社で祭神の変更、祭神の合祀化が進められ、日吉社(現日吉大社)の十禅師のように長い信仰の歴史を持つが消された神もいる[127][128]。政府は明治中後期や太平洋戦争後にも神社合祀政策を行い、単一の神体(あるいは一族神)として信仰されてきた祭神も合祀されたため、神社の祭神名の検証は困難な場合が多い[128]

1881年の神道事務局祭神論争では、明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが[129]、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い[106]

歴史

樹齢約3000年の武雄神社御神木
春日大社にて、おみくじを結ぶ人々
一般家庭で祀られる神棚
神社本庁東京都渋谷区代々木)

前史

現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰が生じた弥生時代で、この時代には、荒神谷遺跡などに代表される青銅器祭祀、池上曽根遺跡のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨太占、副葬品としてのの出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる[130]

ヤマト王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる宗像大社大神神社で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、ヤマト王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成されたとも考えられる[131]

日本の神信仰では長く神社の社殿に当たる建物なしに神を祀っており、初期的な社殿が作られ始めたのは6世紀以降である[132]

律令時代

飛鳥時代には、7世紀末に持統天皇(645年 - 702年)、またはその一代前の天武天皇(? - 686年)の途中から、新しい政治制度である天皇制度が開始され、これは歴史的な画期となった[133][注 22]。国家の歴史書として『日本書紀』が作成され、天皇家が天上の神でその中心神であるアマテラスの子孫であるという過去を記定し[注 23]、またアマテラスの勅として「葦原千五百秋之瑞穂国[注 24]は私の子孫こそが王として統治すべき地である」という宣言を記述して未来を規定した[134]森博達の『日本書紀』のテキスト分析によると、『日本書紀』における皇祖神としてのアマテラスは、持統天皇の孫の文武天皇朝以降に成立したものである[137]。また、天上の神の世界を指す「高天原」という用語の定着は持統天皇朝が画期となっている[137]

朝廷は宗教政策として仏教(仏法)と神道(神祇祭祀)の2つを重視する方針を取り、儒教は一部を受容して国として重視はせず[注 25]、道教は道教的信仰は取り入れたが宗教教団としては受容しなかった[40]。これ以降、日本の宗教は仏教と神道の2つが中心となったが、日本は仏教が神道を包括する傾向が強く、仏教優位の形で神仏融合が展開していった[40]

朝廷は律令を整備し、それ伴い神祇令に基づいた祭祀制度の体系化を行った[138]。朝廷の命により、全国的な規模で官社と呼ばれる常設神殿を持った新たな宗教施設、すなわち神社が創出された[31][32]。在地社会で仮設の神殿から常設の神殿に自然に移行したわけではなく、神社の成立を天武天皇朝以前に遡ることはできない[31][32][33]。神社の常設の社殿は、律令期の7世紀末から8世紀初頭になってようやく広まり始め、以降神社が続々と創建されたと推定されている[28][132]伊勢神宮は、7世紀末の持統天皇または文武天皇の時代に、政治制度としての天皇制度の成立にともなって皇祖神としてのアマテラスを祀る神社として成立したと考えられている[137]

朝廷は神祇官が全国の神社に幣帛を頒布する班幣制度を確立し、全国の神社への社格区分や神階神位の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度を整備した[138]。ただし、伊勢神宮と天皇の祭祀を行う家系の人々が司る祭祀のシステムは確立したが、天皇家の祖神・朝廷と関わりの深い神を国家的祭祀システムに組み込もうとする律令祭祀制は実効性に乏しく、「制度としての実態は十分機能していなかった」と考えられている[50][20]

明治時代

明治30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[139]、学問上で「神道」の語が確立した[140][要ページ番号]

教義

神道には特定の創唱者がおらず、(神道と呼ばれる全体で言うと)教理あるいは教えはさほど体系だったものではない[47]。東アジアの端に存在する島国日本には、各時代に様々な宗教が伝わり、在来の神信仰や先に伝来していた諸宗教と重なり合い、組み合わさり、また混ざり合っていった[141]。神道を含む日本の宗教は、これら様々な宗教がモザイク状に複雑に組み合わさるようにして形成されており、また仏教(仏法)、儒教や中国の民間信仰、道教の霊魂観や冥界観を受容・吸収して日本の霊魂観や冥界観を作っていった[141]

神道には明確な教義がないものの、『古事記』や『日本書紀』などには神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり[142]常世黄泉などの他界観や、荒魂・和魂祖霊などの霊魂観、むすひ、惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、により穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる[142][誰?]

