舒明天皇
日本の第34代天皇
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経歴
先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣に諮ってその意見が田村皇子と山背大兄王に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。門脇禎二は当時の宮廷には皇嗣や嗣位といった制度も慣例もない。そうした制度・慣例が生じるのは、七世紀末ぐらいからのことであった。また田村皇子は『隋書』の記述、『日本書紀』の系譜関係記事や『大安寺縁起』に記される聖徳太子との交りなどからも、宮廷の中枢にあって相当の地位にあったことから、田村皇子が大王位を継ぐことに不思議はないとしている[1]。ただし、これには諸説があり、蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と、他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)、庶子である用明天皇の直系(山背大兄王)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。また市大樹は蘇我蝦夷が非蘇我系の田村皇子を擁立したのは、田村皇子と蘇我馬子の娘(法提郎女)の間に古人大兄皇子が誕生していたことが大きく、山背大兄は蘇我系王族ではあるが、蘇我氏と新たに婚姻関係を結んでおらず、斑鳩を拠点と-したこともあり、飛鳥近辺に拠点をもつ蘇我氏との関係は疎遠になりつつあった、としている[2]
ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。
『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明天皇よりも20年以上長く生きて天智天皇3年(664年)に没している事や、皇子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている[注釈 1]。
系譜


押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子で、母はその最初の皇后である広姫)の子で、母は糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)。
- 妃:田眼皇女 - 敏達天皇・推古天皇皇女
- 皇后:宝姫王(たからのひめみこ、後の皇極天皇・斉明天皇) - 茅渟王の娘、もと高向王妃、漢皇子母
- 夫人:法提郎女(ほていのいらつめ) - 蘇我馬子女
- 皇子:古人大兄皇子(吉野太子)
- 采女:蚊屋采女(かやのうねめ、姉子娘?) - 賀陽臣女?
- 皇子:蚊屋皇子(かやのみこ、賀陽王) - 三島真人祖
『日本書紀』が記す以上の皇子女の他、『一代要記』『帝王編年記』などに布敷皇女(母は法提郎女)・押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女 ・香櫛娘)・箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女 ・手杯娘)の名を伝えるが、所拠不明である。
| 舒明天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図(飛鳥時代)
| 27 安閑天皇 | 28 宣化天皇 | 29 欽明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 石姫皇女 (欽明天皇后) | 上殖葉皇子 | 30 敏達天皇 | 31 用明天皇 | 33 推古天皇 | 32 崇峻天皇 | 穴穂部間人皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 大河内稚子媛 (宣化天皇后) | 十市王 | 押坂彦人大兄皇子 | 春日皇子 | 大派皇子 | 難波皇子 | 聖徳太子 (厩戸皇子) | 来目皇子 | 当麻皇子 | 殖栗皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 火焔皇子 | 多治比古王 | 茅渟王 | 栗隈王 | 山背大兄王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 多治比嶋 〔多治比氏〕 | 35 皇極天皇 37 斉明天皇 | 36 孝徳天皇 | 美努王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 有間皇子 | 橘諸兄 (葛城王) 〔橘氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系図(白鳳時代)
| 34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在位中の事績など
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。
- 舒明天皇元年(629年)
- 1月4日 - 即位。
- 4月1日 - 田部連を掖玖に派遣。
- 舒明天皇2年(630年)
- 舒明天皇3年(631年)
- 舒明天皇4年(632年)
- 舒明天皇5年(633年)
- 舒明天皇6年(634年)
- 1月15日 - 豊浦寺(明日香村)塔の心柱を建てる(『聖徳太子伝暦』)。
- 舒明天皇7年(635年)
- 6月10日 - 百済使、朝貢。
- 舒明天皇8年(636年)
- 舒明天皇9年(637年)
- 舒明天皇10年(638年)
百済・新羅・任那使、朝貢。
『万葉集』に御製歌あり。
陵・霊廟

舒明天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちのみささぎ、北緯34度30分27.18秒 東経135度52分32.28秒)に治定されている[3][4][5]。宮内庁上の形式は上円下方。遺跡名は「段ノ塚古墳」で、下方部は一辺約105メートルを測り、上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされる[5]。
埋葬について、『日本書紀』では天皇崩御翌年の皇極天皇元年12月13日(643年1月8日)に喪を起こし、皇極天皇元年12月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたうえで、皇極天皇2年9月6日(643年10月23日)に「押坂陵」に改葬されたとする[5]。『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では現在と同じ「押坂内陵」の名称で記載され、大和国城上郡の所在で、兆域は東西9町・南北6町で陵戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する。加えて、陵内には田村皇女(糠手姫皇女)押坂墓、陵域内には大伴皇女押坂内墓、陵域内東南には鏡女王(鏡王女)押坂墓が所在するとする[5]。
その後、陵は所在不明となったが、元禄探陵の際に当時「段ノ塚」と呼ばれていた本古墳が舒明天皇陵に決定された[5]。幕末の元治元年(1864年)9月には修陵が開始され、慶応元年(1865年)11月に竣工した[5]。現在は陵内の糠手姫皇女押坂墓、近在の大伴皇女押坂内墓とともに宮内庁の管理下にある(鏡女王押坂墓は治定外)。また明治天皇陵(伏見桃山陵)以降の天皇陵が採用する上円下方の陵形は、本古墳がモデルになっている[5]。
なお、初葬地とされる「滑谷岡」の所在は明らかでなく、諸説がある。飛鳥時代中頃の古墳のうちでは、近年発見された小山田古墳(奈良県高市郡明日香村川原、北緯34度28分20.52秒 東経135度48分34.30秒)が一辺70メートル程度を測る巨大方墳で、石舞台古墳を上回る飛鳥時代最大級の規模になることから、上記の「滑谷岡」に比定する説が挙げられている(ただし蘇我蝦夷の「大陵」に比定する説もある)[6][7]。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに舒明天皇の霊が祀られている。
- 鏡王女忍阪墓
- 大伴皇女押坂内墓