『古事記』は神道の聖典とされることがあり、その神話世界は神道のイメージに近いように思われるが、『古事記』は神道の聖典ではない[143]。『古事記』には「神道」の語は登場せず、『古事記』は後の時代に神道の聖典と認識されるようになった[143]。記紀神話(『古事記』『日本書紀』の神話)は戦前の国家神道のもとで神道の理想的な聖典とみなされるようになったが、これに歴史的な根拠はない[144]

『古事記』『日本書紀』は様々に解釈されて、その時代その時代で新しい神話が創造されていった[145]。例えば、近代日本では『日本書紀』の天孫降臨神話が大嘗祭の由来と解釈されたが、『日本書紀』には大嘗祭に関する記述はなく、この解釈の元ネタは江戸時代中期の国学者平田篤胤の可能性が高い[145][注 26]

中世には、このような『古事記』や『日本書紀』に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた[142]。その最初期の動きは、両部神道山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった[146]。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された[147]。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ[148]、これまで神道祭祀において重んじられてきたなどの身体的清浄を心の問題として解釈し[149]、「正直」「清浄」を神道の徳目とした[150]。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された[151]。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった[152]

近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた[153]。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた[154]。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた[155]

近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた[156]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった[157]。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた[158]

神道の研究

鎌倉時代には伊勢神宮神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[106]本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い(古事記伝)、国学の主流を形成していった[159]

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された[要出典]。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している[160]

神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[161]

現代の神道

神社の例(箱根神社

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、現代の全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[162]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく民間の宗教法人のひとつであり、神道系包括団体である[163]

天皇・皇室と神道

岡ミサンザイ古墳宮内庁仲哀天皇天皇陵(墓)として「恵我長野西陵」と呼んでいるが、考古学研究の成果から学術的には別の人物の墓と考えられている[164]
皇室の祖先神とされるアマテラスを祀る伊勢神宮内宮
1990年(平成2年)第125代天皇(現・上皇)の大嘗祭
大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣と国民安寧を祈る神道祭祀である。

宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる[165]。そして、記紀には崇神天皇の時代に天神地祇を祀る制度が整備されたとされ[166]律令制の整備が進む飛鳥時代には、神祇官より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された[167]平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣宣命奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した[168]。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた[169]

『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿官吏仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭月次祭神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中、内裏の仏事をやめ、官人仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた[170]

祭政一致

神道の特徴の一つに祭政一致がある[171][注 27]柳川啓一は、祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した[174]。原始・未開社会のは祭政一致し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、タブーが法的または道徳的観念・行動と重なる[175][176]。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた[177]古代天皇制国家の形成において大嘗祭の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり[177][178]天皇家が諸部族の首長の祭祀権、祖神とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した[177]。原始・古代社会では風雨雷地震などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、律令制において神祇官を設置、中世の神道思想から江戸時代国学へと受け継がれ、明治維新以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、昭和に入ると天皇を現人神とするようになった[179]

明治維新後の新政府は「太政官布達」で祭政一致し、神祇官を再興すると布告した[180]。日本でもの告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権の統治体制に遡ることができる[181]

神霊の憑依

昭和後期の民俗学研究者佐々木宏幹[注 28]神代紀の天鈿女命崇神紀の倭迹迹日百襲姫命仲哀紀の神功皇后などは突然神がかりして神の意志を伝えたりしており、神霊の憑依の例として挙げられている[184][185]

山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏多氏といったを司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している[181]

小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした[185]。神道系新宗教教祖らの中には召命型シャーマンの系統に分類されるものがいると考えられている[185]

信仰

神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる[186]。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した[186]。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった[186]。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった[187]

近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村ではが結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った[188]。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった[189]。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている[190]。この他、現在における神社への信仰は、初詣お宮参り七五三結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている[191]

以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。

現代の参拝の方法

厳島神社(広島県廿日市市)
簡易な参拝

神殿の前では、まず神への供物として賽銭を奉納する[196]。賽銭は神仏に捧げる供物の一種であり、古くは米を神にくるんで供えていたが、次第に金銭が供えられるようになった[196]。神社本庁は、賽銭には祓いの意味があるともいわれると述べている[197]。次に鈴鐘を鳴らしてお参りをする[196]。鈴には魔除けの霊力があるとされ、罪や穢れを祓い清めることができるとも、神を招く力があるともされる[196]

鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。神前での参拝の基本的な作法は、現在は「二拝二拍手一拝」の立礼が標準的であるが[196]、異なる神社もあり、伊勢神宮は八度拝八開手、出雲神社では二拝四拍手一拝である[196]

正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるように供える[198]

への供物
厳島神社に奉納された酒樽。手前に千福が見える。
香取神宮、御田植祭御斎田での供物。香取市。
  • 現代の神社本庁は、身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要があるとしている[199]死穢の観念からである[200]
  • 神前に捧げる御饌は、火を通したもの(熟饌)を供える場合、神聖な炎として火鑽具を用いて厳粛に起こされた忌火を用いるのが望ましいとされる[201]

神道諸派

神道を題材とした作品

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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